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23歳で命を絶った娘。父は悔やむ。「私のような過ちは犯さないで」

男性には、23年前に自ら命を絶ったレズビアンの娘がいた。娘を救えなかった後悔から、政治を変えようと声を上げる。

2017年12月、アラバマ州ミッドランドシティ。ネイサン・マティスは板張りのだだっ広い建物の前に一人で立っていた。

アラバマ州は上院補欠選挙を前にした選挙戦の最中で、この日、共和党のロイ・ムーア候補が同町で支持者集会を開いていた。赤いウインドブレーカーを着込み、農業保険会社のロゴが入った緑色のキャップをかぶったマティスは、プラカードと、バスケットボールの黄色いユニフォームを着た娘パティ・スーの写真を手にしている。パティ・スーはレズビアンで、1995年に23歳でみずから命を絶った。

セキュリティを通り抜けるため、プラカードはたたんで、書いた文字が見えないようにした。プラカードにはこう書いた。「ロイ・ムーア判事は、私の娘パティ・スーが同性愛者なのを理由に倒錯者だと呼んだ。32歳だったロイ・ムーアは14歳から17歳の複数の10代少女と交際していた。つまり彼は最悪の部類の倒錯者である。ロイ・ムーアに投票しないようお願いします」

会場の建物は、表通りから離れ、松の木が立ち並ぶ明かりのない道を400メートルほど進んだところにあった。中では近所の人たちがロイ・ムーアに声援を送っている。アラバマ州の上院補欠選挙で共和党候補として出馬したムーアは判事だった。

これまで、離婚したレズビアンの母親が自由に子どもに会う権利を認めない決定を下し、「同性愛行為」を違法とするよう求めたこともある。今回の補欠選挙はジェフ・セッションズが上院議員から司法長官になったために行われ、投票日は翌日に迫っていた。マティスの5メートルほど先で、トランプ大統領の首席戦略官だったスティーブ・バノンが報道陣に向けて話している。

「頭を殴りつけられるんじゃないかと不安でした」。数ヶ月後、マティスはえび色のピックアップトラックの運転席でそう振り返った。私たちは一緒にアラバマ州南部を走っていた。周囲には135日間の栽培シーズンが始まって間もないピーナッツ畑が広がり、緑の葉が茂っている。近くにある陸軍訓練施設のヘリコプターが頭上を行き交う。

ムーア候補の集会に駆けつけたマティスは、危うく遅れるところだった。最初に問い合わせた印刷店から、プラカードの印刷を断られたからだ。一緒に行くと言ってくれた友人の口添えで何とか用意でき、ぎりぎりで間に合った。そうして20キロ余り離れたミッドランドシティへ車を走らせ、馬用トレーラーの会社や、片手で足りないほどの数の教会を通り過ぎ、会場の建物へついた。集まった人々がドナルド・トランプの等身大パネルと一緒に写真に納まっている。

マティスは75歳、ピーナッツ農家を引退し、以前は共和党の州議会議員も務めた。生まれ故郷のミッドランドシティは人口2344人。耐久性の高い丈夫な草、ワイヤグラス(ギョウギシバ)が自生したことから「ワイヤグラス地域」(アラバマ州南東部、ジョージア州南西部、フロリダ州北西部を指す)と呼ばれた一帯に位置する。ワイヤグラスはウズラやウサギなどの小動物を敵から守っていたが、長年の耕作で今はあまり残っていない。

集会場の前に20分ほどいたところで、会場の所有者から出て行くように言われた。だが、抗議するマティスの姿はまたたくまにネット上に広がった。会場では報道陣に囲まれ、3日後にはロサンゼルスへ呼ばれて、人気TVホスト、エレン・デジェネレスの番組に出演した。選挙は2パーセント未満の僅差でジョーンズ候補の得票率が上回り、アラバマ州では25年ぶりに上院議員選挙で民主党候補が勝利した。

「あの日、家に帰ったときは、自分が何かいいことをしたとは思っていませんでした」とマティスは言う。だが、マティスの元には感謝を記した手紙が山のように届いた。国外からのものもあった。「全部で2000か3000通でしょうか」

普段は辛辣なLGBT界隈の私のニュースフィードも、泣き顔の絵文字と、エレンの番組で話すマティスの動画であふれた。マティスはあの夜、攻撃されるかもしれないのを承知の上で、娘のために立ち上がるという勇気ある行動をとったのだ。

彼の行動が際立っていたのは、この世代の白人ストレート男性ではめずらしくLGBTの権利を守ろうと声をあげた点だけではない。みずからの悲しみを具体的な連帯に変え、身体を張ってLGBTの権利を訴えたことが稀であり、強い説得力をもって訴えかけてくるのだ。

あの日、同じワイヤグラス地域出身のレーン・クレモンス(29)もムーア候補に反対し、TVドラマ「侍女の物語」風の衣装をまとった人々と別の場所で抗議行動を起こしていた。マティスの抗議行動について知ったのは翌日になってからだった。この数ヶ月間、民主党のジョーンズ候補の選挙運動に加わってきた。寄付で集まった20枚の赤いテーブルクロスを赤いマントにして、ムーア候補に対する抗議行動の参加者に配った。「彼の行動について知ったとき、胸を引き裂かれるような思いがしました」とクレモンスは話す。

ジョーンズ候補を勝利に導いたのはマティスではない。功績は実に98パーセントにおよぶ黒人女性が共和党のムーア候補に票を投じなかったこと、そして全国レベルで巻き起こった声の力にあるといえる。

だが、LGBTの子をもち、みずからは異性愛者で自分の性に違和感のない親が、LGBTの権利を守ろうと宣言し実際に立ち上がるという事例をマティスはLGBTの人々に示したのだ。

今、このことはとりわけ重要な意味がある。LGBTの殺人率は上昇傾向にあり、暴力を受けることなく安心して公共の場にいられる基本的な人権は侵されつつある。7月に最高裁のアンソニー・ケネディ判事が退任して以来、LGBT擁護の流れは失速しかねない。

米国人の9割近くが個人的に同性愛者やトランスジェンダーの人を知っていると答えている一方、反LGBT法は今も全米規模で議会を通過している。

カンザス、オクラホマ両州では今年、養子縁組機関がLGBTカップルへの養子斡旋を拒否できる法案を可決した。連邦議会上院も同様の法改正に向けて動いている。また、ミシシッピ、フロリダ両州では前会期中、LGBT保護に関する計11件の法案が不成立となった。そして今、差別的な法を推し進める動きを牽引するのがマイク・ペンス副大統領だ。インディアナ州知事だったペンスは2016年、前年に類似法を提案して国レベルの反発を受けたにもかかわらず、さらに6件の反LGBT法案を提出した。

数字は簡単には揃わないようだ。有権者は身近にLGBTがいても、反LGBT法を推す政治家を選んでいる。

マティスは昨年、そんな流れを変えようとした一人だった。

私はアラバマに彼を訪ね、75歳の彼を動かしたものは何だったのか、また彼の行動に乗じてLGBTの子をもつ親たちを政治運動に駆り立てようとした人々はいなかったのかを知りたかった。そうした動きを支持する全米レベルの動きは見当たらなかった。しかし、みずからはストレートながら、アメリカ南部を次世代のLGBTが生きやすい場所にするために身を削り行動する親たちの姿があった。

南部はトランスジェンダーに優しい医師を探すのが難しく、学校では教師が性教育の場で「同性愛を助長」してはいけないとされる土地だ。地域でみずから道を切り開くべく声をあげるLGBTには「もっと進歩的な土地へ出て行けばいい」と疎外する者もいるが、反ムーアの抗議行動を起こした先述のクレモンスのように、そうした声にあらがう物言うLGBTにも会った。

アラバマ州ハンツビルで6月中旬、LGBTQのイベント「テネシー・バレー・ロケット・シティ・プライド」が行われた。レズビアンのペットショップ店主がレインボーカラーの犬用おもちゃを配り、政治団体「アメリカ民主社会主義者」北アラバマ支部が虹色のバラ形バッジを掲げる。マティスは日陰で簡易チェアの背にもたれ、10代から20代の若者中心の陽気な参加者たちと言葉を交わしていた。

LGBTを支持する教会「アンリミテッド・ミニストリーズ」(Unlimited Ministries)の中心的存在である女性牧師、マッジ・アトキンソンが、初めてLGBTの祭典に参加するマティスを案内する。日ざしが照りつける屋外での1日に備え、アトキンソンは水やコーラを入れたクーラーボックスを持参していた。50ほどのブースが立ち並ぶ会場にはオープンマイクが用意され、言いたいことがあれば誰でも数百人の観客に向かって意見を述べられる。

ハンツビルにあるグリッサム高校の団体「ゲイ・ストレート・アライアンス」(GSA)は一つずつ色を塗った木製の小さな旗を用意した。旗はパンセクシャル、バイセクシャル、レズビアン、アロマンティック(恋愛感情をもたない)といったそれぞれの指向を表しているという。作業はリリー・ボトムリー(17)の家でやった。ブースの手伝いもした母親のラーキン・ライスは、子どもたちを家に受け入れられてとてもうれしかった、と話す。

マティスの行動を知って心を動かされたのは、彼がたどった大きな変化だという。「それだけ衝撃的な経験を経て考えが変わったと聞いて、胸がつぶれる思いでした」。そう言って言葉を詰まらせる。

反ムーアを訴えた選挙戦を終えてから、マティスは政治について語るよりも、ありのままの子どもを受け入れてほしいと親たちに伝えることを重視している。

「子どもや孫がゲイだというみなさん、どうか私のような過ちを犯さないでください」。ハンツビルのプライドイベントで虹色のリップスティックをつけてレインボーフラッグをまとい、レディー・ガガに合わせて踊る彼らは、今もさまざまな苦悩を抱えている。

「お母さんにカミングアウトしたとき、まっさきに『この先あなたにはずっと失望し続けると思う』と言われて、かけられた言葉は実質ほぼそれだけでした」と振り返るのは、初めてプライドイベントに参加していたキャス・マーティン(21)だ。

日よけの簡易テントの下へ入り、話を続けた。娘がグリッサム高校GSAに所属しているモニク・ヘバートが乗せて連れてきてくれなければ、ここへ来ることはかなわなかったという。

グリッサム高校GSAのブースで近くにいたヘバートは、マーティンをここへ連れてくるのは大切なことだと思った、と語る。「実際にここへ来て、サポートが存在することを知った方がいいですから」。芝生のステージの裏に日が沈むころ、マーティンはドラァグクイーンの下着の下に1ドル札を入れるため、うきうきした様子で列に並んでいた。

この日、レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、ジェンダーフルイド(性別が流動的な状態であること)の若者たちがいくつもの輪を作ってテントの下に集まり、すぐ隣で売っているカラフルなアイスキャンデーをなめる姿があった。みな、親との間に抱えている葛藤について積極的に私に話してくれた。彼らのほとんどが、親は参加していなかった。

細いストラップの白のタンクトップにタトゥーチョーカーをつけたレンス・ハリバートンは、母親がゲイを嫌悪する発言をするのを目の当たりにし、父親にはカミングアウトしていない。両親はいずれもLGBTの権利を訴える活動には加わっていない。もしそんな日がきたら、「最高にすばらしいと思う」と言う。「何であれ何か行動すれば親にとって大きな一歩になります」

ハリバートンの友人シャナ・スミス(24)は、母親とは一緒にTV番組「ル・ポールのドラァグ・レース」を見るが、父親は「いつもゲイをジョークのネタにして中傷している」という。父親は娘のセクシュアリティをしかたなく受け入れてはいるが、他人のそれは一切受けつけない。

LGBTの若者が家庭で受ける扱いについては期待値が低い。家族からの抑圧は今もごく普通にあるからだ。スミスの父親のように、受け入れている親でも、自分の子をサポートするのにとどまる。家から追い出しはしないが、わが子の権利を制限するような政治家に反対の声をあげることもない。

「母親に対してこうしてほしい、という期待は低いです」と話すのは26歳のジャスミン・マッキントッシュ。レインボーカラーのサングラスをかけ、Instagramに載せる写真を会場で撮っていた。ハンツビルのLGBTコミュニティを求めて、最近アンリミテッド・ミニストリーズに加わったところだ。「もし母が一緒にここに来て、LGBTの権利保護を応援してくれたりしたら胸がいっぱいですね」

アラバマ州南部の低湿地では、動くものがあればすぐに羽虫の群れが現れて取り囲む。2015年、ここにマティスの娘の名をつけたパティ・スー湖という湖ができた。4月から7月にはブリームやサンフィッシュ、なまずが釣れる。近くの水辺にいたワニたちが水面にさざなみを立てながら、幹の細い木々の間を通って湖へやってくる。機能的とはいえない1艘の船が湖畔の家の前にとめてあり、マティスは妻のスーと二人で週末の大半をここで過ごす。

マティスはよく話す。いわゆる男らしさをよしとする南部気質の中では、受け入れられる弱さの形の一つである。アラバマ州モンゴメリーから車で南へ向かう道中、マティスはゆっくりとした口調で、表面的な会話ではなく、実際に起きた話を一つまた一つと語っていった。

フットボールの人気選手が子どもと車に乗っていて交通事故にあい死んだ話。女性がワニに食べられて、あとでワニを解剖したら腕が出てきた話。少女二人が車のトランクの中から遺体で発見され、犯人が見つかっていない話。マティスの話には共通して死が出てくる。自身が二人の子を相次いで失っていることと関係があるのかもしれない。

パティ・スーの兄ジョーイも、2004年に薬物の過剰摂取で命を落としている。パティ・スーの死から10年近く後のことだ。

「話せるようになるまでには時間がかかったよ」。湖畔の家のダイニングテーブルでマティスはそう言った。エアコンがフル稼働している。話しながらグラスをあおった。「生きようが死のうがどうでもいい、そんな時期がしばらく続いた」

やがて2010年、湖の建設を始めた。70エーカーにおよぶ人造湖を完成させるのに5年かかった。身体を動かすことで癒されていった。今は、機会があれば会話の中で娘の話題にふれる。途中、地元の食堂に立ち寄ったときもそうだった。昼の休憩中だった疲れた料理人たちを湖に誘い、そのあとで揚げたオクラにゆでた青菜の食事をいただいた。「気持ちを押し込めておくことはできないね」

もう一つ、弱さを表に出してよい場がある。日曜の教会で演壇に立って話をするときだ。

マティスもアラバマ州マディソンでアンリミテッド・ミニストリーズの集会に参加し、話をした。マティスにLGBTの権利について話をしてほしいと依頼したアトキンソン牧師は、当日が父の日なのを忘れていた。

アンリミテッド・ミニストリーズは拠点となる場所を探しているところで、それまではハンツビル郊外にあるホテルの広間で礼拝を行っている。ホテルの入口に教会の場所を示す案内がなかったので、中で朝食の準備をしているスタッフにたずねてみた。この廊下の奥ですよ、とにこやかに答えが返ってきて、教会の名前が「アラバマ・スーパーゲイ教会」でなく「アンリミテッド」でよかった、と安堵している自分に気づいた。

実際、ゲイのための教会というわけではない。LGBT当事者ではない人も大勢いた。5カ月の赤ちゃんがいる女性は、近くの別の教会で反同性愛の発言を聞くのが耐えられなかったという。自身の母親が同性婚をしているからだ。アンリミテッド・ミニストリーズは1年前にアトキンソン牧師が立ち上げた。地元の別の教会に通っていたが、他の同性愛者とともに、集会に出るのはいいが人々を主導する立場に着かせることはできないと言われたのがきっかけだった。受け入れがたいと考えたアトキンソンは、みずから毎週礼拝を行う場を立ち上げ、25人ほどの信者が集まった。

長身の牧師は暖かく迎えてくれ、経験を重ねた人がもつ自信を身にまとい、会衆の前に立った。水色のシャツを着て青いアコースティックギターを弾き、地元アラバマらしいアクセントで心地よいインディゴ・ガールズのメロディを披露した。妻のナタリー・ジョンソンがカメラを用意し、マティスが説教壇に立つ集会をFacebook Liveでライブ中継する。「みんな、ファストフード店のドライブスルーで仕事をしながら見たりするんです」

集まった人たちはマティスの話を待っていた。マティスは自分の過ちも率直に話した。「娘が同性愛者だと知ったとき、ひどい言葉を投げつけたことを深く後悔しています。パティは何も間違っていなかったと今はわかります。間違っていたのは私なんです」。

マティスはピリピ人への手紙2章12節からルカによる福音書6章27節まで、聖書から17カ所におよぶ引用を紹介した。ここにいる誰もが、町の教会の席を埋める親たちや、同性婚がなぜ違法なのかを熱心に説く牧師からさんざん聞かされてきた、「同性愛は悪である」という声に反論する根拠となる箇所だ。

父なる神の愛を称える「Good, Good Father」をアトキンソン牧師が歌うと、涙をぬぐう人も少なくなかった。私自身、これほどまでに慈悲深く父の愛を歌った歌は聴いたことがなかった。数週間後にアンリミテッドが執り行う初の結婚式をパートナーの男性と挙げるというブラッド・プルーフは、マティスの存在に深い敬意を覚えたと話す。「昨日は彼のまわりをうろうろしてくっついていましたよ。父親にするみたいに。神はすばらしい形で彼を遣わしました」

サラ・ダン(35)は毎週日曜、1年前に性転換した夫のエリオット・スティーガルと共にアンリミテッドへやってくる。フロリダのナイトクラブ銃乱射事件から2年になるのに合わせ、黒のネイルにレインボーの水玉をあしらった。ダンはストレートの夫と離婚する際にカミングアウトし、二人の子の養育権を失った。「クレイジーなレズビアン、という言葉が法廷を飛び交いました」と振り返る。集会が終わり、集まった人たちが会場の椅子を集め、キーボードを片付けている。ダンは今も子どもたちと泊りがけで会うことを許されず、数日前に7歳の誕生日を迎えた子とも面会のときにお祝いをしただけだった。ダンも現夫のスティーガルも「地獄を経験してきた」という。

それでも、ダンは希望をもっていた。「今、アラバマには熱い動きがあります」。昨年の上院補欠選でダンはスティーガルと一緒に民主党のジョーンズ候補を応援するボランティアに加わり、ダンは貧困や差別の解消を訴える運動「プア・ピープルズ・キャンペーン」(Poor People’s Campaign)にも参加した。アンリミテッドに集う人々は、常に家族の理解や応援に恵まれたわけではない。選挙戦でマティスが立ち上がったあとに起きた一連のうねりは、彼らにとって希望の光だった。性転換する前から引越会社に勤めるスティーガルはこの日、教会へ来るためにボタンダウンシャツとタイで決めてきた。礼拝後、ホテルの廊下でマティスの話についてこう感想を述べた。「自分の祖父からこんな話を聞けたらよかったなと思いました」

わが子が同性愛者やトランスジェンダーとわかったとき、家族が味方について擁護する側に立つのが理想的だ。実際、すぐにそう移行する親もいる。民主党を支援する団体「インビジブル」(Invisible)ハンツビル支部のメンバー、リン・スターンズもその一人だ。スターンズは今年初めてみずからプライドイベントに足を運び、他のボランティア仲間と一緒にナッシュビルから来る息子を待っていた。

スターンズは右派の両親のもとで育ったが、自身を「赤い集団の中の青い点」だと評する。5年前、息子がカミングアウトしたとき、「自分が行動を起こすアクティビストだとは思っていなかったけれど、あの日からそうなった」と振り返る。補欠選でジョーンズ候補が勝利したのを受け、次はLGBT支援を掲げる地元の議員候補の応援にボランティアとして加わることを決めた。

LGBTを理解、支援するアライを組織化する本格的な動きはないが、支援者の投票行動は実際にLGBTコミュニティにも影響を与えている。LGBT支援者に向けた全米規模の非営利団体でもっともよく知られるPFLAGでは、現状を変えようと動いている。PFLAGは積極的行動主義に根ざし、1973年に「Federation of Parents and Friends of Lesbians and Gays」(レズビアンとゲイの親と友人のための連盟)としてスタートした。創立者ジャンヌ・マンフォードのゲイの息子が、抗議行動後に襲われて病院へ運ばれたのがきっかけだった。

マンフォードはニューヨーク・ポスト紙の編集者あてに手紙を書き、息子が暴力を受けている間も介入せずに見ていた警察を批判した。また、第3回目となるその年のニューヨーク・プライド・マーチに参加し、息子とともに行進した。さらに、ウェストビレッジの教会で親同士が連帯するグループを立ち上げた。それから45年、彼女が立ち上げたPFLAGは、LGBTが平等に扱われる社会を目指し「支援、教育、擁護」に力を入れている。

マティスがムーア候補への抗議行動に立ったことが全国ニュースで流れたとき、PFLAG本部のスタッフは私と同様、畏敬の念をもって見つめていたという。ワシントンDCの本部で広報担当のディレクターを務めるリズ・オーウェンは「彼がまだPFLAGのメンバーでないのなら加わってもらわなくては、と思いました」と振り返る。だがPFLAGの側からは誰も連絡をとらなかった。

結局、あるジャーナリストがマティスをPFLAGのバーミンガム支部に紹介した。PFLAGメンバーの半分強はLGBTの「親や友人」ではなく自身がLGBT当事者だ。ハンツビル支部の支部長で自身もゲイのニック・ウィルボーンによると、同支部のメンバーにも、親にどうカミングアウトするかについて助言を求めるLGBT当事者が多いという。

現在、PFLAGにはアラバマ州の9カ所を含め全米で400を超える支部があり、細やかで手厚い活動が行き届かなくなっている。公式サイトでは政治家に要望を伝える際に必要な情報や、支援者向けの案内などが手に入るが、本部では積極的に企画してまとめるというよりも、サポートを求める要望に応える形が多い。「私たちはくっついて細かく世話を焼くわけではありません」。PFLAG本部で擁護、政策、パートナーシップ関係をとりまとめるディエゴ・サンチェスはそう話す。

PFLAGのメンバーが公の場で証言した、メディアの編集者あてに書簡を送った、あるいは州議会を訪れたといった例がどれくらいあるのか、サンチェスは把握できていないという。こうした事例を把握するだけの資金や人員を集める力が足りないからだ。

事実、全国規模でみるとPFLAGは過去2年間、支出が収入を上回っており、3月には就任からわずか半年の事務局長を資金調達責任者と併せて退任させている。

広報担当のオーウェンは解雇劇についてはコメントを避け、次のように述べるにとどめた。「PFLAGは力があり成果をあげています。これからも継続して活動を続け、私たちが目指す多様性があり広く人々を受け入れる世界を作っていきます」

マティスがムーア候補に対する抗議行動をとったのは、個人的な強い思いに突き動かされたからで、擁護団体とつながりがあったからではない。ただ、LGBTの子をもつ親の多くは、彼のように生来の度胸や政治意識を持ち合わせているわけではない。また、本来彼らをサポートするためにある全国規模の組織から、十分な政治的支援を得ているわけでもない。さらには、LGBTのわが子のために声をあげれば、社会的に孤立するおそれもある。

マティスは地域の人々がどのくらい自分の主張に反対したのか、明確に知っていた。「近所の人たちは10対1に近い割合で共和党のムーア候補に投票してますよ」

とはいえ、そうしたリスクは、LGBT当事者が地方の小さな町で暮らす苦労とくらべれば取るに足りないものだ。

アラバマ州ドーサンのPFLAG支部メンバー、ハンク・ミラーは80年代にゲイであることをカミングアウトした。仲間とファストフード店へ行けばゲイだからという理由で利用を断られ、男性同士が一緒に部屋を借りることもできなかった時代だ。「ケガをして縫ったことも何度かありました」。マティスの娘パティ・スーがみずから身を引く道を選んだのは、こうした環境だった。

マティスは生前の娘との関係について抱いてきた罪の意識とも戦ってきた。「娘と私は関係を修復しました。心の底からそう信じています。それでも、私が間違ったことをしたのは確かです」

アンリミテッド・ミニストリーズで話をした際、マティスは娘がノートのページに手書きのブロック体で書いた詩を紹介した。自分をわかってもらおうと娘が父親に渡した詩には、こう書かれている。「私がこうなのは、パパとママがいい親ではなかったらからではない/私が私なのは、パパが他の何者でもない自分自身でいなさいと教えてくれたから/パパを愛してる。そして愛とは負けずに踏みとどまること」

一方、親が政治的アクションを起こすことに偽善めいたものを感じる当事者もいる。それに先立って、同性愛を嫌悪する裏切りといえる行為が家族にあった場合はなおさらだ。

ドーソン出身でレズビアンのローラ・ビンフォード(24)は、マティスの行動を手放しで称える気にはなれなかった。彼が生前の娘に対してひどい態度をとっていたとうわさに聞いたからだ。「単純に『ネイサン・マティスすごい!』とはいかないですね」。ドーソンに1軒だけあるコーヒー店で、ビンフォードはそう言った。ただ、マティスの勇気はすばらしいし、他の親にもぜひ断固とした態度をとってほしいと考えている、という。「同性愛者の人たちのことは大好きだ、と話してるだけでは何も変わりませんから」

トランスジェンダーの7歳の娘がいるジャスティン・ヴェストの場合、LGBTの権利のために行動することは「自分たちの家族を再生する機会」だという。彼のように未成年者のLGBTの子をもつ親にとっては、地元アラバマを彼らが生きやすい場所にするのは人ごとではなく、高い関心がある。娘は一家がメリーランド州に住んでいたとき、社会生活上の性別を変えている。ヴェストと妻は娘が学校でのびのびと過ごせるよう、支援活動に参加している。

私はモンテバロの町に一家を訪ねた。郊外型の家族向け一軒家は、緑の多い通りに立ち並ぶ他の家と特に変わらない。だが中へ入ると、壁を飾るシェパード・フェアリーのポスターや「フェミニスト・ドライブ」と書かれた通り名の標識が目に入る。「Destroy the gender binary」(ジェンダーの二文化をぶち壊せ)と書かれたTシャツを着たヴェストに話を聞いた。ヴェストは自分たちのような親の役割ははっきりしている、と述べる。

「うちの子が外に出たときに、社会を変えるために戦わなくてはいけなかったり、トランスジェンダーの権利獲得のシンボル的な存在になったりしてほしくはないんです。それはどこかフェアでない気がするので」

彼の膝の上では、おしゃぶりをくわえた下の子が何かつぶやいている。ヴェストは「ホームタウン・アクション」(Hometown Action)というグループを立ち上げた。アラバマ州の農村地域の医療や教育問題などに取り組む組織だ。

主要都市バーミンガムのすぐ南に位置するモンテバロは大学町で、今年4月、2年におよぶ論争を経て、LGBTの差別を禁じる条例を可決した。同様の条例は州で2例目となる。2017年9月、バーミンガムでも可決されたが、施行に必要な委員会の立ち上げは今年2月になってもされなかった。

小さな町は「誰もが生きられ、受け入れられ、いきいきと暮らせて成功するチャンスのある場所でなくては」とヴェストは言う。トランスジェンダーの娘もそこに含まれるが、同時に彼のような親も含まれていなくてはいけない。ヴェスト自身、生活の中で窮屈なジェンダー規範にしばられていると感じる場面があるという。

7歳の娘が差別禁止条例の重みを理解しているかはわからない。それに、娘には反トランスジェンダーの声にはできるだけ接することなく過ごしてほしいとヴェストは思う。それでも、娘は行動する父の姿勢を感じ取っている。私が家を訪ねた日、彼女は父の日に贈る絵を描いていた。トランスジェンダーを表す青、ピンク、白のフラッグを描き、下にはこう添えてあった。「パパが胸をはってわたしのパパでいてくれてうれしい」。「proud」の太文字は青、ピンク、白で塗られている。

親が一緒に立ち上がってくれるかどうかに関係なく、アラバマのLGBTたちは「安心して過ごしたければ生まれ育った町を離れた方がいい」という声に抵抗している。他の地域ではもう少し法が整備されていて、LGBTの権利を守ってくれるかもしれないが、うわべだけの「寛容」がその下にある偏狭な意識を隠してしまうこともある。ディープサウスと呼ばれる南部での挑戦は、弱さが受け入れられる他の土地とは対照的に、変化に深く身を投じることにもなる。

「ここを自分のホームだと言うことについては、抵抗に近いものすらあります」。23歳のダナ・スウィーニーはそう言った。同じホームタウン・アクションのボランティア仲間の2人、ヴィック(29)とトラヴィス(33)と彼の3人に私が会ったのはモンゴメリーにあるヴィックの自宅で、蒸し暑い日曜の夜だった。補欠選では3人とも民主党のジョーンズ候補の支援活動に加わったが、マティスの抗議行動を知っていたのはスウィーニーだけだった。ムーア候補の集会に現れたマティスの姿に、「袋いっぱいのレンガ」で殴られたような衝撃を受けた、という。

アトランタで週末を過ごして帰ってきたところだというスウィーニーは、活動家グレース・リー・ボッグズの言葉がプリントされたマグカップをヴィックに見せた。「私がとったもっとも革新的な行動は同じ場所にとどまったこと」とある。バスルームの鏡には「魔法はあなたの生得権」とマーカーで走り書きがされている。スウィーニーは友人のトラヴィスと、最近逮捕されたときの話をした。

「率直にいえば、アラバマはまだまだ遅れてるよ」とトラヴィスは言った。体格のいい黒人で、イラクに派遣された元兵士。「No Justice, No Peace」と書かれたTシャツを着ている。自分がバイセクシャルであることは「ほんの5歳くらいのとき」から感じていたが、19歳で母親にカミングアウトしたところ信じてもらえず、今に至るまでそうだという。5月、妊娠中絶を扱う病院へ入っていく女性を傘でかばったところ、中絶反対の白人活動家から嫌がらせだと訴えられ、12時間にわたって留置場に入れられた。スウィーニーは白人で、プア・ピープルズ・キャンペーンの活動で交通の邪魔をしたとして、ヴィックの祖母と一緒に留置場で3時間過ごした。行動を起こすときは、生まれ育った家の家族であれ、大人になってみずから選んだ家族であれ、ともに一歩踏み出せる相手と一緒に動いている。

ヴィックはロイヤルブルーのペンシルスカートをはき、口紅を完璧に引いて、膝の上にネコをのせている。左肩にアラバマをかたどったタトゥーがのぞく。「自己中心的な話なんです。自分がここでいい人生を送りたいから」

スウィーニーは細身でキース・ヘリング似、細いメタルフレームのめがねをかけている。家族にカミングアウトしたのは2016年の大統領選後。感謝祭のときに「僕はみんなが思ってるみたいにストレートじゃないんだ!」と宣言した。その後、地元ジョージア州の上院議員が同性カップルの養子縁組を禁じる法案を提出したのを受け、地元紙の編集者あてに投稿し、同州南西部にある地元の町全体に向けてカミングアウトしたのだった。母親は始めこそ、息子の安全を考えてセクシュアリティを外で話すのはやめるよう伝えたが、翌週にはみずから同じ新聞に手紙を送り、息子を支持する意志を示し、同性カップルに差別的な議員に投票しないよう読者に呼びかけた。

この日私がヴィックの家で会った面々は、家々を訪ねて支持を訴え、テレバンキングで寄付を募り、州議会の議事堂で自撮りに興じる。何ごとも恐れない大胆さと現実主義の両方を備えている。「自分たちに選択肢はないですよ。もっとよくする必要があるし、ひとりでによくなるわけではないですから」とスウィーニーは言う。

6月18日、パティ・スー湖の湖畔の家で、スー・マティスは20人分のピーチアイスクリームを用意した。PFLAGドーサン支部のメンバーが集まって、夫ネイサンの勇気を表彰するためにやって来ていた。メンバーはLGBT当事者やLGBTの子をもつ親、協力的な地元市民などの集まりで、基本的には政治的なアクションよりも支援や交流に力を入れている。熱意あふれる全国組織としてのPFLAGは揺らいでいるとしても、地方の各支部は今も有用な情報を発信している。

アマンダ・バイナムにとって、ドーサン支部はずっとありがたい存在だった。通い始めた当初、バイナムは集会のたびにずっと泣いていた。20歳の息子、K.B.がトランスジェンダーであるとカミングアウトすると、所属していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会の指導者たちは、バイナムが教会で幼児向けに教えている教室を今後K.B.に手伝わせるのはやめてほしいと告げた。バイナムは信仰のコミュニティを失った。K.B.も友人たちはすべて去っていったと言うが、今はPFLAGの集まりに毎回参加している。

集まったメンバーが南部料理のプルドポークにコールスロー、ピーナッツバター・パイを楽しむうちに、湖の上の空は暮れていった。表彰を受けたマティスは、立派な箱に収めた聖書のCDセット一式を支部長のサム・マドックスに贈った。

町のナイトクラブが閉まっていたので2次会へは繰り出さなかった。代わりに、夕闇に包まれた湖の前のデッキで、補欠選でムーア候補に反対する「侍女の物語」風の抗議行動を率いたレーン・クレモンスを囲んだ。ここでは、シトロネラのろうそくも羽虫を追い払うにはほとんど役に立たない。

ヒューストンから移ってきたリズベス・アッシュは、この日の集まりのために、PFLAGの飾り文字をあしらったケーキを差し入れた。アッシュは80年代、夫の患者たちがエイズと戦うのを見てきた。ドーサン支部のメンバー歴は長いが、自身はストレートのため、LGBTの権利について意見を述べるのをためらうときもある。それでもここの集まりが大好きだ。「私にはあの声はありません。あのストーリーは語れません」。デッキチェアの上でそう言った。

それでも、すでに自分のやり方で支援の声をあげている。店でケーキを買ったとき、店員にデコレーションの文字の意味を聞かれた。アッシュはPFLAGについて説明し、LGBTの権利擁護団体「ヒューマンライツ・キャンペーン」の名刺を取り出して渡した。店員たちは興味深そうに聞いていた。

クレモンスが口をはさむ。「気づいていないかもしれないけど、そういうのがすごく意味があるんですよ」。前の夜、クレモンスは父親をFacebookでブロックしたところだった。数週間前、立派な闘士だった祖母が肝不全で亡くなった。「われわれには支援が必要です。それを自分たちの手でやっているんです」


この記事は英語から翻訳されました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan