「アポロ11号の月着陸」を描く映画『ファースト・マン』に、右も左も怒っているのはなぜ?

    新作映画『ファースト・マン』は、ニール・アームストロングやNASAが苦労の末に達成した月面着陸を美化してはいない。この作品は、関わった人たちを神格化せずに、その偉業を描こうとしている。

    宇宙飛行士を描いたある映画が、劇場公開される前から大きな注目を集めており、米国連邦議会の現職上院議員を含めた多くの人を怒らせている。この現象には、とても「2018年的」なところがある。

    宇宙飛行士は成長途中の子どもたちが憧れる存在であり、すべての人類が同じ青と緑の星を共有していることを宇宙からはっきりと思い出させ、私たちをひとつに結びつけるはずの職業だ。だが、アポロ11号の月面着陸ミッションと、そこに至るまでの年月を描いた、タイトルだけ聞くと無害そうな映画『ファースト・マン』は、その顔を見るだけで我慢のならない人間に匹敵するような、評判の高い作品となった(アメリカ公開は10月12日、日本公開は2019年2月8日)。

    たとえば、ジェンダー問題に関心の深いカルチャーサイト「Jezebel(ジェゼベル)」のボビー・フィンガーは、『ファースト・マン』は今シーズンの賞レースにおける敵役だと断言した。そのおもな根拠は、ストレートの白人が監督し(『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル)、ストレートの白人が主役で(ライアン・ゴズリング演じるニール・アームストロング)、すでに少なくとも1人の高名なストレートの白人に絶賛されている(「バラエティ」誌のオーウェン・グレイバーマン)ことだ。

    「ニューヨーク・タイムズ」の批評家ウェスリー・モリスは、異論を呼んだ「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」のエッセイ」のなかで、途方もない怒りが現代を支配していると述べ、そうした怒りから逃れられないことを示す例として、この映画に対する自身な反射的な反応を引きあいに出した。「それから、『ファースト・マン』というタイトルの映画にライアン・ゴズリングが出演することにも腹を立て、冷静さを失いつつあることを自覚した。本当に自分は、そんなことに腹を立てているのだろうか?」

    そのいっぽうで、政治的右派の側では、『ファースト・マン』において、アームストロングとバズ・オルドリン(演じるのはコリー・ストール)が月面に星条旗を立てる瞬間が省かれていたと報じた誤解を生む記事をきっかけに、まったくばかげたニュースサイクルが巻き起こった。

    実際に映画を観れば、そこに旗が立っていることが複数の場面で明らかに見てとれるのだが、にもかかわらず、愛国主義の欠如と見なされたものに対して巻き起こった憤激は止まらなかった。その怒りは多くの場所で噴出し、ついにはマルコ・ルビオ上院議員のツイートにまで辿りついた。

    『ファースト・マン』は、アメリカの偉業、とりわけ必然的に白人男性を称えることにもなる偉業をどう記録するかという問題をめぐる、予想外の屈折点になった。

    こう言っても差し支えないと思うが、そうした憤りのすべてが、宇宙旅行の歴史の表現をめぐって過熱した感情から生まれているわけではない。少なくとも、神聖なるオスカーシーズンの映画は、重要人物の物語を採用する傾向にあることも、同じくらい関係しているだろう。

    誰もがほぼあらゆることにピリピリしている時期に、『ファースト・マン』は、アメリカの偉業、とりわけ必然的に白人男性を称えることにもなる偉業をどう記録するかという問題をめぐる、予想外の屈折点になった。もっとあからさまに言えば、「最初の男」というタイトルを見て、また、ライアン・ゴズリングがいかめしい表情をしているポスターを見て、アームストロングは月へ行ったというよりは、月の「処女を奪った」偉大な男だとほのめかすジョークにあきれる人もいれば、映画の表現では不十分だと感じ、実際の貫通場面、つまり「星条旗を立てるところ」を見せろと要求する人もいる。

