人を解剖するとはどういうことか 献体を前にした医学生の思い

    医学生たちは解剖の実習で遺体と対面する。自分の体を捧げてくれた人々に対する感謝を思いながら、医学の道に進んでゆくのだ。

    私が初めて遺体を見たのは、9歳のときだった。バイオリンの陰鬱な音色が響くなか、私は棺の足元に立ち、遺体が履いている磨かれた革靴と、光沢のあるズボンを見つめ続けていた。家族ぐるみで付き合っていたこの男性が、生前にこんな服装をしているのを見たことがなかった。

    彼は、思いやりがあって時間におおらかで、常に穏やかな、とても信頼できる人物だった。私の隣りでは、両親がうなだれていた。すぐそばに、遺体の両脇の青白い指先が見えた。私たちの沈黙は続いた。そして父がため息をついた。母が手を私の肩に置いた。2人は向きを変えて部屋の後ろへ歩いていき、私は、その人の顔を見ずに、棺の横を通ってあとに続いた。

    その後、そのお葬式のことはあまり考えなかった。死が、私の人生に入り込むことはなかった。だが、私の心の奥の、ときどき開ける箱の中には存在していた。それをどうしたらいいのか、どう処理すべきかわからなかったし、それが何なのかさえ、よくわからなかった。だから、距離を置くのがいいと思った。

    13年経った年の秋、医学大学院の研究室に立ち、私たちが解剖している遺体の胸郭をクラスメートがノコギリで切ったとき、私にはもう、距離を置くという選択肢はなかった。骨を切るための電動ノコギリが白い粉を巻き上げ、体毛が焼ける臭いがした。切り離された骨と軟骨の間に指を滑り込ませ、引っ張った。骨が1本ずつ割れていき、胸郭がバラバラになった。

    救急救命室で、意識がなく、脈もない患者を前にしているところを想像した。私は、血液を送るのに十分な力で、患者に心臓マッサージを施す。患者は、マッサージをする前も後も何ら変わりなく見えるプラスチックの丈夫な人形ではない。私は、反発する胸部のまん中に、力いっぱい自分の体重をかける。軟骨がはずれる音が聞こえ、おそらく肋骨が折れる。死にゆく体に、何とか命を取り戻そうとする。

    両手を遺体の胸部深くに差し入れながら、私は、何年か前のあのお葬式のときのように、あるいは学部の授業で取った解剖学のときのように、他人ごととして見ているわけにはいかないのだと悟った。医療機関に献体をする人々は、私たちに会うこともないまま献体を決断する。自分の体を取り扱い、愛する人さえしなかったようなやり方で、体の隅から隅までを学ぶことになる私たちのことを、知ることはない。中には、医療提供者としての私たちが失敗したせいで、献体を考えるようになった人もいるかもしれない。

    その決断には、重みがある。未来の医者として、自分たちに向けられた信頼を受け止めることを私たちに要求している。もちろん、私たちは敬意を示し、注意深く熱心に、献体された体について学ばなければならない。だが解剖は、私たち自身が学ぶというだけではない。体をバラバラにして研究することは、エンジンを解体するのとはわけが違う。何よりもそれは、人間性を共有する行為なのだ。

    解剖をほかのことと同列に見てしまうと、ドナーに対して礼を失することになるだろう。また、すでに亡くなっている人だけでなく、生きている人も含めた、私たち医療従事者の手に自分の体を委ねてくれるすべての人々に対するひどい仕打ちとなるだろう。


    医学大学院に入ったとき、私は遺体に慣れていないわけではなかった。その前に3年間、学部の健康科学プログラムを取っていて、カリキュラムの一環として、研究室の設備で、解剖学と生理学を1年間学ぶことが義務付けられていたのだ。私たちの大学は、しっかりした献体プログラムがあるという点で、ほかと違っていた。私のような学生の教育のために、遺体を集めて保存する行き届いた仕組みがあったのだ。

    研究室の設備では、遺体はすでに切断されていた。何体かは、金属の台車に乗せられ、見えないようにして、壁に沿って並べられていた。プラスティネーション(遺体の水分と脂肪分を合成樹脂に置き換えて保存可能にする技術)を施されるか、異なる部位に切り分けられ、透明なアクリルの箱に入れられて、臓器系ごとに分類された棚に陳列されているものもあった。部屋にはホルマリンの薬品臭が漂っていた。

    研究室での最初の授業で台車の周りに集まったとき、助手の人たちが、「毎年、耐えられずに外に出る学生がいるから大丈夫。恥ずかしく思う必要はないですよ」と言ってくれた。結局、死とは、難しくて厄介で、少し臭いものかもしれない。だが、私たちのグループは全員、恥をかかないようにしようと心に決めているのを感じた。気持ちが悪くなるのは、高校の時に受けた生物の授業が最後だ。

    遺体が乾かないようにするための濡れた布が外された。顔は、注意深く、覆ったままにされた。血の気のない肌は、しわがあって少し黄味がかっていた。爪には明るいピンクのマニキュア。体の周りに体液が貯まり、肉片も落ちていた。前腕の皮膚は取り除かれ、筋肉と銀色の腱鞘がむき出しになっていた。私はラテックスの手袋をはめ、別の学生をよけて手を伸ばし、前腕の筋肉を優しく引っ張った。手首が動いた。気持ち悪さはない。満足して、私はうしろへ下がり、ほかの学生たちが順番に触われるようにした。

    私は、その年のその課程を取っている間、授業の合間や放課後や週末に友だちと研究室を訪れ、何百時間もそこで過ごした。私たちは、お互いに質問し合って学んだ。誰かが心臓弁や肝区域を指し、別の誰かが名称を答える。するとまた別の誰かが、その機能について質問する。

    遺体の中には、年月が経ったことがわかる物もあった。4~5年研究室に置いてあって、学生の関心に晒されてきたために、神経は擦り切れ、腱が細くなり、血管は破れていた。私たちは、使うことができるすべての標本を研究した。わかりやすい特徴を隠して見分けにくくし、さまざまな角度から何度も観察した。

    期末の実技試験に備えるため、こうした観察は儀式のように繰り返された。実技試験では20カ所の部位が出題される。結腸の小さな固まりや、ひざの関節。肉の横断面として、牛の尾が使われていたこともあった。私たちが脊髄の周りの膜を見わけられるかをテストするためだ。1カ所につき1分でその部位の名称を書き、それに関する質問に答える。答えが数秒で浮かばない場合、パニックは必至だった。

    こうして2学期分の解剖学を受け終わるころには、私は遺体にうんざりしていた。人体の複雑さに嫌気がさし、覚えなければならないものの圧倒的な多さと、短い時間で要求されることの多さに辟易していた。わたしはただ、肉とホルマリンの臭いを、自分の鼻や髪や服から永遠に消し去りたかった。

    だから、医学大学院に入るための面接を受けていたとき、解剖学プログラムの内容は、私の中で優先順位がかなり低かった。遺体を解剖することは以前から、医学を学ぶ者にとって最初の通過儀礼とみなされてきたが、最近の流れとしては、解剖学を学ぶ上でより効果的で効率的な方法として、あらかじめ解剖された遺体とバーチャル教材を取り入れる傾向がある。

    解剖学に今も遺体を使っている医学大学院の面接を受けたとき、案内をしてくれた学生と教授たちは、解剖する機会があることを、まるで神聖なものであるかのように語っていた。学部生の頃の解剖学研究室での授業を思い出し、私は疑問を抱いた。この時期に外科用メスを使うことに何の意味があるのだろう。私は人体を学ばなければいけないだけなのに。

    最終的に、私は遺体を使った解剖プログラムがある医学大学院に入った。1学期が始まって1週間もしないうちに、私はまた以前と同じことをしていた。手術着を着て、同じグループの人と一緒に、私たちに割り当てられた遺体が乗っている台の周りに静かに集まり、敬意を捧げた。それから、作業を分担し始めた。

    遺体を包んでいる袋のファスナーを開ける。器具を並べる。外科用メスの刃をハンドルに取りつける。切断する場所に印をつける。鎖骨がV字型になっているすぐ下の場所から始めるのだ。

    私は、学部での解剖学の授業では感じたことがなかった戸惑いを覚えた。最初にメスを入れることは辞退した。その代わり、クラスメートがメスの刃を胸部に入れるのを見ていた。皮膚が分かれた。刃が深く差し込まれ、結合組織や脂肪を切っていくと、体液が流れ出した。鉗子を使い、切られた皮膚の端をつかんだ。組織がはがれる音に体が固くなった。それは、私が慣れていた、きれいに解剖され、丁寧に準備された人体ではなかった。

    週2回、3時間ずつ行われる授業の多くは、皮膚をはがし、硬い組織を切り刻み、遺体の周りにたまった体液を吸引することに費やされた。遺体の足元には、危険物用のピンク色のごみ袋があった。皮膚の塊や骨、脂肪の塊、臓器の一部などで、ごみ袋はどんどん重くなった。私たちが誤って切ってしまった左肺の肺葉もここに入れられた。何が起こったか理解すると、誰もが手を止め、静かになった。

    1人のクラスメートが、2つに分かれてしまった臓器を、もとのように一緒に置いた。そのあとは、解剖の手順をもっとゆっくりと進めた。何かやる前には、お互いに、そして教授たちと2度3度と確認しながら進めたのだ。私たちの1つ1つの行動はやり直しがきかないことを、明確に意識したのだ。すべての間違いは違反行為だという共通の認識があった。


    基本的に医師とは、多くの点で、人の人生に立ち入るという役割を果たしている。私は医学実習生として、患者に対して、既往歴や精神衛生上の心配ごと、性遍歴などをあれこれ質問するよう指導されている。差し出がましいやり方と、思いやりのあるやり方があるだろうが、根本的には、ほかの誰にも打ち明けていないような私生活の詳細を話すよう患者に求めるのだ。目や耳をのぞき込んだり、足首や脚の脈を測ったり、あらゆる身体診察を行う方法も学んでいるところだ。

    医療従事者は、医療現場で起こることに対して患者からインフォームド・コンセントを得られるように、あらゆる努力をする。だが、何が行われようが、患者からすれば、不確かな点が常にある程度存在するだろう。患者にできるのは、医師が苦痛や不快感を最小限に抑え、診察で得た知識を実りあるかたちで利用し、思いやりと共感を持ってコミュニケーションを取ってくれると期待し、希望することでしかない。医療活動は、患者と医療従事者の間に存在するこうした信頼できるやりとりが前提となる。そうしたことについては理解していた。しかし、解剖学の教室で教授から、このご遺体は君たちにとって最初の患者だ、と言われた時には面食らった。

    それは、体験を意味づける枠づけとしては奇妙なもののように思えた。なにしろ献体者は、私たちの名前や顔を知ることはない。私たちが行うことはどれも、献体者に直接影響を及ぼさない。切開が的確でなくても、献体者が耐えねばならない永続的な損傷をもたらしたりはしない。それに、私たちと献体者の間で共有される対話がないのは明らかだった。「患者との関係」というのは、少なくとも、患者が心配なことを何でも医師に話しに来るという基本的な行為が必要なのではないだろうか? それに、その遺体が生きた患者だったら、標準治療を行うことを要求される私たちは、そもそも実習の手順を踏むことはできなかった。

    授業で解剖が進行するうちに、私たちは断片的な情報をつなぎ合わせて「献体者の物語」を理解し始めた。肝臓や膵臓、卵巣に塊を見つけたグループもあれば、腹部や膝のような、はっきり見える場所に傷痕(虫垂切除や関節置換術の痕跡)を見つけたグループもあった。私たちは、献体者が医療制度の範囲内と範囲外の両方でしてきたそれまでの経験や、ついに生涯を終えた原因について、考えを展開し始めた。

    私たちが扱った遺体は中年男性で、50代と思われた。首の付け根に沿って、黒い縫い目が走っていた。動脈に防腐液を注入された跡なのだ。胸や腕、手は黒い剛毛に覆われていた。長い指の腹には、かなり硬い「タコ」があった。私は、献体者が職場での長い一日の後に、ギターを弾きながら静かにハミングしているところを思い浮かべた。

    肺には黒い斑点が点在したので、私たちは献体者が喫煙者だと考えた。後になって、こうした斑点はよく見られるもので、環境汚染物質を何十年も吸い込んだ結果と見られることを知った。私たち自身の肺も、何年か経ったら献体者とまったく同じような見た目になるのだ。

    献体者は、健康上の懸念を言葉で述べることはできなかったが、私たちがこの目で見て、直に触れることを許してくれた。患者にはたいてい、医師をよく見てやりとりし、つき合いやすい相手かどうかを判断する機会がある。私たちの献体者は、自分の身体にどういうことをするのか会って話し合えるという恩恵を得られずに、私たちが誠実な態度で学習に取り組むと信じてくれた。よく考えた末に、学生たちの手に最終的に身を委ねるというリスクを受け入れたのだ。

    わずかなリスクかもしれないが、軽率で、ぞんざいに切開したり、無神経な発言をしたりする学生がいるかもしれない。死んだ後は、人として見られず、細胞組織の集まりとしか見られないかもしれない。それでも献体者は、献体を通じて、自分の人生に私たちを招き入れたのだった。

    「遺体を患者として考えること」は最初のうち奇妙に思えていたものの、私は遺体を、医療制度全体の縮図と見なすようになり始めていた。医学生や研修医、特別研究員としての私たちは、患者の世話をすることによって、医学の訓練を受けている。私たちは、調査研究に参加するよう患者に依頼する。そうした調査研究は、調査表に記入することから、まったく新しい外科手術を受けることまで、あらゆることが含まれているかもしれない。信頼が求められ、患者がそれを提供し、私たちはその信頼に応えようと最善を尽くす。

    ただし、医学研究者としての私たちには、こうした責任を果たすことができなかった歴史がある。1840年代には、(診察で現在広く用いられている検鏡を開発した)婦人科医のJ・マリオン・シムズが、奴隷の黒人女性に麻酔をせずに外科手術を行った。

    受賞経験がある研究者ソール・クルーグマンの指揮下で行われた1950年代の研究では、スタテン島のウィローブルック州立学校に通う知的障害児が、わざと肝炎ウイルスに感染させられた。泌尿器科医のペリー・ハドソンは1950年代にニューヨーク市で、食料と保護施設の提供を約束して、前立腺ガンに関する実験に参加するホームレスを募集した

    こうした歴史があったため、医師という仕事は、インフォームド・コンセントや意思決定の共有に関して、明確な「患者中心」のモデルへと移行してきた。各施設の治験審査委員会(IRB)や厳格な倫理指針により、研究と医療の提供の改革が行われてきた。しかし、非倫理的でパターナルな(権威主義的で干渉的な)治療が完全に過去のものになったとは言い難い。

    たとえば、治療の質や受けやすさには、依然として大きなギャップが存在する。有色人種や同性愛者、女性など、社会的に軽んじられているコミュニティに偏りがあるかたちで影響が続いている。

    医師として私たちには、こうしたコミュニティのニーズを認識した、文化的に適切な治療に賛同する責任がある。そうした治療を提供するにあたって、自分自身や同僚には説明責任がある。そして、「静かだ」とか「目につかない」とか表現されてきたこうした人々の治療について大事な手引きになるのが、何らかの苦痛に対して話すこともできず、身体をぴくっと動かしたりすることすらできない遺体だ。

    血液が凝固した動脈や筋張った神経を私たちが引っ張っている時、身体をひっくり返して背中側を解剖する際ににじみ出てあちこちに飛び散る脂肪の塊にたじろぐ時、人体を小さなパーツに解体している時に存在するのは、「義務」という感覚だ。献体に敬意を払い、教材として学ぼうとするだけでなく、医学が犠牲の上に成り立っていることを認識する義務だ。

    医学における多くの進歩は、危害を加えないという誓いを破った結果として得られた。それでも私たちは、患者の信頼を求め、患者に信頼されている。思いやりと見識のある倫理的な医療を提供し、医療分野における限界をたゆみなく押し広げることは、私たちの責任だ。そして、私たちが返すことができない恩義に感謝することでもある。


    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:浅野美抄子、矢倉美登里、合原弘子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan