末期がんの伯母が望んだのは、安楽死。そこに待ち受けていたこと

    べビ伯母さんは、末期がんという宣告を受けたあと、スイスに連れて行ってほしいと私に頼んだ。スイスでは医師の手を借りた安楽死が合法だからだ。しかし、それを実行に移すためにどれだけ多くの障害が立ちはだかっているかを、私たちは知らなかった。

    べビ伯母さんは、往年の名女優マレーネ・ディートリヒ、もっと最近の例では『パルプ・フィクション』に出ていたユマ・サーマンとそっくりだった。ほっそりとしていたのは、ネットで購入していたダイエット用サプリのおかげだった。クローゼットには、シミひとつない清潔な洋服が並んでいた。正午より前に起きるのが大嫌いで、毎日ベッドでコーヒーと軽い朝食をとっていて、なんて贅沢な習慣なのだろうと私は思っていた。

    伯母は、1950年代前半にブエノスアイレス郊外のカピージャ・デル・セニョールで、3人姉妹の次女として生を受けた。そして、姉と、妹である私の母、抜け殻のようなうつろな母親、横暴な父親とともに、今にも崩れ落ちそうな大きな屋敷で暮らしていた。その家はかつて、町の自慢だった。一家の名前は、莫大な富の代名詞だったこともあったが、今では破産の象徴となっている。家長がひどいギャンブル狂だったためだ。べビ伯母さんは、外出時はかならずサルヴァトーレ・フェラガモのエナメルのピンヒールブーツか、プラダのヌードパンプスを履いた。毛皮は3着も持っていて(ミンク1着とフォックスが2着)、好きな香水は「シャネルNo.5」。ここ6年間は毎年、55歳になったといって誕生日を祝っていた。ダイヤのピアスとゴールドの指輪を身につけ、哲学の博士号を持っており、優雅な文章を書いた。煙草は一日一箱(ブランドはいつも「パーラメント」)。お金も時間も惜しみなく使っていた。

    私は、伯母にとってお気に入りの姪だった。伯母の喜びそうなことをすると、そう言ってくれたものだ。伯母は私にとって、もう1人の母親だった。そして母と娘の関係は複雑なものだと決まっている。ベビ伯母さんは、人間関係や家族に気づまりとぎこちなさを感じていた。だれも、伯母さんの才能や複雑な性格を理解しなかったのだ。伯母は私に、「結婚なんてしちゃだめよ、ルイーザ。自立しなさい。経済力をつけるのよ」と言ったことがあった。あれは、伯母が破産して、前夫とまた同居するようになった時だった。だれにも頼らず生きていくことが難しくなってしまった伯母にとって、自分の人生を取り戻すことは最優先だった。

    伯母は2015年4月に、医師から進行性のすい臓がんだと宣告された。がんが肝臓に転移し、全身にも広がりつつあることがわかり、緩和ケアを勧められたが、伯母はそれを拒んだ。そして、この世でもっとも信頼を置く人間に助けを求めた。それが、私の母と、姪の私だった。アルゼンチンに来て、必要な手続きをとり、万が一の事態に陥った時のために長年温め続けてきた計画を実行に移してほしいという。それは、スイスの非営利団体「ディグニタス」に連れて行ってほしい、という計画だ。ディグニタスは、不治の病に侵された末期患者の安楽死を医師がほう助する団体だ。1998年に人権専門の弁護士ルドウィッグ・ミネリによって創設されて以来、安楽死させてきた末期患者の数は2328人に上る(2016年現在)。

    医師の自殺ほう助が合法化されている国はほとんどなく、伯母や母が育ったアルゼンチンも例外ではない。アメリカの大半の州は安楽死に反対しているが、1997年にオレゴン州で、2008年にワシントン州で、2013年にバーモント州で、安楽死を合法化する法案が成立した。2016年3月にはカリフォルニア州がそれに続き、「End of Life Option Act(終末期選択法)」が可決。6月9日に施行された。同法により、カリフォルニア州の医師は、医療上の判断を下せる状態にある成人の末期患者に対し、自殺ほう助のための薬剤を処方できるようになった。ただし、患者自らがその薬剤を投与できることが条件だ。2016年6月にはカナダでも、医師の手助けによる安楽死を合法化する法案が可決され、患者の意思による安楽死と自殺ほう助の両方が可能となった。概して世界のどこよりも規制の緩いヨーロッパでは、2002年にオランダで同様の法律が施行されている。しかし、安楽死を望む患者を国籍に関係なく受け入れている組織はディグニタスのみだ。

    伯母は、何らかの不治の病に侵されるという不幸に見舞われることがあれば、ディグニタスの手を借りて自らの命に終止符を打とうと末期がんを宣告されるずっと前の2008年に決めていた。

    遺書にも記されている。「万が一、死が避け難く、自らが望むような生活の質と尊厳を維持できなくなった場合は、スイスにあるディグニタスに行き、心の平静を損なうことなく自らの手で人生を終えることを希望する」

    ベビ伯母さんは別にスイスが好きだったわけではない。けれども、病院のベッドで死ぬより、ディグニタスで自ら命を絶つ方がずっとましだし、一カ所ですべてを済ませられるのなら、安楽死もそれほど面倒ではないだろうと考えた。まずチューリッヒに行き、そこからディグニタスのあるプフェフィコンの町に移動して1日か2日滞在し、別れを告げるべき友人たちに電話をする。いよいよその時が来たら、持参する予定のスペイン人ミュージシャン、ホアキン・サビーナの音楽を流して、致死量のペントバルビタール10グラムを飲む。すべてが済んだら、チューリッヒ湖に遺灰を撒いてほしいと言っていた。

    これは後になって知ったことだが、私の母と伯母は、何年も前に約束を交わしていた。2人のうちいずれかが不治の病にかかったら、もう1人のほうがお金をかき集めてディグニタスへ連れて行くという約束だ。それができないとしても、安楽死できる別の方法を探す。何があっても、相手を、衰弱するのにまかせて、成人用おむつをつけ、不安におびえて最期の日を待ちながら死んでいくような目には遭わせない、と。

    伯母ががんを宣告されてから数週間後に、私はブエノスアイレスの伯母の家に着いた。母はこう注意した。「かなり具合が悪そうに見えるけどびっくりしないでね。普通に接して」。数あるゲストルームの一室で横になっていた伯母は痩せこけ、肌はまだら模様だった。「こんにちは、ルイーザ」。伯母は私を見るとそう挨拶をしたが、起き上がるのがつらそうだった。大量のモルヒネを投与されているせいで、ろれつは回らず、話をするのにも苦労していた。ベッドの上で起き上がることさえひと苦労なのに、24時間近くかかるプフェフィコンまでたどり着けるのだろうか?

    それでも伯母は行くという。そこで私は、ディグニタスに提出しなければならない書類を集め始めたのだが、お役所的な対応に次から次へと直面して頭を抱えることになった。愛想のいいディグニタスの担当者サブリナ・クレンガーによれば、まずは、伯母の陽電子放出断層撮影(PET)スキャンと、生検ならびに腫瘍の診断書が必要だという。しかも、コピーではなく原物を郵送してほしいと言われた。私はそれらの書類を速達便で送ったが、スイスに到着するには1週間かかる。郵送してから1週間が過ぎ、10日が過ぎた。伯母は不安を募らせ、私が伯母の部屋に行くたびに同じ質問を繰り返した。

    「スイスから連絡はあった? 何か足りないの?」

    「まだ連絡がないの。明日、電話してみる。きっと問題ないよ」

    2週間経って、ようやくサブリナから連絡がきた。けれどもそれは、ディグニタスの提携医師が、伯母の余命が短いことを確認したという連絡ではなかった。うんざりするほど多くの書類を追加で提出しなければならないというのだ。伯母の出生証明書、結婚許可証、離婚時の書類のコピーが必要だという。母は、私からその話を聞いてパニックになった。伯母の病状は日を追って悪化していた。その上、母によれば「アドリアナ(伯母の名)は、結婚証明書を捨ててしまったし、出生証明書もどこにあるかわからない」のだという。「探さなくちゃならない。でもアドリアナに言ってはだめよ。動揺するから」

    ベビ伯母さんがとぎれとぎれに眠りに落ちる中、私はできるだけ音をたてないように気をつけながら、伯母の部屋をこそこそと動き回って、箱の中身や書類を一枚一枚確認した。けれども伯母は、忌まわしいほどに増殖して今にも腹部を突き破らんばかりの腫瘍が痛くて、頻繁に目を覚ました。

    「何を探しているの?」。ある日の午後、ふいに目覚めた伯母は、引き出しの中を漁っている私を見て言った。

    「何も。置き忘れたものがあったような気がして。心配しないで眠って」

    「スイスから連絡はあった?」

    「ない。でも、きっともうすぐ来るから大丈夫」

    その数時間後、伯母の部屋で大きな物音がした。慌てて階段を上って駆けつけると、ナイトガウン姿の伯母が震える足で立ちつくしていた。散らばった書類を前にうろたえている。書類が入っていた箱を持ち上げようとして落としたようだ。

    「どうしたの?」

    伯母は、途方に暮れた顔で私たちを見た。 「スイスに行くのにパスポートが必要でしょう? パスポートを探さなくちゃ」。伯母は、散らばった書類を手に取るため、かがもうとした。腫瘍が腫れて突き出ているせいで、うまくしゃがむことができない。伯母はまた「パスポート」とつぶやいて、苦しそうに床に手を伸ばした。衰弱した腕が震えている。

    そういったことが何度も起きたので、私たちは行方不明の書類を探す時は気をつけなくてはならなくなった。民事上身分登録局への電話は隠れてしなくてはならなかったし、担当者にわいろを渡して手続きをできるだけ早めるよう頼む時にはさらに慎重を期した。私は、伯母の部屋から彼女のノートパソコンをこっそりと持ち出して保存ファイルを確認してみた。伯母がモルヒネのせいで正気を失い始める前に必要書類を作成していたかもしれないと考えたのだ。伯母のパソコンを盗み見している自分を私は恥じた。必要書類がすべて揃ってようやくスイスに郵送できたのはそれから10日も経ってからで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それは6月はじめだったが、伯母はその時点ですでに、立つこともできなくなっていた。ましてや、支えなしで歩くなどとうてい無理だった。

    私は、ディグニタスのサブリナに電話をした。「書類はすべて送りました。まもなく届くはずです。これで面会予約をとれますよね? もうそっちに行ってもいいでしょうか?」。そのころまでには、私と彼女はファーストネームで呼び合う仲になっていた。

    「まずは書類の内容を精査しなくては。それで許可が出たら、あなたの伯母さんがディグニタスの指定医の診断を受けられるよう、予約を取ることになる。それに、精神分析医にも診てもらわなくちゃ。そこで承認が下りて初めて、伯母さんの安楽死の日程を決められる」

    「それにはどのくらいかかるの?」と尋ね、私は頭の中で、伯母が階段を下りられなくなってから何日経つのだろうと日数を数えた。

    「たぶん3週間から4週間くらいね。伯母さんの病状が進んでいるから、できるだけ早く進められるように努力している。でも、これ以上は無理」。サブリナは、そこでひと息置いてから続けた。「法的な面で不備がないよう、すべて確認しなくてはならないから。わかってもらえる?」

    食事の支度をしたり、伯母に飲ませるモルヒネの錠剤を数えたりする合間に、私は自殺ほう助に関する法律のことをひたすら調べた。そうしていろんなことがわかると、私は猛烈な怒りを抱いた。大人用おむつを身につけなくてはならないことを知って、屈辱のあまり涙を流す伯母を見るのがどれほどつらいことか。伯母は尋常ではない苦しみを味わっていた。死を迎えるまでの長く、みじめで、唾棄すべき日々を伯母はずっと恐れ、そうした事態になることを何としてでも回避しようとしてきた。なのに、そうした日々が現実となりつつあったのだ。その間、伯母がずっと拠り所にしてきたのがスイスだった。不治の病を抱えた時には、見苦しくない、誇り高い死を迎えたい、と伯母は心から願ってきた。そして、その必死の願いを阻んでいるのは自分ではないのかという思いに、私は苦しめられた。

    患者の権利を擁護する団体「Patients Rights Action Fund」のJ.J.ハンソン会長は、自殺ほう助に対して声高に反対している。私は2016年、同会長に話を聞く機会があった。脳腫瘍を克服したサバイバーでもあるハンソン会長によれば、自殺ほう助の法律には、ある大きな問題があるという。それは、末期患者にとっての最善策である緩和ケアサービスがないがしろにされている点だ。病院は、患者に死を提案する代わりに、より質が高く総合的な緩和ケアを提案すべきだ、とハンソン会長は主張する。けれども私の伯母は、大量のモルヒネを与えられ、思いやり深い(しかも高額な)医師が往診し、24時間体制で対応してくれていたにもかかわらず、身体的かつ精神的に多大な苦しみを味わった。自分の体が思い通りに動かなくなるという屈辱は、伯母のような人間には耐えがたいことだった。

    6月はじめになると、私は毎朝、涙を流しながらサブリナに長距離電話をかけ、手続きの進捗状況を問いただしていた。伯母が夜中、3時間おきに目を覚まして階下に行こうとするようになったのはちょうどそのころだった。自宅の庭をもう一度見たいと思ったようだ。母と私は事実上、眠らなくなった。1~2時間ほどウトウトするものの、絶えず耳をそばだてて、どんな小さな物音でも飛び起きて、伯母がベッドから起き出さないよう気をつけていた。伯母はそんな私たちに腹を立てた。

    「行かせてちょうだい!」。伯母は私に腕をつかまれると怒鳴り声をあげた。一方の私は、痛い思いをさせずに伯母をベッドに押さえつけておくにはどのくらい力が必要か考えていた。「自分でできる! あなたの助けなんていらない!」

    伯母がトイレに行く時はもっと大変だった。母にしか手伝わせないので、私は何もできずにただドアの前をうろうろするだけだった。ある日、伯母がトイレの中でむせび泣く声を聞いた。母が、伯母の下着をちょうど引き上げようとしていたところだった。

    「ごめんね、本当にごめんね」と、伯母は母に謝っていた。「こんなはずじゃなかったのに」

    実施される終末期選択法は、そうした精神的な苦しみを回避できるものでなくてはならない。サンフランシスコ総合病院のロバート・ブローディ内科医は2016年3月、私に対してそう述べた。ブローディ医師は20年も前から、末期患者に死を選択する権利を与えるべきだと訴えてきた。2015年には、サンフランシスコ市を相手に、末期患者に自死を選ぶ権利を与えてほしいと訴訟を起こしている。

    「医者はこれまでも、誰にも言わずに患者を密かに安楽死させてきた」と、ブローディ医師は語る。彼が死ぬ権利について関心を持つようになったのは1990年代で、サンフランシスコにあるAIDS(後天性免疫不全症候群)患者向けホスピスプログラムの医長を務めていた時だった。「当時はAIDSがもっとも猛威を振るっていた時期だった」とブローディ医師は言う。「AIDSで死に瀕している患者は、医者が(安楽死という方法で)助けてくれるだろうと期待するようになったほどだった」

    ブローディ医師が何よりも許せないのは、「自殺ほう助」という表現だ。この言葉は、「医師の手を借りた安楽死」を語る時に使われることが多い。「私たちの社会では、『自殺』という言葉は精神的な病と強く結びついている」とブローディ医師は話す。「死ぬ権利を認めている州において、その法律を使って死のうとする人々は、精神病の患者ではない。彼らは、精神病を患っていると思われることを心底嫌がっている」

    そうした理由があるからこそ、ディグニタスは、自分たちは自殺防止を訴える組織であると頑なに主張し、医療的かつ心理学的に厳密な診断を求めるのだ。ディグニタスの代表者は(名前を明らかにすることは避けたが)メールの中で「ディグニタスは生きることを支援し、自殺を防止する非営利団体だ」と述べている。「私たちの活動の大半は、医師や患者、健康な個人、患者の親族などの人々に、実務的かつ法的な助言を行うことだ」

    このようなかたちで人生を終えようとする人たちには、自殺願望はまったくないとブローディ医師は強調する。「終末期選択法で死を望む人たちには将来がない。だから、生きるか死ぬかの選択ではないのだ。どう死ぬか、いつ死ぬかの選択だ」


    2015年6月半ばのこと、私は伯母に、スイスには行けそうにないと伝えなくてはならなかった。サブリナからは、私たちが待ち望んでいた許可がようやく下りたから、7月8日に最初の面会日を設定したいという連絡が来ていた。しかし、もう遅すぎた。私は伯母の主治医と、スイスまで移動が可能かどうかを話し合った。けれども、医師はすぐさま、私たちのかすかな希望を打ち砕いた。

    「気でも狂ったんですか? 伯母さんの容態は知っているでしょう? 酸素吸入を外すことなどできません。スイスに行くなんてもってのほかです。伯母さんを乗せてくれる航空会社なんて1つもありません」。主治医は呆れたように首を振り、無理な期待を私が伯母に抱かせてきたかのような表情を浮かべた。「スイスには行けないことを、伯母さんに話さなくてはなりません」

    伯母に告げたのはその日の夜だった。午前2時か3時ごろ、伯母は何かを探しているようにそわそわしていた。夜間訪問の看護師に来てもらうようになっていたが、伯母はその看護師に対して、よく悪態をついた。その夜も、横になるよう伯母をなだめすかしている看護師の声が聞こえてきた。どうやらそれができそうにないとわかったので、私は起き上がった。

    看護師のマリアに声をかけた。「心配しないで、マリア。私がしばらくついているから」

    私の腕をぎゅっと強く握る伯母を支えながら廊下を進み、柔らかい肘掛け椅子に座らせた。伯母は、落ち着かなげに体をもぞもぞと動かし、腹部で膨れあがる腫瘍が痛まない態勢を探した。

    「ベビ伯母さん、何か欲しいものはある?」

    「タバコをちょうだい」

    私はパーラメントの箱から1本取り出すと、指に挟んで火をつけ、1度吸い込んでから、しっかりと指に挟んで伯母の方に差し出した。伯母は衰弱しきっていて、タバコを持つことさえできなかった。

    「タバコなんか吸わせていいんですか?」。ベッドルームの戸口に気まずそうに立っていたマリアが尋ねた。

    伯母と私はマリアをじっと見た。「今さら、どうでもいいでしょう?」と私が言うと、マリアは私たちを置いてそそくさと立ち去った。

    しばらくすると、案の定、伯母が聞いてきた。「スイスはどうなったの?」

    私は躊躇したが、こう尋ねた。「ベビ伯母さん、スイスまで行けると自分で思う?」。伯母はしばらくじっと動かずに、ぼんやりと宙を見ていた。体は震え、息遣いは荒い音を立てていた。私がふたたびタバコを差し出すと、伯母はそれを吸い、それからようやく首を横に振った。伯母はもう飛行機に乗れるような体ではなかった。本人もそれを自覚していた。

    「ごめんね、ベビ伯母さん。頑張って手を尽くしたんだけれど」

    伯母はかすかにうなずき、とぎれとぎれにゼイゼイと息をした。

    3日後、伯母はモルヒネの点滴を受けた。そして、さらに3日が過ぎた6月25日に、息を引き取った。私たちは胸をなでおろした。


    伯母が亡くなってから数カ月後のある日、私は母に電話をかけた。それは、ハンソン会長が脳腫瘍との戦いに勝った話を聞いた直後のことで、頭の中では、伯母に化学療法を受けさせるべきだったのではないかという後悔が渦巻いていた。母は私の話を静かに聞き、それからこう言った。「考えちゃうよね。アドリアナは長生きできたかもしれない。私も時々考えてしまう」

    母の次の言葉を待つ間、沈黙が下りた。私の心は沈んだ。無理にでも化学療法を受けさせるべきだったのだろうか? 治療を受けて戦うべきだと説得すべきだったのか? 母は、ため息をついてからこう続けた。「でもね、アドリアナは戦いたくなかった。ディグニタスに行って、自分の意思で死にたかった。自ら選んで死にたかった。アドリアナはこれまでずっと、自分には選択肢がないと思いながら生きてきた。ようやく自分で選べるはずだった」

    心に葛藤を抱えたまま電話を切った。伯母は結局、選ぶことができなかった。絶対に嫌だと考えた死に方で死んでいった。打ちひしがれ、痛みに苦しみ、屈辱と怒りにまみれて。伯母は、死を望んでいたわけではなかった。自殺願望などなかった。伯母には計画と、希望と、向上心があった。死ぬのを心から怖れていた。伯母が抱く恐怖心を、私は一緒にいる間、ずっと目にしていた。だからこそ伯母には、自分の意思で死を選んでほしかった――死への恐怖に正面から向き合い、自分の選択の責任を引き受け、自分の生を全うするために。


    Luisa Rollenhagen is a Argentine-German journalist. She works at GQ, and is currently based in New York.

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:遠藤康子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan