命がけで逃亡するLGBTのシリア難民が体験したこと

    中東のLGBT難民が、イスラム教過激派や性的暴行、殺害の脅迫を逃れ、トルコに押し寄せている。しかし、そこで彼らの多くは絶望淵に追い込まれている。

    シリアのダマスカス。街外れのバス停で、Mがバスを待っていると、武装集団が車を止め、彼女に車に乗るよう命じた。

    フレームの太いメガネをかけ、髪を耳の上で切り揃えていたMの姿は、人目に付いた。大部分が敬虔な市民で占めるこの地域では、ほとんどの女性がヘッドスカーフを身につけているからだ。2014年7月のあの日、彼女は標的となった。

    「お前はヘッドスカーフをしていない。それに、なぜお前の髪は短いんだ?」男たちはMの顔を平手打ちし、後頭部を殴りつけながら、彼女を問い詰めた。彼らはMに、コーランの一節を暗唱し、イスラム教徒であることを証明するよう強要した。幸いなことに、彼らが選んだ一節は、Mが子どもの頃に習ったことがある部分だった。

    「お前はなぜ男の真似をしているんだ?」彼らはMを問いただした。「これでお前は死刑になるんだぞ」

    武装集団は、Mを目隠ししたままの状態で2日間拘束した。その間、近所のモスクから聞こえてくる祈りの呼びかけを数え、時を把握した。

    46歳のMが住んでいた地域は、その夏、政府軍が反乱軍をシリアの首都から追い払おうとした際に戦場となっていた。地域が包囲された時、近所の人々の多くが負傷した。代替医療で生計を立てていたMは、政府軍、反乱軍の別なく、無償で負傷者の治療にあたった。

    その時の慈善行為が、結局は彼女の命を救った。拘束されて2日目が過ぎようとする頃、彼女を捕えた男たちが「シーク」と呼ぶリーダーが、「mistarjili」(男性のように振る舞う、女性に対する罪)で、Mに死刑が下されたと言った。しかし、彼はMに、こうも言った。「よく聞きなさい。私はこの決定を押し付けるつもりはない……地域の全ての人々に聞いてまわったが、誰もが、あなたは他の人たちを助ける人だと言った」

    武装集団はMを解放した。彼女の手元に残ったのはIDカードだけで、死刑執行の猶予はごく一時的なものにすぎない、と警告された。

    「いつ殺されてもおかしくない」。シークが警告した。「すぐにこの地域から立ち去りなさい」

    「なぜおまえは男の真似をするのか?」

    自宅周辺は砲撃されていたため、彼女は15年間住み続けた小さな家には戻らなかった。代わりに友人から借金をすると、その夏の終わりにパスポートを手に入れ、すぐにトルコに向かった。

    7カ月の間、1日12時間労働を強いる闇市場の仕事で何とか食いつないだ。しかし、4月に、地元の国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所で、欧州やアメリカ合衆国のような国々に再定住する資格が、自分にあることを知った。希望がこみ上げてきた。Mは、NGOの事務所に出向き、シリアで自分の身に何が起こったかを説明した。そして朗報を知らせる電話を待ち続けた。

    6カ月が経過したが、電話が鳴ることはなかった。

    「私の夢は、私のような同性愛の女性でも人間として尊重してくれるような国で暮らすことです」と、イスタンブールでBuzzFeed Newsの取材に応えてMは語った。「やっと私の問題が解決する、と思いました……でも、それは結局、幻想だったんです」

    もしお金があれば、ルームメートが夏の始めにやったことを真似ただろう。密輸業者を雇って、ヨーロッパまでボートで運んでもらうのだ。しかし、それには2500ドルほど必要で、それは彼女には到底無理な額だった。イスタンブールでは数カ月の間、Mは仕事を見つけることができなかった。皿洗いの仕事にすら、ありつけなかった。下水の臭いが立ち込め、窓のすぐ外では麻薬の売人がはびこっているこの小さな部屋から、Mは今にも追い出されようとしている。

    この街にたどり着いた時の彼女を知る人々は、ここでの暮らしで彼女が少なくとも10歳は老け込んだと口を揃える。げっそりとした彼女の顔には、苦悩の皺が深く刻み込まれており、服は、彼女の痩せた身体を持て余すように着崩れていた。

    とうとうMは自殺行為ともとれる決断を下した。シリアに戻るチケットを買ったのだ。

    「死ぬために帰るようなものだけど、それ以外に選択肢はないでしょう?」と、Mは言った。


    この話の真偽を、独自に検証することはできない。なぜなら、反乱軍に制圧された地域で、信頼に足りる詳しい話を聞くことはほぼ不可能だからだ。またこの取材で、Mは身の安全のため、彼女の実名や居住地を伏せるよう頼んだ。しかし、彼女の話は決して珍しいものではない。昨年9月と10月に、BuzzFeed Newsでは、15人以上のLGBT難民を対象に、トルコでインタビューした。彼らは近隣諸国から、イスラム教過激派や性的暴行、家族からの殺しの脅迫などから逃れてきた。彼らの多くは、すでに複数の国から追い出されおり、近年、中東で広がりつつある反LGBTの取り締まりに巻き込まれていた。UNHCRが監督する再定住システムに対するMの失望も、非常によくある話だったのだ。

    UNHCRでは実際、LGBT難民の再定住を迅速に進めている。LGBT難民が極めて攻撃されやすい立場にあると考えているからだ。しかし、再定住システムは危険な目に遭う人々を救うには不十分なことが露呈し、依然として多くの人々を絶望に追いやっているのだ。 必死に安全を求めている難民たちの運命は、複数の政府や政府機関、NGOにまたがる官僚主義の手中にある。戦争が始まって以来、シリア人の流入によって生じた仕事量をこなすのに、これらの機関のスタッフ数は決して十分とは言えなかった。

    通常、LGBT難民たちはトルコを脱出するためのチケットを約2年待つことになる、とUNHCRトルコ事務局のセリン・ウナルは言う。彼らに資格があるかどうかをUNHCRが決定するのに1年、再定住先の国が彼らにビサを発行し、空路で入国させるのに1年かかるからだ。

    「待機期間を短縮するため、最善を尽くしているところです」と、ウナルは言うが、再定住を求める人の数をかんがみると、「この2年という期間はそれほど長くはないのです」

    「すでに再定住を果たした人達は、彼らを救出し、新しい環境で生活を築くチャンスを与えてくれたUNHCRには感謝してくれているはずです」と、彼女は付け加えた。「待機期間中の難民たちの暮らしが大変だということは承知しています……私たちは支援し援助する努力を惜しみません」

    LGBTの難民たちは「攻撃対象になりやすい」と考えられているため、2年間の待機は、他の多くの難民たちの場合と比べれば、ずっと短いという。他の難民を支援する人たちの報告によると、UNHCRは、政府機関のケースワーカーと難民の初顔合わせですら、2022年か2023年になるまで待たなければならないと伝えているという。

    しかし、待つ側にとっては、この2年は永遠のように感じられる。難民たちは一般的に労働を禁じられており、闇市場または性産業での苛酷な労働で生き延びなければならないことが多い。 彼らがどれほど、危険にさらされていると感じているかを示す1つの兆候として、この記事の取材に応えてくれた全員が、記事では自分のファーストネームかニックネームを使用するよう頼んだことが挙げられる。彼らの多く(特に街中で人目を引くトランスジェンダーの人々)は、トルコ人や、自分と同じ国から逃れてきた他の難民によるヘイトクライムの的になる、と、LGBTの人々を支援するNGOであるORAM (Organization for Refuge, Asylum and Migration) が報告している。

    UNHCRのトルコ事務局には現在、管轄内には700人のLGBTの人々がいると報告しているが、他にも、保護を求めることができることを知らずにいるか、あるいは恐ろしくてカミングアウトできていない人々が大勢いる、とORAMは確信している。2014年に、UNHCRはトルコからの難民の再定住先となる各国政府に対し、227件のLGBTの事案を検討するよう求めた。彼らのほとんどはイランからの難民だった。

    再定住のプロセスは、イラン人のLGBTの間ではよく知られている。なぜなら、彼らのほとんどには、過去数年内に同プロセスを通過した友人がいたからだ。しかし、戦争が始まってから、大挙して保護を求め始めたシリアのLGBTにとって、これは比較的新しいプロセスである。紛争前は、アサド政権が政敵に対しては容赦がなかったものの、世俗的であったため、イランのように国の当局者がLGBTの人々を見つけ出して、嫌がらせをするようなことはなかった。現在、トルコに逃れてきているLGBTの人々にとってシリアが危険な場所になった主な原因は、政権の打倒をもくろむイスラム教反乱軍が国土の大半でアサド政権の支配力を奪ったことにある。

    シリア人のLGBTは、何百万もの他のシリア人とともにトルコに到着している。いずれも、戦火から逃れるためにだ。 LGBTの人々は、攻撃にさらされやすいことから、他のシリア人が手に入れることのできない、再定住という突破口が与えられるが、理解不能で、気まぐれとしか思えないようなプロセスを、通過しなければならない。

    アメリカ合衆国(トルコから最も多くの人たちがの再定住先としてたどり着く場所)に向かう難民たちは、一般的に5つの異なる段階を経るが、各段階で新たに面接が行われる。各段階で、事態の進捗については一言も触れられずに、数カ月が経過する。彼らが寝る場所を見つけられなくても、医療の緊急事態が発生しても、あるいは暴行されることがあっても、手が差し伸べられることはほとんどない。再定住の受け入れ先は、数が少なく貴重なのだ。アメリカ合衆国は、昨年 5162人の難民 をトルコから再定住させた。その時期にアメリカ合衆国に再定住したすべての難民のうち、LGBTであることを認めたのは 100人未満 だった。

    LGBTの亡命問題に取り組んでいる支援者の多くが、UNHCRのスタッフは、できるだけ早く難民たちを亡命させたいと、心から全力で取り組んでいる、と口を揃える。しかし、ORAMのニール・グルングラスによると、そのシステム自体が「官僚主義的で、最初から非効率的だ」という。そして今、トルコに亡命を求める人の総数は200万人を越え、UNHCRのトルコ駐在スタッフは330人全員が、お手上げの状態になっている。

    「システムが機能していないのです」と、グルングラスは語る。「攻撃を受けやすい人々を、もっと早く安全なところに逃がしてやれていないのですから」

    その失敗がこうした事態を招いているのだ。

    イスタンブールは近年、安全な避難先としてますます重要になってきている。その一方で、カイロやベイルートのような都市は、LGBTの人々にとってますます危険になってきている。

    ふさふさとした顎髭をたくわえた26歳のシリア人、ネーダーは6月に、イスタンブールで開催された、今年で13回目となるプライドマーチに約100人のアラブ難民がとともに参加し、何万人もの人々と共に準備を手伝った。彼らは「アラブ世界におけるゲイの迫害を阻止しよう」「誰でも命の価値は同じだ」といったプラカードを掲げた。

    開催間際になって、 地元の役人がマーチを禁じた時には、ひどく裏切られたという気持ちになった。警察は参加者に催涙ガスやプラスチック弾、放水銃を浴びせた。(トルコのLGBT活動家たちは、これまでずっと問題なく開催されてきたイベントが、今回はなぜ中止に追いやられたのかは分からないという。しかし、今回のイベントは、イスラム教徒にとって神聖なラマダンの月と重なり、また、トルコのイスラム主義的なエルドアン大統領の率いる党が、無記名投票で敗れた直後のタイミングだった)

    「私たちは安全だと思ってたのですが、警察が攻撃してきて、人々はただそれを見ているだけでした」と、ネーダーは言った。「イスタンブールにいるのは、もう我慢の限界でした」

    ネーダーは、2014年の6月にイスタンブールにやってきてから、必死に働いてきた。アラビア語を話すLGBT難民のために、Tea and Talkという週に1度のサポートグループをスタートさせ、モロッコやイラクといった遠方の人々をも引き寄せた。彼はオマーというダマスカス出身のかわいらしい顔をした21歳の青年と恋に落ちていた。12月、イスタンブールで最も有名なゲイクラブで初めて二人が出会ってから数カ月後には同棲を始めた。二人はバレンタインデーの直前に家を建てた。

    4年の間、移動を繰り返してきたネーダーにとって、イスタンブールは最後の地となるはずだった。2011年8月、アサド政権に対する蜂起が始まった5カ月後、ネーダーは生まれ故郷の街、シリアのホムスを永遠に去ることにした。彼は、バブアルシバの近郊で、スンニ派の家庭に育った。バブアルシバは、紛争が本格的な内戦になる前は、アラウィー派のコミュニティとの宗派間の戦いの前線だった。街は2つのコミュニティの間で繰り返される殺戮によって荒廃しており、ネーダーの子供時代の友人は、スンニ派の民兵組織に引き寄せられていった。

    ある日、ネーダーは、親しい友人に連れられて大虐殺が行われたホムスの民家を見に行った。友人は彼に、アラウィー派の人々の遺体を見せてこう言った。「俺たちは復讐をしているんだ」。ネーダーは友人の変わり様に恐怖した。性的関心のせいで、暴力の矛先がやがては自分に向かうことを恐れたネーダーは、すぐにダマスカスに引っ越した。

    「昔は近所でワイルドな性生活を送ってました」

    今ではイスラム過激派組織のアル=ヌスラ戦線へと変貌を遂げた集団の一部として戦闘を繰り返している友人の何人かと、ネーダーはかつて一緒に遊び回っていた。「昔は近所でかなりワイルドな性生活を送っていました」と、彼は語った。大人になるにつれ、自分がゲイであることを隠そうともしなかった。

    ダマスカスで、アサド大統領側陣営の銃後につくと、今では反政府軍の戦士となった、かつて付き合いのある仲間に、ネーダーは電話で自分が「確実にゲイ」であることを伝えた。数日後、その友人がネーダーとの電話での会話を組織のイマームに報告したことを知った。イマームは、ネーダーの行いを放蕩だと断罪し、「イスラムのしきたりにより、彼を高い建物の屋上から突き落とすべきだ」と言い放った。

    そのため、2012年1月に、反アサド派がダマスカスの中心部の攻撃に成功した時、ネーダーはカイロに向かう計画を立てた。

    しかし、カイロもまた、安住の地ではないことが証明された。カイロで過ごした1年間は、ムスリム同胞団のモルシ大統領に就任した1年間にあたり、カイロの街で行われた大規模抗議集会では騒乱に巻き込まれ、街で2度たたきのめされたという。次に彼はヨルダンのアンマンへと向かったが、アンマンの街はアサド政府軍から逃れてきたシリアの反乱軍であふれかえっていた。中には、故郷の街ホムスで馴染みの面々もあった。

    2014年6月、そのうちの1人がネーダーに気づき、街の中心部の路上で彼を捕まえようとした。

    「お前、あのホモ野郎だな。お前を捕まえたぞ!」「お前はシリアから逃げたから安全だと思っているんだろう。俺たちはお前をめちゃめちゃにしてやる。そして殺してやる!」と、その男が叫んだことをネーダーは忘れることができない。

    男の怒鳴り声で人だかりができた。ネーダーはその騒ぎの中、何とか男を振り払うことができた。2日後、彼はイスタンブール行のチケットを買い、北米や欧州への再定住の新事例を登録するNGO、亡命者と移民の連帯協会(Association for Solidarity with Asylum Seekers and Migrants、ASAM)に向かった。

    今月の始め、ついにUNHCRから連絡があった。ノルウェーが受け入れを認めたというのだ。そうとなれば6カ月以内に移住することになるだろう。だが問題が1つだけあった。それは、恋人を独りぼっちで置き去りにすることを意味しているのだ。

    オマーの再定住の嘆願は、ASAMの人事異動で身動きが取れない状況になっているようだった。6月に登録を行ったにもかかわらず、オマーが最初に話しをした職員が、書類をUNHCRに送らないまま離職してしまったため、彼は3カ月後にもう一度、基本的に最初の面接からやり直さなければならなくなってしまったのだ(この件についてASAMにコメントを求めたが返答はなかった)。

    ネーダーのノルウェー行きが決まってから数時間後、ネーダーとオマーがBuzzFeed Newsの取材に応えてくれた。ネーダーの目は赤く、泣き腫らしていた。二人でネーダーをボートに乗せることも考えたが、ノルウェーに到着する前に、当局に拘留されることを恐れた。望みは薄いが、ブラジルに行くことさえ検討していた。ブラジルは、彼らが知る限り唯一、同性婚を認め、シリア人にビサを発給している国だという。結婚することで、ネーダーはオマーを配偶者として連れて行くことができるというわけだ。

    「彼は行ってしまう。彼にいつ会えるのかわからない」とオマーは言った。

    彼らは考え付く限り全てのことを検討しており、できることならUNHCRには絶対に頼りたくない、と言う。

    「UNHCRは信用していません」と、ネーダーは言った。

    トルコからの再定住を求める難民たちを待ち受けているのは、このお役所的なたらい回しだ。 もしすべてが問題なく進めば、の話だが。

    ほとんどの難民が最初に行うことは、ASAMに自分のこれまでについて、概略を伝えることだ。また、彼らはトルコ政府に登録することが求められている。トルコ政府は、UNHCRの再定住プロセスを遠くの「衛星都市」に割り当てており、そこで難民たちは定期的に警察署を訪れ、トルコから出国していないことを証明しなければならない(一般的には、トルコ政府が特別なステータスを与えているシリア人だけが、イスタンブールのような大都市に住むことが選択できる)。

    ASAMは適格事例をUNHCRに紹介し、難民たちは数カ月、あるいは数年の間、「事前インタビュー」に呼び出されるまで待つことになる。事前インタビューでは、自分のストーリーの詳細版を伝え、暴行された時の医療記録や、家族からの脅迫状、逮捕記録といった、話の裏付けとなる文書があれば提出する。次に、彼らはUNHCRから「インタビュー」を受ける。ここでは、自分のストーリーをさらに詳細に語ることになる。そのインタビューには丸一日かかることもあれば、2回目のインタビューが求められることもある。

    UNHCR が難民資格を与えることに決め、再定住を紹介する場合、UNHCRでは一人ひとりと短い会話をかわし、彼らが希望する再定住先を聞き取るが、その決定はほぼ完全に、彼らの選好ではなく、その時、どの国に空きがあるかに左右される。

    ほとんどの難民はアメリカ合衆国へ行くため、次にアメリカ合衆国に向かう難民の手続きを請け負う国際カトリック移民委員会のインタビューを受けることになる。その後、アメリカ国土安全保障省が派遣する「巡回公務員」がイスタンブールを訪問する際に、再びインタビューを受ける。難民たちは、ここでまた最初から自分のストーリーを語ることになるが、これは主にアメリカ合衆国の法の下、彼らに再定住の適格性があるかを確認するためである。その後、難民たちの個人情報は、他のアメリカの治安当局に送られ、敵対する軍隊への従軍歴やブラックリストに載っている集団の支援といった、ビザの受給資格をはく奪する危険因子がないかを確認する。記録に少しでも問題がある場合は、長期間保留扱いになるだろう、と支持者たちは口を揃える。

    最終的な承認が得られた場合、アメリカ合衆国の当局が彼らの再定住を扱うことに同意するまで待ち、それから国際移住機構が航空券を購入するのを待つ。難民たちが自分で早い便を見つけても、自力で渡航することは禁じられている。さらに、アメリカ合衆国に到着してから6カ月後には、正規運賃の返金を開始することが求められている。また、搭乗日の前日までに、トルコ政府から出国許可をもらわなければならない。

    「本当に大変なんです」と、NGO団体Refugee Rights Turkeyの職員、ヴェイセル・エッシズは言う。「自分の国から逃げてきて、どうにか安全な場所を見つけても、トルコにいる圧倒的大多数の難民が、永遠に不安定な状態から抜け出せないと感じているのです」

    トルコでの待機には危険が伴うこともある トルコ語をなかなか学ぶことができない人々や、他の難民たちと住まいを共有し、日々の生活を頼っているような人々は、特にそうである。明らかに同性愛者とわかる人々も、襲撃されることを心配していることが多い。

    化粧をし、仕草も女性的な34歳のイラン人、レザがBuzzFeed Newsの取材に応えてくれた。彼は、再定住を待つ間暮らしていたトルコ南東部の街、デニズリの路上で、男から頭突きされたと言う。彼はトルコに来る前、何度も殴られ、性的暴行を受け、警察に拘束されたが、今もトルコでも1人では怖くて外出できない。

    「赤い口紅をつけていたら殴られた」と、2014年12月に攻撃された時のことを語った。

    母国の人々と共に居留地で暮らしている難民たちも、自分たちが逃れてきたのと同じ種類の脅威に日常的にさらされている。

    しかし、非同性愛者として通している人々でさえも、比較的普通の生活を送ろうとすると危険にさらされる。 アーマドは、華奢な23歳のシリア人青年だ。つば付きの帽子をかぶり、シャーロック・ホームズ風のパイプをふかしている。彼はアル=ヌスラ戦線のために戦ったシリア人たちとアパートを共有することを強いられた。彼らはIS(イスラム国)がゲイを処刑していることを、面白おかしく話していた、とBuzzFeed Newsに語った。これがイスランブールにいるシリア人の同性愛者が遭遇している状況なのだ。

    アーマドは4月にイスタンブールに到着した。最初に暴行を受けたのは6月だという。アパートの建物の外で、突然シリア人の集団が彼に襲いかかってきた。明らかに、彼らはアーマドが街に中心部にある商店街でゲイの仲間たちとぶらついていたのを目撃したのだった。

    「お前たちのようなゲイが俺たちみんなに恥をかかせているんだ」

    「お友達とのお遊びは終わったのか?」と、アーマドに襲い掛かる前、彼らが言ったのを覚えている。「お前たちのようなゲイが俺たちみんなに恥をかかせているんだ」。イスタンブールにいると身の危険があることを証明するために、アーマドがASAMに提出した写真には、紫色に腫れ上がった彼の顔が写っていた。

    それから約1カ月後、彼は再度攻撃を受けた。この時には、デートの約束をした相手だと思っていた、友達の友達から襲われた。そして、今後もし同じことをすれば、その時は「こんなものでは済まない」からお前は殺されるだろう、と言われた。もしお金があれば、遭難する危険も、噂に聞く難民たちを殺して臓器を売り払う密輸業者をも恐れず、欧州行きのボートに乗り込んだだろう。

    「危険なのはわかっているけれど、でもここにいるよりましだよ」と、アーマドは言った。

    登録してから6カ月が経っていたが、UNHCRからは何の音沙汰もなかった。また、彼は何としてもドイツに行きたいのに、アメリカ合衆国に送られるのではないかという心配を募らせている。

    ドイツに行けば、「初恋の相手」を探し出せるだろうと彼は信じている。相手の名はモハメドという。

    二人は6年前にダマスカスで4カ月間付き合った。当時、アーマドは17歳だった。トルコにやって来るとき、アーマドはドライフラワーをもってきた。今ではすっかり萎れて茎と一束の草だけになっているが、それは二人が初めてセックスした日にモハメドがアーマドにくれた花束だった。しかしそれから間もなくして、アーマドは銃を突き付けられて携帯電話を盗られてしまった。モハメドの電話番号を暗記しておらず、彼の姓すら知らなかった。付き合い始めた者同士が、関係がばれることを恐れて、自分の姓をお互いに秘密にすることは珍しいことではないのだ。

    「その後は、モハメドのことを何も知らないんだ」と、アーマドは言う。

    しかし、モハメドにはドイツに住む兄弟がいたので、「戦争や難民と呼ばれる存在がなくなったら」二人でドイツまで旅行に行くことを夢見た。

    「自分の心の声が、モハメドはドイツにいると言っているから、彼を探しに行くんだ」とアーマドは言った。

    Ezeddin Fadel が本記事に貢献した。