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「安心して揺らいでいられる場所を」 三陸に通い続ける音楽療法士の願うこと

医師や看護師ではなく、被災者でもないけれど、医療や震災に無関係でもない。そんなあいまいな存在だからこそ、作れる場所。

東日本大震災から8年。津波で家族や家が流された三陸沿岸の町に、震災直後から週末ごとに、盛岡市からボランティアで通い続ける音楽療法士がいる。

今も残る仮設住宅や災害公営住宅で、歌や体操や歌に合わせた振り付け「当て振り」を楽しみながら、参加者の話にじっと耳を傾ける。笑ったり、泣いたり、時には参加者同士の思い出話で1時間が過ぎることもある。

「震災を忘れたいけれど、忘れたくない。仮設を出たいけれど、仮設の生活が懐かしい。そんな風に揺らいでいられる時間があってもいい。これからどこへ行けばいいかわからない人に、医者でも被災者でもない”あいまいな存在”だからこそ提供できる場があると思うんです」

普段は盛岡市の精神科病院に勤める音楽療法士で、一般社団法人「東北音楽療法推進プロジェクト」代表の智田邦徳さん(51)と、事務局でパートナーの澤瀬康博さん(41)の沿岸での活動に同行させてもらった。

歌や体操、そして思い出話

智田さんの住んでいる盛岡市内から峠を超えて車で約1時間半。岩手県大槌町は、三陸・大槌湾に面した漁師町だ。最大22メートルの津波が襲い、死者・行方不明者は1282人。町の大半が流された。

午前10時半、安渡第二仮設住宅の集会所に、ひとりふたりと高齢の女性たちがやってくる。今日は社会福祉協議会と組んで行う月に一度の「歌と体操のサロン」の日。畳敷きの小さな部屋で、久しぶりに会った仲間と世間話に花が咲いた。

キーボードを弾きながら、智田さんが「春よ来い」「春の小川」など春の歌を伴奏すると、プロジェクターに映された歌詞を見ながら声を揃えて歌う。歌の合間には誰からともなくおしゃべりが始まる。

「やっぱりこういう歌を歌うと故郷を思い出すねえ」

「このあたりにも小川が流れていたもんね」

「そうそう、洗濯物も洗ったもの」

「髪も洗ってたね」

幼い頃から親しんできた、ふるさとの懐かしい光景。津波が流し去っても思い出は残る。歌から引き出されたそんな話で盛り上がると、智田さんは手を止めて、話に加わった。避難所や仮設にいた頃の楽しい思い出話も始まった。

「小林幸子が来て、『幸子まんじゅう』もらったよね」「そうそうあの人は山古志村のお米も送ってくれたね」「北島三郎のお婿さんも来たね」

そこで北島三郎の「風雲ながれ旅」がリクエストされ、智田さんの伴奏で歌う。

「私の能力は演奏とか歌というより、聴く力なんです。来て何もしなくてもいいし、誰かに会いたい、喋りたいだけの人もいるかもしれない。決まったプログラムを押し付けるのではなく、みなさんがその時、何を求めているかで、やることは自由に変えていきます」

事務局の澤瀬さんは、歌詞や画像を用意するほか、脳トレとして行われているクイズや嚥下をスムーズにするための口の体操などを担当し、「お兄さん」と呼ばれている。

みんなが楽しみにしているのは、お兄さんが大きな体で披露するユーモラスな当て振りだ。ずり落ちたズボンからのぞくお腹を見て、参加者たちから「ほら、ズボン上げないと!」と笑いが起きる。

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智田さんと澤瀬さんの音楽療法の名物、「当て振り」。歌詞に合わせて、「お兄さん」と呼ばれる澤瀬さんが踊り、それに合わせてみんなで歌い踊る。「いつも笑って笑って、張り切り過ぎちゃう」と話す参加者たち

智田さんは言う。

「みんな、助けられるだけじゃなくて助けたいし、お小言だって言いたいんです。私は先生って言われてしまうんですが、彼のような愛すべきキャラとコンビを組むことで、参加しているみなさんとの距離がグッと縮まるんですよね」

「仮設の方が良かった」 昔の仲間と会うのが楽しみ

この日集まった6人全員が、仮設住宅を既に出て、災害公営住宅や自力再建の家で生活する人だ。

「近所に知り合いもおらず、寂しい思いをしている人が多いのです。仮設にいた頃から参加していたこのサロンなら懐かしい顔が集まって、同窓会のような場になっているんですね」と智田さん。

今は仮設に住む人も減り、仮設住宅の集約化が進む。まだ仮設から出られない人、他の仮設から移ってきた人はサロンに加わることはない。「先に出て行った」参加者との間に心の距離が生まれている。

自力再建で、2014年11月にいち早く仮設を出た越田ミサさん(81)は、「仮設の方が良かった」とサロンの参加を楽しみにする一人だ。新しい家から仮設までタクシーで1000円以上かかるため、事務局の澤瀬さんが毎回車で迎えに行く。

「ここではガラッと一枚戸を開けたら誰かがいたから、結構楽しくワイワイやって楽しかったの。言っていいのか悪いのかわからないけれど、移って5年経った今でも仮設の方が良かったと思うのね」

仮設にいた頃は、東京から来た大学生ボランティアと一緒に、復興のための情報誌「大槌みらい新聞」の記者として活躍していた。70歳を過ぎてから始めた一眼レフを持って撮影に飛び回り、プリンターも買って、仲間やボランティアの学生に写真をプレゼントしては喜ばれていた。

「新しい家に移ってからは、近所は他所から移ってきた人ばかりで、隣に誰が住んでいるかもわからない。ご近所付き合いはほとんどないです」

新しい家に移るのを心待ちにしていた夫は、移って3ヶ月後に病気に倒れ、急死した。同居する娘夫婦や孫たちが仕事や学校に出かける昼間は一人ぼっちだ。

「最初はしょっちゅう仮設に行っては、昔の仲間とお茶っこしていたの。今は、ここで歌を歌ってみんなとおしゃべりするのが楽しみ。昔に戻ったみたいでね」

人間関係をまた一から作るのは難しい

午後は、同じ町内の小槌第八仮設住宅でサロンを開く。やはりここでも、参加した6人はみんな、仮設住宅を出た人ばかりだ。

震災の復興支援の予算も「自立」をきっかけに打ち切られ、仮設を出た後の支援は薄い。智田さんたちは、仮設を出た後の参加者がどうなるかが気になり、連絡が取れる人は電話をかけるなどして、参加を呼びかけてきた。

「仮設にいたときよりもさらに年をとっているのに、また一から人間関係を作らなければいけないのはどれほど大変か。仮設の時は、イベントがたくさんあって集まるきっかけもあったのが、外に出たら自治会も十分できていないので放置されてしまう。一人暮らしの人は余計、孤立しやすくなってしまいます」

そう智田さんは言う。

昭和の歌手名当てで張り切って答えていた、サロンでは珍しい男性の参加者、臼沢康弘さん(77)は、「ここに来ると誰かと話せるし、笑えるし、(事務局の)澤瀬君から電話を来るのを楽しみに待っているの」と語る。

震災から6年8ヶ月で一人、災害公営住宅に移った。でも、お金の問題や体調のことなど不安は尽きず、「復興」したという気持ちではない。

「今でもまだまだ立ち止まって後ろを振り向きたくなる時がある。そんな時にここに来ると、付き合いが長くなって気心しれた仲間がいる。心を癒されるし、勇気付けられるんです」

(続く)

【2】「被災者から奪わない」 三陸沿岸で音楽療法を始める時に誓ったこと

【3】「復興」は元に戻ることではない 血の通った温かい時間を積み重ねて


BuzzFeed Japanでは、あの日から8年を迎える東日本大震災に関する記事を掲載しています。あの日と今を生きる人々を、さまざまな角度から伝えます。関連記事には「3.11」のマークが付いています。

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