• metoojp badge

女性監督の作品が映画祭で賞を独占。それでも劇場で上映されないのはなぜ?

2018年のサンダンス映画祭では、女性監督と資金の問題が浮き彫りになった。

2017年の「サンダンス映画祭」では、ウィメンズ・マーチが行われ、その行進にはハーヴェイ・ワインスタインも参加していた。会場となったユタ州の住民や、映画祭の関係者に混じり、ワインスタインは女性の権利のために歩いた。パークシティのメインストリートは、猫耳のニット帽と、厳しい言葉が書かれたプラカードの海と化した。9カ月後、ワインスタインは、数十年にわたる性的暴行、セクシャルハラスメント、性行為の強要、口封じの疑惑を暴露され、ハリウッドを根底から揺るがす「#MeToo」ムーブメントが勃発した。

筆者は2018年のサンダンス映画祭で、この出来事への言及を繰り返し耳にした。筆者はこれまでサンダンス映画祭に何度も足を運んできたが、今回はこれまでで最も女性主導の映画祭だった。女性監督の作品が全体の37%を占めた(同題のティーンエイジャー小説をもとにしたデジレー・アカバンの『Miseducation of Cameron Post』、ヤズィーディー教徒の活動家を追ったアレクサンドリア・ボンバッチの『On Her Shoulders』など)だけでなく、女性監督が4つの監督賞すべてを獲得。性差別や無意識の偏見、報酬の平等をテーマに、いくつものパネルディスカッションが行われた。ワインスタインの出来事は、物事は1年で大きく変わるということを恐ろしい形で証明し、たとえ公に支持を表明しても、実際の行動とは無関係であることを思い知らせてくれた。

人々は再び雪のパークシティに集まり、リナ・ウェイスやジェーン・フォンダが熱を帯びた演説で団結の必要性を訴えた。しかし、今回の映画祭では終始、そうしたパフォーマンスに対する懐疑的な空気が流れていた。言動の不一致はハリウッドではよくあることだし、ハリウッドに限ったことではない。それでも、「#MeToo」ムーブメントのあとでは、言動の不一致はこれまで以上にいら立たしく感じられる。演説やピン、Tシャツ、行進といったものは、行動が伴わなければ安っぽく感じられるものだ。

もちろん、1週間半にわたる映画祭の期間中、性的不品行に関する話し合いは続けられた(性的不品行を報告できるホットラインも設置された)。しかし、皆の心の中には、もっと緊急の問題があった。職場文化を改革するために必要な、資金や権力の問題だ。満員の聴衆を集めた「ウィメン・アット・サンダンス」のブランチでは、ナオミ・クラインがその著書『ショック・ドクトリン』の中で提唱した概念「惨事便乗型資本主義」をヒントにした「惨事便乗型フェミニズム」という考えが誕生。今回の出来事をチャンスととらえ、業界全体の不均衡に切り込む方法をパネリストたちが話し合った。

しかし、映画祭が終わりに近づくまで、女性監督の映画に大金が流れることはなかった。映画は次々と購入されていったが、『Leave No Trace』や『Tale』といった女性監督の作品がようやく大型契約を獲得したのは、2度目の週末を迎えるころだった。今回は女性主導の映画祭だったかもしれないが、勢いのある幕開けから最後の裁定にいたる一連の流れは、2018年のサンダンス映画祭は期待外れで、尻すぼみで、明白なヒット作が存在しないことを物語っていた。始まりと終わりが無関係だと考えるのは難しい。複数の有力な配給会社が「Variety」の取材に対し、「いったい誰のためにつくられた映画なのでしょう?」と不満を漏らしている。

女性は映画をつくる。今回の映画祭に出品された映画の中には、本当に素晴らしいものもある。しかし、映画を見てもらうには、配給会社という試練に打ち勝たなければならない。配給会社は、どの映画が人々に受け入れられ、生き残るかを判断した上で、映画館で上映する作品と、その資格を得る監督を決定する。あらゆる人が、女性を支持するとか、女性の声を聞くなどと熱心に言うが、女性の安全を保証するだけでなく、女性に仕事と平等な報酬を与えることも差し迫った問題だ。しかし、女性監督の映画に賭けてみる価値があるか、商業的に成功するか、ということに関しては、2018年のサンダンス映画祭はおおむね、まだまだ先は長いことを告げているかのように感じられた。


サンダンス映画祭に行ったことがない人は、1500ドルのダウンコートやカシミアのビーニーキャップ(ニット帽)を身につけたセレブたちや、企業からの小さなプレゼントをもらいながら小さなスキーリゾート地を歩き回るといったイメージを思い浮かべるかもしれない。これはすべて本当で、一見の価値はあるが、全体の一部にすぎない。サンダンスはハリウッドの理想像であり、少なくとも理論上は、システムの外でつくられた映画を発表する場だ。サンダンスで上映される作品は、大胆な感性、多様な声、芸術的な品格を持つ。

毎年、あらゆる業界関係者が、市場の圧力さえなければつくりたいと思うような映画を観るために集まる。そして、出品された映画はすぐ、市場の圧力にさらされる。配給会社が、映画館やビデオ・オン・デマンド、ストリーミング向けの有望な作品を購入する戦いが始まるためだ。高地で意識がもうろうとしているせいか、驚くほど浅はかな契約が結ばれることもあるが、一方で、のちに大きな影響を及ぼすような発見もある。結果的に配給会社が利益を得られるかどうかにかかわらず、配給会社はこうした契約によって、芸術作品を支援しているという印象を与えることができる。だからこそ、「静かな」年でさえ、サンダンス映画祭は重要視されているのだ。現実はもっと複雑かもしれないが、人々がキャリアを始動させたり、外の世界から参入したりするチャンスを与えてくれるイベントだ。

2017年のサンダンス映画祭で最も話題になった作品は『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』、『君の名前で僕を呼んで』、『マッドバウンド 哀しき友情』だ。すべて劇場映画の配給会社が買いつけ、現在、アカデミー賞のあらゆるカテゴリーにノミネートされている。一方、2018年のサンダンス映画祭で最も話題になった『Tale』は、劇場ではなく「HBO」で放映される予定だ。

舞台裏でどのような入札や交渉があったとしても、最も良い条件を提示したのが、劇場映画の配給会社ではなくケーブルテレビ局だったことは確かだ。ここで映画対テレビの議論を再燃させるつもりはない。しかし、映画スタジオからすれば、これほど意欲的で評価の高い作品が小さな画面に甘んじるのは衝撃の事実だと思う。近年のテレビ界は、女性主導の作品や女性クリエーターに対して、以前よりはるかに友好的になっている。

『Tale』は、性的虐待をテーマにした自伝的なドラマで、ドキュメンタリー作家ジェニファー・フォックスの初監督映画だ。フォックス役を演じるのはローラ・ダーンで、かつては「合意に基づく関係」と自分に言い聞かせていた出来事は虐待だったのではないかという疑問を持ち始める。当時、フォックスは13歳で、相手は40歳のランニングコーチ(ジェイソン・リッター)だった。作品は、過去と現在を行き来し、人の記憶が頼りないこと、人は記憶を受け入れやすいよう書き換えることで、自分を守り、傷つけているという事実を表現している。「#MeTooムーブメントの映画版と言ってもよいだろう。捕食者は力の不均衡に守られ、最初の犠牲者が去っても、しばらく力を維持し続ける。

おそらく『Tale』はあまりにタイムリーで、バイヤーたちは怖気づいてしまったのだろう。少女時代のフォックス(演じるのは、わずか14歳のイザベル・ネリッセ)が調教された上で、セックスを強要されるのだから。これらのシーンでは大人の代役を立てたことを知っていても、やはり見ていると胸を締めつけられる。大人になったフォックスが自分に言い聞かせてきた記憶と対比させることで、法的に罰せられるレイプがどのようなものかを強烈に伝えている。難しいシーンから目をそらすことなく、女性の視線で真っすぐ見つめている。

『Tale』がHBOに買われたのはひどい仕打ちだと言いたいわけではない。HBOは巨大なプラットフォームで、おそらく映画館で上映されるよりも多くの目にさらされる。しかも、今回の映画祭で2番目に金額が大きい700万ドルで契約したと伝えられている。ただし、1000万ドルと言われる最大の契約を手にしたのがサム・レビンソンの「Assassination Nation」であることには言及した方がよいだろう。筆者は見ていないため、「Assassination Nation」がどのような映画か語ることはできないが、道を踏み外した町の暴力的な風刺劇であり、きっかけは、ハッカーがオンラインに町の秘密を投稿し始めたことだと説明されている。主役は4人のティーンエイジャーで、4人は秘密をばらされたことで、憎悪の対象にされる。つまり、女性蔑視と女性による復讐を、『Tale』よりはるかに大きな規模で、深刻度を下げて描いた作品だ。バイヤーたちがこの作品に殺到したことを考えると、危険信号である「#MeToo」ムーブメントに近い内容ではないのかもしれない。契約の当事者となったルッソ兄弟は発表資料の中で、「すべての人が見て、話し合うべき映画です」と述べている。

