23年におよぶ刑務所での日々が終わり、自由の身となったロベルト・アルモドバルさんは、背筋を伸ばし顔を上げて歩きだした。そしてアルモドバルさん同様、同じ警官によって嘘の殺人罪を押しつけられた5人の男性に迎えられ、互いに抱き合ったときも、姿勢を崩さなかった。だがあの1着のドレスを目にしたとき、アルモドバルさんは抑えきれず泣き崩れた。

釈放後、おばのメアリーさんの家に戻り、テレビニュースの取材陣や訪ねてくる人の波が途切れ、これからの新たな人生を立て直していこうとしていたとき、娘のジャスミンさんを写した1枚の写真が出てきた。逮捕されたときはまだ赤ちゃんだったジャスミンさんに、長年のあいだずっと会いたいと願ってきた。いま、20代になったジャスミンさんはソファで隣に座り、携帯電話に目を落としている。写真の中の彼女は2歳で、きらきらしたよそゆきのドレスを着ている。

「そのドレス、まだとってあるよ」。おばのメアリーさんはそう言うと、クローゼットからドレスを引っぱり出してきた。

アルモドバルさんは金のふちどりがされた襟元と小さな金のリボンにそっと触れた。すると、すべてが瞬時に押し寄せてきた。失われた多くのもの。初めて歩いた日や初めて学校へ行った日など、娘が成長とともに経験してきたあらゆる初めての瞬間。そばにいない父親の代わりに学校へ迎えに行ってくれた多くの人の存在。

うなだれ、涙した。

1994年8月31日の夜、アルモドバルさんは高校卒業資格を取るために通っていた学校での授業を終え、メアリーさんの家へ帰ってきた。そこで恋人と派手なけんかになった。大きな声での言い合いが夜遅くまで続き、隣家の住人も起きてきたほどだった。そのため、近所で発砲があったときも、銃声はかき消されて聞こえなかった。

その発砲で、通りの角にある家の玄関先に座っていた2人が殺された。

目撃者に容疑者を見せ、自分が見た人物かをたずねる警察の「面通し」で、2人の目撃者がアルモドバルさんを犯人だと答えた。うち1人はその後、主任捜査官に圧力をかけられたと証言している。アルモドバルさんを犯人だとする証拠は、この目撃者の話以外になかった。アリバイがあり、発砲があった時間はおばの家にいたと隣家の住人が証言したにもかかわらず、アルモドバルさんは2人を殺害した罪で逮捕された。陪審は有罪の評決を出し、仮釈放のない終身刑を宣告した。

おばのメアリー・ロドリゲスさんは、同じくおばのグラディス・ラミレスさん、イリス・モヒカさんとともに、アルモドバルさんの無実の罪を晴らそうと23年間戦ってきた。何か突破口はないかと夜遅くまでダイニングテーブルで情報を集め、手続きにかかる費用をまかなうため一家の家を抵当に入れた。やがて、近所の人々の協力も得て、メアリーさんたちはある事実に行き当たる。アルモドバルさんの件を担当したレイナルド・ゲバラ主任捜査官が、関わった多数の案件で不正な行為があったと訴えられていることがわかったのだ。無実の罪をでっちあげられたと訴える人は50人以上にのぼった。

2017年4月、BuzzFeed Newsがゲバラ捜査官に対する申し立ての詳細を報じた10日後、検察側はアルモドバルさんに対する起訴を取り下げた。アルモドバルさんが上告を予定していた日の前日だった。アルモドバルさんはクック郡刑務所の門をくぐり、自由の身となった。娘のジャスミンさんは護衛官のわきを走り抜けて父親に駆け寄り、抱きしめた。

大勢の友人や家族がアルモドバルさんを迎え、その様子をメディアが群がってカメラに収めるなか、5人の男性が脇の木陰でじっと見守っていた。自分たちの会に新たなメンバーを迎えるためだった。誰も望んで入りたくなどない会だ。ゲバラ捜査官によって刑務所に送られ、のちに無罪となって釈放された人々の会だった。全員を合わせると、犯してもいない殺人の罪で100年を超える年月が奪われたことになる。

笑顔と涙の入り混じった表情でアルモドバルさんがこちらへ向かって歩いてきたとき、5人はその表情に覚えがあった。5人もそれぞれ同じ瞬間を経験し、同じ喜びをかみしめたのだ。だが、刑務所の外に出たからといって、簡単に自由になれたとはいえないこともわかっていた。