    『ファースト・マン』が描いているのは、時代の象徴になった数々のイメージとともに定着したストーリーだ。従って、その象徴を主張してきた保守主義を是認せずにそれを描くことは可能なのか、という問題が提起されている(「ニューヨーカー」のリチャード・ブロディは、その答えはノーだと確信し、この映画を「右派の崇拝対象」と評している)。言い換えれば、こうした象徴は、偽善を象徴するものとして扱う必要があるという指摘だ。

    『ファースト・マン』の舞台は1960年代だ。そしてそれは、抗議活動や反体制文化の60年代ではない。ただし、本作で聴くことができる当時の歌「ホワイティー・オン・ザ・ムーン」の歌詞からは、ほんの一瞬ではあるが、そうした文化が垣間見える(「俺は病院代を払えない/なのに白人は月に行く」)。歌っているのは「黒いボブ・ディラン」と呼ばれたギル・スコット・ヘロンで、本作ではリオン・ブリッジズが演じている。

    『ファースト・マン』の世界は、角ばった顎に短く刈り込まれた髪、閑静な郊外に立つ低層の住宅、息子たちとテラスで飲むビールで構成される世界。そして、そのいっぽうで女性たちが家のなかで育児や掃除をしている世界だ(クレア・フォイ演じるアームストロングの最初の妻ジャネット・シェアロンは、まさに「夫が海から戻ってきたら」タイプの役どころかもしれない)。

    1960年代は、昨今ではたびたびそう断言されているように、アメリカが偉大だった時代だ。それは、アメリカの創造力が宇宙へと飛躍し、SFのような未来、つまり、月面のガラスドームのなかに「閑静な郊外の住宅」が立ち、妻たちが宇宙版パーティーのあとかたづけをしているあいだ、男たちが家の外で宇宙版ビールを飲める未来へと向かっていた時代でもある。

    ジェイムズ・R・ハンセンが書いたアームストロングの伝記(邦訳:ソフトバンククリエイティブ)をもとにしたこの作品で、アームストロングは、従来のアメリカ的男らしさの概念にあてはまる人物として描かれている。タフで力強く、言葉よりも行動を優先する人物。「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命:元々はアメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語)」を成層圏の外まで広げるには適役の人物だ。

    だが、感情を抑えるアームストロングの能力が、彼を優れたパイロットに、そして優れた宇宙飛行士にしたとはいえ、その抑圧的な個性を『ファースト・マン』が理想化していると捉えるのは、いかなる意味であっても誤解と言えるだろう。

    アームストロングが最初に登場するのは、「大気圏からはじきとばされる」テスト飛行を冷静にこなしているシーンだ。骨にガタガタくるような場面だが(この一連のシーンの撮影で、ゴズリングは軽度の脳震盪を起こした)、ドッキングミッションの最中に宇宙船がコマのように回転する、その後のシーンには敵わない。宇宙船の回転速度が次第に速くなってもアームストロングは冷静さを保ち、相棒のパイロットとともに、失神する前にどうにか問題を解決しようと、時間との闘いを繰り広げる(乗り物酔いをする人には不向きの映画だ)。

    また、幼い娘カレンのかたわらに座っているシーンでは、2歳で命を落とすことになる娘が脳腫瘍の治療を受けているときも、身のうちに悲しみが溢れているにもかかわらず、アームストロングはその苦痛や恐怖を声に出すことができない。

    昔ながらの男らしさが、深い孤独の体験として描かれている。

    アームストロングが何も感じないというわけではない。そうした感情を外に出すことができないのだ。愛する家族や、同じ宇宙船に乗る同僚たちと一緒にいるときでさえ、心のうちではひとりきりだと感じている。そこでは、昔ながらの男らしさが、深い孤独の体験として描かれている。アームストロングは、この世界から遠く離れ、みずからの苦悩を解き放って穏やかな気持ちになるために、宇宙へ行かなければならないのだ。

    『ファースト・マン』で、宇宙競争に劣らず重要な縦糸になっているのが「哀悼」だ。その中心にあるのは、アームストロングのカレンを悼む気持ちだが、仲間の宇宙飛行士たち、スクリーンには登場しない墜落事故で犠牲になったり、スクリーン上のおそろしい事故で焼死したりした仲間たちへの哀悼でもある。