むしろ、問題は視点とアプローチにあるように思える。自身の体験を題材にしたフォックスの映画の生々しさが、派手でわかりやすい娯楽作品より重要性が低いとみなされたのだ。「Variety」のオーウェン・グレイバーマンは『Taleを、「大ざっぱなポストモダン風のライフタイム映画」と評した。この評価は、出版界における女性作家の扱いを思い起こさせる。女性らしさは出版界において、その本が軽く、使い捨てで、芸術性に欠ける証拠とみなされる。インディーズ映画はしばしば「重要性」を売りにしているため、映画界の有力者(や批評家)が何を評価するかは、何が買われるかに影響を与える。そして、有力者や批評家はいまだ、人口統計学的に多様ではない。


筆者が最も気に入っている映画も、誰に買われるのかわからない状況だ。その映画とは、印象派の肖像画を思わせるジョセフィン・デッカーの「Madeline's Madeline」だ。前作は実験的な方向へと脱線していったが、この作品には明確な物語があり、しかも平凡ではない。残忍な10代の少女の混乱した内面を描いた物語だ。少女は精神疾患の診断を受けているわけではないが、不安定な現実感を持つ。主役のヘレナ・ハワードによる迫真の演技もあり、見る者は拳で殴られたような衝撃を受ける。ハワードは映画初出演で、演技の大部分は即興だ。ハワード演じるマデリンはあまりに強烈で、周囲の人々を圧倒し、恐怖におびえさせる。マデリンはときどき、息苦しい母親(ミランダ・ジュライ)に危害を加えようと考える。舞台演出家(モリー・パーカー)による稽古は安らぎだったが、2人の「コラボレーション」は吸血鬼のような方向へと変化していく。

しかし、『Madeline's Madelineのマーケティングは容易ではない。人種や階級、インスピレーション、メンタルヘルスなど、さまざまな要素が満載で、どれか1つを長く説明することはない。映画を観る側にとって、これは長所だが、映画を売る側にとっては短所だ。人々の教訓になると売り込むことができるほど明確なメッセージはなく、ポール・トーマス・アンダーソンやコーエン兄弟といった有名監督(ほぼ例外なく男性)の作品でもない。有名監督の作品であれば、多少遊びが過ぎても許容される。『Madeline's Madeline』が不幸な運命をたどることになったのは、このような理由からかもしれない。会場では、この映画のファンでさえ、まるで過去の作品であるかのような口ぶりで話していた。ハワードには輝かしいキャリアが待ち受けているはずだと補足することは忘れていなかったが。とはいえ、チケットを購入する観客がどう行動するか(あるいは、彼らの狭い世界観)について、業界はシニカルな見方をしている。筆者はただそういう見方を内在化していないだけなのかもしれない。

『Kindergarten Teacher』も胸騒ぎのする作品だが、『Madeline's Madeline』ほど複雑ではない。少なくとも『Madeline's Madeline』に比べたら、大きな配給会社と契約する可能性は高いだろう。主役とプロデューサーを兼任したマギー・ギレンホールというスターの存在が大きい。もともとはイスラエルの映画で、脚本家兼監督のサラ・コランジェロがスタテン島を舞台にリメイクした。『Madeline's Madeline』と同様、不気味なほど善良な白人女性(ギレンホールが忠実に演じている)と、担当クラスの有色人種の子供(パーカー・セバク)との間の、熱心だが実際には捕食者と被食者に近い関係を描いている。ギレンホールは彼が早熟の天才詩人だと確信し、その才能を絞り尽くそうとするのだ。この作品を見ていると、サンダンスのもう1つの暗い現実を認めずにはいられない。カメラの裏側で女性が増えているのは確かだし、キャストも多様化している。それでも、今回の出品作の監督たちがそうであるように、いまだ圧倒的に白人が多いということだ。

『Kindergarten Teacher』は不安を抱かせる作品だが、『Skate Kitchen』にはそのような緊張感はない。『Skate Kitchen』も筆者のお気に入りだが、皮肉にも、まだ契約が決まっていない。クリスタル・モーゼル監督が初めて手がけた長編映画『Wolfpack』は、アパートに閉じ込められていた兄弟のドキュメンタリーで、芸術と商業のはざまにある作品だった。『Skate Kitchen』も、モーゼルがニューヨークで出会った映画のような子供たち(おしゃれでスケートボードに夢中な女の子たち)の物語で、台本はあるが、コラボレーション作品のように仕上がっている。ほぼ全員が映画初出演であることを忘れてしまうほどだ。怖いもの知らずで、人種的に多様で、性的に奔放で、くだらない話ばかりしている少女たちは、まるでクールな未来の住人のように見える。ところが、ジェイデン・スミス演じる遊び人の少年が、友人たちの元彼女に次々と手を出し、騒動を巻き起こしていく。

『Skate Kitchen』は気持ちいいほどさわやかな映画だが、ラリー・クラークとハーモニー・コリンによる1995年の話題作「KIDS/キッズ」と比較される可能性がある。ニューヨークの街を保護者なしにうろつく10代という共通点があるからだ。KIDSは不品行への警鐘というわかりやすさがあったが、『Skate Kitchen』には、太陽の光が差し込むようなリアルな1つの希望がある。おそらく私たちが必要としていたのは、少女たちに主導権を与えることだったのだ。

『KIDS』が公開されてから25年近くになる。もちろん、発表されたのはサンダンスで、例のワインスタインが映画館で公開し、その内容が世間を騒がせた。それ以来、市場、資金調達の方法、感性としての「インディーズ」映画の概念が一変した。『KIDS』のわいせつな不品行の描写は、作品の注目度と興行収入を押し上げた。それは、『Tale』の性的虐待シーンをめぐる論争とは明白に異なるものだ。そして今でも、ようやく思春期に達した少女たちの処女を奪い、快感を得る捕食者のようなティーンエイジャーの映画より、捕食者のような男性に処女を奪われた自身の体験を語る女性監督の映画の方が、興行的にはリスクが大きいようだ。


サンダンスはしばしば、女性監督にとって、いまだ無関心な業界に直接入り込もうとする、より優れた育成・発表の場として機能してきた。映画祭の歴史には、映画界の外で花開いた女性たちがちりばめられている。『Just Another Girl on the I.R.T.』のレスリー・ハリス(現在、新作映画の資金調達中)、『ビビアンの旅立ち-離婚そして新しい出逢い』のドナ・ディッチ(テレビ番組の監督に転身)などがその例だ。映画界でのキャリアを手にしたエバ・デュバネイ(歴史はこちら)は2013年、「ESPN」のドキュメンタリー番組「Venus Vs.」の試写会で、2012年のサンダンス映画祭に『Middle of Nowhere』を出品し、監督賞に輝いたが、新プロジェクトの引き合いはブランドやケーブルテレビ局からだけで、映画スタジオからはなかったと語っている。

デュバネイは2014年に『グローリー/明日への行進』を監督。3月には、「Disney」映画『A Wrinkle in Time』が公開された。しかし、次の映画が公開されるまでに数年~十数年のブランクが開く女性監督もいる。原因は、資金不足やプロジェクトの中止で、映画スタジオがゴーサインを出さない場合や、出資に消極的な場合が多い。今回のサンダンス映画祭も、高く評価されている2人の女性監督が久しぶりに戻ってきた。

1つ目の作品はデブラ・グラニックの『Leave No Trace』。グラニックは2004年に『Down to the Bone』でデビューし、2010年に続編の『ウィンターズ・ボーン』を公開。どちらも前年のサンダンス映画祭で上映された。『Down to the Bone』は薬物中毒を題材にしたドラマで、予想外の展開が待っている。ベラ・ファーミガがブレイクするきっかけとなった作品だ。ウィンターズ・ボーンはオザーク高原を舞台にしたスリラーで、多くの人から愛された。ジェニファー・ローレンスはこの作品をきっかけに、映画スターへの道を歩み始めた。デビュー作から続編までは6年のブランクが開き、今回の3作目も発表までに8年かかった。ただし、2014年には、(ドキュメンタリー映画)『Stray Dog』を監督している。

『Leave No Trace』は、楽しい映画というより称賛したい映画だが、大きな才能を感じる作品であることは間違いない。父(ベン・フォスター)と娘(トーマサイン・マッケンジー)の物語で、彼らはオレゴン州で電気のない暮らしを送っているが、そこへ社会福祉当局がやって来る。父と娘はあまり話す必要がないほど親密な関係にある。ある配給会社が関心を示していたため、グラニックが次のチャンスを手にするかどうかは、この映画の興行成績によって決まるはずだ。

一方、タマラ・ジェンキンスは、新作『Private Life』を完成させるまでに11年かかった。『Private Life』は、2007年にサンダンス映画祭で上映された『マイ・ライフ、マイ・ファミリー』の続編だ。『マイ・ライフ、マイ・ファミリー』は、ローラ・リニーとフィリップ・シーモア・ホフマンが難しいきょうだいを演じた作品で、アカデミー賞で2部門(リニーの助演女優賞とジェンキンスの脚本賞)にノミネートされた。それでも、新作のための資金を調達し、発表するまでに10年以上を要した。なお、ジェンキンズのデビュー作は、皮肉たっぷりの『Fカップの憂うつ』(1998年)だ。

初日の夜に上映された『Private Life』は、不妊症をテーマにしたコメディードラマで、素晴らしいキャリアを築いてきたキャスリン・ハーンとポール・ジアマッティがカップルを演じている。粗削りな部分はあるものの、体外受精と養子縁組の経験、その精神的、金銭的な負担を描いた、心が張り裂けそうな物語だ。女性監督にしかつくることのできない映画であり、女性監督の良さが最高の形で出ていると思う。多くの女性がいまだに、仕事と家族の二者択一を迫られている。ハーンは仕事を選択したが、同時に家族を求めてしまい、その罰を受けているような気分を味わうことになる。ジェンキンスはこの感情を深く掘り下げている。

この作品の場合、興行成績はあまり重要ではない。「Netflix」プロデュースで、9月21日の公開を予定しているためだ。劇場公開されるとしても、賞レースへの参加資格を得るための形式的なものになるだろう。1つの大きなスクリーンではなく、数千~数万の小さなスクリーンを主戦場とすることは、映画の見方が変わってきている現実を反映している。

2017年に劇場公開された映画で、興行収入が最も高かった1100作品のうち、女性監督の作品はわずか7%しかなかった。しかし、映画の見方が変わっている事実を考えると、『Private Life』や『Tale』といった女性監督の作品がストリーミングやテレビに流れていることは、映画界の損失ではないかと思えてくる。配給会社は、私的な雰囲気を持つ女性監督の映画について、劇場内のざわめきを止める力はないと考えているのかもしれないが、だからといって、配給会社にとって重要な層が女性の作品に金を落とさないとは限らない。配給会社の幹部は「いったい誰のためにつくられた映画なのでしょう?」と言っていたが、その答えはおそらく「女性」だろう。


サンダンスは居心地のいい、泡のように閉ざされた場所だ。そこにいるほぼすべての人が、心から上映作品を気にかけ、関連問題に取り組んでいる。映画をつくる人、演じる人の顔ぶれは、映画業界そのものよりも目まぐるしく変化する。サンダンスに身を置くことは、一時的に築かれたコミュニティーの信念をじかに感じることを意味する。映画は芸術であり、その良し悪しにかかわらず、芸術はとても重要だという信念だ。しかし同時に、映画は商品でもある。できるだけ多くの観客を得るために売り(マーケティングし)、次の映画につながるような成功を収めなければならない。映画スタジオのマーケティング部門が喜んで増幅する声は限られている。その一因は近視眼的な思考だが、女性が自分の声を届けるのに苦労してきたこの1年を振り返ると、女性が自分のつくった映画を見てもらうのに苦労し続ける現状は本当にいら立たしいことだ。

2018年のサンダンス映画祭では、筆者が紹介した以外にも、女性監督たちの力強く、鋭く、興味深く、感動的な作品がいくつも上映された。しかし、その一部はもっと広い世界で評価されるまでに困難な道のりを歩むことになるだろう。サンダンス映画祭のような狭い世界でも、配給業者は女性監督の作品に積極的に賭けようとしなかった。女性監督が広い映画業界で利益を得るチャンスなどあるのだろうか?

会場で行われたパネルディスカッションで、多くの女性たちは、報酬や仕事を得ること、つまり、お金について語ったのにはきちんとした理由がある。映画界を動かしているのはお金であり、ゴーサインが出るかどうか、資金を調達できるかどうかは、作品がお金になるかどうかに懸かっている。そして、実際の変化を起こせるかは、作品の可能性を判断する力を持つ者に作品を観せられるか、観客が作品を喜んで支持するかに懸かっている。映画界やテレビ業界が性的不品行の暴露によって揺るがされたこの1年。性的虐待を許したのと同じ権力構造が、資金を出し、契約を結び、プロジェクトを具現化しているという事実について、今こそ考えてみるべきだ。映画界に必要なのは、うわべだけのジェスチャーではない。映画界が適切に時代に付いていくには、劇的な変化が必要だ。

この記事は英語から翻訳されました。翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan