ファンに媚びた結果、ハリポタガチファンを失望させたファンタビ新作

    【ネタバレあり】『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』のレビュー。

    多くの人から愛され、素晴らしい評価を受けたモノが、自らの存在に飲み込まれていくのを眺めるのは、なんとも言えない気持ちになる。

    愚痴と泣き言の電話をしている人の部屋のドアをうっかり開けてしまったような、うんちをしている最中の犬と目があったような。

    あぁ、見てはいけないものを見てしまった。

    映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(以下、『黒い魔法使いの誕生』)を見て感じたのは、まさにこれ。ハリー・ポッターと同じ世界の、「魔法ワールド」フランチャイスである『ファンタスティック・ビースト』の2作目を見た時、そう思ったのだ。

    『ハリー・ポッター』本編の本は、登場人物たちの魅力を引き出す伏線を巡らし、非常にうまく書かれている。一方で、『黒い魔法使いの誕生』は、シリーズにおける全エピソードをこれでもかと引っ張り、全キャラクターすべての謎を隅々まで解き明かそうとする。シリーズが残してきた財産を、ここまで食いつぶそうとする映画は稀だろう。

    そもそも『黒い魔法使いの誕生』は、1作目の『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』が公開される前から、すでに物議をかもしていた。

    その理由は、ジョニー・デップにある。配給元であるワーナー・ブラザースが2年前に、ゲラート・グリンデルバルド役はジョニー・デップだと正式に発表するやいなや、ファンからは元妻からDVで訴えられた男はシリーズの役者としてふさわしくないという声があがった。(デップの元妻アンバー・ハードがデップをDVで訴えていたが、後に訴訟を取り下げた。その後、ハードはデップともに、金銭目的のでっち上げではないという内容のプレスリリースを発表。また、ハードも暴力的な面があったとデップがのちに反論している。)

    2017年は#MeToo ムーブメントが広がった年であり、ワーナー・ブラザースには、デップを降板させるべきだと抗議の声が集まった。

    しかし、ワーナー・ブラザースや脚本を担当したJ・K・ローリング、監督のデヴィッド・イェーツは、デップの採用を覆すことはなかった。ファンの中には、シリーズに失望と裏切りを感じる者も少なくなかった。

    「リドリー・スコットが、映画全編を2週間で撮り直せるんなら、ジョニー・デップも降板できるはず」なんて言ったファンもいた。(映画『ゲティ家の身代金』において、ケヴィン・スペイシーがセクハラ問題で降板後、クリストファー・プラマーが起用されスペイシーの出演シーンをすべて撮り直したことを引き合いにした発言。)

    当時、デップが本作で悪役を演じることで、映画全体のキャンペーンに支障をきたす可能性があるとまで言われていたのだ。ともあれ、ワーナー・ブラザースは配役変更をしなかった。

    その結果、#MeTooムーブメント、アートとアーティスト(この場合は映画作品と役者)を分けて考えるべきか否かという議論が大きな雲となって、公開前からすでに映画に影を落としていた。

    もちろん、デップの存在だけが本作の難点ではない。溶けたろうそく、はたまたカビがはえた古いパンのような見た目で映画に登場するデップは、気が散っているときに顔のまわりをしつこく飛び回るハエのようなもの。

    デップの存在よりも大きな問題は、映画自体のアイデンティティ・クライシスにある。

    『黒い魔法使いの誕生』は、『魔法使いの旅』が終わったところから話が始まる。ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)が、アルバス・ダンブルドア(ジュード・ロウ)から命令をうけ、ジェイコブ・コワルスキー (ダン・フォグラー)を、グリンデルバルドの手に落ちる前に追跡する。

    彼らメインキャラのまわりには、たくさんのサブキャラがいるわけだが、二転三転するストーリーの中に埋もれてしまっている。登場人物たちそれぞれの言動の動機がよく描けていないのだ。

    クリーデンスを追うナギニ(クローディア・キム)が、彼を思う気持ちはわかるが、それ以外の内面は特に出てこない。1作目でメインキャラだったティナ(キャサリン・ワトソン)は、なぜか隅へ追いやられている。これまた1作目のメインキャラだったマグルのジェイコブ(ダン・フォグラー)も、ちょとセリフがある程度のお笑い要員扱いに。

    とくに残念なキャラクターは、リタ・レストレンジ(ゾーイ・クラヴィッツ)。彼女の内面の混乱は多少描かれてはいるものの、ニュートやテセウス(カラム・ターナー)への思いは特にフォーカスされることはない。さらに、これから活躍して輝くのでは——と思うところで、死んでしまう。

    しかし、本作で最も謎でわけがわからなくなってしまっているのは、クイニ―・ゴールドスタイン(アリソン・スドル)。1作目ではチャーミングなヒロイン的ポジションだったのが、何がどうなって悪役側に? いくらジェイコブと結婚したいからって、あんなに勇敢で優しく明るかったクイニーが、ここまで陰気な悪役になろうとは。

    キャラだけでなく、話の流れにも疑問。1作目でクリーデンスが死ぬシーンがあれだけデカデカ描かれたのに、とりたて説明することもなくクリーデンス生きているし。キャラクターの細かいところまでは気が回らない本作なのに、なぜか、シリーズの前後関係をぶち壊すことだけはめちゃくちゃ見事に達成している。

    キャラが浅い。前後関係が謎。しかし、最大の難点は「魔法ワールド」ファンへの媚びが裏目にでているところ。スピンオフ作品では、ファンが喜ぶようなシリーズに関するネタをいれるのはよくあること。ファンは盛り上がるし、本編で描かれなかったいろんなキャラのエピソードがでてくるのは、単純に楽しい。

    例えば、ニコラス・フラメル(ブロンティス・ホドロフスキー)が本作にはでてくる。年齢に関するジョークも飛び出すし、賢者の石もちらっと見える。ファンなら注目したいシーンだ。その他、ミネルバ・マクゴナガルと思われる女性キャラ(フィオナ・グラスコット)も登場する。

    『黒い魔法使いの誕生』に、マクゴナガルはホグワーツの教員として出てくる。しかし、本作の設定は1920年代半ばで、そこまで違和感はない。必要以上に存在感を醸し出し始めるまでは。

    長年『ハリー・ポッター』のファンは、マクゴナガルの年齢=誕生年を議論し割り出しており、彼女が生まれたのは1925年から1937年だとされている。

    2000年のScholasticのインタビューでは、J・K・ローリングがダンブルドアの年齢は150歳、マクゴナガルは「元気な70歳」と発言。その後、『ハリー・ポッター』のウェブサイト「ポッターモア」にて、ダンブルドアの生まれ年は1881年と記載された。これによって30歳くらい若くなったダンブルドアだが、本作のジュード・ロウは、なかなかうまくこれに当てはまっている。

    が、マクゴナガルは納得がいかない。魔法使いの年齢と見た目にギャップがあるとしても、1920年代にマクゴナガルが成人女性として存在するのは無理がある。マクゴナガルの母親イソベルの可能性も低い。ちなみに、「ポッターモア」のキャラクター紹介にて、イソベルがホグワーツの教員だったという記載はない

    ファンに、若き頃のマクゴナガルを見せたいという気持ちはわかる。わかるけど、やるならちゃんとやってくれ! ちらっとカメオ出演嬉しいでしょ?程度のことで、ストーリーの時空を崩されたのではたまったもんじゃない。

    『ハリー・ポッター』が長きに渡り、消えることなく愛され続けているのは、ファンが何度も本を読み返しているから。読むたびにシリーズ全体に散りばめられた伏線やネタに気がつき、また読んでみる。だから、多くの児童書が記憶の中で薄れていくなか、『ハリー・ポッター』の世界はファンの記憶の最前線にあり続ける。オリジナルシリーズの登場人物やストーリーが尊重されているからこそできることだ。

    なのに、まさか「魔法ワールド」の一員である続編がこれを崩しにくるとは…。ファンを喜ばそうと媚びてみた結果、自ら世界観をぶち壊してしまったのだ。『ハリー・ポッター』というレガシーの周りでわーわー騒いだ挙句、クソを撒き散らして徹底的に破壊する存在、それが『黒い魔法使いの誕生』だ。

    『黒い魔法使いの誕生』のクライマックスは、クリーデンス。彼の本名はアウレリウス・ダンブルドアであり、アルバス・ダンブルドアが兄だとわかる。これが、『ファンタスティック・ビースト』シリーズの今後3作のストーリー展開の鍵となるのだろう。

    そう、まだあと3作もあるのだ

    『ファンタスティック・ビースト』は、5部作になることがすでに発表されている。

    『黒い魔法使いの誕生』は、シリーズ全体で見れば、たんなる橋渡し、もしくは中継ぎ的存在なのかもしれない。ただ、それにしてもキャラを失いすぎだ。正直この作品は、レジリメンス(開心術)のくだりも何も無視して、運命の人と結婚したいクイニーをダークサイドに堕ちさせてください、と観ている側を説得しようとしている。

    とりあえず最後で次につないでおきました、と言われたような気分だ。

    グリンデルバルドの最後のモノローグもハッキリしない。第二次世界大戦に突入するという時代背景のなか、彼のもとに集まる人々に、ノー・マジ(マグル)を支配すべきだと説く。

    人間が殺し合いを始めるから、自分たちが人間を支配し、殺してしまうべきだといわれても、ちょっと説得力にかける。また、戦争を止めたいのか、それを利用して人間を支配しようとしているのか、グリンデルバルドの意図も見えてこない。

    『ハリー・ポッター』シリーズは、近年、トランプ政権を解説するために引き合いにだされるほど、相関図がわかりやすかった。一方で、『黒い魔法使いの誕生』は悪役のロジックが明確に見えてこない。

    もし、制作側がグリンデルバルドの意図を理解していると言うならば、それをうまく観客に伝えきれていない。メインキャラクターを含む登場人物たちを理解することができない、それが本作が抱えるアイデンティティ・クライシスという大きな問題だ。

    映画全体の問題があまりに大きくて、一瞬あの男の存在を忘れてしまった。ジョニー・デップ、映画そのものを脅かしかねなかった存在。

    最初に戻るが、やはりデップはこの映画にふさわしくない。映画は自らシリーズの世界を壊したが、デップの存在がそれを大きく手助けしたことは否めない。

    『黒い魔法使いの誕生』は、これまでデップが15年もやってきた、大げさな衣装とメイク、そしてアニメのような声色で演技するだけの "ジョニー・デップあるある"だ。本作でデップが見せた演技は、他の誰が演じても50倍はうまくできるだろう。

    疑問なのは、抗議の声があがってもなお、なぜ役者を変えなかったのかということ。映画の流れには、いくらでも役者を変更できそうなシーンもあるのに。グリンデルバルドが次々と他のキャラに顔を変えていくシーンが冒頭にある。ファンの中には、このままデップ以外の顔と役者のままであれば良いのに、と心の中で叫んだ人もいただろう。

    デップが消えたとしても、映画が救われるわけではない。でも、少しマシにはなる。ライトなファンならば、『黒い魔法使いの誕生』はおもしろかった、ダンブルドア一家の展開が今後楽しみだ、と言うかもしれない。たとえ、年齢設定に無理があるとしても、マクゴナガルのカメオ出演がよかったと言うかもしれない。

    ただ、長年のガチファンにとって、本作はシリーズ全体の不安の種でしかない。今後、どうしようもないほど世界が崩れてしまうのではと、心配になってしまう存在なのだ。

    『黒い魔法使いの誕生』で、「魔法ワールド」のフランチャイズは、ストーリーを練り上げることの大切さを忘れてしまった。キャラクターの動機も不鮮明で、シリーズ最大の強みである重厚なストーリーもない。『ハリー・ポッター』シリーズという強固に積み上げられた世界すら、壊すことができるほどの破壊力を持っている。

    「魔法ワールド」という世界を自滅してしまうなら、じゃあ『ファンタスティック・ビースト』シリーズの意義はなんぞや、と問わずにはいられない。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:soko / 編集:BuzzFeed Japan