17歳で終身刑を言い渡され、刑務所で妊娠した私がついに自由を手にするまで

    「子どもを授かった背景には、この上なく深く傷つけられる体験があったのだが、それでも息子の誕生は私の救いになった」

    *本記事は、アメリカの刑事司法に関する情報を扱うNPOメディア、マーシャル・プロジェクトと共同で発信しています。

    私はアーカンソー州テクサーカナで育った。反抗的な10代だった私は、ある少年と出会った。当時の私は自分を大切にするということを知らず、彼との未熟な恋愛に心おどらせ、はまっていった。そのため、付き合い始めてまもなく、彼が私をののしったり身体的に乱暴に扱ったりしたときも、何かと理由をつけてそれを許していた。彼の行動はすぐにエスカレートし、大声でどなりつけたり、寒い冬の日に私を外に締め出したりするようになった。同時に、私の家族にも手をあげるようになり、目の見えない父に暴力をふるうこともあった。

    あの日、彼は私の伯母の家に強盗に入ろうと持ち掛けた。私は一緒に行った。それまでの経験から、自分の身を守るためには彼を怒らせず、機嫌をとり、無条件で従うのが最善策だと学んでいたからだ。盗みは自分がやるから終わったころ迎えにくるようにと彼は言った。それから二人で町を出る計画だった。私は承諾した。これからやろうとしていることのリスクも、どんな結末に行き着くかも、10代の私には考えが及ばなかった。

    ところが、約束の時間に伯母の家へ行くと、彼は血を浴びた姿で現れた。強盗の計画は思わぬ方向へ暗転していた。彼は伯母を殺してしまったのだ。

    私は錯乱状態になった。伯母に攻撃されて頭が真っ白になってしまった、と彼は言った。傷つけた覚えもないという。自分も殺されるかもしれないと恐れた私は、彼を手伝って一緒に家を荒らした。

    翌日、私たちは逮捕され、第一級殺人罪で告発された。量刑は死刑か、仮釈放のない終身刑しかない。

    宣告されたのは終身刑だった。一生を刑務所の中で過ごすことになる。1985年、17歳のときだった。

    刑務所へ入った私は、伯母の死に対するやりきれない罪悪感と、不安にさいなまれていた。まだ子どもだった私は、絶望的に孤独だった。刑務所でもそれまでと同じく身勝手なふるまいを続け、ありとあらゆる規則に違反した。刑務所の職員に反抗し、持ち込み禁止品を持ち込んだ。あとから振り返ってみると、こうした問題行動を起こしたのは私が人として悪い人間だったからというより、非常に幼い人間だったからだといえる。あれから心理学などの研究についてたくさん学んできたが、あのころの私の脳はまだ発達しきれていなかったのだと思う。

    何よりも、私には希望がなかった。「きみは塀の中で死ぬことになる」。弁護士や刑務官を含め、まわりの大人からはそう告げられた。そのとおりなのだろうと考えた。

    1993年、同じ施設にいた女性受刑者がまとめて別の刑務所へ移された。危険だと評判の刑務所で、男女両方の収容者と刑務官がいた。1916年にできたという建物の壁には大きな穴がいくつもできていて、排泄物をなすりつけた跡が縞のように残っていた。

    担当刑務官は女性だけのはずだったが、私は刑務所内にある農場を監督する男性刑務官の下につくことになった。

    身長190センチ超、体重90キロという巨漢の刑務官とは毎日のように顔を合わせた。そして気がつくと再び言葉の暴力を浴びせられる日々が始まっていた。刑務官は私や他の受刑者をののしり、女性蔑視をあらわにした呼び名で呼んだ。

    ある日、彼が事務所に現れ、ドアの鍵をかけた。事務所は収容棟の裏手にあり、窓は茶色の紙で目隠しされている。私はそこでレイプされた。

    彼は「さっさと仕事に戻れ」と言い残し、出て行った。

    それからしばらくの間、刑務官は繰り返し私を脅し、絶対に人に言うなと命じた。

    やがて、妊娠がわかった。

    私の妊娠を知った刑務官は、キニーネとテレビン油をのませて堕胎させようとした。殺すぞと脅し、私に性的な嫌がらせをしていた別の看守のせいだと言えと迫った。言われたとおりにしたが、結局、レイプしたのが彼だという事実は明るみに出た。彼は腰の不調を理由にしばらく休みをとったが、今後どうすべきかを引き続き電話で指図してきた。

    刑務官は翌年まで勤務したあと、最終的にレイプで罰せられることなく、別の違反行為(刑務所内にドラッグを持ち込んだ罪)で解雇された。

    一方、刑務所側は何とか子どもをおろさせようとした。ここに収容されている状況で子どもを生むなどありえないと言われた。だが私は従わなかった。やがて、子の父親を偽ったこと、刑務官と「合意の上で」性交渉を持ったことを理由に、独房へ入れられた。寝床にマットレスはなく、食事はハムのサンドイッチしか与えられない、孤独な日が続いた。

    そんな過酷な状況にもかかわらず、やがて元気な男の子が無事生まれた。この子が私の人生を一変させた。

    子どもを授かった背景には、このうえなく深く傷つけられる体験があったのだが、それでも、息子の誕生は私の救いになった。突如、手をかけなければいけない小さな人が私の前に現れて、この子が可能なかぎり最高の人生を送れるようにと私は心をつくした。息子の存在は、こんな人間でありたいと思う自分の姿を一新させた。私は成長できる、変わることができる、再び生きることができる人間なのだ、と思うようになった。

    同じころ、人生を変えるもうひとつの出会いがあった。看守の一人がACLU(アメリカ自由人権協会。国内最大の人権擁護団体)に相談し、私の件を話したのがきっかけだった。ACLUから派遣されたクレイトン・ブラックストック弁護士が私についてくれ、以来25年にわたってさまざまな支援の手を差し伸べてくれた。息子が温かい家庭のもとで育ててもらえるよう手配し、私が病気のときは適切な治療を受けさせ、さらには私がもう一度社会でやり直せるよう一緒に戦ってくれた。

    寛大な決定を求めた訴えは、5回にわたり却下された。しかし2017年、アーカンソー州で新たな州法が制定され、犯行当時に未成年だった私の判決を見直す機会がめぐってきた。そして同年12月、なんと突然釈放されたのだった。

    私は帰ってきた。普通の社会生活への復帰には、やはりいくつもの困難があった。法的な身分証明の取得、医療サービスの利用、仕事探し。それでも、私は本当にすばらしく恵まれていると思っている。

    夜中に起き出して、暗い中を歩き回る。もう刑務所の起床の合図を待つ必要はないのだ。毎朝4時に起き、少しの時間もむだにしないよう、日の出とともに1日を始める。いま、私は例えばキャンプに出かけて、たき火でマシュマロやホットドッグを焼いたりできる。山をハイキングしたり、車に乗って好きなところへただ車を走らせたりできる。一瞬一瞬を大切に、できるかぎりの時間を母や友人たちと過ごしている。

    自由でいられるのは本当に崇高なことだ。私は日々、畏敬の念を覚えながら自由を生きている。そして、若くして刑の宣告を受け、その後変わることのできた人には、私と同じ道を歩んでほしいと思う。


    寄稿者のローラ・ベリーさんはアーカンソー州ホットスプリングス在住。51歳。フルタイムで働きながら、未成年で長期刑の宣告を受けた人の社会復帰を支援する活動をしている。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan