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28歳、クリエイター。彼はある日、突然言葉を失った。

2017年6月、脳梗塞で倒れた城戸さん。高次脳機能障害および失語症と診断された。あれから1年、リハビリを続けた彼は失語症として生きることを伝えようと試みる。

吉祥寺駅から10分ほど歩いた場所、とあるデザイン事務所の2階にその男性はいた。

挨拶をすませた直後、彼が財布の中に入っていた硬貨を床に落としてしまう。拾おうとするが麻痺の残った右手がその邪魔をする。

その姿はまだ、彼の回復へ向けた闘いは終わっていないことを物語っている。

目の前の人が誰かはわかる。でも、名前が出てこない。レジで会計をしようとしても小銭の計算ができない。長文の文章は文字の形が崩れてしまって読むことも難しい。

Kido Yoji / Via http://
Kido Yoji / Via http://
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時折、相手の質問と自分の答えが食い違い、ちぐはぐなやり取りとなる。考えていることと実際の言葉がつながらず、自分の思いを伝えられない場面も少なくない。

仕事に必要不可欠なパソコンも、発病当初は開くことすらできなかった。助けを借りて、ようやく開くと次はパスワードが思い出せない。

クリエイティブラボ・PARTYでデザインエンジニアとして働いていた城戸要地さん(28)の日常は、ある日を境に一変した。

突然の脳梗塞、目が覚めたら言葉が出なかった

脳梗塞で倒れたのは2017年6月17日、城戸さんは渋谷で友人とごはんを食べていた。お酒も少しだけ飲んだ。

その帰り道、頭に痛みを感じて突然道端に倒れこむ。すぐに救急搬送され、検査の結果、脳梗塞と診断された。救急搬送の様子を城戸さんは鮮明に記憶している。

「あ、これは脳梗塞だって搬送される救急車の中で思ったんですよ。でも医者や看護師さんは酔っ払って倒れただけなんじゃないかって最初は思っていたみたいです」

自分は脳梗塞だということを伝えたくても、その時にはもう言葉が出なかった。

城戸さんは失語症と診断された。高次脳機能障害も一部あり、いまも右半身に麻痺が残っている。

失語症の主な症状は脳の言語領域が脳梗塞や脳出血、外傷などによって傷つくことで言葉がうまく使えなくなるというものだ。

症状は人ぞれぞれだが、言葉が上手く話せない運動性失語、上手く聞くことができず理解をすることが難しい感覚性失語、その両方の全失語と大きくは3パターンに分類される。

2008年に行われた高次脳機能障害者実態調査によれば東京都内には約5万人の高次脳機能障害を患う人がおり、全国には約50万人ほどいると推計される。そのうち失語症を患っている人は40.4%。

この数字に基づけば東京都内では約2万人、全国では約20万人ほどの失語症当事者がいるという計算になる。

右利きの人の98%、左利きの人の70%は脳の左側が言語をつかさどっていると言われており、話す能力、聞く能力、読む能力、書く能力、これらはそれぞれ異なる脳の部位がつかさどっている。

城戸さんは脳の左側後方、ウェルニッケと呼ばれる他人の言葉を聞き理解する能力をつかさどる部位を主に損傷していた。

言葉が喋れないだけではない。失語症当事者、そして支える家族の苦しみとは

失語症の人が抱えるのは言葉の問題だけではない。そう語るのは慈恵医大第三病院リハビリテーション科診療部長を務める渡邉修さん。

「言葉の問題もさることながら、喋れないことや運動麻痺へのイライラ、不安、怒りといった精神症状などを併発することで社会生活が営みづらくなります。これは家族にとっても大きな負担です」

軽い失語症の場合には数ヶ月のリハビリで仕事に復帰する場合もある。一方、長い場合には2〜3年、ときには5年以上かけて回復していくケースもあるという。

しかし、2006年に厚労省は病院で受けることのできるリハビリの上限を180日に設定。満足がいくまでリハビリを受けることができない患者もなかにはいる。

「必要な期間は180日どころではない。重い症状の場合は一生診る覚悟が必要だ」と渡邉さんは強調する。

こうした問題がある中で、失語症の人々はどのようにして回復をしていくのだろうか。

「言葉の回復は喋った量と比例します。だから、部屋に閉じこもっているのではなく、友達と喋ったり、カラオケに行ったりと様々な社会のシャワーを浴びることが重要です。言葉の回復というのは言語聴覚士だけがやるものではありません」

「家族だけでできることには限りがありますから、家族だけで頑張ろうとすると疲れ切ってしまいます。通院している病院のスタッフ、地域の福祉課のスタッフ、自助グループの人たちをはじめとするチームでその大変さをシェアする必要があります」

そうした関係性の中で、失語症当事者は失った役割を取り戻していく。

そこから自信や自己効力感を育てることで、悲しみや不安、怒りを乗り越えていくができると渡邉さんは語る。

NPO法人全国失語症友の会連合会(現在のNPO法人失語症協議会)の調べによると失語症を発症した人のうち63%が働き盛りの20代〜50代で発症している。社会へと復帰する際、元の職場に戻れるかどうかはケースバイケースだ。

言葉を上手く喋ることができない場合、数字の理解にも困難を抱えている場合が多い。そうした場合には事務職への復帰は難しい。

いかなるタイプの仕事にしても絶対的に必要なもの、それは職場の理解だ。

「生きている実感が出てこない」、絶望の淵から救い出してくれたのは友人だった

城戸さんはいまも言葉がつながらず、思っていることを伝えられないことがある。そこでインタビューには大学時代からの友人、有村皓さんにも同席していただいた。

音楽活動をするなかで知り合い、城戸さんとは10年来の付き合い。発病前は頻繁に飲んでいた仲だ。

城戸さんが言葉に詰まったとき、有村さんは「それは〜ってこと?」「あのときは〜だったよね」とフォローし、城戸さんが「そうそう!」と強く頷く。

城戸さんが倒れた当時、連絡がとれなくなった際もきっと仕事が忙しいのだろうと思っていたという。連絡がとれなくなることはそれまでも時々あった。

彼が失語症になったことを知ったのは、倒れてから3ヶ月経った2017年9月のこと。初めてお見舞いをした頃には10月になっていた。

発病当初は誰かと会える状況にはなく、家族と以前付き合っていた女性をはじめごく限られた人にだけ病状が伝えられていた。有村さんは当時を振り返る。

「あの頃は全然喋れないし、半身麻痺もだいぶ残っていて自力で立つこともできなかったんですよ。1人で部屋の中を動くこともできないし。言葉もいまは思ったことをすぐに口にすることができるけど、当時は15分〜30分かけてようやく1センテンス言えるような状態でした」

それから8ヶ月、城戸さんは懸命にリハビリに取り組んできた。

2017年6月の発症直後、彼はあるメモを残している。そこにはこんな一言が記されていた。

「生きているけど実感が出てこない…言葉の働きそのものが破壊された」

何か1つというよりも、すべてが上手くいかなかった。それまで親密な関係にあった人の中にも、発病後離れていってしまった人もいる。

半身麻痺の身体は自分のもののようで、自分のものではない。大好きだった音楽を聴いても、犬の鳴き声のようにしか聴こえない。味覚の感じ方も変わってしまった。

それまで順調に進んでいた回復が横ばいになったとき、このまま治らないのではないかという不安が途端に押し寄せた。

もっと効果的な治療法があるのではと最先端医療をうたう治療法について調べ、淡い期待を抱いた瞬間もあった。

当たり前のように存在していたものを喪失した日々は息苦しく、当時、城戸さんはよく「半分死んでる」という言葉で自分の状態を表現していたという。

失語症の当事者の54%が社会参加の困難さを感じ、家族の83.72%が社会参加の乏しさを感じていることが平成29年度のNPO法人失語症協議会の調べで明らかになっている。失語症当事者、そしてその家族は社会の中で孤立しやすいと言えるだろう。

「孤立が辛いというよりも、誰も助けることができない状態なんです。発病当初は喋ることも聞き取ることもできないので、何が起きているのかわからない。だから、人に会うのを避けていました」

最初は人と話すのは億劫だった。それでも克服しなくてはいけないと、なるべく家に閉じこもらないようにした。自分は幸運だったと城戸さんは振り返る。彼の周りには有村さんをはじめ、支え続けてくれる友人が常にいた。

「城戸は昔からポジティブで好奇心旺盛なんですよ。だから、きっと出来ないことがあっても何とかしようと試行錯誤を続けるんです」

何度使っても思い出せない言葉はある。だから、思い出した言葉はすぐさまiPhoneのメモ帳に書き留める。

「例えば、外に出かける準備をしているときに『指切り』って言葉を急に思い出すんです。本当にふとした瞬間に。次に針という言葉も思い出す。それで『指切り 針』ってキーワードでググるとこれが指切りげんまんだということがわかります」

そのときやっていることと思い出す言葉との間につながりはない。ふとした瞬間に突然、ある言葉が降ってくる。

彼のメモ帳を覗かせてもらうと、税理士の隣に書かれていたのはナンプラーという言葉だった。

「笑いを交えてポジティブに伝えたい」だから、きどさんは今日もリハビリを続ける

現在は週に2日、病院へ通院しリハビリを続ける。リハビリのない日には働いていたPARTYのオフィスへ顔を出したり、友人のもとを訪れて言葉を交わす。

以前と比べればスムーズに話すことができるようになった。残った麻痺は幸い右手のみ。ぱっと見は他の健常者と変わらない。

だからこそ、失語症のことを広く知ってほしいと願う。バッグに付けたヘルプマークはあまりに小さく、このマークを見て助けてくれる人はごく稀だ。

「本当に誰も気付かない。気付かないんですよ。だから、もうちょっと知ってほしいなと」

知ってもらうために必要なものは必ずしも悲しい物語ではない。むしろもっとポジティブに失語症のことを伝えられる可能性を探る。

もともとコミュニケーションの仕事に取り組んできたからこそ、イラストやマンガを使ってより広く一般に受け入れられる形で失語症を伝えられるのではと日々模索している。

城戸さんは回復した、良くなったと言われることを嫌う。

回復という言葉はまるで失語症との闘いに終わりがあるようなイメージを人に与えてしまう。でも、いまいるここは彼にとってのゴールではない。自分はもっともっと回復すると信じているから。

友人と過ごす何気ない日常の合間に、リハビリの様子や言葉を思い出した瞬間を城戸さんはInstagramで発信し続けている。

一人ひとりが失語症のことを知り、サポートをすることがこの問題の解決には欠かせない。気になる方はぜひ一度、彼の日常を覗いてみてほしい。