別れた彼が他の人と恋に落ちる様子。それを私はFacebookで見届けた

    傷つきながらも私は、彼をソーシャルメディア上で追いかけることをやめられなかった

    私と彼が別れたのは、ボストンのピザレストラン「ウノ・ピッツェリア」の駐車場だった。

    彼は結婚したがっていた。安定した仕事に就き、子どもを持ち、犬が走り回る裏庭のある家に住みたいと言っていた。私はニューヨークやロンドンに住みたかった。1年か2年くらい、タイに行ってみるのも悪くない。薄汚いアパートに住み、ものを書き、嵐のような恋がしたかった。21歳になったばかりで、安定して暮らすのはまだ早いと思っていた。

    私たちはシカゴ風ピザを1つずつテイクアウトし、彼の車の中で黙って食べた。テイクアウトならチップを払わなくていいし、店内で流れている趣味の悪い90年代のヒット曲を聴かなくていいと思ってそうしたのだが、もしかしたら、しばらく黙っていたかっただけなのかもしれない。

    「なにかがうまくいっていない」と私は言った。

    「ピザソースが注文と違ったの?」彼はそう言って私を見た。心から気遣うような表情をしている。自分が彼が好きなのは、こんな表情をするからなのだと私は思った。

    「ううん。ピザじゃないの。私たちのこと」

    赤いピザソースが彼の顎を滴った。私は断りもせず、自分の親指でそのソースをぬぐった。

    私たちは涙を浮かべながら、果たせない約束をした。ピザは冷たいまま足元に置かれていた。

    何年かしたらまた……と誓い合ったのだ。

    そして私はその約束に、必要以上にしがみついてしまった。

    3カ月後の深夜、彼のFacebookのプロフィールをクリックした。何やかやと理由をつけて。元気かどうか知りたいだけだと自分に言い聞かせる。やりたい仕事が見つかったかどうか確認するだけ。彼の両親がまだ元気で暮らしているか知りたいだけ。

    私はそうやっていつも、もっともな理由を挙げて過去を振り返ってきた。

    彼らの最初の写真は、パーティーで撮影されたものだった。

    そう思ったのは、その女性が赤い紙コップを手にしていて、彼はほろ酔い気分でかすかにほほ笑んでいたからだ。私は以前、その笑い方をよくからかっていた。彼の手は女性のウェストに巻き付けられていて、私はパソコン画面をじっと見ながら、彼がかつて自分のウェストに同じように手を添えた時の感触を思い出すまいとした。

    2人はただの友だちかもしれない。私たちが付き合っていたころからの知り合いだろうか? 2人はもう一夜をともにしたのだろうか?

    そんなことを気にする権利は自分にはもうないのだと言い聞かせる。でも気になって仕方がなかった。パソコンをパタンと閉じた。今夜はこれ以上つらい思いをしたくない。それなのに、眠りにつくと彼が夢に出てきた。

    冬だった。ジョイントを巻くための紙を買ったセブンイレブンの駐車場。周囲には汚れた雪が積もっていた。車に寄りかかって立っていると、足元から寒さがじわじわと全身に伝わってくる。

    彼はわざと私の方に向かって煙を吐いた。温かな息が漂ってくる。

    夢はたいていそうだけど、何だか奇妙で不可解だった。どうして私たちは車に乗らずに外に立っているのだろうか。その車は、なぜ私の母の車であって彼の車ではないのだろうか。こんなに寒いのに、彼はどうして上着を着ていないのだろうか。

    何より、どうして私たちはまだ一緒にいるのだろうか。

    私は、ポケットから手を出すと、彼のシャツの下に差し入れて、胸の方へと滑らせた。彼は一瞬びくっとして、それからほほ笑んだ。

    「僕はただ君の手を温めるための存在なの?」と彼は言った。

    「そうかも」私はにこっと笑った。

    寒さを感じて目が覚め、ベッドの中で彼を探す。

    目が覚めたその瞬間が一番つらい。夢と現実を取り違えた瞬間。実は別れてなどいない、と勘違いしたような気持ち。この手で彼の胸元に触れたいと願いながら、また眠ろうとする瞬間。愛し愛される感覚があまりにもリアルに蘇り、それがもう現実ではないなんて信じられない瞬間。

    私は、ベッドわきのスマートフォンをひっつかむと、彼のツイートを読み始めた。どんなかたちであれ、彼を近くに感じたかった。彼のツイートを読んでいると、その声がありありと思い起こされた。投稿する前に自分の冗談に満足して笑い声をあげる彼を想像して、思わず笑みがこぼれる。彼の声が聞こえてくるような気がする。ベッドでひとりぼっちなのを一瞬、忘れてしまうくらいだ。

    別れてから半年後、Facebookでまた別の写真を見つけた。赤い紙コップを持っていた例の女性と野球場で一緒に写っている写真だ。胃がぎゅっと締め付けられた。その女性はこれからも彼の人生に繰り返し登場することになるのだろう。私はスクロールして、2人が一緒に写っている写真を見た。どの写真でも、2人は飲み物を手にしている。彼女はスポーツ好きなのだろうか。それとも私みたいに、球場で売られているばか高いビールとホットドックが楽しみなだけなのだろうか? 彼女も、選手のユニフォームパンツがタイトすぎると言ったり、周りの観客の血中アルコール濃度はどのくらいなのかと話し合ったりするのだろうか? 2人は楽しんでいるのだろうか?

    2人が、飲み物片手に穏やかな笑みを浮かべて並んでいるのを見ても、私はまだ、彼が私との関係を終えたのだとは考えられなかった。

    何年かたったらまた……その約束が心に浮かぶ。あの時は、彼と一緒にいたいとは思わなかった。けれど、だからといって、死ぬまで離れ離れになるなんて。

    私はまだ彼のことを愛しているのに、彼が別の誰かと恋に落ちるなんて耐えられない。あの時は、こんなふうに片思いするなんて想像できなかった。彼が私に囁いた言葉を彼女に言ったり、私に向けた眼差しを彼女に向けたりするなんてありえない。

    妄想で頭をいっぱいにしながら、私は彼女を気の毒に思った。かわいそうに。あなたの彼は、元カノのことをまだ愛しているのよ、と。おかしなもので、胸の痛みが軽くなるなら、ありえないことでも信じてしまえるものなのだ。

    私は、彼がベッドに横たわり、天井を見つめながら、隣にいるのが私だったらいいのにと考えている姿を思い描いた。眠れぬ夜に、ベッドの中で横を向いて私を探している彼を想像する方が、現実を受け入れるよりも簡単だった。でも彼は、私のことなど少しも思い出していない――それが現実だった。

    インターネットで調べると、彼女のことがいろいろとわかった。美しく賢いこと。社交的で、笑顔がとても優しそうなこと。彼女のことを嫌いになりたいのに、嫌えなかった。

    子どもたちと一緒に写っている写真があり、その中で彼女は心底楽しそうにほほ笑んでいた。とても誠実そうな笑顔だった。外出の準備に延々と時間をかけたりなどしなさそうな女性だ。

    私は、彼女のFacebookをチェックしてから自分のページに戻り、一歩身を引いて、なるべく先入観を持たないようにしながら、互いを見比べてみた。共通点は何で、相違点は何なのだろうと考えた。私の顔の方が、角張っていてくっきりとしている。彼女の金髪は私よりも明るめだ。彼と一緒の時をのぞけば、私は笑っている写真が少ない。彼女は私より多くのボランティア活動をしているけれど、私の方がアウトドア好きみたい。彼女の方がお金に余裕があるようで、私はと言えば、古着を着て食生活もつましく見える。私と彼女には違いがあったが、圧倒的な共通点もあった。それは、互いに家族や友だちを大切にし、同じ男性を愛していることだ。

    私はそれからしばらくの間、2人が写真で互いをタグづけし合い、交際ステータスが代わっていくのを見守った。ツイッターでからかい合う様子を見て、どんな冗談なのかとあれこれ推測しては苦しんだ。彼女が彼の姉や妹と友だちになり、母親と一緒に写真を撮ったことを知った。2人の旅行先での写真を見て、彼女の横に立つ彼が付けている腕時計が、私がプレゼントしたものであることに気がついた。2人は、私たちがキスをした車でドライブに出かけた。そう、私たちが別れた車だ。

    2人の関係が、私たちが辿った道を辿り、通らなかった道を通るのを目撃した。

    2人は喧嘩するのだろうか? 私をいらつかせた彼の行動に、彼女もいらつくのだろうか。彼女も、大きな庭と安定した仕事を求めているのだろうか。

    Facebookで2人を追いかけるのは、やめようと思えばいつでもやめられたが、どうしてもやめられなかった。2人の関係がこの先どうなるのか知りたかったのだ。2人がうまくいくかどうかを確かめたかった。それよりも、うまくいかないことを期待していたのかもしれない。

    Facebookを見て自分自身を苦しめていたにもかかわらず、私は彼に連絡を取らなかった。

    まだニューヨークやロンドンに住みたいと思っていたし、タイにも1、2年くらい行ってみたかった。私は何も変わっていなかった。それでも、大きく歯を見せて笑っている彼の写真を見るのが好きだった。彼の「変な顔」や、突然写真を撮られて困っている表情が好きだった。彼を見ていると、人を愛するのがどんなことなのかを思い出すことができた。そして、人を愛することができる自分が好きだった。

    私と彼は、互いにまったく違う方向へとどんどん進んでいたのに、それでもなぜか、私は彼に引き寄せられていた。彼を身近に感じられるのが嬉しかった。実際には手の届かない存在だったのだけれど。

    自分がストーカーだったとは思わないが、もしかしたらそうだったのかもしれない。他人の幸せな生活を、仮想空間の窓を通じて覗き見していたのだから。13インチのパソコンの画面上で顔を見ていれば、彼がある意味、まだ自分のものだと思えたのかもしれない。自分はひとりきりではなく、愛されているのだ、と。そして彼も私のことを、同じようにFacebookで眺めているに違いない、と。

    時間とともに、彼のFacebookを見る頻度は減っていった。彼との別れをついに認めた時、胸を切り裂く痛みはそれほど鋭くなくなっていた。どちらかといえば、痛みがほとんど消えた古傷を、軽く突つかれたような感じだった。傷跡は残っているけれど、痛みを生じさせるのは思い出であり、それ以外の何ものでもない。

    やがて、彼のことを考えずに1時間が過ぎるようになり、それが数時間となり、1日、1週間、1カ月と長くなっていった。

    今では、彼のFacebookを開いてもさほどつらくない。彼が仕事で成功すれば誇らしいし、彼の知り合いが亡くなったとわかれば悲しくなる。彼が恋をしていてよかった。

    赤い紙コップを手にする彼女が、彼のように素敵な男性を見つけられたのを嬉しく思う。

    もしかしたら、今の彼は、昔とは違うのかもしれない。笑う時に鼻を鳴らしたりしなければ、ピザを半分に折って食べたりもしないのかもしれない。私は彼のことを何も知らないのかもしれない。それでも、彼のFacebookを開けば、自分が人を愛せること、愛される価値のある人間であると思い出すことができる。誰かを心から好きになったら、その思いは決して消えない、と気づかされるのだ。

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:遠藤康子/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan