「私は中絶しました」 女性たちの力強い告白

    「他人の立場になって考えたとき、物事が変わり始めるのです」

    写真ジャーナリストのタラ・トドラス=ホワイトヒルは、メディアサイト「ヴィネット(Vignette)」の共同創業者でもある。彼女は、女性の権利を擁護することに情熱を燃やし、自らのキャリアを通じて、世界中の女性たちの苦闘と勝利を記録してきた。

    トドラス=ホワイトヒルは2005年、中絶を巡るタブーに正面から向き合うポートレートの撮影を開始した。中絶は、現在の米国で盛んに議論されている、最重要な女性の問題のひとつだ。プロジェクトの名前は「I Had An Abortion(私は中絶しました)」。中絶した女性たちに自身の物語を共有してもらうことで、異なる意見を持つ人々による対話を生み出し、溝を埋める後押しをすることが狙いだ。

    トドラス=ホワイトヒルはBuzzFeed Newsの取材に対し、「多くの議論が言い争いに発展しているように思います」と語った。「中絶の話題になると、皆が極端な意見を主張します。妥協点を探ろうとすることも、きちんと話し合うこともありません。その結果、互いに怒鳴り声を上げ、相手の言葉に耳を傾けようとすらしません」

    このタブーを破る手助けをするため、彼女は、「I Had An Abortion」と書かれたTシャツを着た女性たちの写真を撮影した。

    「このTシャツには力があり、女性たちの物語にも力があります。しかし、けんかを売るつもりはありません。これが女性であり、これが女性の現実だと単刀直入に伝えたいだけです」とトドラス=ホワイトヒルは話す。

    「人々が本当の意味で理解・共感する助けになればと思っています。他人の立場になって考えたとき、物事が変わり始めるのです」

    それでは、「I Had An Abortion」の力強いポートレートと物語を紹介しよう。

    アイェン・トラン(25歳)はニューヨークの進歩的な家庭で、シングルマザーに育てられた。10代のとき、「過激」なボーイフレンドから精神的、性的な虐待を受け、コミュニティーから孤立。妊娠した後で、2人の関係が有害であることに気付いた。

    結局、薬の処方を受けて中絶し、数日後にその体験を、1969年のスピークアウトをまねたジャドソン・メモリアル教会のイベントで告白した。アイェンは中絶活動家を自称しているが、それでも、中絶について自分の言葉で話すのは難しかったと振り返っている。

    ベストセラー作家兼コラムニストのバーバラ・エーレンライク(64歳)は2度中絶し、2人の子供がいる。祖母でもある。

    「New York Times」の論説に掲載されたバーバラのコラム「Owning Up to Abortion(中絶の告白)」は、トドラス=ホワイトヒルがこのプロジェクトを始動させたきっかけの一つだ。バーバラは、コラムの中で次のように述べた。「正直さとは、自分の家から始まる。だから、私は認めなければならない。生殖能力が強すぎる時期に2度中絶したことを」

    「そうした選択は、私の場合のように容易なこともあるが、苦痛を伴うこともある。しかし、胎児のように体を丸めて隠れることは適切な対応ではない。サルトルはこれを“自己欺瞞”と呼んだ。この言葉は、「二枚舌」より悪いことを意味する。つまり、自由と責任を根本的に否定しているということだ。女性たちよ、閉ざしていた口から親指を取り出し、権利を主張するときが来た。われわれが行使する自由は、認識されなければ、簡単に奪われてしまう」

    フローレンス・ライス(86歳)は、ニューヨークの児童養護施設で育った。子ども時代は、数えるほどしか母親と会っていない。1930年代、若い独身女性として妊娠したとき、赤ん坊を産むことに決めた。数年後、働くシングルマザーとして再び妊娠したとき、母親のようになりたくないと思った。子どもを育てられない状況に陥るのは嫌だと。

    フローレンスは中絶した。不潔な環境で違法な中絶を行い、重度の感染症になった。1969年、フェミニストたちが自身の中絶について語り始めたとき、フローレンスも率先して語った。フローレンスの物語は、階級格差を浮き彫りにした。裕福な女性は安全な中絶を行い、貧しい女性は肉屋に行く羽目になる可能性が高いということを。

