シリコンバレーが普及させる電動スクーターシェアリングと、それがもたらす不安

    電動スクーターは危険で迷惑な乗り物なのか、それとも環境に優しい交通手段なのか。それとも、その両方なのか。

    シリコンバレーの最新トレンドは、どこからともなく現れた。それまでは誰もが、まぬけなサルの子孫として二本足で町を歩き回っていたのに、ふと気がつくと、電動スクーターに乗って髪をなびかせながら歩道を走り抜け、ちょっと高い視点から、二本足を続ける庶民たちに手を振るようになっていたのだ。

    電動スクーターシェアリングの「Bird」や「Lime」が貸し出す無数のスクーターは、瞬く間にロサンゼルスやサンフランシスコを席巻した。こうしたスクーターが登場したのは、私たちを助けるためだった。おかげで、ミーティングに10分遅刻したり、近くにいるUberを呼んだり、20世紀の公共交通機関を利用したりしなくてもよくなった。

    スクーターって素晴らしい! 私たちの救世主となったスクーターシェアリング企業は、そうした破壊的革新を起こした見返りとして、数十億ドル規模の評価額を得た。

    ところが、しばらくして違う声が聞かれるようになった。「スクーターなんていらない!」という声だ。スクーターは、歩道を歩く人々を邪魔し、交通を混乱させる迷惑きわまりない存在であり、危険どころか、違法とさえ言われるようになった。スクーターは、ベンチャーから資金を得て私たちが暮らす町を荒らす疫病になった。

    スクーターは、いったいどっちなのだろう?

    そこで私は、スクーターについて調べるべく、1週間をかけて全米を旅した(リンク先は、Netflixの番組『世界の”バズる”情報局』日本語版URL)。

    ロサンゼルス郊外のベニスビーチでは、電動スクーターの充電サービスでお金儲けをしているサーファー男性に話を聞き、テネシー州メンフィスでは都市計画の専門家に話を聞いた。スクーターの存在に不安を抱く防犯ボランティア団体や、スクーターシェアリング企業にも話を聞いた。スクーター賛成派と反対派の主張に、数えきれないほど耳を傾けた。

    また私自身、BirdやLimeのスクーターで何十キロメートルも走ってみた。ばかみたいなヘルメットをかぶって走っていると、からかわれることもあれば、ほめられることもあった。どうにか死なずに1週間を終えたが、社会が向かっているのが、電動スクーターのパラダイスなのかディストピアなのか、はっきりとした結論を出せない。もしかしたら、1年後には誰もが電動スクーターのことなどすっかり忘れているかもしれない。


    より詳しい情報はNetflix『世界のバズる情報局』でもお送りしている。

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    こうした結論は言い逃れかもしれない。しかしこれは、人間とテクノロジーとの間にある大きな緊張関係を暗示している。テクノロジーは、つながることを可能にし、利便性を向上させ、世界を良い方向へと進歩させる。それと同時に、テクノロジーは依存を引き起こし、急進化を招き、他をコントールしたり、苦しめたり、選挙に介入したりすることを可能にする。

    そして、こうしたマイナス面を大きなきっかけにして、私たちは、便利でつながりあった世界を手に入れるために何を犠牲にしたのだろうと考えるようになった。いまでは、次なる新たなトレンドに、あまり軽い気持ちで胸を躍らせることができない。

    電動スクーターは、こうした状況をめぐるケーススタディのようなものだ。他愛のない乗り物だが、ラスト・ワンマイル(目的地までの最後の道のり)という、公共交通機関に伴う厄介な問題を見事に解決してくれる可能性もある。

    スクーターはあるとき突然、町中にあふれ返るようになったが、その様子はまさに、シリコンバレーが掲げる「イノベーションファーストで、問題はあとで取り組め」という姿勢の最たる例だ。

    スクーターシェアリング企業は、都市の交通システムを作り替えようとやる気満々のようだ。しかし、自分たちのテクノロジーがもたらす予期せぬ影響について責任を負う気があるかどうかははっきりしていない。私はスクーターのおかげで、大事な会議に遅れずに済んだ。でも、スクーターのせいで、歩道に倒れて膝をついてしまった。

    スクーターは、テクノロジーに対して昔から抱かれていたような、闇雲な熱狂を引き起こす。それと同時に、新しい、反射的な懐疑心も抱かせる。

    スクーターシェアリングのスタートアップは、実際に何十億ドルもの価値があるのだろうか? 「あって当然だ」

    とする説得力ある主張は多い。それらの企業が、マイクロモビリティや、現代の交通機関の「解体」という新時代へと私たちを導いてくれれば、移動手段として車に頼ることがほとんどなくなるかもしれない。

    マイクロモビリティの推進派は、都市再設計という巨大な可能性への扉が開かれると主張する。自動車が「郊外」という概念を生み出す一因となったように、スクーターや自転車シェアリングなどの多様なマイクロモビリティによって、新しいタイプのコミュニティが生まれる可能性があるというのだ。

    BirdやLimeといった企業の将来を楽観視する投機目的の人たちに言わせれば、スクーター「そのもの」が未開発のプラットフォームであり、電子商取引の可能性を秘めているという(たとえば、スクーターで知らない町に出かけたら、その町で利用可能なクーポンなどのサービスが入手できる、といったことだ)。そうした状況が普及すれば、革命が起こり得るというのだ。

    とはいえ、見るからにマイナスの側面もある。電動スクーターは危険だ。無謀なユーザーが乗り回した場合は特にそうだ。規制されておらず、歩道や町中ではかなり迷惑な存在でもある。壊されたり、川や池、海に投げ込まれたりすれば、環境に害を及ぼすだろう。

    それに、スクーターのシェアリングサービスを利用できるのは、スマートフォンを持つ人に限られる。しかし、スマートフォンがない人たちこそ、所得が低くて車を持っておらず、スクーターから最も大きな利益を得られる立場にある。

    さらに、スクーターを生み出しているのは、投資家の資金援助を得て拡大を急ぐ環境だ。そうした環境は以前にも、はじめは受け入れられたものの、のちに対立と憎悪の原因となったプラットフォームの数々を生み出している。

    ベンチャー資金が流れ込み、スクーターが至るところで増え続けるなかで、流行の理由を解明し、その是非をはっきりさせたいという願望がある。その一方で、いまの私たちには、未来を予測するのは気が進まないという思いも、新たに生まれている。それに、事態を見守る多くの人々は、私たちの進むべき道を指し示す指針がさっぱりわからなくなってしまったと感じている。


    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:遠藤康子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan