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多くのセクハラ告発を受け、謝罪する男性たち。私はまだ謝罪を受け入れる準備ができていない

さまざまなセクハラ告発に対して、男性が公に謝罪している。謝罪されることとは疲れることだ。許しを与えるほうが、許しを請うよりも努力が必要だから。

数年前に、これまで私に虐待的行動をとってきた男性たちに何を望むか、と聞かれたら、たぶん多くの女性がそうだと思うが、「ただ謝ってほしいだけ」と答えていただろう。私が長年求めてきたのは、過去に私を苦しめた男性と、いまだに私を苦しめている男性の両方に謝罪してもらうことだけだった。それに、私が求めていたのは、個別の謝罪というよりは、私を苦しめた男性や虐待した男性が実質的な影響を受けずに社会的に成功できるような文化自体に謝罪してほしいということだった。

これまで、虐待したり攻撃したりしてきた男性や、職場でパワハラをしてきた男性、一部始終を目撃しながら何も言わずに私を見捨てた男性から、謝罪はおろか、自分が間違っていたと認めてもらったことは一度もない。だからこれまでは、謝ってもらえさえすれば、少しでも状況は改善すると思っていた。相手にどういう意志があったかを私が気にしていたかすら、よくわからない。ただ、謝罪の言葉を聞く必要があった。ごくわずかでも内省に駆り立てることができたという証拠が必要だった。しかし2017年10月、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題が公になり、セクハラや性的暴行について告発する風潮が一般的になった今は、事情が違う。

この3カ月間に、私たちの多くは、これまでの生涯に聞いたよりも多くの謝罪を耳にした。米大物俳優のケヴィン・スペイシーは、当時10代の子役少年に対する性的不品行の告発を受けて謝罪したが、話題逸らしという印象を与えるかたちでのカミングアウトに発展し、長年噂されていたゲイ疑惑を事実と認めた。ジョージ・H・B・ブッシュ(父ブッシュ)元米大統領も、女優ヘザー・リンドへの痴漢行為を謝罪したが、その後、冗談でしたことだと述べた。著名シェフのマリオ・バターリは、複数のセクハラ疑惑に対して、すぐに事実と認めて謝罪したものの、最後に「ピザ生地使用のシナモンロール」のレシピを添付してしくじった。2017年、加害男性たちによって台無しにされたものは数あるが、シナモンロールまでそのリストに入るとは思っていなかった。

著名司会者のチャーリー・ローズも、ニューヨーク・タイムズ紙のホワイトハウス担当記者グレン・スラッシュも、映画会社ディズニーとアニメ会社ピクサーのアニメ総責任者ジョン・ラセターも、米上院の有力議員アル・フランケンも謝罪し、米人気ドラマ「トランスペアレント」主演のジェフリー・タンバーも、謝罪といえるものを行った。大物俳優のダスティン・ホフマンは、少なくとも、英コメディアンのジョン・オリバーと公開トークショーの場でセクハラ疑惑について口論するまでは、謝罪していた。今や、自分の過去の行為についてすべての女性に謝罪する男性を目にすることなしに、街角を曲がれないくらいだ。

だが、この「悪い男性たちによる謝罪シーズン」で目にした最悪な謝罪は、「悪い男性」の元祖であるハーヴェイ・ワインスタイン自身のものだった。複数のセクハラや暴行、レイプ疑惑を受けて行った過失の曖昧な自認は、許しをろくに請わないという点で名人級だった(つまり、当時は改善できるような手本が周りになかった、と理論武装したのだ)。「私が成人した60年代、70年代は、職場での行動に関するルールがすべて、今とは異なっていた。当時はそれが文化だった」。1ページにわたる声明で、彼はその後、自分が間違った行動を取ってきたこと、自身の蛮行について告発した女性たちにただの一度も直接対応していないことを認めた。治療を受けたいと述べ、ラッパーのジェイ・Zの歌詞を間違って引用し、女性ディレクターのための奨学金に大枚をはたき、全米ライフル協会(NRA)について語り、それらすべてを彼の母親の話で締めくくった。とことんうんざりするような内容だ。

それと真逆なのが、コメディアンで俳優のルイス・C・Kの謝罪だった。彼も長年、不穏な噂の的だったが、5人の女性がセクハラを受けたと名乗り出て、ようやく、噂が事実だと確認された。彼の謝罪は間違いなく、セクハラ問題をめぐってこれまで目にした中でいちばん進化したものであったため、最も受けが良かった(それでもまだ、波紋を呼んだ)。おそらくは、彼が常に、はっきりとものを言い、たとえ独演のときだけでも、自分の欠点を認めるのがうまかったからだろう。

彼は、セクハラをした相手の女性たちに直接呼びかけ、「これらの話が事実」であることや、コメディ界での力と立場を利用して、その影響力を恐れる女性たちにつけ込んだことを認め、しばらく自粛することを約束した。たしかに、彼は実際には謝罪の言葉を述べなかったが、声明では深く悔いているように見えた。いずれにしても、私たちが謝罪に求めているのは、そういう気持ちなのではないだろうか? すぐに報われたり和解したりできないのなら、そこから引き出せるのは、相手が今後はもっと良い行いをするという希望がせいぜいだ。

有名男性が何か悪い行いをして、それが公になる場合には、決まったプロセスを経る。責任を負わされていなかった特権階級の男性の不品行に人々は憤慨し、その男性はお詫び行脚を開始する。こうしたお詫び行脚は、効果的な場合もある(DVや人種差別発言で物議を醸した俳優メル・ギブソンは、今は社会から許されているように思われる)。しかし、それほど効果がない場合もあったり(ワインスタインは、自身の名を冠した映画会社ワインスタイン・カンパニーを解雇された)、無様だったり、謝罪がまったく不足していたりする場合もある。だが、多くのケースでは、公の場で名誉回復する手段は、ただ単に謝罪することだ。謝罪した男性は最終的に苦境から逃れ、私たちは彼らに怒りを感じなくなった(ドナルド・J・トランプ大統領は、性的不品行について多くの告発を受けた後も、ほとんど謝罪せずに米大統領選に勝った。1年以上経ってもまだ、女性達は責任を取らせよう取り組んでいる。大統領は自分に影響が及ばなかったので、10代との性的不品行で告発された政治家候補を支持するのが妥当だと考えた)。

だが、こうした謝罪行脚のサイクルが、本当の意味で満足のいくものである場合はまれだ。告発者には社会的影響があったのに、虐待者に真の影響があることはめったにないので、なおさらだ。女性は、男性が悪いことをした場合に、ただそれを認めさせようと長い時間を費やしてきた(公になったどの疑惑でも、たいてい、話を聞いてもらおうと何年も努力してきた女性が数え切れないほどいることを思い出してほしい)。そして今、あまり影響のない謝罪を過剰に受けている。俳優のベン・アフレックは、全国テレビで女性の体を触ったことを謝罪した。ヒップホップ界の大物ラッセル・シモンズは11月末に「平謝り」した後、自分はけっして暴力的な人間ではなく、「(告発者の)その晩の記憶は、私の記憶とかなり異なる」と言い添えた(その後、さらに多くの女性からレイプとセクハラを告発されている)。そうした謝罪が次々と行われている。

謝罪してほしいと思ってはいたが、それは、これほど多くの謝罪を受けるのがどういう感じなのか知る前だ。また、影響力のある有名な男性が謝罪するのを見れば、もっと不適切で取るに足りない男性も、震え上がって謝罪すると思っていた。たしかにある程度はそうなっている(公の場で報いを受けるのを男性がこれほど恐れているのをこれまで目にしたことは一度もない。私は喜んでそうした不安を煽ろうと思う)が、期待していたほどの満足感を与えるものではない。私が働く業界では、かなりの数の知り合いの男性が、職場で不適切な態度を取ったと自覚している相手の女性に対して、予防線を張りながら接し始め、不愉快な思いをさせた場合に備えて、念のため謝るようになった。知り合いの女性の中には、謝罪をありがたく思った者もいるが、大半は、消え失せてほしいと思っているだけだった。

問題は、許すことは、ただ単に許しを請うよりも大変であることだ。真の償いや、壊したものを本当に直そうとする試みは、ほとんどの女性にとって、目には見えない努力を伴う。謝罪はおおむねパフォーマンスだ。ここ数カ月間に女性が受けた謝罪は、女性にとって重荷になり、男性にとっては、責任から解放される道筋になってきた。謝罪したから、今度はそっちの番、というわけだ。

何年も前なら、間違ったことをした男性が謝罪したら、それでよしとしていただろう。ふがいない言い訳でも受け入れ、それで終わりだったろう。今は、謝罪を受ける側には、副作用がある。自分自身の怒りや不満だけでなく、他の誰かの後悔や困惑、苦痛を処理するよう求められている気分になるのだ。もっと多くの感情を処理するべきだと聞こえる。

ほとんどの場合、私が求めているのが言葉であることはめったになく、見たり聞いたりできるものでもない。バーや、職場で開かれたパーティー、機内、レストランで、一人にしておいてほしいと思う。私は人々に、人々の人生に関わる他の男性たちに対して、こんな振る舞いは許されないと言ってほしい。そうした男性を解雇し、友達づきあいを止め、私がその場にいようといまいと、パーティーに招待しないでほしい。行動不足に気づいてほしい。不作法なことを言ったり、触ったりしないように頼まないですむことが、どれほどまれなことか。女性が自分たちの身の安全を守るために、何も言わずに毎日行っている見えない努力を、人々にもしてほしい。しかも、そうした努力は機械的に行なわれており、ほかの人には気づかれない。私がほぼ絶え間なく体験している不快な思いを、1日に5分間でいいから、味わってほしい。始める前に自分を抑えてほしい。過去にさかのぼってもっと良い人間であってほしい。

これほど長い間、謝罪を求めてきた私たちが、謝罪を受けている今、それをこき下ろしている――鼻であしらい、もっと謝罪を求めている――のは不当に思えるかもしれない。だが、この3カ月の日々が私に何かを教えてくれたとすれば、それは、謝罪されたからといって、それを受け入れる必要はないということだ。


男性が自分の行動について責任を取らされるたびに、人々は、それが大きな変化の前触れなのだろうかと思う。ワインスタインに対する告発は、男性が女性をもう虐待できない新たな世界秩序の兆しだったのだろうか? 私はまだ確信が持てない(なにしろ、大統領が大統領だ)。だが少なくとも、告発された者がそれに応じて使用する言葉には変化が見られる。

ティーンだった頃、私は頑固者の父とよくけんかした。私の服装や髪型、父や私の口調をめぐる些細ないざこざがエスカレートして、3日間にわたる激しい口論に発展した。最初は無視することで互いに折り合いをつけるが、やがて、私には簡単に思えることを、父に懇願するようになる。「俺が悪かった、ぐらいは言ってよ!」。けんかを終わらせるのに必要なのはそれだけだ、と私は思う。だが、父は平然としたまま。私は突然泣き出し、階段を駆け上がって、自分の寝室のドアをぴしゃりと閉める。しばらくすると、母が私の気を静めるために部屋に入ってきて、「あのね、お父さんはどうやって謝ったらいいのかわからないのよ」と言う。

今は、男性たちが常に私に謝っている。会議で私の話を遮ったことや、飲み過ぎたこと、近すぎる距離で呼吸したこと、私に十分な金を払っていないこと、私に金を払うとまったく申し出なかったこと、地下鉄の3人掛けの座席で足を広げたことで謝ってくる。過去にしたことや、(彼らの大半は覚えてすらいないので)過去にしていたかもしれないことを謝ってくる。他の者がしたことを償えばご褒美をもらえるかのように、他の男性の行動について謝ってくる。このエッセイを読んで、もっと多くのことで私に謝ってくるだろう。

そうしたこと自体が、私を怒らせる。おそらくそれは自分が、女性として、有色人種の女性として、話さずにはいられない有色人種の女性として、ほぼずっと謝罪し続け、謝罪するのがかなりうまくなっているからだろう。メールを頻繁に送りすぎることや、人に不快感を与えたこと、十分なスピードや熱心さで働いていないことについて、私は謝罪する。謝罪するのが当然かどうかにかかわらず、常に何かのことで謝っている。謝ることを期待されている。謝らないと、いっしょに働くのが難しい人間だとか、嫌な女だと見なされたり、人を見下しているとか傲慢だと思われる。それに、たくさん謝っているので、それがどれほど容易なことか知っている。「ごめんなさい」と言うのに、堅固な道義心が大いに必要だとあなたは思うだろうか? 謝るのは重労働ではない。大事なのは、謝罪後の努力だ。

だが私は、ここで取り上げた男性達が、謝罪後に実際に何もしないのではと、まだ疑っている。気を配ったり意識したりせず、他の男性達に同様の行動をするよう呼びかけることはなく、これから行動を改めることもないだろう。私に対して今謝罪している男性は、何であれ同じことをまた繰り返すだろう。彼らにとって、「ごめん」という言葉は、何らかのかたちで過去を帳消しにするものだから。こうした男性が本当に求めているのは、解放されることだ。

数々のセクハラ疑惑が公になる前の昨年の春先に、私は『A Better Man』というドキュメンタリー映画を観た。この映画では、アッティヤーという女性が、20年以上前の18歳のときに絶った身体的・精神的虐待関係を振り返っていた。虐待が双方にどういう影響を与えたのか、10代の頃のスティーブとの関係が、何年も経ってもまだどういう影響を与えていたのか、容赦なく徹底的に検証していた。ドキュメンタリーの大部分は、セラピストとの個人セッションとアッティヤーとの会話で、特にスティーブに焦点を当てていた。虐待の多くが行われた、当時同居していた古いアパートを見に行きさえした。このテーマに果敢に取り組み、落ち着かない気分にさせる1時間半のドキュメンタリーのなかで、スティーブは、愛する者にしたことを認めるよう何度も迫られ、終始一貫、償いをしようとする。結局のところ、それが彼にできるせめてものことだ。

だが、『A Better Man』でのスティーブの答えは、けっして大いに満足できるものではなかった。野蛮な出来事を完全に思い出すことはなく、どうすればそうしたことを忘れられるのか想像できないくらいだった(カッとなって、割れたガラスの破片の上を引きずったときのことを、相手の元彼女が覚えているのに、なぜ本人が思い出せないのか?)。アッティヤーが、両手で首を絞められ、このまま死ぬのだと思ったこと、スティーブも誰かに同じことをされたに違いないと考えたことについて話すと、カウンセラーがその出来事を覚えているか尋ねた。スティーブは、ごくりと唾を飲み、「今は思い出せる」と答えた。見るからに落ち着かない様子で泣いており、自分自身の行動に傷ついているように見えた。彼はアッティヤーのせいにせず、過去の虐待に対峙させられて、自分に対する非難を受け入れた。そして、明瞭な締めくくり方ではなかったが、『A Better Man』はカタルシスと満足感を大いに与える作品だと私は思った。(そもそもスティーブは、自分の行為を正当化しようがないだろう)

この映画は、虐待や許しがテーマになった、他のどの物語も行っていないことを行っている。スティーブから謝罪を受けることには関心をもたず、代わりに、アッティヤーを追っているのだ。彼女は、スティーブが自分の過去の行いに完全に向き合えるかどうかわからないまま生きていく。謝罪が十分かどうか、スティーブが許されるかといった疑問が残ることはない。唯一の真の疑問は、そんなことをした理由をスティーブが理解しているかどうか、彼が再び同じことをするかどうか、同じパターンを繰り返す別の男性を止められるかどうかだ。

長く待たれてきた謝罪が大量に行われている現在、それを受ける女性たちは、それらが受け入れられる謝罪かどうか、自分の心を癒すのに役立つかどうか、判断できる存在であってほしい。私は『A Better Man』を3回観た。あたかも、その画面のなかに私自身にとってのモンスターがいて、それに対する許しを探そうとするかのように。あるいは、私が謝罪を求めているものを明確にしようとするかのように。だが、求めていたものはそこになかった。重要ではないからだ。誰かを罪から解放する準備が自分にできているのかどうか、私にはわからない。観るたびに、映画のラストまで、スティーブが自分の罪から解放されないことにホッとしている。

2017年は、ある種の内省を伴って終わるべきだということはわかっている。こうした「悪い男性」を再び受け入れるのかどうか、あるいは、受け入れる場合にはいつそうすべきなのか、どういう努力がまだ必要なのか、といった内省だ。

表面的にいえば、この1年は、求めていたものをたくさん手に入れた年だったことはわかっている。虐待を行っていた力のある男性が失脚し、多くの女性が長い間知っていたことを認めたのだ。だが私は、沈黙を破った2017年を、より多くを得られなかったという不満や、セクハラの議論におけるこうした変化が、あれほど多くの女性によるたくさんの努力が必要だったことへの不満と共に終える。間違っているのかもしれないが、私は謝罪を受け入れる準備ができていない。謝罪を受け入れること。それがそんなたやすいものであってほしくない。これ以上の努力はしたくないのだ。

この記事は英語から翻訳されました。

翻訳:矢倉美登里、合原弘子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan


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