面倒くさい大人、それが「大泉洋」

    ノリと勢いで突っ走った20代。役者として、将来の不安に襲われた30代。震災後、自らの使命について考えた40代。年齢と共に仕事への姿勢も変化してきた。

    北海道の農村を舞台にした映画「そらのレストラン」(1月25日公開)で主演を務めた大泉洋。愛する家族と仲間に支えられながら、理想のチーズ作りに奮闘する酪農家を演じた。

    45歳となった大泉自身も、家族と仲間に支えられながらキャリアを積み重ねてきた。

    「TEAM NACS」という仲間と出会い、ノリと勢いで突っ走った20代。役者として、将来の不安に襲われた30代。震災後、自分の使命について考えた40代。年齢と共に仕事への姿勢も変化してきたと語る。

    平成を代表する稀代のエンターテイナーに「これまで」と「これから」を聞いた。

    故郷・北海道への思いを込めた仕事

    ――大泉さんの地元、北海道が舞台の作品でした。どんな思いを込めて演じましたか。

    今回の映画は「しあわせのパン」(2012)「ぶどうのなみだ」(2014)に続く「北海道映画シリーズ」の3作目になります。

    いずれも北海道の素晴らしいところを知って欲しい、そんな思いが詰まった作品です。なので、このシリーズは普段の仕事とは違った、特別な気持ちで演じています。

    役者として1つの作品に出させてもらうだけでなく、「北海道には、こんなに素敵なところがあるんだよ」と知ってもらいたい。そのきっかけになればいいなと思いながら演じました。

    2018年は北海道で大きな地震がありました。僕が演じたのは酪農家でしたが、酪農関係への打撃も大きかった。停電の影響で牛乳を廃棄せざるを得なくなってしまった方々の姿も報道されていた。

    この映画が第一次産業の皆さんの応援になれば良いなと、そんな思いもあります。

    家族一緒の晩ごはんは大切な思い出

    ――家族そろって、和やかに朝食を摂るシーンが印象的でした。私生活で奥さまと娘さんがいらっしゃる大泉さんですが、普段はどんなコミュニケーションをとっていますか。

    作中の家族団らんシーンは、わりと普段の僕と近いと思いますよ(笑)。

    僕の仕事は生活が不規則ですからね。なかなか家族と一緒に食べることができない。だから、たまに一緒に食事ができる時間をとても大切にしています。

    小さいころの思い出の影響があるのかな。僕の両親は学校の先生で、父も夕食に間に合うように帰ってきました。父の帰りを待って、家族そろって食事をしていた子ども時代の記憶が今も残っています。

    家族みんなで一緒に晩ごはんを食べる。それが僕にとって大切なことだったんですね。今回の映画でも、そんな思いを込めました。

    TEAM NACSは友達以上、「別格」の存在

    ――物語の中では、酪農を続けるかどうかで仲間と揉める場面がありました。大泉さんが「仲間」と言われて思い浮かぶ人は。

    やっぱりTEAM NACSですね。大学時代に20歳で出会って、もう25年かぁ。

    人生の中でもっとも付き合いが長く、密度の濃い仲間ではあります。

    でも、なんだろう…。「友達」っていう枠組みじゃないんだよね。僕の人間関係の中では別格として存在している人たちだから(笑)。

    なにしろ四半世紀も一緒にいるとね、良いところも悪いところも、全てひっくるめての付き合いになるんですよ。

    例えば、中学や高校の友達に会っても、今さらケンカしたりはしないよね。たまにしか会わないから。

    何かを作ろうとしたときにぶつかり合うというか、そういう関係性はNACSに近いかな。もちろん、NACSでは殴り合いはしないけどね(笑)。

    やっぱり「ものを作る」って、お互いの意見が違ったりして、揉めたりもしますよね。でもそれは、お互いに「いいものを作りたい」っていう気持ちからくるものだからね。

    貪欲に笑いを取りにいく

    ――「大泉洋」という人物は、「タレント」と「俳優」に分けられると思うのですが、それぞれで違う人格が存在する瞬間はありますか。

    いや、それはないですね。たしかに僕の仕事は、役者の仕事とバラエティの仕事に分けることができると思います。

    でも、どちらも違う感覚でやっているわけではないですね。分かりやすくいうと、「セリフを覚えて演じる仕事」と、「ただただ貪欲に笑いを取る仕事」という違いだけかなと。

    ――「貪欲に笑いを取る」という大泉さんの姿勢、その根源はどこから…。

    もうわかんないんですね。「生まれたときから」としか言いようがないですよ(笑)。

    物心ついたときから、とにかく人を笑わせたいと思ったからね。なぜそんな気持ちが生まれてしまったのか…。

    そういえば、保育園のころから人を笑わすのが好きでしたね。そればっかりでしたもん。遊ぶとかもなくて。子どものころに、子どもらしい遊びとか、全然興味無かったんですん(笑)。テレビばっかり見て、ものまねとかよくやっていました。

    小学校のころには落語にもハマっていましたね。車で家族と出かけるときに、延々と落語のテープを聴いていました。俺がリクエストして、うちの両親も一緒にね。

    春風亭柳昇さんの「課長の犬」や柳亭痴楽さんの「ラブレター」とかね(笑)。新作落語は、子どもにも分かりやすかったんでしょうね。

    自信がないところはいっぱいある

    ――バラエティから俳優、さらに歌手までこなす大泉さん。才能の塊という印象がありますが、仕事で「壁」にぶち当たる瞬間ってありますか。

    いや、ある意味いつも当たってますよ(笑)。誰にだって「壁」はあると思う。どんなに才能がある人でも「みんな壁にぶつかってるんだ」と思いながら頑張っています。

    もちろん自分を他人と比べないようにとか、他人と比べちゃいけないって思いもあります。だけど、理想の演技ができなかったり、狙いが外れたりすると落ち込むわけじゃない?

    僕だって自信のないところがいっぱいある。でも、あまりに自分と真摯に向き合いすぎると、精神的に辛くて。どんどん心が落ちていっちゃうからね。

    だから、どこかで割り切るしかないって思うんです。僕は自分に甘い人間ですし、自分に優しくしてやろうっていつも思ってるもの(笑)。

    「自分が完璧だ」って思いながら仕事をしてる人なんて、そうそういないと思いますよ。

    どんな人だって、壁にぶつかって、葛藤して、悩んでる。そう思って、恥ずかしながらも仕事を続けていこうって思います。

    20代は爆笑していたら終わった

    ――いま、大泉さんは45歳。20代、30代のころと比べて、自分が変化してきたという実感はありますか。

    それはありますね。20代はバラエティ1本だったので、やっている仕事もわかりやすかった。

    「水曜どうでしょう」が始まったのが1996年。23歳のときでした。当時はまだ大学生だった。

    よく言うんだけど「20代は爆笑していたら終わった」という感じでした(笑)。もう笑ってる間には何にも考えていなくて。毎日、爆笑していたら終わってましたよ。

    毎日が楽しくて仕方がなかった。そのうち「どうでしょう」が人気になり、違うレギュラー番組も始まって、それにも出させてもらった。そうやってゲラゲラ笑ってる間に、20代は過ぎ去っていきました。

    ――大学時代には地理歴史の教員免許も取得されていました。そちらの道に進むことは考えましたか。

    これが、本当に僕みたいな人、珍しいと思うけど…。まず、性格が面倒くさがりなので。

    少し前に「あなたの何パーセントは〇〇で構成されています」みたいな診断がはやったじゃない?

    それで例えると僕の場合、99%が「めんどくさい」で構成されてるんです(笑)。将来とか考えるのが、もう苦手で。何も考えていなかった。

    だから、親から「とりあえず教員免許くらいは取りなさい。人生どうにもならなくなっても、教員免許さえあれば、あんたが先生になりたいと思えばなれるんだから」って。

    だから、教員免許は親に言われて一応取りました。でも、採用試験なんか受かる気が全くしなかった。勉強もしなかったので。

    「もしこの世界でダメになったら、教員になろう」とは思っていたけど、大学を卒業するころには「どうでしょう」が波に乗っている時期だった。卒業するころには、新卒の初任給ぐらいのお金はもらっていたんですよ。

    お金にはまず困ってない。すぐに働かなきゃいけないっていう思いもなかった。

    もう一つ。当時は北海道の景気も悪かった。拓銀(北海道拓殖銀行)がつぶれたりした時期だったからね。

    就職先もない時代だったから、「就職」というものに魅力を感じない時期だったんですよね。「いまは働かなくて良いんじゃないか?」って思えた。

    だから、「とりあえず、今はお金はもらえているし、テレビの仕事が楽しい。もうちょっとこのまま続けてみよう。あと何年かやってみて、そのときに将来を考えよう」って。

    ――教員免許をとりつつ、テレビに出て、とりあえず就職を先延ばしにした。

    そう。先延ばしなんです。だから、大学生の時に「よし、俺は役者で生きていくわ」って決断したわけじゃない。

    テレビの世界から、ダラダラと流れて、惰性で転がっていったわけでして。それでも仕事はどんどん加速度的に増えていたから。

    そうなると「まだ就職しなくて良いんじゃねぇのか?」って思えて。でも親は「30歳になるまでには定職につきなさい」とは言ってましたけどね(笑)

    ――ご両親も、今すぐ就職しろとは言わなかった。

    そうなんです。両親は、俺がテレビでどれだけ稼いでるか知らなかった。でも、僕が「お小遣いちょうだい」と言わないから、「お金は持ってるんだろうな」と思ってはいたんでしょうね。

    ただ、定職に就いてる様子はない(笑)。両親も不思議だったでしょうね。「このままで、この子は食べていけるのかしら」という気持ちはあっただろうけどね。

    でも、27〜8歳になると「もう今さら学校の先生にはなれないな」と思うようになって。

    年齢的にも、もう引き返せない。仕事が不安定だからといって「僕、やっぱり先生になりますわ」というわけにもいかないなと。

    まだ役者になろうとは思ってはいなかった。だけど、この業界で生きていくしかないなって悟って、覚悟を決めました。

    ただ、30歳になるころだったね。やっぱり、不安を感じるというか。

    30代で感じた「食っていけるの?」という不安

    ――不安ですか。

    20代って、ノリと勢いで行けるんですよね。「楽しけりゃ、なんでも良いじゃない!」って。

    自分に負荷をかけて、一生懸命やることに、あまり意味を見いだせなかったし。やれることを気楽にやって、そんな気楽な僕を見てもらう方が良いんじゃないのかなって。そんな思いもあったんです。

    でもね、この先も北海道の芸能界で生きていくとして、年齢を重ねて家族ができて、40〜50代になったときに、果たして仕事があるのかと。そんな不安が襲ってきたんですよね。

    ――漠然とした不安。

    そう。漠然とした不安。30歳ぐらいからノリと勢いだけでは乗り切れない部分を感じてくるんです。それだけではやっていけないのかなと悟るようになる。

    「僕はこれから北海道でどうなっていくのかな」って考えた時、「北海道の人は本当にずっと僕のバラエティ番組を見続けてくれるのか?」という不安が襲ってきた。

    「本当にこれで良いのかな?」って。「変わらないといけない」っていう強迫観念みたいなのがあったり。だから、僕にとって30代はなかなか厳しかった。

    それで、しっかり腹を括って打ち込めるものを決めないといけないなと。ちゃんと役者の仕事をしようと思って。

    ちょうど事務所も同じことを考えてくれていたんです。なんとなく北海道だけで仕事をしていても、いつまで経っても大泉洋は評価されない。全国的な評価を得て、その上で仕事をしないと。そんな思いが事務所にもあった。

    こうして札幌の地方劇団で舞台に出ていただけの人間が、東京で役者の仕事を真剣に取り組む決意をしたわけです。

    ――30代では「救命病棟24時」「ハケンの品格」、さらに大河ドラマ「龍馬伝」にも出演しました。

    「どうでしょう」を知っている人には認知されているけど、東京には「どうでしょう」を知らない人もたくさんいましたから。苦労も多かったですね。

    そうやって、悩みながら走り続けたのが30代でした。

    40代、震災後に考えた「自分の使命」

    ーー役者としての実績は確かなものに。そうして、40代に差し掛かっていった。

    40代になって少しはゆっくりやれるのかなと思ったんだけど、「40代の方が忙しくねえか?」って感じはしています(笑)。

    ただ、40代での仕事との向き合い方って、2011年の震災の影響が大きかったと思うんです。

    ――東日本大震災ですか。

    仕事のやり方というか、仕事への思いに変化が出てきたなと感じました。僕の中で「自分さえ良ければいいや」という感覚が消えてきたのかなって。

    「どうしてこの仕事を続けるんですか?」って聞かれることがあるんですが、30代だったら「僕が満足したいからやってるんです」って答えていたと思うんです。

    自分が人の役に立ってるなんて恥ずかしくて言えない。おこがましいという気持ちがあったから。

    でも震災の後、本当に辛かったであろう人たちが、僕の仕事を見て「楽しかった」」「心から笑えました」って言ってくれて。

    ――反響があったお仕事というのは。

    2011年の年末にやった「大泉ワンマンショー」というイベントです。ものまねとかトークとか落語とかで、ただ笑ってもらうだけ。本当にバカバカしいものです(笑)。

    ものまねのレパートリー等が書かれた表があって、会場の人にどれをやってほしいかリクエストしてもらうっていうスタイルでした。

    公演後にお客さんのアンケートを読んだら、「心から笑えました」「勇気づけられました」って。読むと涙が出てくるような、そんな反響をたくさん頂いたんです。

    その時に思ったんです。自分の生まれてきた使命というか、役割というか。責任を持って仕事をしなきゃいけないなと。僕の仕事っていうのは、そういう仕事なんだって。

    僕のやってることっていうのは、きちんと観ている人に届いてるんだなっていうのを感じた。そういう人たちのために頑張るのが、僕の人生における使命なのかなと。謙遜したり、恥ずかしがっている場合ではないんだなと思わされました。

    昔だったら「もう疲れてるからやめよう」「この仕事はやりたくないからやらない」って仕事を選んでいたこともありました。

    いまも毎日忙しいし、大変なことも多い。体力的には辛くなることも増えてきました。

    だけど、この仕事をやることで、喜んでくれる人が一人でもいるのかなって思うと「やろう」って決めています。

    これまでと違って、少しでも「誰かのために」という思いが出てきた。それが40代かなと思います。

    今、この瞬間をどれだけ一生懸命やれるか

    ――芸能界は生き残りが厳しい世界です。安定性はない業界。「人気が無くなったらどうしよう」「仕事がなくなったらどうしよう」と思うことは。

    ありがたいことに、今ではたくさんお仕事を頂いてます。なので、そこまで極端な不安はないですね(笑)。

    ただ、「人気が無くなったらどうしよう」とは思わないけど、「役者として通用しなくなっていくかもしれない」という不安は常に持っています。

    でも、あまり将来は考え過ぎないようにしています。今、この瞬間をどれだけ一生懸命やれるか。そっちを大事にしています。

    僕の場合は、自分からバンバン仕掛けて物事をやっていくタイプの人間じゃないんです。

    みなさんから求めていただいて、お仕事をする。そこでどれだけ期待に応えられるか。そういう思いなんですね。

    僕を信じてお仕事をくださっているわけだから、その思いに応えたいという気持ちです。その場、その場を、本当に全力でやってきたという感じなんですね。

    「今の自分にはハードルが高くはないか?」というお仕事をいただけるので、そのハードルをちょっとずつちょっとずつ越えていく。そのことに精一杯だったのが、この10数年だったかなと思います。

    僕はどちらかと言えば、ネガティブなやつなんですが、なぜか、仕事に関して楽観的でね。仕事だけは漠然と、なんかうまくいくんじゃないのかなって、本当に漠然とした変な自信もあるんです(笑)。

    面倒くさい大人、それが「大泉洋」

    ――根拠はあるんですか?

    ない!だから「漠然とした自信」って言ったじゃない(笑)。

    僕も後輩から仕事の悩みを相談されることが増えてきたんだけど、そんなときは「漠然と良いイメージを持つしかない」って伝えているんだよね。

    「上手くいっちゃうな」と思ってごらん。上手くいっちゃうからって(笑)。

    なんというのかな。僕の心には「スーパーポジティブ」と「スーパーネガティブ」とが常に混在してるんだろうな。

    だから、この先もなんとかなるだろうなと思っている。東京で仕事をし始めたときも「失敗するかも」っていう感覚が一切なかった。「これから売れちゃうな」としか思ってない。いや、今思えばとんだ勘違いヤローだよね(笑)。

    だから売れた後の心配ばっかりしていたの。「ああ、これからは外を気軽に出歩けなくなるな」とかね(笑)

    ――売れっ子芸能人ならではの心配ですね(笑)。

    そういうところは変にポジティブなんです。日常生活で不運に見舞われたりすると逆に「あれ、もしかして何かデカい仕事がくるかもしれないよ」とか思ったりもする。

    人生って、良いことと悪いことは同じだけあるって思ってるからね。

    でもね、良いことがあった時には「この後に悪いことが起こる」とは絶対に思わないの(笑)。

    それでも、役者としての将来に漠然とした不安はどこかに抱えている。ポジティブとネガティブが混在している。

    面倒くさい大人、それが「大泉洋」なんでしょうね。

    映画「そらのレストラン」予告編はこちら

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