    フェミニズム活動家のグロリア・スタイネム(71歳)は22歳のころ、「New York」誌の仕事で、フェミニストグループ「レッド・ストッキングズ」の中絶スピークアウトを取材。そのままグループの一員になった。そして最終的に、数年前に中絶したことを認めた。

    グロリアは自身の中絶について、流れに身を任せることなく、初めて自分の人生を生きることができた行動だと振り返っている。彼女はその後、「Voters for Choice」や雑誌「Ms.(ミズ)」など、中絶の権利を訴える組織をいくつか立ち上げた。第二波フェミニズムの最も大きな貢献は、生殖に関する自由を訴えたことだと彼女は考えている。

    ホリー・フリッツ(35歳)は、ニューヨーク州バッファローの高校に通っていたときに妊娠した。彼女は、ボーイフレンドと結婚し、母親のような人生を送るものと思っていた。ホリーの母親は高校時代に妊娠し、ボーイフレンドとそのまま結婚。そして、ホリーが生まれたのだ。

    ホリーが母親に相談すると、母親は驚き、結婚ではなく中絶を勧めた。現在、ホリーはニューヨークシティで高校教員の仕事をしている。結婚後、一緒に写っているゾーイの母親になった。

    左のジェニファー(35歳)は、ジャーナリスト兼活動家。10年以上前から、中絶をテーマに記事を書いている。自身の記事を含めて、中絶に関する報道が例外なく、反対派と賛成派の「論争」に発展することをいら立たしく思っていた。中絶した人たちの声と顔が失われていると感じたのだ。

    ジェニファーは2003年、Tシャツとリソースカードをつくり始めた。そして、中絶した女性にスポットライトを当てるため、映画制作を開始した。ジェニファーは、女性たちの中絶を題材にした映画の監督としてジリアン(右の女性)を指名した。36歳のジリアンは、2000年に中絶を経験した。相手は、後に夫となった男性で、現在、2人の間には娘がひとりいる。

    ジェニー・イーガン(25歳)は、オレゴン州の田舎町で、モルモン教の家族の一員として育った。16歳のとき、ボーイフレンドとの合意に基づかないセックスで妊娠した。家族に秘密で中絶したのだが、その後、「Brotherhood」というグループから両親宛に、娘の中絶を告げる手紙が届いた。母親は手紙を読んで震え上がり、ジェニーに家を出るよう命じた。

    ロレッタ・ロス(51歳)は、「公正な生殖」ムーブメントの重要人物だ。『Undivided Rights(分割されない権利)』の共著者で、2004年にワシントンDCで開催された「マーチ・フォー・ウィメンズ・ライブズ」では、有色人種の女性たちをまとめ上げた。このイベントは、有色人種のコミュニティーから、前例がないほどの支持を得た。

    ロレッタは高校生だったときに妊娠し、息子を出産。ラドクリフ・カレッジの奨学金を受給する資格を失った。1970年、ハワード大学の学生だったときに再び妊娠。大学のあるワシントンDCでは、中絶は合法だったが、母親の署名が必要だった。しかし、母親は署名を拒否。ロレッタは署名を偽造し、かなり遅い時期に中絶した。

    ロザリン・バクサンドール(65歳)は、1960年代に中絶した経験がある。そして、すでに閉経したと思っていたとき、再び中絶した。1969年に開催された有名な「レッド・ストッキングズの中絶スピークアウト」で最初の話者を務めた。

    セバスチアナ・コレア(28歳)は、交換留学生としてコネチカット州の大学院で学んでいたときに妊娠した。母親は、熱心な中絶反対派の活動家で、ブラジルでシングルマザーの子供のための養護施設を運営している。妊娠していることがわかったとき、セバスチアナは恐ろしくなったと同時に、合法的に中絶できる米国にいてよかったと思った。

    リバティー・アルドリッチとジョー・ソーンダースには2人の息子がいる。付き合い始めて間もなく、2人で中絶を決断。その後、子供を育てる余裕が生まれ、2人の息子を授かった。


    タラの作品はホームページでもチェックできます。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan