ハリウッド版の「ガールパワー」を私が称賛できない理由

    『オーシャンズ8』や『ビリーブ 未来への大逆転』など、女性の勝利を描いた陽気な物語に慰めを見出したいという願いを私は抱いている。しかし、2018年の現在、それらの作品は私をあまり元気づけてくれるものではない。

    私は、もしかしたら自分に問題があるのかもしれないと思い始めた。郵送されてきたルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事のアクションフィギュアに、いらだちを覚えたからだ。

    そのフィギュアは、6インチ大のノベルティーだった。それをつくったメーカーは、教皇フランシスコバーニー・サンダースヒラリー・クリントンのフィギュアや、赤ちゃん用のサングラス、グリッターメイクアップ用品シリーズ「Unicorn Snot」などを製造している。

    そのフィギュアが、私に(あるいはほかの誰かに)害をもたらしているわけではなかった。このフィギュアの宣伝を担当するPRパーソンによると、Kickstarterでのキャンペーンが大成功すれば、その売上の一部は慈善活動へ寄付されるという話だった。しかし、私の顔をひきつらせたのはそのブランディングだった。

    メーカーの商品説明には、「男社会のでたらめを見抜けるメタルフレームの眼鏡」「抑圧してくる者に断固として立ち向かうヒール・ローファー」などの謳い文句が踊っていた。フェミニスト向けのバズワードで着飾ったこのマーケティングコピーは、このプラスティック製コレクターズアイテムを買うだけで活動家としての成果があげられるし、19.99ドルの1回払いで進歩主義者になれることをほのめかしていた。

    この感情は、ギンズバーグ本人とは無関係だった。私はずっと、現在85歳の彼女が健康で、いつまでも活躍し続けてくれることを願ってきた(訳注:アメリカ最高裁長官は終身制で、ギンズバーグが死亡・引退すると保守派とリベラル派のバランスが大きく変わる)。彼女の健康状態についてもよく知っている。実の祖父母の健康状態よりもずっと。だからこそ、この人形が私の感情を逆撫でしたのだ。

    ギンズバーグだけでなく、男女の平等というより広い概念がキュートに商品化されることは非常に多く行われており、このフィギュアもそのひとつにすぎない。けれどもこのフィギュアは、こうした商品化に対する自分の耐性が低くなっていることを私に思い出させた。

    この小さな人形と、そのモデルとなったギンズバーグの健康に対するわたしの絶望的なまでの思いとの間にあるギャップは、ほとんど耐え難いものであるように感じられた。私はこのフィギュアのことでCEOと話がしたいのだろうか? いや、そんなことはない。

    このフィギュアはプロモではなかったが、そうしておいてもよかったかもしれない。2018年には、ギンズバーグの人生を描いた長編映画が2本公開されたのだ。どちらも、「コレクターズ・フィギュア」的と評されてもおかしくないアプローチでギンズバーグの人生に迫っている。つまり、ありのままのひとりの人間というよりは、一種のアイコンとして彼女を扱っているのだ。

    1本目のドキュメンタリー『RBG』は、ベッツィー・ウエストとジュリー・コーエンが監督を務めた。5月公開時の興行成績は控えめだったものの、ギンズバーグの輝かしいキャリアが、彼女のワークアウトのルーチンとともに快活に描かれている。

    このドキュメンタリーは、最近見られる彼女のミーム化に対しては無批判的だが(インタビューを受けた人たちのなかには、「『Herstory in the Making(女性の歴史が作られつつある)』というマグカップが部屋にあるの!」と息を弾ませながら語っている人もいる)、心なごむ聖人伝という感じではない。

    トランプ大統領に関するコメントの件で、彼女をピシャリとたしなめている(訳注:ギンズバーグは2016年、当時の大統領候補だったトランプを批判。後日、自身の発言が「無分別」なものであったとしてトランプに謝罪した)。

    人は、礼儀正しい態度でいる限り、悪名高くもなりうるようだ(訳注:ギンズバーグの動向をフォローする個人ブログが人気を集め、そのブログが著名ラッパー「ノトーリアス・B.I.G.」をもじって「ノトーリアス・R.B.G」と題されていたことから、メディアでも「ノトーリアス(悪名高い)」という呼び名が使われることがある)。

    2本目の映画『ビリーブ 未来への大逆転』は、アメリカでクリスマスに公開された(日本での公開は2019年3月22日)。監督はミミ・レダー。私の目には、こちらの作品のほうが無難に映った。ロースクールの学生、妻、母、そして大学教授としてのギンズバーグをサンリオ的な愛らしさで演じているのは、フェリシティ・ジョーンズ。献身的な夫であり共同弁護士のマーティンは、アーミー・ハマーが演じている。

    物語は、ギンズバーグ夫妻が担当した1972年の歴史的訴訟を中心に展開していく。しかしそのメインモチーフは、画面に繰り返し映し出される、ジョーンズ演じるギンズバーグの姿だ。彼女が目を見開いて男たちのいる部屋に入っていき、偏見に遭遇するたびに、いかにも映画的に、口を結んで毅然とあごを上げるその姿だ。

    あるシーンで同僚が、いつも無表情な彼女に対して、「君は、ちょっとでもほほえんだら死んでしまったりするのか?」と言う。私たちの怒りに満ちた視線を、彼の方に振り向けさせるシーンだ。この作品は、年代物の性差別に対する「正義の怒り」をかき立てながら、ギンズバーグを祭りあげる。インスピレーションに富んださまざまなGIFが、今後作成されることだろう。

    2018年は、女性の地位向上を求める、スローガン的で単純化された叫びに満ちた一年だった。そうした叫びは、憤怒と恐怖で満たされた女性たちにとっては当然と感じられるものであり、ギンズバーグに関するグッズや、刺激の少ない映画の枠を超えて、大きな広がりを見せた。

    この種のメッセージは、2018年に公開された映画やテレビドラマのいたるところで見受けられた。『オーシャンズ8』や、「#MeToo」ムーブメントで追放されたケヴィン・スペイシーのいない『ハウス・オブ・カード 野望の階段』のファイナルシーズンといったものだ。この問題に真剣に取り組んだ作品もあったが、入念に計算しただけの作品もあった。その大半は、私にとって後味の良いものではなかった。

    2018年は疲れる一年だった。「#MeToo」ムーブメントが失速し、非難の対象となった男たちが反撃のチャンスを伺うのを目の当たりにした。さらに、最高裁判事候補ブレット・カバノーの公聴会を固唾を飲んで見守り、性的虐待の被害者が「政治的に不都合な信念」を持つ場合に、その言い分が公的に信用されるには、あり得ないほどの「完璧な被害」が求められることを思い出させられた。

    中間選挙により、白人女性の投票と有色人種の女性の投票とのあいだには、いまだに大きなギャップがあることが浮き彫りにされた(有色人種の女性たちが投票に行けると仮定した場合だが)。2018年は、単純で簡単なものなどなく、団結も存在しないことを、絶えず思い出させられた一年だった。

    そしてそれが、「ガールパワー」といった漠然とした言葉や、「男社会を打ち砕け」といった発言が、私の耳に空々しく聞こえる理由のひとつだ。これらの言葉は、ずっと骨の折れる「交差性」という課題を隠しながら、表面だけ「共通の土台」を宣言するために、あまりにも頻繁に使われている。

    さらにこれらの言葉は、「#MeToo」ムーブメントを実際の社会制度にしようとする「タイムズ・アップ」ムーブメントについて記者たちに語る際に、匿名性という隠れ蓑を与えられると、「キャンキャン鳴いてないで、犬小屋に戻りなさい」など語るような人々に、あまりにもあっさりと受け入れられている。

    そんなわけで私は、女性の結束を訴えて励みになるスッキリしたメッセージや、女性の快勝を伝えるニュースに慰めを見出したいという願いを抱いてはいるものの、いまのところ、その願望は実現されていない。

    ギンズバーグを扱った映画はどちらも、悪い出来ではない。フィギュアにしてもそうだ。人々がそれらに見出すよろこびを私は理解している。私の気持ちがそこから離れた場所にあることを理解しているのと同じぐらい、理解している。しかし気がつくと、私はますます「不快感」を求めるようになっている。つまり、この世界のなかで女性でいることが、どんなに厄介で複雑で困難であるかを描く作品のことだ。もちろん、そうした作品もあった。しかし、驚くにはあたらないだろうが、そのような作品はどれも、売れないとみなされた。

    私は、2018年1月のサンダンス映画祭でAssassination Nation』を観なかった。一部報道によると、この作品は1000万ドル(約10.9億円)で買いつけられ、#MeTooムーブメントの煽りを受けた2018年の同映画祭で最大の契約となった。

    Assassination Nation』が劇場公開され、セイラム魔女裁判を現代風に解釈したひとりよがりのストーリーに観客がそっぽを向いたあと、遅ればせながら私も、9月にこの作品を鑑賞した。10代の少女たちが、街のデジタルな秘密をばらしたと自分たちを責める男たちに反撃する姿を描いたダークコメディーだが、何ということのない作品だった。スタイルや偉そうな態度ばかりが目につき、何を皮肉りたいのか、さっぱりわからなかった。

    しかし、女性監督たちが手がけた、もっと野心的で興味深い作品がずらりと並ぶラインナップがあったのに、採算が取れる見込みが最も高い作品として『Assassination Nation』に白羽の矢が立ったという事実が、2018年のトーンを決定づけたことはたしかだ(女性監督が手がけた、もっと野心的で興味深い作品とは、具体的には、『ジェニーの記憶』や『消えた16mmフィルム』、『Skate Kitchen』『ミスエデュケーション』などといった作品だ)。

    2018年に『Assassination Nation』をリリースした配給会社ネオン(Neon)の責任者は、散々な結果に終わったオープニング・ウィークエンドののちに声明を出し、残念な興行成績だったが、作品のクオリティーには自信を持っていると述べた。

    声明は、こう述べていた。「サム・レヴィンソン監督は、2018年という大炎上の年への回答となる作品をつくりあげました。冒険性と先見性に富み、最後にカタルシスを呼び起こす作品です」。

    私としてはこの見方に賛成していないが、私の目にまぎれもなく2018年的と映ったのは、この作品が、むしろ男性の観客にアピールするための観点から表現された「女性の賛歌」としてマーケティングされた点だった(#SlayEm:「奴らを血祭りに上げろ」というハッシュタグなど)。つまり、「上品なふりをする女性」からは遠い、ワイルドで、エクストリームで、リアルすぎる女性たちの賛歌だ。

    ネオンの最高マーケティング責任者は『Variety』誌の取材で、この作品の宣伝が困難だったことについて、こう語っている。「私たちがつくっているのは、若くて強い女たちの映画です。正直なせいで、観る人に脅威を感じさせてしまうんです」

    ただ、この記事をさらに読み進めると、この発言についてシニカルに感じることだろう。予告動画のなかの特定の場面(銃がカメラに向けられる、少女がシャツをまくり上げてブラジャーを見せる、など)が、さまざまなサイトの利用規約に違反していたため、宣伝が禁止されたと書いてあるからだ。

    映画会社は、それが安心できるコンテクストであるかぎり(たとえば、過去のヒット作品の女性版リメイク)、自分たちがフェミニストであることを印象づけられるコンテンツに大金を支払う準備はできていることを、繰り返し示してきた。そして2018年6月、『オーシャンズ8』が公開された。

    この作品は、男女を入れ替えたリメイクものの最新作だ。こうした作品は、映画スタジオが抱える問題、つまり、「おなじみの知的財産に固執しながら、女性主導の映画をもっとつくるには?」という問題の解決策となるものだ。

    出発点として、スティーブン・ソダーバーグ監督のド派手な強盗三部作は悪くない選択だった。ワーナー・ブラザースは、すごい共演女優たち(ケイト・ブランシェット! リアーナ!)を集め、彼女たちに、すごいコスチュームを着せた。

    しかし私の目には、この作品は、本物の映画をつくる手前で思いとどまってしまったように映った。言ってみれば、台本に貼りつけられたポストイットの、「このへんに対立のシーンを入れとく?」という指示に合わせて撮られたような場面がところどころにちりばめられた、下書きのような作品のように思えた。

    『オーシャンズ8』を観たあともしばらく、その悪びれない中途半端ぶりを、私は頭のなかから追い払うことができなかった。それは意図的なものだったのだろうか? 女性たちがこんなものを観たがる、とワーナーは思っていたのだろうか?

     全世界でおよそ3億ドル(約328.7億円)の興行成績をあげるほど、この作品は女性が本当に望んでいたものだったのか? 私は負け惜しみを言っている外れ者なのだろうか? すでにハッピーなエンディングをさらにハッピーにした展開にいたるまで、そのすべてのダサい安直さに感じられる「上から目線」に対して、私はぶつくさ文句を言っているだけなのだろうか? 

    私を本当にいらだたせたのは、多くの経営幹部がそんなことはどうでもいいと思っているという考えだった。重要なのは『オーシャンズ8』というアイデアそのものであって、実際の最終作品ではないという考えだった。そして、これほど大きなマイルストーンであれば、急いで描いたスケッチで十分だ、という考えだった。そして、金銭的な意味では、彼らは正しかった。

    2018年は、私の心に訴えかけてくる作品が少ない一年だった。つまり、これからもずっと愛せると思える作品や、そこに何か運命的なものを感じる作品のことだ。アメリカでは10月に『ハロウィン』と『サスペリア』が公開された。この2本のホラー映画は、歴史的で個人的なトラウマと闘う女性の物語を約束していたが、いざふたをあけてみると、男性のコンテクストの枠組みの中に彼女たちをはめ込んでいた。

    『ハロウィン』は、ジョン・カーペンターが手がけた同名シリーズの続編であり、デヴィッド・ゴードン・グリーンがまだまだ使えると見込んで選んだ作品だ。3世代にわたるストロード家の女性たちの描写によって、この作品がどれだけの名声を得られたのか、いまだに私は混乱している。実際よりも思慮深い作品であると、ファンたちが望んでいるだけのように感じるのだ。

    『ハロウィン』は、登場人物たちの批評を組み入れてさえいる。インタビューを行いたがっているポッドキャスターの2人組や、自分が担当する最も有名な患者を理解しようと必死の精神科医といった人たちだ。

    彼らは、もの言わぬ切り裂き魔マイケル・マイヤーズのほうが、彼の凶行を生き延びた人々よりも、はるかに魅力的な人物だと考えている。そして、マイヤーズへのこうした執着は、この作品全体につきまとっている。有名な殺人鬼から物語が始まると、繰り返しそこに戻っては、あたかも恋に落ちたかのように、マスクをかぶった彼の顔をのぞき込み、内面性の手がかりを探し求めるのだ。

    一方の『サスペリア』は、ダリオ・アルジェント監督が1977年に制作した、バレエ団を舞台にした魔女の物語を、ルカ・グァダニーノがリメイクした作品だ。

    全体的には、女性による女性のための音楽祭「Womyn's Music Festival」の舞台セットよりも、女性のダークなエネルギーを漂わせている。

    いかにも深い意味が「ありそうな」モチーフやディテールで飾り立てられており、ホロコーストやドイツ赤軍が出てきたり、登場人物が妄想でヒステリーを起こして、女性の扱い方について心理療法士をののしったりする。

    けれども、私はそこに何も見出せなかった。さらに悪いことに、映画を見ている私の頭には、Redditのサブフォーラムで取り上げられそうな印象がどうしても浮かんできて離れなかった。

    私が感じた印象とは、この作品に映し出されるものはひとつ残らず、男性主人公である心理療法士クレンペラー博士の罪の意識を映し出したものではないかというものだ。

    クレンペラーは、戦争中に妻が死んだのは自分の責任ではないかと罪悪感を抱いている。ティルダ・スウィントンが1人3役をこなし、特殊メイクでクレンペラーを演じたということが、この印象の裏づけになっているように思えた。

    また、これは予防線でもあるかのように感じられた。つまり、この「女性たちについての映画」が、実際は1人の男性の苦しみについて描かれたものであるならば、少なくともその男性の役は女性が演じてもいいのではないかと先手を打っているように感じられたのだ。

    この「女性を前面に押し出した」2本は、私に何の感銘も与えなかった作品の最たるものだ。とはいえ、これだけではない。ネットフリックスの新シリーズ『サブリナ:ダーク・アドベンチャー』(またもや魔女の映画だ!)は、要領を得ないながらも愉快な作品だったが、悪魔崇拝と社会的正義に関する類似した関心をどうやってかみ合わせれば満足のいく作品になるか、その方法が見つけ出せなかったように思えた。

    ネットフリックスはまた、『ハウス・オフ・カード 野望の階段』のファイナルシーズンを、ケビン・スペイシー演じる政治家フランクの妻役だったロビン・ライトに引き継がせた。予告編には彼女が、「中年白人男性の時代は終わった」と言ってのけるシーンが出てくる。

    そもそもはじめから主役を女性に引き継がせるつもりだったのであり、不祥事を起こしてスペイシーが姿を消したのでやむを得ず交代させたわけではない、とでも言いたげだ。

    とはいえ確かに、ファイナルシーズンでは、ライトが演じる登場人物が大統領の座についたとたんに、性差別主義の訴えを武器にしようとするという、興味深い部分が垣間見える。その一方で、脚本家が有意義な方法で番組を再考すれば、姿を消した主人公の影を追い払うことができたのに、その存在は決して忘れ去られることはない。

    原案を出したボー・ウィリモンが2シーズン前に番組を去ったのちに脚本を担当したのが、アカデミー賞の呼び声高い映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』だ。シアーシャ・ローナンとマーゴット・ロビー主演の歴史もので、対立する2人の女王の物語に現代的な視野が織り込まれている。この作品のあるポスターでは、「Bow to No One(誰にも屈しない)」と謳われている。だが、大胆に目覚めたことを表すはずだったこの表現は、かえって、頭を掻きむしりたくなるほどありふれたものになってしまった。

    「強い女性キャラクター」の心許ない解釈をもとにキャスティングされた俳優は、ロビン・ライトやローナン、ロビーだけではない。シリーズ最新版『トゥームレイダー ファースト・ミッション』のアリシア・ヴィキャンデル、『ドラゴン・タトゥーの女』の続編とも言える『蜘蛛の巣を払う女』のクレア・フォイ、犯罪ミステリー『Destroyer』のニコール・キッドマンも、「そういったタイプ」が、タフさをとても男性的なものとして解釈する三位一体的存在となった(そもそも、これが「タイプ」になったことが私は許せないのだが)。

    Destroyer』には少々がっかりしている。『ジェニファーズ・ボディ』を作ったカリン・クサマの監督作であり、私は長年彼女に注目してきたからだ。ところが『Destroyer』では、女性監督だって定番的な硬派の刑事ドラマを作れるんだということを証明するのにやっきになっている。

    ロサンゼルス警察捜査官エリン・ベルを演じるニコール・キッドマンに、かつらをかぶせて老け顔メイクを施し、拳銃で人を殴らせたり、銃撃戦の中に踏み込ませたりしている。

    Destroyer』を見ながら私は、心から欲しているのにさほど頻繁に出会えない作品を求めて、胸が苦しくなったほどだ。私が求めているのは、女性の、女性による、女性のための映画。男性に負けないことを証明する必要性など感じない。なぜなら、男性がどう思うかなど全く気にしないから。そういった作品だ。

    2018年の1年間、自分が観た作品のすべてに疎外感を感じてきたわけではないのだが、きっとそんなふうに聞こえたに違いない。こうして不満を書き連ねてきて面白いのは、私が一番満足した2018年の作品のなかには、まったく共感できなかった作品と、多くの共通点を持つものがあることだ。まるで、ちょっとばかり安心させようとしているかのように。

    たとえば、同じように過激さを吹聴して聴衆の関心をかき立てているけれども、『Assassination Nation』よりもはるかにいい作品が『REVENGE リベンジ』だ。コラリー・ファルジャの監督デビュー作で、『Assassination Nation』と同様にサンダンス映画祭で上映された。そして、公開範囲はそれほど広くないものの、ネオンが配給を決めた。

    ファルジャ監督のこの作品も、『Assassination Nation』と同様にスタイリッシュなドラマで、マチルダ・ルッツ演じる女性が、自分を痛めつけた男たちに復讐を果たそうとするストーリーだ。

    しかし、『REVENGE リベンジ』は矛先がきわめてはっきりしている。とりわけ、ストーリーが動き出すきっかけとなった暴行と裏切りの描き方がわかりやすい。単なる怒涛の暴力を描いたスリラーではないのだ。

    この映画は、レイプ犯への復讐ものという、この作品自体も属している、よくあるジャンルを徹底的に検証している。そして、理屈の上では「自らのパワーを取り戻そうとする女性」を描いたストーリーが、なぜこれほどまでに金儲け映画の定番となっているのかを、私たちに考えるよう求めている。

    スティーヴ・マックイーン監督作品の『Widows』は、『オーシャンズ8』と比べるとかなり暗い雰囲気で、より大きな賭けでもある犯罪プロジェクト映画だ。けれども私は、『Widows』の地に足がついたところが、意図的に現実逃避させようとしている『オーシャンズ8』よりも好ましく思えた。とはいえ、『Widows』を製作したスタジオがこの作品をどのように宣伝すればいいのかまったくわかっていないとしても不思議ではない。

    これは、女性たちを主人公にしたスリラー映画であり、わかりやすい女性の友情ものではない。登場人物たちは、人種も階級もばらばらで、さまざまな期待や不満を抱いている。はじめはお互いに嫌っているし、のっけからスマートに犯罪をこなすわけでもない。でも、現実はそんなものではないだろうか。

    最後のシーンでヴィオラ・デイヴィスが共演者に見せる笑みを見ると、はっと息が止まる。その笑みは苦労の果てに浮かんだものであり、この映画で目にする、数少ない温かみのこもった表情のひとつだからだ。この映画の制作チームは、文字通り試行錯誤しながら、自分たちの試みがうまくいくのかというプレッシャーを切り抜けなければならなかった。だからこそ、その成功は本当に喜ばしい。

    さらに言えば、『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』より、『女王陛下のお気に入り』を見たほうがいい。ヨルゴス・ランティモス監督による、アン女王の宮廷で繰り広げられる権力闘争を描いた陽気なコメディだ。

    中心人物の女性3人は、女性をエンパワメントするための時代遅れのステレオタイプに無理やり当てはめられていない。

    彼女たちはむしろ、策略家で、サディストで、サバイバーだ(偶然だが、両作品でジョー・アルウィンが、女性から結婚相手としてイマイチと思われる貴族役を演じている。ただし、『女王陛下のお気に入り』のほうでのみ、エマ・ストーン演じる女性から、やる気のない手淫を受けている)。

    私がお勧めしたいのは、HBOのドラマ『KIZU-傷-』(原題:Sharp Objects)だ。女性たちと、彼女たちの過去のトラウマをリアルに描いたストーリーだ。

    あるいは、『ヘレディタリー 継承』もいい。トニ・コレット主演で、母親から継承した悪夢を大胆に語った映画だ。これらは、見せかけだけの薄っぺらい『ハロウィン』や『サスペリア』よりいい。

    一方、BBCアメリカのドラマ『キリング・イヴ』(日本ではWOWOWが放映)のファーストシーズンは、「強い女性」というステレオタイプに対する軽い逆襲であるかのようだ。スリラーとラブストーリーの中間という感じで、スパイvs暗殺者のストーリーはどうあるべきかという期待を、あらゆる方向に派手に打ち破っている。

    Support the Girls』に対しても、称賛を送りたい。反逆的な女性たちに勇気づけられるストーリーとして、2018年に公開されたほかのほぼすべての作品よりもお勧めだ。アンドリュー・ブジャルスキー監督のこのコメディ映画は、フェミニストに誠実な作品として宣伝されたわけではない。

    それはたぶん、物語の舞台が、女性店員がホットパンツにクロップトップ姿で働くレストラン「フーターズ」もどきの場所だからだ。とはいえ、圧倒的な資本主義的体制における女性の団結のパワーとその限界を描いていて、ほろ苦さ満点の屈指の作品となっている。

    店のマネジャーであるリサ(レジーナ・ホール)は、笑顔を絶やさないまま、ほぼ女性ばかりの従業員を無礼な客たちから守るべく奮闘する。女性従業員たちは、ボーイフレンドから暴力を受けているし、保育施設を作ろうという計画は失敗に終わる。店長らは、従業員を食い物にし、肌の色に応じてシフトを組んだりする。そしてリサは、女性従業員たちが自分自身を傷つけることを防ぐことができない。自分自身が最大の敵ということもあるのだ。

    そんなわけで、リサは疲労困憊で、生活も荒れていく。リサはどうするのか。諦めるのか。彼女は、離婚間近の夫に対してこう語る。「1日中クタクタになることはできるけど、諦めることはできない」。

    これは、2018年でもっとも共感できるセリフのひとつだ。気分を高揚させてはくれないかもしれない。けれども、彼女のこのセリフなら、何百万回でも聞いていられる。これほどガールズパワーを呼び覚ましてくれる、陽気なスローガンはない。

    「あなたのために作られた映画」というメッセージには、暗黙の脅しがその裏に隠されていることが多い。それは、「これが好きでないなら、それはあなたの問題。あなたにとって魅力的だと思える映画を私たちが作らなくなったとしても、それはあなたのせい」という脅しだ。

    マイノリティのクリエーターたちが作った作品、あるいはマイノリティの登場人物が出てくる作品の多くには、その陰に、こうしたプレッシャーが潜んでいる。これは人種やセクシュアリティ、ジェンダーについても当てはまる。こうした映画やテレビ番組は、デモグラフィック全体を代表する重荷を背負っているばかりか、そういった代表がどれだけ採算性があるかを証明しなくてはならない。

    これが、ガールパワーのメッセージについて、私がこれほどまでに不信感を抱いてしまった大きな理由だ。こうしたメッセージを支えられるだけのリアルな裏づづけが往々にして少なすぎることは、ここで挙げてきた作品を見ればわかる。けれども、こうした作品に伴う期待や影響は、計り知れないものになり得る。

    『オーシャンズ8』が興行的に成功したことで、同様の映画がもっと制作されるかもしれないし、されないかもしれない。しかし、もし失敗していたら、きっとどこかの映画会社のお偉いさんが『オーシャンズ8』を持ち出して、女性が主役の大作映画はとにかくお金にならない、と言うに違いないのだ。

    私がフラストレーションを感じてきた原因は、フェミニズムの商品化だけではない。とはいえ、そうした商品化を見ると私はげんなりしてしまう。それは、フェミニストという理念を、あまりにもこぎれいにパッケージ化しているからだ。

    なされるべき重大かつ順序立てた仕事の多くをすっ飛ばして、記念のTシャツだの、感傷的なドキュメンタリーだの、ハッピーになれる伝記映画だの、スターがたくさん出るリメイク映画だのを作りたい、という欲望の表れであるかのように私には思えてしまう。

    私はそれに共感できない。それと同時に、女性の、女性による、女性のための芸術や映画の価値を、何度も何度も、繰り返し提起する必要があるということにうんざりしてしまう。

    女性は一枚岩ではない。それに、お金を払う観客として価値があることを証明しろと、スローガンを通じて絶えず呼びかけられるべき存在ではない。

    私たちは、自分たちを代表する存在すべてに対して、たとえそれが期待外れで単純で、単に自分の好みに合わなかったとしても感謝しなくてはならない、とクヨクヨ思い悩むべきではないのだ。それなのに私はそのように感じていて、その感情を完全に手放せないことに腹も立てている。

    私は、冒頭で紹介した「ルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事のアクションフィギュア」を宣伝する文句のように、「でたらめを見抜きたい」し、「抑圧してくる者に断固として立ち向かいたい」と思う。ただ、どうすればいいのかをフィギュアが教えてくれるとは、到底思えないのだ。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:阪本博希、遠藤康子、合原弘子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan