背骨を折って気付いた。バレエに傷つけられてきた、私の人生

    バレエの世界では現在「#MeToo」旋風が巻き起こっているが、その後遺症は私たちに疑問を突きつけるだろう。どうすれば女性とその体へのダメージを減らすことができるのか? 変化を実現するには、誰がもっと関わるべきなのだろうか?

    わたしはある夜、バレエのリハーサル中に、背骨を折ってしまった。自分の体に裏切られたのは初めてではなかったが、体を犠牲にすることに自分自身が加担していたと気づいたのは、それが初めてだった。

    当時、ダンスを専攻する大学生だった私は、その夜遅く、ある作品のリハーサルを行っていた。そして、1つのミスをきっかけに、パートナーとの同調が崩れてしまった。パートナーに向かってステップを踏んでいたとき、音楽が遅れているように聞こえた。私のジャンプが遅れたのか、パートナーのキャッチが遅れたのか。私たちはミスを犯し、数秒後、重力に支配された。

    自分の人生が真っ二つに引き裂かれた瞬間、腰の骨に衝撃を感じた。これまでにもよく痛んでいた場所だ。私は何が起きたかを知るまで、天井を見つめ、ただ母親を求めていた。ほかのダンサーたちの心配そうな顔が見えたが、私はあまりの激痛に、そして、リハーサルの結末が意味することに恐れおののいていた。

    その夜、病院で検査結果が伝えられた。医師はペンの先で背骨の画像を指しながら、2つの椎骨が圧迫され、体液が漏れ出している箇所と、骨折している箇所を教えてくれた。さらに、骨盤全体が脱臼していた。骨盤の脱臼は何度か経験しているが、これほど急激なものではなかった。

    医師は、きゃしゃな骨格の画像を拡大しながら、肩まで伸びていた細い髪が、お腹の空いた体を温めてくれているようだねと言った。しかし私には、そんな会話を楽しむ気持ちの余裕などなかった。そのような会話を楽しむことができるようになったのは、1年後か2年後だった。あの夜、私の頭にあったのは1つの疑問だけだ。私は再び踊ることができるのだろうか?

    医師は私に言った。「その前にまず、足を引きずらずに歩くことができるようになるかを心配すべきだと思いますよ」。両親が車で3時間かけて、病院まで迎えに来て、連れて帰ってくれた。私は背中に激しい慢性痛を抱えた状態で日常生活を送る方法を学び直す必要があった。車を運転するのも、パンツをはくのも一苦労だった。

    数年後、十分に回復した私は、小さなダンスカンパニーの一員になった。しかし、背中の痛みは消えておらず、毎日、自分の体とそのニーズ、限界を探り、さらに痛めつけるか、バレエ以外の世界を生きるために使うかを判断しなければならなかった。

    結局、私はバレエの文化に拒絶された。バレエの文化は、私の限界など考慮せず、芸術という名の下で、時間と体を犠牲にすることを強いた。私にとってバレエは、自分が持っている以上のものを求めてくる、厳格で無慈悲な師だった。私はバレエの世界を去ってから、毎日バレエを恋しく思い、その一方で、同じバレエに心をかき乱されている。

    バレエ界にとって、2018年は審判の1年となっている。ニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)は1月、芸術監督を長年務めてきたピーター・マーティンスを失った。虐待や性的不品行の疑惑を受けての退団だが、本人は否定している。

    2カ月後、「Onion」のトップ記事にふさわしい出来事が起きた。「レ・グラン・バレエ・カナディアン」が、女性を題材にした作品「Femmes」を発表しながら、女性の振付師が一人も参加していないと判明したのだ。報道は控えめだったが、オレゴン・バレエ・シアターでも同じような公演が行われた

    4月には、パリ・オペラ座バレエ団のダンサーたちが、いじめやセクシャルハラスメント、監督への不満を訴えた。そしていま再び、NYCBがニュースになっている。元バレリーナのアレクサンドラ・ウォーターバリーがバレエ団を訴えたのだ。3人の男性ダンサーに、わいせつな写真を同意なく共有されたというのが理由だ。訴状によれば、男性ダンサーたちが「女性を見下し、傷つけ、非人間的に扱い、性的虐待する」ことを、NYCBは容認しているという。名前を挙げられた3人のうち1人は8月に退団し、残りの2人も9月に解雇された

    ウォーターバリーは「New York Times」の取材に対し、「チュチュをはいた女の子や、お団子ヘアの女の子がバレエ教室に通う姿を見るたびに、今すぐ帰った方がいいのに、と思わずにいられません」と語っている。「私の場合がそうだったように、彼女を守ってくれる人は誰もいないからです」

    歴史を振り返ってみても、バレエに対する女性の貢献ほど、はかないものはない。典型的なバレリーナのキャリアは、身体的にダンスができなくなるや否や、終わってしまう。振り付けや指導、芸術監督などの永続的な部分は、男性による支配が長く続いてきた。

    バレエの性差別について堂々と議論できるようになった現在のチャンスは、バレエの未来について真剣に考えるチャンスでもある。バレエの価値と美しさを守りながら、女性へのダメージを小さくするには、どのような変化が必要なのだろう? そうした変化を実現するには、誰がもっと関わるべきなのだろう?

    間違いなく、正しい方向への一歩となるのは、創作やリーダーシップに関与する女性を増やすことだ。NYCBは新しい芸術監督の条件として、「人々が最高のパフォーマンスをしたいと思うような人間味のあるリーダー」を求めている。さらに、ジョージ・バランシンとジェローム・ロビンズの伝統的な振り付けを大切にすることや、NYCBのダンサーの95%が訓練を受ける、NYCB付属の学校「クール・オブ・アメリカン・バレエ」に注力することを求めている。つまり、NYCBのレパートリーをよく知っているだけではなく、ダンサーの健康と安全を第一に考える人材の「ウィッシュリスト」ということだ。

    例えば、NYCBのプリンシパルとして有名だったウェンディ・ウィーランは適任かもしれない。ウィーランは自分と体の関係について、ほとんどのダンサーより雄弁に語ってきた。2017年のドキュメンタリー映画「Restless Creature」は、キャリアを脅かすほどのケガを負い、その後、引退のプレッシャーに苦しんだウィーランの姿を追っている。ウィーランは最終的に、年を重ね、一線から退いても踊り続けるダンサーとしての新たなアイデンティティーを受け入れた。

    ウィーランは、自分と戦う姿を公にすることで、現代バレエの「常識」を支配する厳しい制限と戦ってきた。現代バレエは、身体への要求度が高く、必然的に年齢差別が行われている。痛みをこらえて踊るという文化を正当化し、美化している。表現の手段として女性の体に依存しており、安全性や快適さを犠牲にしながら、硬直的な美の概念を強要している。

    女性がバレエの世界に足を踏み入れると、その体はすぐに軽視され始める。女性の体を男性が支配するという前提が常態化しており、誰もそれを気にしない。さらには、そうした前提自体に、誰も気づかないほどだ。

    カリフォルニア大学アーバイン校でダンスを専攻していたホープ・フィッシャーは、バレエの授業を受けていたときに、ある経験をした。フィッシャーは電子メールで、それは一線を越えていたと振り返っている。「男性教師が私のお尻に手を置きました。お尻を低い位置に保つためです。その後、2番(つま先を外に向けた)ポジションで、私の片脚を彼の肩に乗せ、彼が近づいてきました。お尻を低く維持したまま、脚を高く上げるためです。最終的には、股割りに近い状態で、彼の腰と私の股がほとんど触れていました」

    フィッシャーは当時、必要な調整が行われただけだと思っていた。「あの空間では、(自分の)体は自分のものではないという概念」があったためだ。「私はダンサーとして、いつも問いかけています。“あなたが求めているものは? あなたが私にしてほしいことは? それをどのようにしてほしいの?”。自分にとって何が心地いいかを自問することは、絶対といっていいほどありません」

    バレエスタジオにいるということは、教師や振付師、パートナーからいつ調整されてもおかしくないということだとフィッシャーは話す。言葉による説得や身体的な調整によって、人と人の境界はすぐ取り払われる。ダンサーの心地よさや能力が考慮されることはない。単純に、計算式の一部には含まれていないということだ。こうした状況に我慢できないダンサーがいたとしても、その座を狙うダンサーは常にいる。

    私が教師の名前を尋ねると、「間違いなく、あなたも知っている人です」とフィッシャーは答えた。その通りだった。背中に重傷を負う前、同じプログラムを受講していたのだ。当時、おそらく私も同じ部屋にいた。しかし、私はフィッシャーと同様、バレエの授業で体を操作されること、強い力で押されることに慣れていた。そして、フィッシャーと同様、スタジオに入った時点で許可を与えているという前提を認識していた。

    「体がどう感じるか」を無視してまで、「体がどう見えるか」を重視することに、これほど慣れるというのは危険なことだと思う。私がこれまでに受けたバレエのクラスでは、教師や振付師、パートナーに対する暗黙の同意を取り消したり、見直したりする機会はなかった。教師や振付師、パートナーは、バレエの美学を守るため、女性の体に触れ、完璧な姿勢や動きへと導く。直接的に調整されることもあるが、私の経験では、体に強い違和感があるにもかかわらず、踊り続けるよう促されることもある。

    毎日クラスを受けなくなって何年も経過した今になってみると、男性の教師が女子学生の脚を自分の肩に置き、互いの生殖器が触れそうになるまで近づくというのは、けだもののような行為に感じられる。女性の安全のため、正しい姿勢を維持する手助けを行っているというより、無理やり柔軟性を上げ、若い女性の体というキャンバスで、バレエ特有の難題を試しているだけだ。

    今も、多くの少女がバレエに憧れるのはなぜだろう? 伝統的に、女の子は男の子と比べて、運動の選択肢が多くないことも一因かもしれない。私は個人的に、バレエを通じて美しい世界を知った。女性がただ踊るだけでなく、浮遊しているように見える世界だ。

    この世界には、成功に関して明確なルールがある。かわいいこと、指示に従うこと、体を引き上げるように姿勢を正しくしてターンアウトすること(足を横に開くこと)だ。私は当初、この厳格な教えに魅了された。そして最終的に、この厳格な教えがケガの原因となり、私は愛するダンスの世界を去ることになった。

    バレエの大いなる矛盾は、難なく踊っているように見せることに、すべてをささげることが求められている点だ。実際は、最も基本的なステップでさえ、体を伸ばし、自分を支えるため、全身のけいれんする筋肉をコントロールしなければならない。このように体を酷使するため、持久力、柔軟性、筋力を毎日鍛える必要がある。

    ワシントン大学の心理学者たちが2000年に発表した論文によれば、バレエダンサーが体験するケガの頻度と深刻度は、フットボールやレスリングのようなコンタクトスポーツを含むスポーツ選手のケガと同レベルだという。バレエの世界では、多様な体に全く同じポーズを取らせるには、痛みを避けて通ることはできないと広く信じられている。

    あの夜に私が背中に負ったケガは、もちろん、私がバレエで負った初めてのケガではない。しかしそれは、隠すことも、無視することもできない初めてのケガだった。座っているときも、ベッドで寝返りを打つときも、日常生活を送るあいだも、私は背中に痛みを感じた。私はそれまで、何かがおかしくても、体から脳に送られてくる明確な信号を無視していた。自分が体の健康を犠牲にしていることはわかっていた。胴体が長過ぎ、足のアーチは不十分だったが、それでもうまく踊りたいと思っていたのだ。

    私は、外見の欠点を補うため、背中を過剰に引き延ばし、片方の足が疲労骨折するまで、文字通りストレッチした(毎日、クラスが始まる前に、年下の女の子を足の上に座らせていた)。バレエの理論に欠陥があるとは思いもしなかった。むしろ、自分の体に欠陥があると信じていた。

    あの夜、医師がX線写真を見せ、私の背中にたった今起きたこと、そして10年前から起きていたことを教えてくれたとき、私はスクリーンに映し出されたおぼろげな数本の線に、自分の体を無視してきたという現実を見たのだと思う。バレエは自分の体格に合わない、という現実を目の当たりにした私は、自分の気持ちをごまかした。バレエという理想を追うため、自分が何を犠牲にしているかには気づかないようにした。

    ダンスの研究を行うクリスティー・アデアは、画期的なフェミニスト・ダンス理論を提唱した著書の中で、バレエは歴史的に、「古典的な美の理想に基づいて」ダンサーを選んできたと述べている。具体的な基準は、「伝統的な男女の役割、養成学校とバレエカンパニーの階層構造」だ。男性ダンサーは自由に動き回ることができるが、女性ダンサーはトウシューズを履いている。トウシューズは心躍る通過儀礼だが、足の自由は奪われる。爪先立ちが可能になる一方で、よろめくような動きになる。

    伝統的なバレエが、男性より女性のほうに痛みをもたらすものであることを否定するのは難しい。2018年の現在、バレエの世界では「#MeToo」旋風が巻き起こっているが、その後遺症は、私たちに1つの疑問を突きつけるだろう。バレエは痛みをもたらし、構造的な不均衡、男女の不均衡が常態化している。それでも、芸術としての価値は変わらないと言えるのだろうか?

    バレエが抱える不公正が今、暴露されているという現実は、明るい未来に向けての第一歩だと思う。バレエに必要とされる変革を主導する人材を見つけることは、次なる一歩になるだろう。トウシューズを履いているとき、履いていないときの両方について、女性の主体性と権利を巡る重要な議論が今後も続くことが望まれる。

    バレエの世界で少しずつ、振付師や芸術監督といった要職に就く女性が増えているのと同時に、人々は21世紀のバレエについて考え始めている。バレエの世界では現在、あらゆる点で、ジェンダーの力学に異議が申し立てられている。さらに、世界中のクラシックバレエスタジオに、ネオクラシカルな語彙が持ち込まれ、バレエのスタイルやブランディングに変化が起きている。

    フリーランスの振付師として活躍し、2017年には、ニューヨーク大学バレエ芸術センターが運営する「ダンス界における女性リーダーのためのバージニア・B・トゥールミン奨学金」を授与されたクローディア・シュライアーは、「私は若いとき、痛みを我慢しながら、指導者や振付師の芸術的な指示に従い、何度もケガをしました。間違いなく、今のリハーサルのやり方には、当時の経験が生かされています」と話す。

    シュライアーは、安全なリハーサル環境づくりに尽力している。そして、ダンサーの抱える不快感が、「やりがいのある挑戦から、ダメージをもたらす体験に変わる一線」を見極めようとしている。また、バレエのあるべき姿に関する観客の固定観念を取り払うことも仕事の一部だと考えている。

    シュライアーは、2018年に入ってからの取材で、白人が圧倒的多数を占める世界に属する有色人種の一人として、次のように述べている。「私は美について、とてもゆがんだ考えを持っていました。自分がいた世界には、私のような外見の人がいなかったためです」とシュライアーは語るが、同時にこうも述べる。「体をプロフェッショナルに使うことに関する私たちの考え方は変化しています。文化的、社会的、政治的な議論が行われているからです」

    新しい芸術監督を探しているNYCBは、バレエ世界の外についても考慮している。困難な決断になることは間違いないだろう。性別と人種の両方において多様性が重視されている現代に、バレエも歩調を合わせなければならない。バレエをそうしたアートにすることにおいて、NYCBは対応を求められており、非常に象徴的な位置にある。ウィーランであれ、ほかの誰かであれ、新しい芸術監督はそうした役目を務めることになる。

    9月に行われたNYCBの「フォール・ガラ」では、プリンシパルのテレサ・ライヒレンが、代表として声明を読み上げた。「私たちは、私たちの世界にも平等の文化をもたらすことができると確信しています。私たちは決して、良識より芸術を重んじることはありません。私たちの道徳的な指針が、才能によって揺るがされることはありません」

    優先順位の変化は、必ずしも衝突を意味しない。バレエの虐待的あるいは階層的な権力構造が変化すれば、バレエの価値や美学も変化する可能性があるからだ。その結果、さまざまな動きや体が受け入れられるようになり、若いダンサーが自分の体を非現実的な型にはめようとして起きる(私のような)ケガを効果的に防ぐことができるかもしれない。バレエ界の頂点に立つカンパニーが変われば、プロを目指す若いダンサーたちも影響を受け、多様な体、スタイル、力に目を向けるようになるだろう。

    バレエが、女性にとって不健康あるいは屈辱的な環境を生み出していることは否定できない。しかしバレエは、最も素晴らしい環境においては、喜びや運動、可能性の源になる。チュールやヘアスプレーをはぎとった存在として見ると、バレリーナとは、表現のための道具だ。振付師やパートナー、観客の期待を一身に受ける道具なのだ。彼女の体は何が美しく、見る者の美的感覚や感情を刺激するのだろう? しかし私たちはこれまで、次のような質問をあまり投げ掛けてこなかった。彼女自身は何を求めているのか? 彼女は自分自身をどう見ているのだろう?

    こうした問いへの答えは、これまでは単なる表現手段にすぎなかった「バレリーナ」に関する驚きを明らかにするかもしれない。そして、バレエのレッスンやリハーサル、公演における同意や敬意は、バレエの美学と衝突しないということを示すかもしれない。バレエは私に痛みをもたらし、私は踊ることをやめた。しかし、私は今でも、バレエが最初にもたらした喜びや力を覚えている。



    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan