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性暴力被害、高校中退、摂食障害 つらいということさえ誰にも言えなかった

妹の病気で幼い頃に2年間、母親から引き離されて育った坂田菜摘さん。安心して保護者に頼ることができなかった経験は、その後の人生にも影を落とします。

妹が小児がんにかかり、5歳から2年間、親元から引き離されて育った坂田菜摘さん(37)。

安心して甘えられる誰かがいなかったという幼い頃の喪失体験は、誰かに頼ることができない姿勢を植え付け、成長の過程で様々な困難をもたらすことになった。

つらい経験を誰にも言えない、高校中退、摂食障害、うつ、自殺未遂ーー。

抑えつけてきた思いは、自分や親を攻撃する怒りに転換され、周りを、そして自分も酷く傷つけることになっていく。

誰にも言えなかった性暴力被害

2年間、親と離れていたからといって、特別なケアを受けたわけではない。

母、父、長女、次女と再び一家が揃って、弟を身ごもった母は、さらに忙しくなり、坂田さんは長女としてますますしっかりすることを求められていた。

実家に帰って間もない小学2年生の頃、性暴力被害に遭い、誘拐されかけたことがある。

鍵っ子で7階建てのマンションに住んでいた坂田さんは、学校からの帰り道、どこで目をつけられたのか、若い男に待ち伏せされるようになった。

毎回、自宅マンションの最上階の踊り場にあたる人気のないところに連れ込まれて、目隠しをされる。

「当時は、子供だから意味がわからなくてされるがままにされていました。でも怖いのですよね。でもこれは親に言ったら心配されると思って言えませんでした。深刻な被害でなくて良かったです」

3回目ぐらいの時に、その男の車に連れ込まれそうになった。

「さすがにまずいと思って、走って家に逃げ込んだらたまたまその日は母がいたんです。弟の妊娠中で休んでいたと思うのですが、私が真っ青なので『どうしたの?』と聞かれて、警察が呼ばれました」

それでも、本当のことは言えなかった。

「お母さんが悲しんでしまうから、これは黙っていなくてはいけないと思いました。それで、作り話をしたんです。お菓子をあげるからついておいでと言われたけど逃げたと。母がたまたま家にいなかったら何も言っていなかったと思います」

警察はそのまま調書を作って帰っていった。翌日、全校集会で校長が自分の作り話を語りながら生徒たちに気をつけるよう注意したのを覚えている。

「今思うと、そんな怖い思いをしたのに、なぜそんな嘘をついたのかなと思うんです。私は、自分の心を他者に明かす習慣がなかった。悲しいとか寂しいとか怖いとか言えなかった。でもその思いは、大きくなってから怒りとして吐き出されることになりました。母からも『あなたは全ての感情が怒りとして出てきてしまう』と言われたことがあります」

中学で無気力に 高校は中退

小学校は高学年で理解ある先生に巡り会えて、児童会の副会長も務めるほど充実していた。卒業式では式辞を読み、背が高くてショートカットの自分に下級生の女の子はファンレターをくれた。

妹とはほとんど口を聞かない状態が続いていたが、時折、自分を慕うようなそぶりも伺えた。

「下級生からの手紙を妹が持ってくるんですけれども、『先輩をお姉ちゃんと呼んでもいいですか?』と書いてあるのを見て、『私のお姉ちゃんなのに!』って怒るんです。小さい頃からの長い入院で私に限らず対人関係がうまく築けないところがある子でしたが、私のことを好きなんだな、かわいいなと思うようになっていました」

ところが、中学ではすっかり無気力になる。

父は事業の破産もあり、母や自分に暴力を振るうようになっていた。妹は病弱で弟はまだ小さく、暴力の矛先は長女である自分にばかり向かった。

「家庭でのゴタゴタもあり、未来を思い描けなかったんです。一生懸命生きていると幸せになることがあるというモデルケースを、自分の家族に見出せなかった」

成績は良かったのに、内申点を低くつけられ、「推薦はできない」と言われた。母親も「滑り止めは受けさせられない。公立一本で行きなさい」と言う。確実に受かるようにランクを落として公立を受けた。

高校での学生生活はさらに無気力になった。その頃、両親も毎日、殴り合いの喧嘩になるほど家は荒れていた。学校を休むことも増えた頃、事件は起きた。

高校の指定外のセーターを持っているのが見つかって、担任がいきなり胸元をつかんで教室の前に引きずりだし、殴りつけた。制服のボタンが飛んで、クラスのみんなの前で胸元を露わにされた。

そのまま泣いて走って校長室に駆け込み、その教師は担任を降ろされた。母は娘の様子を心配して高校を辞めるように勧めた。

「学校にも行けなくなって、そのまま中退したんです」

母も当時は「大学なんていく意味はない」と言っていた。自分も母にこう言い放っていた。

「どんなに勉強ができて大学に行っても、お母さんみたいに結婚に失敗したらこんなに不幸じゃん。娘はがんになって、いいことなんて何もない人生じゃん!」

母は「私は可愛い子たちを産んで幸せな人生だったよ」と懸命に反論した。

それでも、もう後には引けなかった。16歳で中退した。

16歳で一人暮らし 摂食障害に

家にもいづらくなり、実家の近くにアパートを借りて、一人暮らしを始めた。アルバイトをして、生活費を稼いだ。

高校中退は自分の選択だったはずなのに、心はすっきりしなかった。

「勉強だって好きだったし、できたはずなのに、どうしてこんな風になってしまったのだろうと自分の今の状態にいつも違和感がありました。小学校の時に卒業式で式辞を読んだあのイメージが本当の自分なのに、どうしてこうなってしまったのだろうって」

自分に少しでも自信を持ちたくて、ダイエットを始めた。自分の姿が嫌いで、太った自分には価値がないと感じていた。

そのうち、食べる量がおかしくなっていった。

「休みの日はコンビニに行って1万円分ぐらい食べ物を買って、全部食べる。太ってしまうからそれを全部吐く。それを繰り返して。お腹が減ったとか減らないと言う感覚もなくなって、何をどれぐらい食べたらいいのかもわからなくなっていました」

仕事にも支障をきたすようになり、生活ができなくなっていったん実家に帰宅する。恋人とも別れ、うつ状態になっていた。

自殺未遂 荒む生活

摂食障害の真っ只中で帰宅し、家族との関係も最悪の状態だった。

幼い頃、一人だけ離れて生活させられたことを責め、夫婦仲が悪かったことで、家族がどれほど振り回されたと思っているのかと怒りをぶつけた。

時には一緒に食べている食卓をひっくり返して、母に泣かれた。

「母は、『私に復讐しているのだと思った』とよく自分を責めていました。ずっと自責の念を持っていたようで、私がおかしくなってしまったので、自分のせいだとは思っていたようです」

精神科で処方されていた薬を大量に飲んで自宅で自殺を図ったのもその頃だ。

「昏睡状態で3日間寝ていたようなのですが、母は救急車を呼ばなかったんです。母もかなり疲れていたようで、『死にたいなら死なせてあげる』と思っていたようです」

それでも死に切れなかった。

再び19歳で家を出て、アルバイトを掛け持ちしながら食いつないだ。でもほとんどお金にならないし、何より、自分が「こんなはずではなかった」という気持ちを持ち続けていた。

「基本的に何をしていても楽しくなくて、毎日生きているのがつらい。この生活から抜け出したいと思っていました」

ちょうどその頃、ニューヨークに住む知人から声をかけられ、人生をリセットしたいとニューヨークにしばらく住んだことがある。

でも異国の地で、言葉も話せず、やりたいことも見つからない。数ヶ月で帰国して、実家に戻った。

アルバイト先で出会った男性と結婚

仕事も資格もなく途方にくれ、母の勧めで介護ヘルパー2級の資格を取る。23歳の時だ。

母は妹の病気で教師の職を辞め、介護福祉士、ケアマネジャーなどの資格を取得。「福祉にお世話になったから、福祉に恩返しがしたい」と言って、その頃には、役所の福祉関係の幹部職についていた。両親は離婚し、その頃には母は新しい父と再婚もしていた。

坂田さんはそれでもヘルパーの仕事をするわけではなく、何かアルバイトをしてみようと、近所の古本屋で働き始めた。

その店で働いて1ヶ月も経たないうちに、店番をしていた自分に手紙を渡してきた男性がいた。ラブレターだ。母に見せると、「字が綺麗だからちゃんとした人なんじゃない?」と言われ、付き合い始めた。

考えてみたら、学生時代以外、生活費を稼ぐことやメンタルの不調で普通に男性と交際することがなかった。毎日デートに出かけ、男性と海を見にいくのも初めての経験だった。「普通の交際」ができることがすごく嬉しかった。

「結婚したいと言われて、しばらくしてから私の実家で一緒に住むようになったんです。向こうも一つ年上の新人サラリーマンで、お金がないからお金を貯めましょうと、目標金額まで貯金してから結婚しました」

24歳と25歳の若いカップルだった。この結婚が思ってもみなかった心境に坂田さんを導くことになる。

(続く)