うつ、不安、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、怒り。これらが5人を見えないつながりで結びつけ、それぞれの過去と結びつけていた。塀の外の社会での暮らしを取り戻そうとするにあたって、経済面、仕事面、個人的な面でそれぞれ苦しんできた。ゲバラ捜査官のした行為は、自分たちが想像した以上に暗く長い影を落としていたのだ。

アンヘル・“ジェイビー”・ロドリゲスさんは、ゲバラ捜査官による不正な逮捕ののち、早いうちに無罪が認められた一人だ。4年近くを獄中で過ごし、2000年に釈放された。無罪が証明されたにもかかわらず、身辺調査をされると、でっち上げの殺人罪の件を今でもたずねられる。他の被害者と同様、履歴書にできた長いブランクをうまく説明できず、仕事を転々とせざるを得ない。

ファン・ジョンソンさんは、釈放後は家のカーテンを閉め切り、ドアには鍵をかけ、ベッドの上でそっと寄り添ってくる幼い孫から「ねえおじいちゃん、どうしていつもそんなに悲しそうなの?」と聞かれる生活を送っている。面通しの際にゲバラ捜査官が複数の目撃者に対し、ジョンソンさんを見たと言うようと命じていたことを連邦陪審が認め、2100万ドルの賠償金を支払う決定が下された(金額はのちに1640万ドルに修正され確定)。だが、お金はジョンソンさんが普通の生活に戻る助けにはほとんどなっていない。むしろ、そのせいで余計に孤立は深まり、他の人の意向や申し出を疑う気持ちが消えなくなったという。

ジャック・リベラさんが釈放されたのは、面通しでゲバラ捜査官からリベラさんを選ぶよう指示された、と12歳の目撃者が証言したのを受けてだった。リベラさんに襲われたと言ったとされる被害者は、当時、昏睡状態にあったことが医療記録からわかっている。6年前の話だ。リベラさんは今も不安の中で生活している。家の玄関を開けるときは、振り返って何度も周囲を確認せずにいられない。警官があとをつけてきていないか不安なのだ。買いものをしたときのレシートは靴の箱やスーパーの袋に入れて大量にとってある。自分がいつどこにいたか、証明するよう求められたときのために。「ガソリンスタンドで『領収書が必要な方は店内スタッフへ』とあれば、店の中まで行ってもらってきます」

「僕にあった唯一の支援プログラムは家族でした。家族がいなければ僕は終わっていた。通りで物乞いをしてたと思う」

1年前に釈放されたホセ・モンタネスさんにとって、無罪になって釈放されるということは、大好きなシカゴカブスの応援にリグレー・フィールドへ行けるということだった。でも実際に行ってみると、観戦にやってきた大勢の人がひしめきあっている場所は、23年にわたって周囲を警戒して生きてきたモンタネスさんには耐えがたかった。結果、パニック発作を起こし、球場をあとにせざるを得なかった。

モンタネスさんと同時に釈放されたアルマンド・セラーノさんは、無実が認められたといっても、通りや食料品店や母親の家で立ちつくしてこう思うだけだという。「自分は普通じゃないんだと感じています。今すぐにでも何か悪いことが降りかかってくるんじゃないかって。今でも刑務所にいるような気分です」

刑期を終えて出てきた人は、就職先のあっせんや住居探しの手助け、カウンセリングなど、各種支援サービスが受けられる。だが無罪が認められて出てきた人の場合はまれだ。刑務所に入れられていた年月によって決められた額が行政から支給されるが、それ以外は自分で何とかやっていく道を探すことになる。

「僕にあった唯一の支援プログラムは家族でした」とアルモドバルさんは言う。「家族がいなければ、僕は終わっていた。通りで物乞いをしてたと思う」。イリノイ州法に基づいて受け取れる予定の20万ドル近くがまだ支払われていない。担当弁護士のジェニファー・ボンジーンさんは、アルモドバルさんが被った苦痛について、シカゴ市に対し連邦民事訴訟を起こす準備を進めている。

メアリーさんは自宅の地下を住める状態に整え、アルモドバルさんがお金を貯めて自立できるまで暮らせるよう寝室を用意した。もちろんそれは助かる。それでも、アメリカで生活するにあたってもっとも基本的な必要条件さえ、満たすのは想像以上に難しい。

自動車免許などを扱う公的機関へIDカードの取得に行ったとき、アルモドバルさんが持っていったのは出生証明書と、トップ紙面で自身の釈放を伝える4月15日付のシカゴ・トリビューン紙だけだった。応対した職員は、それでは足りないという。

「電気代とか水道代の請求書は?」ありません。

「ケーブルテレビとか?給与明細は?」ないです。

IDがなければ、公的支援を申し込むこともできないし、日々の生活でもあちこちで支障がある。それまで罪人としてアルモドバルさんのありとあらゆる行動を制限してきた州政府が、今度は無実の人間であることを何ひとつ証明してくれない。「厳しいです。この状態はどうにかしないと」

仕事を見つけるのはさらに難しい。無実が証明され釈放されたといっても、アルモドバルさんが2年に満たない仕事経験しかない42歳だという事実は変わらない。潔白を認めて雇ってくれる雇い主も、彼がまだ抱えている傷を不安に思うだろう。

おばのメアリーさんの話によると、「友人」の一人が、アルモドバルさんが再出発にあたってもう一度学校へ行こうかと思っている、と話すのを聞きつけた。その人はオンラインで学位がとれるキリスト教系カレッジで学生の募集を担当していた。そしてアルモドバルさんの許可もないまま勝手に登録をしたという。メールもほとんど使ったことのないアルモドバルさんはいきなり学生として登録され、クライシス・カウンセリングのコースを履修することになり、6000ドルの学生ローンを背負った。

コースの要件を読んでいたアルモドバルさんは眉をひそめた。聞いたことのない言葉が目に入った。「Eブック?」不審そうにつぶやいた。

「彼がこうしたあらゆることに免疫がないのを向こうは知ってるわけです」とメアリーさんは言う。「であれば、どうしてこんなことをするんでしょう? 手を差し伸べるべきであって、利用するなんてことがあってはいけません」

いらだちを感じながら、アルモドバルさんはノートパソコンを閉じた。「とにかく落第はしたくないんだ」

身なりにはいつも気をつかってきた。逮捕される前、アルモドバルさんはよく、ガラスなどに自分の姿が映ると見ずにいられないみたいだね、と家族にからかわれていた。だが今ではそれも単に格好をつけたいからではない。髪をきっちり完璧に分け、ぴったり合ったセーターを着ることで、内面で感じている動揺をいくらか隠せるのだ。

ロースクールでイベントに招かれたときも、まずシャツとネクタイを新調するためにディスカウント衣料店へ行った。が、試着室に入ってかすかなゴムの匂いを嗅ぎとると、収容されていたステイトビル刑務所の受刑者受入れセンターを思い出した。トイレには排泄物がこびりつき、ネズミが駆け回っていたような場所だった。不安がわきあがってきた。「ここにはいられない」そう自分に言い聞かせ、出口へと急いだ。

メアリーさんは、何気ないちょっとした瞬間にアルモドバルさんが抱える痛みを感じ取っている。例えばメアリーさんが話しかけていると、じっと周囲を見つめ、様子を探るようにしながら、もうないはずの脅威を確かめようとしていたりする。

二人で話しているとき、メアリーさんはときおり、自分でも信じられずにいる気持ちと向き合うことがある。そう、彼は帰ってきたんだ、と自分に言い聞かせる。「本当に帰ってきたんだ」。ときには、その現実がやや苦い形で突きつけられることもある。以前はいつでも丁寧な物腰だったアルモドバルさんが、昔よりぶっきらぼうになったのに気づいた。「刑務所では直接的に言わないといけないんだ」。アルモドバルさんはそう説明した。「誤解されないためにね」

「でも私たちは受刑者じゃないでしょう」メアリーさんは答えた。

娘に携帯電話の使いかたを手ほどきしてもらったが、電話をしてもたいていは留守番電話につながるだけだ

おばのグラディスさんは、最近あったパーティの場で、甥が抱えるストレスを垣間見た。グラディスさんが部屋の奥のほうで友人と近況を話しあっていたところに、アルモドバルさんが会場へやってきた。知らない人ばかりの中をかきわけて歩きながら、一人ひとり見知らぬ顔を目にするうち、アルモドバルさんは不安がわきあがってきた。「なんで入口のところにいてくれなかったんだよ?」グラディスさんにそう言った。これまで、お菓子工場で時間外勤務をこなし、住める状態ではなかった父親の家の地下へ移って、甥のために必要な費用を貯めてきたグラディスさんはぴしゃりと言い返した。「あんた、そんな大声を出さなくてもいいでしょ」。それからしばらく経ったが、あのときの怒りはグラディスさんにわかってもらえていないと思う、とアルモドバルさんは言う。今でも、知らない顔ばかりの場所にいると怖くなることがあるのだ。不安とパニックに襲われる。「誰がどう攻撃してくるかわからないから」

23年におよぶ獄中生活のあいだ、アルモドバルさんは塀の中で見聞きした恐ろしいできごとをおばたちの耳に入れないよう努めてきた。そして今、家族だけで静かに過ごす時間があると、ふとしたときにそうした真実を漏らすことがあった。受刑者同士のケンカで片方が相手の目をくり抜いた話も、メアリーさんたちは初めて聞いた。まもなく刑期を終えようというある受刑者の話も聞いた。「自分は他の受刑者を誰でもいいから絶対一人殺す」と宣言した別の男がいて、本当にやるかどうか見てやろうという理由で、護衛官が二人を同じ部屋に入れた。結果、男は本当に手を下したという。

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BuzzFeed News

23年間を刑務所で過ごし、釈放されたアルモドバルさん

一方で、うれしいこともあった。家族と友人の招待でシカゴカブスのプレーオフを2試合観戦し、シカゴの有名なスタジアム、ソルジャー・フィールドで初めてコンサートに行った。初めて飛行機に乗り、ニューヨークで初の休暇を過ごした。

「不安と恐れに向き合って、乗り越えようとしています。人生を楽しむだけ。多くの人がただあわただしく物事に追われているだけに見えます。小さなことを楽しむ時間を大事にしていない」

失ったものを取り戻そうとどんなに努力しても、23年の年月が失われたことに変わりはない

ただ、拘束されている間に失ったものを取り戻そうとどんなに努力しても、23年の年月が失われたことに変わりはない。何よりつらいのは、娘のジャスミンさんにとっても23年ぶんの時間が失われたことだ。

釈放された日、初めて家のソファで食事をする父親の隣にジャスミンさんは座った。これから二人で一緒にこんなこともあんなこともしよう、と話した。人気の店でホットドッグを食べよう。パパは自転車の乗りかたを教えて。私はパソコンの使いかたを教えてあげる。ハロウィンではバットマンの仮装をしよう。パパがジョーカーで私がハーレイ・クインになる。

ひと月後に開いた「おかえりなさいパーティ」で、ジャスミンさんはサプライズを用意し、それまでの人生で節目になった大切なできごとを再現してみせた。高校卒業のときのプロムのドレスをまとって現れ、父親と初めて一緒にダンスをした。それから卒業式のガウンに着替え、「Daddy’s Home」の曲に合わせて踊った。だがそんな夢のような時間が終わって現実に返ると、ジャスミンさんはやはりもう23歳で、自分の人生があった。仕事があり、友人がいて、恋人もいる。父親はそこには入れない。メアリーさんは言う。「今はあなたが娘の予定に合わせなくちゃいけないの」。ジャスミンさんに携帯電話の使いかたを手ほどきしてもらったが、電話をしてもたいていは留守番電話につながるだけだ。

ひと月に一度は、同じく無実の罪で投獄された仲間が集まり、夕食をともにしたりボウリングをしたりして、つながりを深めている。それができなくても、同じようにゲバラ捜査官によって無実の罪に問われたと訴える人の裁判には必ず出向き、顔を合わせる。

2017年11月、2件の殺人罪を押し付けられたと訴えるホセ・メイソネットさんの審問が開かれ、同じ被害にあってすでに釈放された何人かが駆け付け、傍聴した。担当だったゲバラ捜査官と他の警官が捜査についての証言を拒んだことから、検察側は起訴を取り下げ、メイソネットさんは27年ぶりに釈放された。法廷の階段を下りたアルモドバルさんは、7か月と1日前の自分と同じように、また一人、長い月日を過ごした刑務所を出て自由の身となる彼を見つめた。

そこにはあの同じ表情があった。笑顔と涙が入り混じる。法廷を出るメイソネットさんを前に、これからぶつかるであろう困難と、適応していかなくてはいけない道のりに思いをはせた。でも、彼には差し伸べられる支援の手もある。少なくとも、同じ経験をした自分たち仲間の会がある。

やがて、みなそれぞれ家路についた。日が沈み、空気が冷たくなってきたので、アルモドバルさんは上着の前を閉め、襟を立てた。メアリーさんと一緒に車まで歩き、家へ向かう。受講中のオンラインコースを片づけなくてはいけないし、そろそろ仕事探しを始めなければ。帰る途中、ジャスミンさんに電話をしようかと思ったが、やめておいた。娘の邪魔をしたくなかったから。


この記事は英語から翻訳されました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan