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障害者として性別のないトイレを使ってきた私が今思うこと

身体障害者として育ち、いつも個室トイレを使っていた私。公衆トイレが利用できない状況は自分には関係ないと思っていた。

小学校5年生になるまで、友達は学校でトイレに行けるのに、自分は行けないという事実に疑問を持ったことはなかった。身体に障害がある私は、その時々によって車椅子に乗っていたり、歩行器に寄りかかったり、松葉杖にしがみついたり、形はいろいろだったが、ちっぽけな存在でしかなく、みんなと違うルールが当てはめられていた。

日中にトイレに行きたくなると、保健室に行って、おなかが痛いと言う。すると母が迎えに来て私を家に連れ帰る。これはつまり、その時点で下校してしまうので、それ以降の授業は受けられないということを意味していた。

そうしたら、クラスの誰かに「どこに行っていたのか」とたずねられる可能性があった。それに対する答えは難しかった。幼稚園の頃からずっと、喉が渇いて、マンガが描かれたココアや、宇宙飛行士が使うようなパウチ入りの飲み物『カプリソーネ』を見るたびに、頭の中で何度も同じことを考えた。

今、これを飲んだら、残りの時間を友達と一緒に学校で過ごせるだろうか、と。おそらく無理だ。水分補給の欲求を満たすか、教育を受ける機会をフルに活用するか、どちらかの選択を迫られていたのだ。

私が公立学校に通い始めたのは、『障害者教育法』(Individual with Disabilities Education Act、IDEA)成立後のことだ。1975年にできたIDEAは、障害のある子どもに「その本人にあった公教育を無償で」受けさせることを命じた連邦法だ。しかし、『障害のあるアメリカ人法』(American Disabilities Act、ADA)が1990年に成立するよりは前の話だった。

ADAは、すべての公共の建物を障害者が利用できるようにすることを義務づけた市民権法だ。このふたつの法律の狭間にいた私は、地域の公立学校に受け入れられた。だが、その学校には、私が使えるトイレはなかった。

私が10歳の時、ADAが議会を通過した。私と同じ年頃の女の子が車椅子から這って降り、連邦議会の建物の階段を登って、こうした法律がなぜ必要なのかを示して見せる様子をテレビで見た。

障害のある人々も、完全な市民として社会に受け入れられて当然だ。われわれは人間として扱われるに値する。動けないことをすでに受け入れてきたことと、それはまったく別の話だった。6年生に進級するまでには学校に使えるトイレができるだろうと思った私は、その夜、テレビの前で泣いた。この瞬間まで、まさかこんな形で社会の一員になれるとは想像もしていなかったので、泣いてしまったのだ。

だが、カリフォルニア郊外の裕福な小さな街の公立学校がADAに定められたことを実行したのは、私が卒業した数年後だった。米国の人口の約20%は障害者だというが、その当時、見た目ではっきりとわかる障害のあった児童は、私ひとりだけであり、優先して対応すべきことではなかった。だが、私がこれまで生きてきたなかで、米国は少しずつ、ゆっくりと「インクルージョン」へと方向を変えてきている。

年を重ねるにつれ、社会のなかで障害者がいられる場所が少しずつ増えてきた。どちらの私を見せることが、そこにいる人にとって快適なのかを考え、部屋で本を読んでいるふりをして過ごす時間が減り、安心できる時間が増えた。

今、30代半ばになり、どんな時でもありのままの自分、世間に思われているような障害のある女性ではなく、トランスジェンダーの男性で障害者であることにまったく抵抗がなくなった。ただ、そうなるタイミングは、理想にはほど遠かった。トランスジェンダーの人々が、どのトイレを使うべきかについてこの国が取り憑かれたように議論をし始めた、まさにそういう瞬間に、私はカミングアウトをしてしまったのだ。

トランスジェンダーの学生たちを保護するオバマ政権からトランプ政権に変わり、政策が180度転換した。世間も方向性を変え、私のようなトランスジェンダーとしてのアイデンティティーを持つ人々を排除するようになったのだ。トランスジェンダーの学生の保護を支持すると公言する州政府もいくつかあるが、地方都市の行政を含め、多くの州政府は、程度の差はあるにせよ、トランスジェンダーのトイレ使用を禁止する法律を成立させようとしている。なかには、今なお物議を醸しているノースカロライナ州の『House Bill 2(HB2)』を彷彿させる内容のものもある。

こうした政策に直面し、あるいは、連邦最高裁判所がトランスジェンダーの高校生ギャビン・グリムの上告に関する審理を差し戻したという事実によって、私は、自分という存在がいつでも不便で仕方なかった子ども時代につれ戻されてしまった。押しつぶされそうな気分だ。公衆トイレからの排除は過去の遺物であり、私の、そして何万人というトランスジェンダーたちの未来には関係ないと私は思っていたのだ。


高校卒業から20年ほどの間、トランスジェンダーであることをカミングアウトするまで、公衆トイレには利用できる便座が少なくともひとつあるのが当たり前だと思っていて、トイレについて深く考えなくなっていた。

介助者に手伝ってもらう必要がある人、大型の電動車椅子で入ってくる人、小さな子どもの世話に必要な用品を山のように持って来る人のための場所がトイレにはある。そうした設備は今では当然で、多くの人にとって便利なために、あることすら意識しない。しかし、私からすれば私がこれを当然だと感じるのは奇跡のように思う。

私を支えてくれる周囲の人々に、自分がトランスジェンダーであることを実際に打ち明けるにあたっては、自分の性自認(ジェンダー・アイデンティティー)について色々、思い悩むと同時に、トイレの表示についても考えた。

だがその前に、障害がありながらも、主流派として世間に受け入れられ、バリアフリーの実験台になる男性として、今ではどこにでもある第3のシンボル(性別のないイラスト)が掲示されたトイレを探すのに夢中になってしまった。そのため私は自分がふたつの性の間のどこに当てはまるのかについて考えることを忘れてしまっていた。

自分の特殊な体の状態が社会にどう適合するのか、教えられることなく成長したために、何事にもほとんど抵抗しない道ばかりを地図に描いてしまっていた。その道を進む過程で、障害は奇妙にも、私のジェンダー・アイデンティティーを解放するかたちで影響していた。

生物学的に女性として生まれた健常な子どもが、髪をベリーショートにして男の子の服を着ると、性別が社会通念に合わない存在として目立ち、脅威と見なされる。一方で、同じ子どもが移動支援機器を使っていたら、おそらく、手を貸すだろう。あるいは高価な設備が必要な存在として目立つだろう(手助けも高価な設備もいらない場合は、周囲に感動や感激を与える英雄と見られる)。 いつの場合でも、人が最初に目を向けるのは、移動支援機器とそこから連想される物語だ。ほとんどの場合、そのほかのことは目に入らない。

「女の子」として普通ではなく、目立ったこと、たとえば、「映画『オリバー!』のエキストラ」風か、スケーターパンク風か、あるいは両方を組み合わせたような服を好んで着ていたことや、美容師にコミック『アーチー』の絵を見せてこんな髪型にしてほしいと言ったこと、初めて買った車がピックアップ・トラックだったことなども全部、私の障害によって見過ごされていた。私自身はそのことをたいして考えもしなかった。私はただ、好きなものを好きだといい、あるがままの自分で、できるだけ目立たないようにして毎日をのんびりと過ごしていただけだった。

2種類のトイレのサインに関して自分のジェンダー・アイデンティティーについてようやく考え始めたとき、初めて自分は男性なのだという意識が明らかになった。自分がトランスジェンダーであることよりも、それを理解するのに自分が思う以上に長い時間がかかったことのほうに強い戸惑いを覚えた。そして、自分がトランスジェンダーだとわかって感じたことは恐怖だった。拒絶されることへの恐怖、性に関するもっとも基本的なモデルを超えた人間性を認識できない他人の手による暴力への恐怖だ。この恐怖心は私を用心深くした。そして、周囲の人からの要望に対して、常に警戒感を持つようになった。

私は、男性用トイレと女性用トイレ、どちらも使いたいとは思わない。公衆トイレは誰にとっても気持ち悪くて落ち着かない場所だ。トランスジェンダーにとって、今は特に、暴力の現場にもなりうる。

そうだ、私は男だ。そう自分に言い聞かせて、三角形のスカートから脚が見える女性のイラストではなく、スラックスを履いた2本の脚が突き出た顔のない男性のイラストと自分を重ね合わせてみる。だが、私の自己概念などどうでもいい。嫌がらせをされたり暴力をふるわれたりしないほうがよいという気持ちで、使うトイレを選ぶ。混雑していないところ、あるいは、その日に他人からそう見られると思われる性別に近いほうを選ぶ。日々、誰にも気づかれないようにと祈りながら、たくさん並んだうちの一番奥にある大きな個室に一直線に向かうのだ。


学校についての私の最初の思い出は、クラスから私を追い出せとクラスメイトの親たちが要求していたことだ。私の体がほかの子とは違うので、彼らの教育の時間がとられるから、という理由だ。確かに、クラスメイトたちは時々私を、あるいは当時私が使っていた車椅子を指さしたものだ。彼らの目にはふたつの区別はつかなかった。私は「混乱を招く元」としか見られていなかった。教室に「属している」人間に対して、とても不公平な扱いだ。だが教師も、「健常な」生徒たちも、誰ひとりこうした考え方を共有してはいなかったようだった。私は、親たちが教室にやってくるときは決まって、彼らの目に入らないように身を隠すことを学んだ。

こんな風に文章に書くと、当時感じた以上に悲しいことのように思えてくる。そこに私がいることがまったく想定されていない、私はそんな学校に通っていたが、そうした学校に通いたかった。私の友達はそこにいて、クラスも大好きだった。私は、世の中というものを十分にわかっていて、そんな場所で生き残ることが、成人になって社会に受け入れられていくための私にとっての唯一の手段だと理解していた。それはひどい選択だが、容易な選択でもあった。

これと同じ選択を迫られる障害児の数は毎年減っている。だが、その変化のスピードはまだ遅い。公立学校がADAを遵守しているかについて、米国全体を対象にデータを集めた機関はないが、2015年に連邦政府が行った調査から、ニューヨーク市の公立小学校の83%は、まだ完全にバリアフリーにはなっていないことがわかっている。

それでも、連邦法による定めと、コミュニティー内での法的手続きも相まって、あらゆる人にとってバリアフリーな空間は着実に増えている。「受け入れられる」ことがある意味当たり前になりつつあると感じる。しかし一方で、私は自分が、新しい種類の不当な「排除」へ向かおうとしている国に住んでいることも感じている。

学校の友人たちは、私の障害を見てもやりすごしてしまうような人々だった。彼らは障害をありのままに見ていた。それは本質的にいいも悪いもない、ひとりの人間の具体的な一部分だった。私のジェンダー・アイデンティティーも同じだ。私という人間を念頭に置いて作られていない世の中で私が生きていく上で、変えられない事実だ。障害があるおかげで、そういうことが上手くできるようになった。ただ、他人に気を遣わせないようにかなりの努力もしている。

だが、トイレ法案やトランスジェンダーな学生に対する法的保護の撤回は、これとはまったく違う。こういう法律を作った政治家やその支援者に、「私には公共のスペースで安全に存在する権利があること」を納得させる方法がわからないのだ。

私という存在が普通で、脅威ではなく、日常生活のなかで頻繁に起こる、かなり平均的なものだというふうに見てもらうにはどうすればよいかもわからない。それでも、私のような人々、「他者」として危険な文化集団に分類されてしまった人々を人間として認めさせるという基本的な仕事は、誰かがやらなければならない。

私はまだ、障害のある小さな白人男性として労せずして得た特権によって、ある程度守られている。もっとも明確で、偏見に満ちたトランスフォビア(トランスジェンダーへの嫌悪感)的イメージでも、私という人間の存在は、ラガディ・アンディ人形と同程度の物理的脅威を与えるに過ぎない。

トランスジェンダーの女性や少女、そしてトランスジェンダーの有色人種に対するイメージはまるで違う。彼らが公衆トイレで、より大きな抵抗や危険に遭遇する可能性は極めて高いだろう。この事実は、我々が聞かされてきた他者の脅威の話に通じるところがある。バスルームは長い間、分離政策の主戦場だった。

トイレでトランスジェンダーがシスジェンダー(生物学的性と性自認が一致している人)を襲った話はひとつもないという事実は、こうした法律の実際の目的とは一切関係ない。礼節ある社会に誰が受け入れられ、受け入れらないかをコントロールするための戦いの続きなのだ。

あの当時、学校のトイレを使えないことで「私という存在は、周囲の人々にとっては奇妙で怖いものなのだ」といつも思い知らされていた。公共の場所にいたければ、自分の生理的欲求と折り合いをつける必要があった。

私たちはいつもそこにいるにもかかわらず、私のような人間を後からおまけとしてかろうじて加えているだけの世界を受け入れる必要があったのだ。だが私は、子どもたちが自身の欲求をとるか教育をとるかという酷い二者択一を迫られる様を、黙って見ることには耐えられない。

『トランスジェンダーの平等を目指すナショナル・センター』(National Center for Transgender Equality)は2015年、トランスジェンダーの生活についての大規模な包括的調査を行った。その結果、公共の場でトイレを使わなくてもすむように飲食を避けるという人が31%もいることがわかった。つまり、多くの子どもたちが、私がしていたのと同じ選択をすでに迫られているというわけだ。コミュニティのなかで正当な居場所を確保するために、自分の人間性を否定することを学んでいる。

学校の上層部は私を無視することに決めていた。でも、友人や好きだった先生たちは、学校施設を改修させる力はなかったものの、私の心が安らげる空間を作るためにできることは何でもしてくれた。私は未来というものを、抽象的な概念としてでなく、社会の各構成員同士のやり取りの中で繰り返される小さな選択・決断の積み重ねという非常に具体的なものとして理解するようになった。私たちは、相手をどうやって受け入れるかを互いに日々選択しているのだ。

障害が重すぎる、あるいは見た目が普通と違いすぎるために「完全な人間とは思えない」という理由で、権力を持つ地位にいながら他者を排除する人々に、うんざりしている。自分のジェンダー・アイデンティティーを隠すべき時や、障害を強調しないほうがいい時をわきまえていなくてはならないことにうんざりしている。

いつでも好きなだけ水分を取れる暮らしをすることは過剰な期待だと思うことにもうんざりしている。こうした個人的疲弊感もあるが、それより大きいのは、「違う」とされる人々、特に子どもたちが、公共のスペースにいる彼らの権利を積極的に否定する文化を受け入れるよう強いられていることに対する強い憤りだ。

障害者として私が見てきた社会は、ゆっくりではあるが進歩してきたはずだ。その進歩がこのまま拡大していくことを望んでいる。未来の社会ではもっとインクルージョンが進むと信じている。だがそうした社会は、上からの組織的な保護政策と、そうした政策が末端にまで行き渡ること、そして、それに反応した思いやりある個人による支持がなければ、やってこないのではないだろうか。


Christian McMahonは米ロサンゼルス在住のライター。

この記事は英語から翻訳されました。翻訳:藤原聡美/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan


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