    月面着陸を目指すNASAの心許ない足どりを描く、手に汗握る緊迫したシーンには、英雄的なところはまったくない。ドッキングミッションでトラブルが起き、アームストロングの命が危険にさらされているとき、NASAの職員は、自宅にいるジャネットとの通信を遮断し、やりとりが聞こえないようにする。ジャネット本人を守るため、と彼らは言うかもしれないが、腹立たしい子ども扱いだ、と彼女は一蹴する。

    明るく陽気な家族という健全なイメージは、「ライフ」誌の見開き写真のために演じられたものだ。現実には、最後になるかもしれないからとジャネットにせっつかれ、重要ミッションの前に2人の息子たちと話をするアームストロングは、やはり出席を強制された記者会見のときと同じように、不承不承の素っ気なさでその任務をこなす。彼は愛情のある夫であり父親だが、とりたてて良い夫でも良い父親でもない。

    『ファースト・マン』は、そこで描かれている時代や、その中心にいる人物を美化しているわけではない。彼がけっして弱さを見せないのは、混沌としたあらゆる感情がかたく閉じこめられているせいだ。だが、その周囲に築かれてきたアメリカの神話を容赦なく引き裂いているわけでもない。この映画は、そうしたアプローチは不要だと示唆している。長いあいだこの国家的神話に与えられてきたうわべの輝きがなくても、不都合な細部を削り落とさなくても、ものごとをありのままに描くだけで十分だ、と示唆しているのだ。

    「アメリカの成し遂げた偉業を恥じているかのようだ。とんでもないことだと思う」

    『ファースト・マン』では、月面着陸は英雄的行為のようには見えない。むしろ、白人男性たちで構成された閉鎖的集団が行う「仕事」のように見える。その仕事は、絶え間ない失敗に見舞われながら、安定した支援とはとうてい言えない国の費用で行われた(財政的支援のおもな動機は、ソ連に勝ちたいという欲求だった)。

    それでも、実際の月面着陸が荘厳な瞬間であることに変わりはない。異星人にとっては驚愕の事件だ。なにしろ、人類が広大で過酷な距離を渡り、新たな場所に足を踏み入れる方法を見つけ出したのだから。その畏敬の念は、人間たちが背負うあらゆる問題と共存できるものだ。

    ドナルド・トランプ大統領は2018年9月、ニュースサイト「ザ・デイリー・コーラー」に対し、『ファースト・マン』を観るつもりなはいと語り、その理由として星条旗をめぐる大失態を挙げた。ニュースにもならない、わかりきった話だ。「アメリカの成し遂げた偉業を恥じているかのようだ。とんでもないことだと思う」とトランプは述べている。

    トランプが実際にこの映画を観たら、どう思うのだろうかと考えずにはいられない。なにしろ彼は、新たな月への有人飛行に関心を示しながら、宇宙開発ではなく宇宙防衛を目的とする独立した軍組織である「宇宙軍」の創設も公言し、レトロ感と未来感の入り混じるロゴを電子メールで支持者に送って投票を呼びかけることまでした人物だ。

    宇宙というファンタジー、新たな領域に足を踏み入れるという空想は、トランプが大統領になるはるか以前から、一般市民の想像力をかきたててきた。そして、トランプが口にしている宇宙の軍事化と火星への進出は、リアルな詳細やその冒険的事業に要する資金について語らずに、そうした人々の嗜好を利用するためのひとつの手段だ。

    月を夢見ることは、実際にそこへ行くための過酷で危険な労働と比べて、はるかにたやすい。そして、実際の一歩を踏み出すのは、ふんぞり返ったカウボーイではなく、ストイックなエンジニアだ。それこそ、『ファースト・マン』が小気味よく、かつ効果的に明らかにしていることだ。その事実を私たちに思い出させてくれるこの映画は、特定の政治的主張を行うための特定の政治的スタンスを必要としない作品なのだ──星条旗があろうがなかろうが。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:梅田智世/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan