20年の服役の末、学校用務員になり、16歳少女を殺害した男の物語

    男はやり直す機会を何度も与えられた。でも、少女は一度も与えられなかった。

    少女は、森のなかに打ち捨てられた、ひとかたまりの衣服のようにしか見えなかった。

    1月の冷え込むある日曜日、ミシガン州カラマズーの森を散歩していたカップルは、はじめ、目の前にあるものがいったい何なのか、よくわからなかった。

    あたりには、ごみや瓦礫が散乱していた。しかし徐々に、それが女性であることが見えてきた。左に折れ曲がった片脚。編み込まれた髪の毛。男性が呼びかけたが、少女は動かない。男性は警察に通報した。そして警察のオペレーターに対し、「怖い」と告げた。

    発見されたのは、高校2年生のミュージェイ・ドゥンブヤ(Mujey Dumbuya)だった。ミュージェイはよく笑う少女だった。ダンスを愛し、よく人を褒めた。とても長いテキストメッセージを書いた。ファーストネームをアメリカ風に「Mujay」と書くのを好んだ。本当のスペルは「Mujey」だったので、リベリア人の家族はそれを残念がっていた。ヘアスタイルとメイクアップにこだわりがあり、靴に目がなかった。ティーンエイジャーのわりには几帳面で、きれい好きだった。

    ミュージェイは2017年の夏、42歳のクイン・アンソニー・ジェームズから性的暴行を受けたと警察に通報した。ジェームズは、彼女が通う学校で用務員として働いていた男だ。

    2017年11月にミュージェイが被害届を提出すると、ジェームズは逮捕され、4つの訴因における第3級性犯罪で起訴された。ジェームズは無罪を主張。保釈金を支払って釈放されたものの、用務員の職を失った。また、ミュージェイへの接近禁止令が出された。

    しかし、4月に予定されていた裁判を前に、ミュージェイは行方不明になった。最後に目撃されたのは、通学のためにスクールバス乗り場へと向かう姿だった。

    ミュージェイが発見されたのは、行方不明になってから4日後だった。死後どのくらい経過しているのか、なぜカラマズーで発見されたのかはわからなかった。そこは、彼女の自宅がある同州南西部のグランド・ラピッズ郊外ケントウッドから、およそ72kmも離れていた。

    ただし、犯人に、遺体をきちんと隠すつもりがなかったことは歴然としていた。ミュージェイの遺体は、埋められていたのではなく、捨てられていた。そこは森の斜面で、静かではあるものの、周囲には家が点在していて辺鄙とはいえない場所だ。

    彼女が身につけていた衣服のあちこちには、漂白剤による白いしみができており、そのせいで皮膚は火傷を負っていた。漂白剤は、犯人が自分のDNAを隠そうとして使ったと見られている。

    とはいえ、漂白剤を振りかけたのが誰であれ、かけそびれたところがあった。とくにジーンズにはあまりかかっておらず、のちにそこから、証拠となるDNAが抽出された。

    ミュージェイが殺害されたニュースは全米で報じられた。自分に性的暴行を働いた容疑者に対して、裁判で不利な証言をすることになっていた少女が、容疑者が都合よく保釈中だったときに殺されたのだ。

    一方、世界中では#MeToo運動も巻き起こっていた。遺体発見から2カ月後、検察官はジェームズを、ミュージェイ殺害の容疑で起訴した。しかしジェームズは、この件に関しても無罪を主張している。

    ミュージェイ殺害の公判日が近づくなかで、ジェームズがこれまでどのような生活を送ってきたのかが、少しずつ明らかになってきた。問題の多かった青年期や、不起訴となった犯罪の数々。とぎれとぎれに伝わる消息、行政の壁、ミュージェイと出会うまでに何度も与えられたやり直しのチャンスなどだ。確実に言えるのは、この事件は防げたかもしれないということである。

    ところが、2人を取り巻く組織や機関、すなわちミュージェイを守るべきだった学校や警察、裁判所、行政は、彼女の死に対する責任から逃れようとしている。

    その結果、責任の一切を背負って自責の念にかられることになったのは、ミュージェイの家族だった。

    ミュージェイのおばのナジャ・コンネー(28)は、「ミュージェイはみんなに助けの手を差し伸べる子だったのに、ミュージェイを助ける人は誰もいなかった」と語った。「だからこそ、私は怒りを感じるんです」

    ミュージェイの別のおばであるジャイニャ・サンノ(42)は、1月にカラマズーの森でカップルが目にしたであろう光景を思い浮かべながら、「私もミュージェイを助けることができませんでした」と述べた。「ミュージェイを守り、慰めてくれる人はそこにはいませんでした。姪はきっと、泣き叫んだでしょう」

    ミュージェイの母ファトマタ・コーネー(32)も、「娘は助けを求めたはずです」と述べた。「でも、誰もいなかった」

    「そのせいで、私は毎日苦しんでいます」とおばのサンノは言う。

    ミュージェイの家族は、他人を責めたりしない。そういうタイプの人たちではないのだ。誰かを責めるのではなく、自分たちには何ができたのだろうと考えている。

    家族はミュージェイを失った。母の日に、母やおばたち一人一人に対し、イラスト付きの手書きのカードを送るような少女。家族全員の誕生日を覚えていた少女。弟の1歳の誕生日パーティーを早く計画したくてうずうずしていた少女。市バスでホームレスの女性と友だちになって、母親を驚かせたことがある少女。そして、森のなかに捨てられていた少女。

    ミュージェイが亡くなった日の5年前、2013年の暑い日。17歳の少女がグランド・ラピッズ高校から徒歩で自宅に向かっていた。その横に、黒のシボレー・インパラが停まった。黒いフィルムが貼られた窓ガラスが開き、当時30代後半だったクイン・ジェームズが身を乗り出した。

    2018年2月に行われた裁判で、その女性B.T.(イニシャル)が証言したところによると、ジェームズは彼女に「ヘイ」と声をかけたという。女性は歩き続けたが、ジェームズは再び「ヘイ」と声をかけ、彼女が履いているサンダルを見て、「靴を買ってあげようか?」と言った。

    2人は、ファーストフード店のポパイズに行った。B.T.はジェームズに電話番号を教え、何歳違うのかはわからないけれど、ジェームズは自分よりは年上だなと思った。

    それをきっかけに、2人は友だちづきあいを始めた。周囲の人によれば、ジェームズは魅力的で好感が持てる人物だったそうだ。B.T.は警察に対し、ジェームズにネイルサロンに連れてもらったり、靴や洋服を買ってもらったりしたと述べた。

    2014年6月、ジェームズはB.T.を、車で自分のアパートに連れて行った。出会ってから1年経つのにB.T.とまだセックスしていないことで、ジェームズはいらいらしていたようだ。B.T.によれば、2人はキスさえしたことがなかったという。

    当時18歳だったB.T.はジェームズに対して、セックスはしたくないし、今後いっさいつきあいたくないと言った。そして立ち上がってその場を去ろうとすると、ジェームズに両手で首のあたりをつかまれ、「やらせろ。そうでなければ殺すぞ」と言われたという。B.T.は窒息寸前だった。顔は赤くなり、眼球が飛び出すような気がした。B.T.は服を脱ぎ始めた。

    2018年2月、22歳になっていたB.T.は法廷で、「息ができませんでした。(セックスをしなければ)殺されると思いました」と証言した。ジェームズのベッドの上で、やめてほしいと頼んだが、強く反抗することはなかった。叫び声をあげたら殺す、と脅されていたからだ。

    B.T.は、暴行を受けたあと、どうすればいいのかわからなかったと話した。その地域のことはよく知らなかったし、車もなかった。そこで、努めて冷静にふるまいながら、お腹が空いたとジェームズに言った。そうすれば、外に連れて行ってもらえると思ったのだ。

    案の定、ジェームズはファミリーレストランのアップルビーズへとB.T.を連れて行った。そこで彼女はトイレに行き、携帯電話で警察に通報した。小声で話さなくてはならなかったので、説明に時間がかかってしまった。すると、ジェームズがトイレにやって来た。

    「彼は私に、警察に電話しているなら、逃げる時間をくれと言いました」とB.T.は証言した。「彼がトイレからいなくなると、私は店員を呼んで、そばにいてほしいと頼みました」。そして、店員と一緒に、保安官が到着するのを待った。

    その後B.T.は、性暴力被害者の支援を専門とする看護師の診断を受け、加害者を特定するために、レイプキットを使って証拠を収集した。

    ところが、ジェームズは罪に問われなかった。検察によれば、証拠不十分だったというのだ。しかも保安官事務所は、ジェームズが用務員を務めていたケントウッド・パブリックスクールの高校に対して、通報や捜査について報告をしなかった。

    B.T.がケントウッドの生徒ではなかったことと、ジェームズに逮捕状が出なかったことが理由だった。この2つがそろっていれば学区に通報していただろう、とケント郡保安官事務所のミシェル・ラジョイ・ヤングはBuzzFeed Newsに対して述べている。

    ジェームズが警察沙汰を起こしたのはそれが初めてではなかった。ジェームズに関する警察の記録は、少なくとも、彼が14歳だった1989年にまでさかのぼる。

    1989年から2018年までの29年間で、ジェームズは最低でも16回、警察沙汰を起こしている。しかも、29年間のうち20年間は服役していた。

    裁判所の資料によれば、ジェームズは1989年、若い女性から自動車を盗み、ハンマーで脅して性的暴行を働こうとしたとされている。

    15歳だった1990年には、グランド・ラピッズ・コミュニティカレッジの学生だった別の若い女性から車を盗んだ。警察の報告書によると、女性が自分の車である青のフォード・テンポに乗り込んだ直後、ジェームズは運転席のドアを開けて、タイヤレバーで車と運転席の背もたれを殴りつけ、「運転しろ、ビッチ」と言ったという。女性は、ジェームズが車を発進させる前に、何とか飛び降りた。車は3日後に、乗り捨てられているのが発見された。

    ジェームズを担当する弁護士のジョナサン・シルドゲンはBuzzFeed Newsに対し、若いころのジェームズは「事の重大さをろくに理解せずに愚かな行為に走った子どもだった」と述べた。彼は「父も母もいない環境で育った典型例で、住む家も、気にかけてくれる人もいなかった」という。シルドゲン弁護士はまた、ジェームズが「犯罪に明け暮れた生活を送った」と言うのは大げさだと述べた。

    しかし、当時の行政はそのころのジェームズについて、攻撃的かつ反抗的で、行動を悔いる様子はなく、再犯の可能性ありと評していた。1990年の事件について、ジェームズを成人として審理すべきだと裁判官を説得するのに使われた資料がある。

    そのなかでジェームズは、「衝動的で、他人に対して横柄かつ挑発的であり、家族や権威のある人間に恨みを持つ人間」とされていた。警察は1990年の事件を、車の乗っ取りだけでなく、誘拐未遂とみなした。

    ジェームズは結局、凶器を使った強盗であることを認め、16歳になった年に、刑務所に入った。そして服役中に、さらに罪を重ねた。ほかの受刑者を通じた武器入手を企て、2つの訴因において有罪となったのだ。そして2011年、20年間の服役を経て仮釈放されると、ケントウッド・パブリックスクールの仕事に就いた。

    ミシガン州の法律では、重罪で有罪判決を受けても、警察署長や教育委員会などから了承を得れば、教育機関で働くことが可能なケースが多い。(ただし、たとえば幼児や子どもに対する性犯罪で有罪を受けた場合は別だ)。

    2011年4月に代替用務員の職に申し込んだとき、当時35歳だったジェームズは身元照会先として、2人の学校関係者の名前を挙げている。1人は、同地区の施設運営責任者のテッド・ベル(ジェームズにとって、部門長になる人物だ)で、もう1人は、同地区にあるイースト・ケントウッド高校の元教師で、アイスホッケーの「伝説のコーチ」と呼ばれたロン・ボームだった。

    ジェームズの人事ファイルを見る限り、彼が2人と知り合った経緯ははっきりしなかった。ベルはコメントすることを拒否し、ボームはコメントの依頼に応じなかった。

    ケントウッドの公立学校を統括する機関「ケントウッド・パブリック・スクールズのマイケル・ゾーホフ教育長によると、同学区は、ジェームズが凶器を用いた強盗による重罪で有罪になったことについては把握していたが、それ以前の未成年時の犯罪歴については知らなかったという。

    ジェームズは結局、「仕事の要件を満たしており、評判の高い地域住民から強い推薦があったため」2011年5月に採用された、と、同区は地元テレビ局WOOD-TVに語った。決定の際には、若い頃にジェームズが投獄されていたことも考慮された。

    彼は2度目のチャンスに感謝していた、とシルドゲン弁護士は言った。かつて投獄されていた人物が、釈放後に仕事を見つけて有罪判決の汚名を取り除くのは極めて難しい

    ジェームズは同学区で用務員として働き、次第に地位を上げていった。最初はカフェテリアで非常勤として働き、次に小学校で非常勤の用務員として働いた後、イースト・ケントウッド高校で常勤の用務員になった。

    ジェームズの最初の頃の勤務評価には、良い性格で「大変好かれている」と記されている。しかし、ジェームズの人事ファイルには、2013年以降の数多くの懲戒についても記録されていた。清掃装置を操作しているときに携帯電話を使用したり、機械を壁にぶつけて壊したり、シフトが終わる前に建物の外に出たり、勤務時間中に知り合いを招き入れたり、仕事中に寝たりするなどだ。ジェームズは、こうした懲戒の多くについて異論を唱えている。

    そして2014年、彼は早朝のクロスカントリーの練習中に、女子ロッカールームに持ち物をしまっていた生徒たちのiPod2台とiPhone1台を盗んだとして訴えられた。監視カメラには、その日の朝、ジェームズがひとりで女子ロッカールームに入り、数分後に出て、自分の車に盗品を持ち込むところが映っていった、と警察当局は述べた。

    その盗難を調査していた警察は、学校が「以前も彼に関する問題」を抱えていたことを知った。その前年の2013年に、彼は別の職員の財布を盗んだとして訴えられていた。警察調書によれば、「(同学区は)その頃にはクインを起訴するための情報がすべて整っていたが、被害者が立件を望まなかった」という。

    ジェームズはロッカールームでの犯行を否定し、高校は彼の雇用を継続した。もしジェームズがこれらの窃盗罪によって裁判で有罪と判決されていたら、彼は解雇されていただろう。しかし陪審員はジェームズを無罪にし、彼は仕事を続けた。

    教育長は報道陣に対して、同区は「陪審員の判断を尊重した」と、語った。2年後の2016年5月、ジェームズは、用地管理と定期往復バスの運転を兼務する全地区規模の地位に昇進した。

    一方で、さらに見過ごされていたこととして、ジェームズの立場上、あってはならない犯罪疑惑があった。それが、B.T.を含めた婦女暴行だ。もし保安官代理がケンウッド・パブリック・スクールズにB.T.の事件を告知していたら、同学区は内部調査を始めていただろう、と教育長は語る

    ところが、事件は2016年にも起きていた。そのときジェームズは、「白昼堂々と近隣住民の目につく公道で20歳の女性を襲い、首を絞めて殺そうとした」と法廷文書には記されている。その年、ケントウッド警察署とケント郡保安官事務所はそれぞれ、ジェームズを含めた家庭内暴行の報告書を提出したが、そこには、アパートの駐車場でジェームズが女性の首を絞めているのを見たという911(緊急通報ダイヤル)の通報者の話も含まれていた。

    2015年の報告書には、ジェームズが起訴されたと記されている。絞首、殺すぞという脅迫、殴打、膝で女性の鼠径部を押さえつけて動けないようにした疑いでだ。2011年、彼は親密な仲になることを断わった女性に対してストーカー行為を働いたとして起訴された、と報告書には記されている。ジェームズはこれらの告発を否定し、警官には、彼の側から見た事件の経緯を説明した。いずれの容疑についても、彼は不起訴処分となった。

    ひょっとすると、もし彼が起訴されていたら、もし当局がこれらの事件のうちひとつでも同学区に知らせていたら、もし同学区が調査を行なってジェームズを窃盗の疑いで解雇していたら、ミュージェイ・ドゥンブヤが高校に通い始めた2016年の秋に、彼はケンウッド・パブリック・スクールズで働いていなかったかもしれない。あるいは、ジェームズの弁護士が語ったように、そもそも、もし彼が幼い頃に親に見捨てられなかったら、彼は10代は違っていたかもしれない。

    ケンウッド・パブリック・スクールズはこの件に関する質問の回答を拒否し、BuzzFeed Newsには、「私たちは大切な生徒を失って悲しみに暮れています」としたうえで、「これ以上お伝えするつもりはなく」、現在調査中の刑事事件の「介入や妨げとなるようなことをするつもりも、言うつもりもありません」と語った。

    2001年、ジェームズが20年間の刑務所生活を始めたとき、ミュージェイは、シエラ・レオネに住むリベリア人家庭に生まれた。彼女の家族は、何十万人もの人が殺された内戦から逃れてきたが、シエラ・レオネもまた戦争で荒廃した国だった。

    ミュージェイの家族は、飢えや、弾丸が飛び交う様子、道端で寝る人々、空き家などを思い出すことができる。国中でレイプがはびこっていて、女性にとっては特に危険な場所だった。

    ミュージェイの家族は、結局は難民キャンプで暮らすことになり、国連から支給される古着や食料をかき集めて暮らした。だが、ミュージェイが3歳のとき、国連難民高等弁務官の助けによって、家族は米国に定住することになった。

    ミシガン州に到着したとき、彼女たちは再び息ができるようになった気がした。ミュージェイのおばであるコンネーは、「さあ、もう安全だわ」と思ったのを覚えている。より良い暮らしを送るチャンスだと思った、と彼女は言う。

    父親はアフリカに残ったままだったが、ミュージェイは、母とおばたちに囲まれて育った。たくましい女性たちによる、結束の固い家族だった。おばたちは現在、中西部郊外で互いの近くで生活し、仕事をしている。

    人生最後の夏、ミュージェイは、一番仲のいいおばであるサンノと一緒に暮らした。サンノの家は、小さなショッピングモールに挟まれた静かな地域にある。1970年代に建てられた低いデュプレックス(メゾネット型アパート)や単身者向け家屋が立ち並び、どの家にも青々とした大きな庭があった。

    彼女の家族は冗談で、もしミュージェイが何かが欲しくて母に頼んでダメだと言われても、おばのところへ行き、それがダメでも別のおば、また別のおば、と行くうちに、誰かは「いいよ」と言うだろうと話していた。「ちょうどひとつの輪のようにね」と母のコーネーは言った。

    成長すると、ミュージェイは「かわいい子」と呼ばれるようになった、とサンノは語った。彼女は、周囲の人々をなごませたり気分よくさせるのが好きで、人から愛されたがって、よく相手を褒めていた。また、自分がいとこの中で最初に生まれた女の子、つまり「プリンセス」だということを喜んでいて、家族のなかで、他に女の子が生まれることを嫌がっていた(結局は、「プリンセス」の称号は共有せざるを得なくなった)。

    「彼女はいつも私に、『ママ、私がスターだって知ってる? 私がいつかスーパースターになるって?』って言っていたわ」と母のコーネーは語る。それが何年か続いた後、ミュージェイは、将来の夢を看護師に切り替えた。亡くなる数か月前には、彼女は警察官になりたいと言っていた。クイン・ジェームズを逮捕したような警察官だ。

    事件が起きたとき、ミュージェイは15歳だった。学校は夏休みに入っていて、彼女はフェイスブックで、当時17歳のダクエリアス(DQ)・ビブスと知り合っていた。DQは、ミュージェイの住む地域から2時間ほどの都市サギノーに住んでいたが、その夏は彼も、ミュージェイの近所から約4km離れた郊外でおばと暮らしていた。そこで、DQと彼のおばと一緒に暮らしていたのが、おばの婚約者であるクイン・ジェームズだった。

    DQとミュージェイは何週間もメッセージを送り合い、ようやく会えたのが2017年7月の終わりだった。初めてのデートのとき、ジェームズは若い2人を車に乗せて周囲を走らせた。その晩の終わり、ミュージェイが家に戻って10分後、DQはミュージェイに電話をかけ、もう一度外に出て、ジェームズの車に乗るように言った。そのときに後部座席でジェームズがミュージェイをレイプし、そのあいだDQが彼女の手を握っていたとされている。

    「ミュージェイは泣いていました」とDQは振り返った。彼女はジェームズにやめるよう言った。DQは彼に、やめてくれとは言わなかった。「怖かったんです」とDQは言った。「僕が彼をやっつけられないのはわかっていました」

    DQはジェームズのことを「不気味」だと思っていた。DQは一度、彼がおばの首を絞めているところを見たことがあった。DQが止めに入ると、ジェームズはDQの首を絞め始めた(ケント郡検察官クリストファー・ベッカーは3月に、裁判官に対して、検察官はDQもジェームズの犠牲者といえると見なし、「彼の安全を大幅に考慮して」、ジェームズに対して不利な証言をする前にDQを自宅軟禁下に置いたと語った)。

    警察と検察によれば、ジェームズは夏の間、少なくとも3カ所で、ミュージェイをレイプし続け、オーラルセックスを強要したこともあるという。1カ所目は、アイスクリームを食べようと、ミュージェイとDQを連れ出したとき。2カ所目は、ジェームズの自宅。このときも、DQがミュージェイの手を握っていて、ミュージェイは「涙を流していた」とDQは証言している。

    3カ所目は、あるチャータースクールの駐車場だった。このとき、ジェームズはミュージェイに、「お前には何かある。俺はいつでもやめられたが、もうやめられない」と言ったそうだ。DQはいつも現場にいたと証言している。一方、ジェームズの弁護士は、これらが事実だとは思っていないと述べている。弁護士側の主張は、2017年秋、ジェームズがDQを家から追い出したため、DQは報復としてこのような証言をしたというものだ。

    しかし、ミュージェイの家族の証言は、DQによる重要な証言の一つと一致している。ジェームズはミュージェイをレイプしている間、学歴を妨害すると脅迫していたという内容だ。ジェームズはミュージェイに対して、「お前の成績を改ざんしてやる。俺は何でもやる」と言ったそうだ。ミュージェイは、ジェームズが学校で働いていることを知っていた。ミュージェイの家族によれば、ミュージェイはイースト・ケントウッド高校の校章を付けたジェームズを見たことがあるという。

    DQはミュージェイに対して、彼女の母親に話すことを勧めたが、「彼女はおびえていて、誰にも話したくないと思っていました」。

    このような状況にもかかわらず、ミュージェイはDQへの強い愛情を公言していた。DQはフェイスブックに、ミュージェイからと思われる絵文字だらけの長大なメッセージをいくつか投稿している。ミュージェイはDQのことを「私の片割れ」、「頼りになる人」、秘密を守ってくれる人、「私のベイビー、未来、柱、日記、私のすべて」と呼んでいた。DQによれば、2人は2017年末までに別れたが、その後も変わらず親友だったという。

    2017年秋、ミュージェイは母親に、ジェームズのことを話した。ミュージェイの家族によれば、ミュージェイが止めない限り、ジェームズは止まらないという結論に達したためだという。ミュージェイはテキストメッセージですべてを打ち明けたと、母親のコーネーは振り返る。その夜、コーネーはミュージェイを座らせ、自分の口ですべて話してほしいと言った。

    大きなショックを受けたコーネーは、自分の姉であり、ミュージェイにとっては最も力強く率直なおばであるサンノに相談した。サンノは助言を得るため、ミュージェイをスクールカウンセラーのもとに連れていった。学校は警察を呼び、ミュージェイは数時間をかけて、夏に起きた出来事を話した。

    サンノによれば、ミュージェイは時おり、言葉に詰まり、家族の前で話したくないため、忌まわしい出来事の詳細を紙に書いてもよいかと刑事に頼んでいたという。ミュージェイは教職員の写真をめくり、ジェームズを発見した。

    2017年11月16日、警察はジェームズと対面した。ある刑事によれば、ジェームズは取り調べで、ミュージェイと2度セックスしたことを認めたという(ジェームズの弁護士を務めるシルドゲンはこの供述を、誤解によるものだと主張している。シルドゲン弁護士によれば、ジェームズはジェイという名前の女性について質問されていると勘違いしていたという。ミュージェイは時々、ジェイと呼ばれていた)。

    ミュージェイは、カウンセラーからジェームズの逮捕を聞かされたとき、興奮しながら家に帰ってきたと、コーネーは振り返る。ミュージェイは、「“ママ、当ててみて”と言い、私は“ミュージェイ、あなたはいつも当ててみてばかりね。考えるつもりはないわ”と答えました。すると、彼女はこんな風ににっこり笑いました」。コーネーは満面の笑みを浮かべてみせた。「“ママ、彼が逮捕されたの”と彼女は言いました」

    ジェームズは拘置所から、自分の母親に電話した。ジェームズは大人になってから、母親と連絡を取っていた。法廷で、通話の録音が再生された。ジェームズの母親は、もし有罪になれば、すべてを失うと告げた。

    「クイン」とジェームズの母親は呼びかけた。

    「何? ママ」

    「もしあなたがこの少女とセックスしていないのなら、あなたはとことん戦わなければならないわ。そうしなければ、あなたの人生が台無しになってしまうから」

    「ママ、俺の人生はもうめちゃくちゃだ」とジェームズは答えた。「俺は自分の人生を台無しにしてしまった」

    ジェームズはすすり泣く母親に、ある少女とセックスしたことを打ち明け、「確か18歳のはずだ」と言った。しかし、ミュージェイの名前が出てくることはなかった。ジェームズはさらに、「このたわ言ははすべて(警察の)でっち上げだ」と言った。電話の制限時間が来る前に、ジェームズは母親に対して、泣かないでほしいと頼んだ。

    危機に陥ったジェームズは、「どのような結末になるか、俺にもわからない」と言った。「これからどうなるか、俺にはわからない」

    翌日、ジェームズと婚約者が、裁判官に安価な保釈金を懇願している間、ミュージェイと家族は、マジックミラーでその様子を見ていた。

    ジェームズの婚約者は、「彼には面倒を見なければならない子供が3人います。彼は素晴らしい仕事に就いています」と述べた上で、ジェームズは「正しい軌道に乗っています」と主張した。

    ジェームズは自身について、発達障害を持つ4歳児の子育てに悩む献身的な父親と表現した。弁護士によれば、近所の女性が親権を放棄したため、ジェームズが引き取った子供だという。さらにジェームズは、元恋人との間に同年代の双子の男の子を授かり、2人とも引き取っていた。

    ケントウッド地方裁判所のウィリアム・G・ケリー裁判官は当初、5万ドルの現金または保証書を保釈の条件としていた。つまり、保釈金の10%に当たる5000ドルを保証会社に支払い、残額の納付を保証してもらえば、拘置所から出られるということだ。しかし、その日のうちに、ケリー裁判官は保釈金を10万ドルに引き上げた。ジェームズはほかの容疑でも捜査中だと警察から伝えられ、逃亡のリスクがあると判断した刑事から、この金額を提案されたためだ。保釈金は倍になったが、ジェームズは10%に当たる1万ドルを保証会社に支払い、自由の身となった。

    ミュージェイのおばたちは、ジェームズが保釈の権利を認められたこと自体にショックを受けたと述べている。

    ケリー裁判官は数年前、保釈金決定の際に考慮する要素を次のように説明している。「当該人物の犯罪歴、出廷または不出廷の記録、薬物乱用歴、起訴された罪の重さ、精神状態、雇用状況、コミュニティーとのつながりを示唆する事実」。

    裁判官には、ほかの選択肢もある。出廷を義務づける誓約書を書かせる、保証書による保釈を認めない、法外な保釈金を設定するといったものだ。ケリー裁判官自身も以前、100万ドルの保釈金を設定したことがある。妻を刺殺した男性と、80歳の女性を暴行・拷問した罪で起訴された男性だ。

    ミュージェイが殺害された後で、ケリー裁判官は、ジェームズを10万ドルで保釈すると決めていたことについて質問された。ケリー裁判はカラマズーのテレビ局「Newschannel 3」の記者に対し、自分はなんでもわかる水晶玉を持っているわけではないと述べた上で、「当時入手していた情報を考えると」ジェームズの保釈金は妥当だったという見解を示した。ケリー裁判官はさらに、「もちろん、今の方が多くの情報を持っています」と付け加えた。

    例えば、ジェームズが過去にレイプで起訴されていたことは知らなかったという。ケリー裁判官に提出された公判前リスク評価書と保釈金提案書を確認してみたが、B.T.のレイプについては言及されていなかった。それどころか、1980年代後半から何度も警察沙汰を起こしているにもかかわらず、そのほとんどが記載されていなかった。後に検察が危険な反復行動の証拠として提示した首絞めや性的暴行未遂すら記載されていなかった。

    裁判所職員が作成した2017年11月の公判前リスク評価書には、ジェームズには安全上のリスクがあり、重罪の有罪判決を受けたこともあると記されていた。ただし、「暴力犯罪の有罪判決を2度以上受けている」という項目はチェックされていなかった。

    ケリー裁判官は、地元の記者レイチェル・グレイサーに対して、「今知っていることを当時知っていたら、もちろん、私は違う行動を取ったでしょう」と話している(ケリー裁判官に取材を申し込んだが、相手にかかわらず、取材を受けるべきではないということに気づいたと断られた)。

    ケント郡のベッカー検察官は、早くからケリー裁判官を擁護していた。ベッカー検察官は報道陣に対して、「10万ドルは決して、取るに足りない金額ではありません」と話している。「彼は保釈金を払いましたが、そういうこともあるのです」

    ベッカー検察官は、検察や裁判所への非難をかわすため、ミュージェイの事件は「テレビで見るような」ユニークでショッキングな事件だと強調した。「これは、とても珍しい、極めてまれな事件です。そのため、刑事司法制度そのものに問題があると言うつもりはありません。このような悲劇は誰も望んでいませんが、悲劇は起きてしまいました」

    ミュージェイはジェームズの保釈を知ったとき、「とても悲しそうに帰ってきました」とコーネーは振り返る。ミュージェイは、「“ママ、彼が保釈された”」と言って部屋にこもり、その日は夕食を食べなかったという。その夜、祖母の家に行くことを提案すると、「“ママ、私はどこにも行かない。彼が保釈されたから”と彼女は言いました」。ミュージェイはサンノに、怖いと打ち明けた。そして、どこから保釈金を手に入れたのだろうとサンノに尋ねた。サンノは答えることができなかった。

    「私も恐怖におびえていました」とサンノは話す。サンノはその後、スクールカウンセラーと刑事に電子メールを送り、ミュージェイと家族の安全が心配だと伝えた。ジェームズはサンノの自宅を知っていた。2017年夏にミュージェイがDQとデートしていたとき、ジェームズが何度かミュージェイを迎えに来ていた。

    それでも、ミュージェイは「タフな少女」だったと、サンノは振り返る。ミュージェイは証言の準備をしたり、カウンセリングを受けたりしながら、学校でも良い成績を収めていた。以前と変わらず、よく笑う少女だった。唯一、事件が長引いていることにはいら立っていた。公判期日は2018年4月に決まったとサンノが言うと、ミュージェイの笑顔が消えた。「それじゃ遅すぎる」

    「彼女はおそらく、私たちが知らない何かを知っていたのでしょう」

    2018年1月24日朝、ミュージェイはコーネーにコーヒー代をせがみ、6時ごろに出掛けた。ミュージェイは「じゃあね、ママ」と言い、二度と戻ってこなかった。

    ミュージェイはその日の午前8時までに殺害されたと、警察は推測している。翌25日の夕方、家族はグランド・ラピッズ警察に捜索願を出した。警察の推測が正しければ、警察は死後2日後の26日に捜査を開始したことになる。

    捜査当初、ミュージェイは家出人に分類されていた。家族はその事実を知ったとき、驚き、憤慨した。法執行当局は近年、黒人の少女が行方不明になったら家出と決め付けることで批判されている。

    グランド・ラピッズ警察は、「誘拐、暴行、生死に関わる危険の兆候」がない限り、通常、10代の行方不明は家出に分類されると説明している。グランド・ラピッズ警察によれば、ミュージェイの捜索願が提出されたとき、「犯罪行為の兆候はありませんでした」。ミュージェイの遺体が発見されるまで、捜査官たちは、ミュージェイが進行中の性的暴行事件の当事者だということを知らなかった。

    鑑識官の証言によれば、1月28日、カラマズーの森を散歩していたカップルからの通報に対応した警官たちが、右を向いた状態で横たわるミュージェイの遺体を発見した。後に、首を絞められたことによる窒息死で、殺人と断定された。警察は当初、16~24歳の黒人女性と説明しており、身元判明までに数日かかった。

    ミュージェイの髪の毛は、2週間前におばのコンネーが編み込んでやったままだった。「Columbia」の黒いジャケットは頭まで引き上げられ、ジーンズはボタンを留めた状態で、膝まで引き下げられていた。ピンクの下着があらわになっていたが、全身にかけられた漂白剤のせいで色あせていた。漂白剤の強烈なにおいがまだ残っていた。サイズ5の「Nike」と、シンデレラのTシャツは、ピンクと白でコーディネートされていた。

    ミュージェイは靴が大好きで、汚さないよう気をつけ、自分の部屋にきれいに並べていた。

    遺体が発見されたとき、スニーカーの左足は、漂白剤の染みがいくつか付いていた。右足のほうは近くになかった。今も見つかっていない。

    ジェームズに対する検察側の主張は、すでにかたちをとり始めていた。警察が入手した電話記録と目撃者によると、ジェームズは、ミュージェイの殺人と死体遺棄を手伝う共犯者を探していた。4月11日にジェームズが殺人罪で起訴された同日、58歳のジェラルド・ベネットというデトロイトの男が、この共犯容疑で起訴された。

    また警察によると、ジェームズはミュージェイが誘拐された日の居場所について、当局に嘘の供述をしたという。その後、ジェームズの婚約者ティアラ・バーネットは、捜査官に嘘の報告をし、目撃者を脅迫したとして起訴された。

    27歳のティアラもケントウッド・パブリック・スクールズの従業員で、DQの叔母だった。ティアラは、見つからないように他の受刑者の通話時間を使ってジェームズと連絡を取ったとして検察に告訴されている(シルドゲン弁護士は、その証拠は一切提出されていないと話している)。

    警察によると、ミュージェイが失踪した日、彼女の遺体が発見されたカラマズーの森周辺の道路のカメラに、黒の「GMCアカディア」が映っていた。ジェームズが当時運転していたのと同じタイプのSUVだ。

    6月には、ミュージェイのジーンズから検出されたDNAが、ジェームズのものと一致したと法医学者が証言した。ジェームズの今後の抗弁のポイントは、この証拠を無効とすることになる。シルドゲン弁護士は、例えばこのDNA一致の確実性や二次汚染の可能性を問うつもりだと話した。

    こうした証拠を集めて、ジェームズをミュージェイ殺害の容疑で起訴するのに2カ月がかかったが、ジェームズはその間、自由の身ではなかった。ミュージェイの遺体が発見された4日後の2月1日、B.T.の件に関する2014年の警察調書により、ジェームズは性犯罪行為と絞殺の容疑で逮捕された。検察が以前起訴しなかった同じ容疑で逮捕されたのだ。

    シルドゲン弁護士によると、カラマズー警察がミュージェイに関する尋問のためにジェームズの自宅に訪れた数時間後、ジェームズはB.T.の事件で逮捕されたという。シルドゲン弁護士は、郡検察を非難した。ミュージェイ殺害事件の捜査の間、ジェームズを拘束する口実を得るためだけにB.T.の裁判を再開したというのだ。

    シルドゲン弁護士は、B.T.の事件を含む容疑について、「新たな証拠はありません。新たな証拠は何ひとつとしてなかったのです」と話し、2月のジェームズ逮捕を、悪質な当局による行き過ぎた行為だと述べた。「政府は何だってやってしまうのです」

    ケント郡のベッカー検事はBuzzFeed Newsに対して、4年が経過していたB.T.事件の何が彼の興味をかき立てたのかについては説明しなかったが、「2月の追加報告書」の結果、自分のオフィスはB.T.事件について再捜査する必要があった、とだけ述べた。それ以来、B.T.の事件とミュージェイの事件が並行して裁判にかけられている。ジェームズはB.T.の首を絞めようとしただけでなく、その死体に「漂白剤を注いでやる」と述べた、とB.T.は証言した。

    シルドゲン弁護士は2月、裁判官に対して、「(検察は)当時彼女を信じなかったし、今も信じていない」と訴えた。彼の抗議をよそに、裁判所はB.T.事件の公判を進めることを許可した。

    ジェームズは現在、B.T.への性的暴行、ミュージェイへの性的暴行、そしてミュージェイ殺害の罪に問われているが、すべてに関して無罪を主張している。そして彼は、保釈認可なしで拘置所に収容されている。

    しかし、ジェームズと彼の婚約者、共犯容疑をかけられているベネットがそれぞれ、自身の裁判を待つなかで、他にも、ミュージェイの死に対する責任がある者はいないのかという問いが浮上している。

    DQは、事件に関して彼を責める声に対して、フェイスブックにすべて大文字で強調した内容を投稿し、自身を擁護した。自分は目撃者(witness)であり(正確には “WITNESSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS”)、「性的暴行を止めた人物」なのだと。そして、現在彼の腕を覆う「R.I.P. Mujay(安らかに、ミュージェイ)」と刻まれたタトゥーの写真を投稿した。

    ケントウッド・パブリック・スクールズも、迅速に非難を回避した。彼らの主な主張は、ジェームズは「生徒と接触することはほとんどなく、職務の一環としては何もしていない」というものだった。しかしこの主張は、11月にケントウッド警察のエリン・キッチカ巡査が出した保釈提案書と矛盾した。提案書には、ジェームズは職務中に「未成年の少女と毎日接触していた」とあった。

    また同学区はメディアに対し、ミュージェイはボーイフレンドを通してジェームズと知り合ったのであり、2人が通っていた高校の校舎で知り合ったのではないと強調した。しかし、ミュージェイ家族の弁護士、クリスティーン・A・ヤレドはこの主張に関して懐疑的だと話している。DQとミュージェイが、なぜどのように最初にフェイスブックでつながったのかに関して、未だ法廷で立証されていないためだ。

    DQとミュージェイの明らかな唯一の共通項はジェームズだ、とヤレド弁護士は主張する。また、ジェームズは早期から10代の若者との関係に興味を持ち、関与しており、DQに対して、ミュージェイにジェームズとセックスするよう促せと強要した、とDQは証言している。

    「こんなにも大きな偶然はそう起こるものではありません」とヤレド弁護士は話す。

    ミュージェイの家族は、ジェームズの刑事裁判が終結した後、この学区に対して法的措置を講じることを検討している。「暴力的な重罪人を、なぜ雇うのでしょうか」とヤレド弁護士は言う。特に、女子ロッカールーム事件の裁判の後、「なぜ彼を雇い続けたのか?」というのだ。

    ミュージェイの家族はヤレド弁護士を通して、すでにいくつかの質問を学区当局に提出している。2017年11月にジェームズが逮捕・解雇されたことを、なぜ学校は保護者に知らせなかったのか、などだ。もし知らせていれば、他の被害者たちが(いるとすればだが)表に出る気にさせたかもしれない、と彼らは主張した。

    ミュージェイの死から6カ月以上が経つが、ジェームズの3つの裁判のいずれも、公判期日が決まっていない。現在、検察と弁護側は、利害の衝突のため、検察が身を引くべきかどうかを巡る争いをしている。というのも今年、ミュージェイに協力していた検察当局の被害者支援スタッフが、ジェームズとデートしていたことが明らかになったのだ。このことに関する法廷審問や他の複雑な問題が、春から初夏にかけて積み重なった。しかしその一つひとつ全てに、ミュージェイの家族の少なくとも一人が出席した。

    サンノは7月のある日曜の午後遅く、グランド・ラピッズの自宅で、「誰かがミュージェイを代表しなくては」と述べた。その直前に、サンノはミュージェイのお墓に訪れていた。「彼女と約束したのよ。『私たちは何があっても一緒よ』って言ったわ」

    サンノによればミュージェイは、刑事司法制度の遅さに失望する度に、ジェームズの判決について想像していたという。特に、最も厳しいおばが立ち上ってジェームズを叱りつけ、「ひどいこと」を「ひどい顔」で言うのを心待ちにしていた。こうした想像にミュージェイはクスクス笑い、そのことで彼女たちの重い現実が少し軽く感じられたのだった。

    サンノは、自宅リビングで2人の姉妹の間に座っていた。コーネーの赤ん坊、クリストファーが床で遊んでいた。昨年の9月に生まれ、ミュージェイが心の底から愛していた弟だ。コーネーは、娘について話すことを苦しんでいた。話そうとすると頭が痛くなるのだ。

    私たちがコーネーに会った日の前の夜、彼女は、ミュージェイが自分の前に立っているのに触れることができないという夢を見て、混乱していた。家族全員が今、何カ月も続く悪い夢を見ているように感じている。ミュージェイの死は、戦争の記憶さえも呼び起こした。

    「私たちは皆、暴力から逃れ、安全を求めてここにやってきました。けれどもここに、すぐ玄関先に、暴力が存在していたんです」とサンノは話した。「それでパニックになり、もう誰も信じられなくなります」

    彼女たちは、偏執狂的な不安を感じ、常に危険に怯えていると告白した。先日、見知らぬトラックがサンノの家の外に止まったとき、30分後に一人の女性が車から降りて隣の家に入って行くまで、彼女はトラックから目を離せなかったという。彼女は、ドアに鍵をかけ、まだしっかり鍵がかかっているか、確認に確認を重ねる。

    また、ミュージェイの義父が最近、車の損傷を警察に報告した。ある金曜日の夜遅く近所で発砲された弾丸によって損傷したと考えられている。彼は、以前なら発砲は無作為だと思えたが、そのときは、無作為だったのか、狙われたのかどうか考えずにいられなかった。

    「私はあらゆるものに関して疑い深くなっています」とコンネーは話す。

    彼女たちの心配や悲しみは明らかだが、怒りについてはより複雑だ。コンネーは怒り狂っており、純粋で単純だ。しかしコーネーは混乱し、自分を見失い、未だトラウマに覆われて、怒りを処理できないようだ。囁き声で話すのがやっとのときもある。頭を抱えこみ、代わりに姉妹に話してもらう。そしてときどき「彼は悪魔よ」とつぶやく。目を赤くして潤ませながら。

    彼女たちのリーダー、サンノは、怒りに対して懸命に闘ってきた。怒りによってミュージェイが戻るわけではない、と彼女は言う。「ミュージェイは本当に逝ってしまったのです」

    ジェームズが有罪判決となって永遠に収監されれば、それは正しいことであると感じられ、良い気分に感じられるかもしれない。しかしそれは、「正義」のようには感じないだろう。それは彼らにとって、不明瞭で理解できない感情なのだ。

    「私が望む唯一の正義は、ミュージェイが帰ってくること。だけどそれは起こらないのです」とサンノは言う。

    コーネーは、下を見つめたまま静かに言った。「私の娘は死んだ。そして帰ってこない」

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan