プリンスは闘った。「自分の音楽」を追い求めるために。

    「私はミュージシャンで、音楽を作っている」

    ポップミュージックの歴史に名を刻んだプリンスが21日、57歳で死去した。

    20を超えるアルバムとともに、プリンスが残したもう一つの遺産がある。大手レーベルから独立する動きの先陣を切ったことだ。

    インターネットが普及した現在、アーティストが大手レーベルの力を借りずに、自分の音楽を発表するのは珍しくない。Jay Zは、サブスクリプション・モデルのストリーミング・サービス「Tidal」で楽曲を提供している。レディオヘッドも、ユーザーが自分の好きな額を支払う仕組みを「In Rainbows」発売時にとった。

    しかし、インターネット以前の時代、アーティストがたくさんのファンを獲得しメジャーになるためには、大手のレコード会社と契約するしかなかった。それは時には、アーティストが自分の作りたい楽曲やイメージを、会社側の意向に合わせて曲げなければならないことを意味する。

    プリンスは、所属していたワーナー・ブラザーズと意見が合わず、悩んでいた。1993年、両者の対立は頂点に達した。プリンスの伝記には、ワーナーがプリンスという名前の著作権を所有することになっていることに、腹を立てていた、と書かれている。その名前は、母親が付けたものだ。

    抗議の意味をこめて、プリンスは、自分の名前を発音できない記号に変えた。男性(♂)と女性(♀)の記号と、ラッパを思わせる記号をくみあわせたものだ。メディアは彼のことを「The Artist Formerly Known as Prince(元プリンス)」と呼んだ。

    ワーナーとの契約上、プリンスは複数のアルバムをリリースしなくてはならなかった。契約を早く終わらせるため、プリンスはすでにレコーディング済みの音源を使い、ハイペースでリリースし始めた。ワーナーは、プリンスが市場を飽和させていると考え、ペースをスローダウンさせようとした。

    ワーナーとプリンスの対立は法廷にも持ち込まれた。プリンスはステージ上でも顔に「SLAVE(奴隷)」と書いて登場した。レーベルから解放されるためのアピールだと彼は言った。

    裁判沙汰になったことで、プリンスのレコード売上は激減した。1984年の「パープル・レイン」は1300万枚売れたのに、1995年の「The Gold Experience」は50万枚だった。

    ワーナーとの契約が切れた2000年、名前をプリンスに戻した。

    その時の記者会見で、プリンスはこう語った。

    「間にいる人間たちが、消費者が何を受け取るかをコントロールしている限り、この状況は変わらない。この問題は別に複雑でもなんでもない。解決するのは簡単だ。パン屋にパンを作らせればいいのだ。私はミュージシャンで、音楽を作っている」

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    訂正

    「In Rainbows」を「In Raindows」と表記しておりました。訂正いたします。