脳に黒カビが感染。世界でたった120例の謎の病と生きる男性

    「この病はいつ治るのか」。世界でたった120症例しか見つかっていない「真菌感染症」を患った筆者が、闘病生活を振り返った。

    この物語は、いまだ世界で120の症例しかない「真菌感染症」を患った筆者の人生をつづった闘病日記である。

    「正直に言って、あなたが生きていることが信じられないのですよ」

    数カ月前、主治医のひとりが私に向かって言った言葉だ。

    「どう考えても(生きていることが)理解できません」

    私は、マサチューセッツ総合病院の伝染症病棟にある診察室で、婚約者のリザと一緒に座っていた。

    この4年間、数えきれないほどの受診を繰り返してきた。

    今回も、脳内にある有毒な黒色真菌(細胞壁にメラニンを有し、黒色調のコロニーを形成する真菌)が、主治医たちの予想を裏切って困惑させている、と聞かされた。

    私は真菌感染症と闘うため、脳外科手術を10回、脊椎穿刺を5回、サイボーグのようにチューブを埋め込んで脳室を腹部につなぐ処置を2回受けてきた。

    一度、脳卒中の発作を起こし深刻な障害が生じたため、歩く・話す・読むなどの基本的な動作のリハビリが必要だったこともある。

    しかし、これまでのどの処置でも、脳内の真菌を取り除けなかった。

    それでも、私はまだ生きている。

    今回、担当医である伝染病の専門家から次のような診察を受けた。

    「これまで投与してきた抗真菌薬は、どれも血液脳関門をまったく通過していないようです」

    「つまり、あなたは自分自身で、自分の免疫系だけを使って、病気と闘ってきたんだと思います」

    「最後に実施した手術のあとで脳脊髄液を検査しましたが、薬の存在を示すものは見つかりませんでした」

    私は、半分嬉しいような、そしてもう半分無感覚になったような気持ちで説明を聞いていた。

    今後は、いま服用している薬を変更し、新しいものを試すという。

    しかし、実は患部周辺に薬が直接届いていなくても生きてこれていたというのは、嬉しいニュースだった。

    一方で、3年間もまったく効果のない薬を投与されていたという点では、悪いニュースでもあった。

    薬は血液脳関門を通過しなければならない。血液脳関門とは、血液と脳の組織液との間にある仕組みだ。ここを通じて、脳は栄養素などの物質をやりとりし、有害物質の侵入を防ぐ。

    しかし、血液脳関門は真菌を通過させたのに、必要な薬を締め出していた。

    「菌界」と「人間の脳」という最も謎の多い2つの世界が交わるところに発生した、カオスともいえる苦難の状況から、ついに新薬が私を解放してくれることを望むばかりである。

    平常さを取り戻すための旅のような闘病生活は不安だらけだが、人生に存在する「不確実性」を受け入れる方法を、私に教えてくれている。

    私の将来は、脳内にある、暗く灰褐色の見た目をした真菌「クラドフィアロフォラ・バンティアナ(Cladophialophora bantiana)」と同様に、ぼんやりと不明瞭なままだ。

    完ぺきな旅の、ちょっとした寄り道のはずだった…

    2018年の冬。当時31歳だった私は、米ロードアイランド州ニューポートに停泊する全長約25mのスクーナー(帆船の一種)の船長だった。

    パートナーのリザと婚約したばかりで、彼女といるときは、できる限り自転車に乗っていた。

    婚約を祝うため、私たちはコスタリカで自転車旅行をすると決めた。

    太平洋に面するニコヤ半島は、地球上で最も自然豊かな場所いわれているひとつである。

    1日に約30~50kmを自転車で移動し、海岸で9〜10泊するという計画だった。

    現地には大みそかに到着した。新年を祝う花火が打ち上がっている近辺、ホステルの中庭にテントを張って夜を過ごした。

    最初の数日は最高で、食事も素晴らしかった。新鮮な魚をご飯に乗せて食べ、フルーツスムージーで流し込んだ。

    旅では、ほとんど国道160号線だけを走った。

    ニコヤ半島の南岸に沿って延びる土と砂利の道で、埃が多いことで世界的に有名な道路だ。

    首にバンダナを巻き、乗用車やトラック、オートバイなどが横を通り過ぎるたびにバンダナを口まで引っ張り上げた。

    3日目は、長距離で浜辺を走ることになったので、タイヤの空気を少し抜いた。

    その後、再び凸凹の多い道に戻ったが、あえてタイヤに再び空気を入れようとしなかった。

    細かい砂利だらけの下り坂に差しかかったとき、後輪が横滑りして、私は自転車から放り出され、腕と肘をひどく擦りむいた。

    夜が近づいていたので、私たちは浜辺でキャンプをすることにした。

    傷口から砂利や土を洗い流し、できる限り最良の方法で、傷口を覆ってからテントで眠りについた。

    翌朝、私たちは予約なしで診てもらえる診療所を見つけた。

    リネットという名前の看護師が、1時間ほどかけて、細かい砂利の破片を取り除いてくれた。

    彼女によると、このような事故はニコヤ半島で毎日起きているという。

    このあたりの道路では、大勢の人々がモペッド(ペダル付きオートバイ)やオフロードバイク、ATV(四輪バギー)、オートバイなどで毎日通勤しているそうだ。

    リネットは、正確かつ巧みな技術で私の腕から微小な砂利を取り除き、送り出してくれた。

    その後、肘はきれいに治り、感染症もなかった。

    完ぺきだった旅の、ちょっとした寄り道だった。

    突然の頭痛、顔面麻痺…。謎の病気を発症

    ロードアイランド州に戻ってから数週間後、私は奇妙な症状に気づくようになった。

    しばしばひどい頭痛がするようになり、顔面の筋肉が麻痺し始め、笑うことが難しくなった。

    かかりつけ医に診てもらったが、医師は私の症状に困惑し、MRI検査を実施した。

    翌日、医師から電話があり、話さなければならないことがあると言われた。

    診察室に行くと、MRI画像には、2つの病変が並んで写っていた。小さな黒い円は、不吉さを感じた。

    「ガンですか?」と私は尋ねた。

    「わかりません」と、医師は厳しい表情で答えた。

    そのうち、絶えず頭痛に悩まされるようになった。

    鎮痛剤を大量に飲み、熱いシャワーを浴びて、できるだけ痛みを和らげようとした。

    私の症状が示す可能性には、さまざまな説があった。

    前年に、リザとメキシコで同じような自転車旅行をしていたので、嚢虫症(のうちゅうしょう)になったのかもしれなかった。

    十分に加熱していない豚肉から、サナダムシの幼虫が脳に入り込んで起きる病気だ。

    嚢虫症ではないことがわかったあとは、ライム病、結核、HIV、そして各種の脳腫瘍の検査を受けた。

    春には脳生検を2回受けたが、結論となるものは何も見つからなかった。

    夏が半分ほど過ぎたころ、私は船長の仕事を辞めた。

    痛みがひどすぎて、他人の命に責任をもつことが求められる状況で働けなかったからだ。

    代わりに、非営利団体での仕事を得た。

    机を前にして座っているのは、自分が指揮を執って、多くの船が行き来する港の中を大きな帆船で進もうとするよりも、謎の痛みを隠すという点で、はるかに簡単だった。

    本当はいっさい働くべきではなかったのかもしれない。

    この痛みは謎だが、一時的なものだろう、そのうちになくなるだろう、と思っていた。

    仕事を得たことで経済的には安定したが、恐怖と不確実さで消耗していた。

    「私の何が悪かったんだろう?」

    痛みが消えるのを待つあいだ、気持ちを落ち着けるために仏教の指導者たちの本を読んだ。

    そのうちのひとり、チベット仏教の尼僧であるペマ・チョドロンは次のように書いている。

    「私たちが変化を拒むとき、それは苦しみと呼ばれます」

    「しかし、私たちが完全に成り行きに任せて、悪あがきせずにいられたとき、それは悟りと呼ばれます」

    1年もしないうちに、私の人生は大きく変わった。

    帆船の操船という私のキャリアは、突然終わってしまった。

    再び海外旅行ができるようになるのかもわからなくなった。

    かつては強く、自信たっぷりで自転車に乗っていたが、いまでは、何の理由もなく転んでばかりいる。

    私は、あらゆるものに対して身体の平衡を失ってしまったように思えた。

    ついに発見した「黒色真菌」

    最初に症状が現れてから8カ月後、私は3回目の脳生検を受けるため、マサチューセッツ総合病院を訪れた。

    そしてついに、担当の神経外科医が有望な発見をした。

    医師は手術室からリザに電話をかけ、黒い真菌が肉眼で見えると告げたのだ。

    医師が見つけようとしていたガンとはかけ離れたものだった。

    テキサスにある研究所に試料が送られ、私の脳にあるのは、非常に珍しい熱帯の真菌であることが確認された。

    メラニンによって黒い色をしていることから「黒色真菌」と呼ばれる真菌の一種、「クラドフィアロフォラ・バンティアナ(Cladophialophora bantiana)」だ。

    人が感染すると脳に腫瘍ができることがわかっているが、1911年に発見されて以来、世界でもわずか120例ほどしか確認されていない

    そのうちの半分近くはインドで発生したものだ。

    症例報告書の多くは、診断が困難で、診断されるまで長期間かかり、そしてその間に転帰不良となる(つまり死亡する)と述べていた。

    すべての症例のうち、半分近くは免疫不全の患者(何人かは臓器移植を受け、ひとりはHIVに感染)で、残りの半分は、私と同じように完全に健康な免疫系をもつ人々だった。

    コスタリカが熱帯性気候だったこと。私たちがホコリを吸い続けたこと。そして自転車の事故で負傷した点などから、医師たちも私も、旅行が病気の原因であるとほぼ確信した。

    科学文献には、「黒色真菌による脳腫瘍からの長期生存は、完全な外科的切除が可能であった場合のみ報告されている」とある。

    しかし、私の場合は、神経外科医たちが切除を承認しなかった。

    真菌が、脳の重要な部分に非常に近かったからだ。

    代わりに、真菌に効く抗真菌薬と、ステロイドを処方された。

    ステロイドの処方は、真菌によって脳内に過度なむくみが発生したり、水が溜まったりするのを抑えるためだ。

    私の場合、真菌は血液脳関門を通り抜けてしまったが、通常は体内を循環する病原菌から脳を守っている。

    そのため、血液によって媒介される感染症が、脳の内部まで広がることはそれほど多くない。

    人間の脳は、脳脊髄液(CSF)と呼ばれる液体で満たされている。

    脳脊髄液は、すべての脳室でつくられる無色の液体で、過剰になった場合、ほとんどの人では体内に再び吸収される。

    しかし私の場合は、真菌とそれによって生じた傷跡があるため、この仕組みがうまく働かない。

    そのため、脳脊髄液が溜まると、頭痛や疲労、発熱をはじめとする神経系の症状が出るのだ。

    真菌感染症は非常に珍しく、症例報告書も少ないため、主治医たちが治療のために参照できるようなデータや「攻略本」は多くない。

    診断の不確実な部分に関する情報を得るため、できる限りの時間を使って黒色真菌についての文献を読んだ。

    それはまるで、よりによってなぜ、私にこんなことが起きているのかを教えてくれる科学者を探しているようなものだった。

    私は、ただ病院のベッドに横たわり、どの機械からどんな音が出ているのかを探るのはいやだった。

    世界を探究したかった。

    自分の病気に関して手に入るわずかな情報を読むことに、あまりにも熱中していたので、とうとう婚約者のリザからやめるように懇願された。

    益よりも害のほうが多いというのだ。

    あなたの疑問に対する答えを見つけることはできない、と。

    疑問だらけの日々。「この病はいつ治るのか?」

    真菌が脳内に存在するという最終的な診断は、数カ月の混乱の後、医師が初めて確信したものであり、手ごたえのあるものだった。

    同時に、誰も答えることができない疑問を投げかけていた。

    真菌はどのようにして脳の中に入ったのか。

    国道160号線のホコリを吸い込んだからか、それとも腕の傷に入った土からか。

    あるいは、自分でも気づかなかった何らかの方法で侵入したのか。

    真菌を追い出すことはできるのか。この物語はどうやって終わるのか。

    治療当初から、主治医たちは、頭痛と脳圧を抑えるためにデキサメタゾン(一般的なステロイド系抗炎症薬)を処方した。

    頭痛は和らいだが、長期にわたって使用すると、骨密度の低下や気分変調、副腎機能障害、免疫抑制といった多くの悪影響をもたらす。

    主治医たちは、ステロイドは強力すぎる諸刃の剣だとして、徐々に薬を減らせるように、可能な限りあらゆる手段を試してくれた。

    数週間かけてステロイドを徐々に減量したあと、私は必ず、ひどく具合が悪くなって病院に戻るのだった。

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が始まった時、ステロイドの長期服用によって免疫抑制が起きるのが、とても怖かった。

    免疫系が期待通りに働かなかった場合、私はどうやって新型コロナウイルスとの戦いを生き延びればよいのだろうか。

    私はこれらの薬をどのくらい飲み続けてきたのだろうか。

    現代医学に対する信頼は、私の中でどん底まで落ちていた。

    新型コロナウイルスを恐れた結果、私は誰にも相談することなく、ステロイドの服用をやめると決めた。

    ステロイドがなくてもリハビリを続けられると思ったからだ。

    この決断を、火事になったビルに閉じ込められた人が下すであろう決断と、同じだと考えた。

    道路に飛び降りるか、炎に焼かれるかのどちらかだ。

    どちらも非常に恐ろしい選択だが、私は治療を繰り返す人生にうんざりしていた。

    「自分の人生を自分自身の手で取り戻すこと」は、根本的な違いを感じさせてくれた。

    なぜこれをもっと早くやらなかったんだろう?

    この方法がうまくいく、と心から思っていた。

    2020年3月下旬、私は脳卒中の発作を起こした

    その日は、私の新しい現実の何もかものように始まった。

    頭が割れそうだった。動くたびに痛みが襲ってきた。

    サイクリストやランナーが自分のワークアウトを記録できるサービス「Strava」のデータによると、その朝、私はなんとかランニングに出たらしい。

    その後に事態は悪化した。頭の中が激しく圧迫された。

    食べることができなかった。視野が暗くなっていった。

    よくないと気づくべきだったのは明らかだが、この状態は一時的なものだと自分に言い聞かせつづけた。

    午後になると、全然元気がなく、アパートの階段を上れなかった。

    そのときは知らなかったが、これらは、軽い脳卒中の初期症状だった。

    リザが救急車を呼んでくれて、私はロードアイランド病院に運ばれた。

    それからマサチューセッツ総合病院に転院し、さらにマサチューセッツ州チャールズタウンにあるスポールディング・リハビリテーション病院に移ることになった。

    これらすべての施設が、新型コロナウイルス感染症予防の厳格な体制下にあった。

    1カ月以上個室に閉じ込められるなかで、私には重大な視覚障害、音声障害、認知機能障害が起きていた。

    一連の発作で、物体が二重に見える複視が起きて視野が狭まり、視力に大きな影響を受けた。

    手書きの文字は幼児が書いたようになり、声もかすれてガラガラ声になった。

    あとになって医師たちは、私の頭蓋骨内部の圧力は、通常の脳にかかる圧力の15倍だったと教えてくれた。

    リザは医師たちから、仮に私が生き延びたとしても、完全に失明するだろうと告げられていた。

    数日後、私が(失明を免れ)メールを送ったとき、彼女の心は希望で満たされたという。

    周囲のサポートはあれど、同じ病気の人は見つからず。手探りの最先端治療も孤独な戦い

    真菌感染症と生きるようになって、もうすぐ4年になる。

    完治は期待していないが、長く生きたいと思っている。

    これまでの薬が脳内に入ってさえいなかった事実を主治医たちが認識したいま、新しい薬が有効であってほしい。

    視力も、声も、細かい運動技能も、そのうちに戻ってくるかもしれない。

    私が再び自転車に乗れるようにと、リザと私はタンデム自転車(複数人が前後に並んで乗る自転車)を買った。

    複視を矯正するための外科手術を受けられるようになるまで、私たちはたびたび一緒に自転車に乗った。

    私が黒色真菌に感染した本当の理由を、知ることはないだろう。

    でも、私の人生における闘病の一章分が、メキシコ旅行の際に、自転車のタイヤに十分な空気を入れなかったからだとは思いたくない。

    もっと深い意味があるはずだ。

    私の短期記憶も、戻ってくるかもしれない。

    よく冗談で、5分前に起きたことを覚えていないというが、それは私にとっての現実だとここで言っておく。

    脳卒中の発作を起こして以来、私は書き留めておかないと何も思い出せなくなった。

    病院では、医師たちがたびたび私に、いまは何年かと尋ねるが、私は本気で「2017年です」と答える。

    なぜ2017年なのだろう。

    真菌に感染する前だからだと思う。人生が非常にうまくいっていたころだ。

    神経を気まぐれに破壊する真菌をなんとか制御しようとして、私は長い時間を費やしてきた。

    それらの時間を取り戻す方法はない。

    病院で検査結果や治療が始まるのを待つ時間で、30代前半の人生を失ってしまった。

    家族や友人たちはこの数年間を、私の心が沈みきってしまわないよう支援してくれた。

    精神的、経済的、医学的な側面や、物の支援など、さまざまな形でのサポートだった。

    感染は私にとってつらいものだったが、家族や友人たちにとっても、それなりにつらいものだったことに気づいた。

    自分の愛する人が、痛みで苦しんでいるところを見たいと思う人などいない。

    私と同じような真菌感染に苦しむ人々のための支援ネットワークをつくるべきだと勧められた。

    悲しいことに、たとえそうしたとしても、メンバーは私しかいないだろう。

    ときどき、私の病気に関してインターネットで見つけた人に連絡を取っているが、返信があったことは一度もない。

    病気にかかって以来、歩み続けるよう励ましてくれた大勢の素晴らしい人々に出会ってきたといいたいところだが、悲しいことに、私の病状に関連したかたちで知るようになった人々は、全員すでに亡くなっている。

    この経験によって、「病院に閉じ込められることなく、たくさんのチューブがあらゆる方向から差し込まれない時間が、どんなにありがたいものであるかを学んだ」とでも言うべきなのだろう。

    いずれにしろ私は、科学研究の最前線にいるとはどういうものかを学んできた。

    それは孤独な経験だ。

    新たな挑戦。真菌と闘いながら大学院で研究

    手遅れになる前に実現したかったひとつが大学院に通うことだった。

    仕事を辞め、2021年9月に海洋学の修士号を取るため、ロードアイランド大学院に登録した。

    大学を卒業してからすでに10年以上が経過していた。

    ただ、病状がもっと安定するのを待つあいだ、この機会を利用するのは意味があると考えた。

    昨年はGPA3.7の成績で終え、現在は風力発電についての論文を書いている。

    論文に取り組めたのは非常に幸運だった。

    病院のテレビでお粗末な映画を観るのではなく、現実の世界に関係があるかもしれないタスクに取り組むのは、はるかに満足できる。

    私の脳がどれほど変わったかを考えると、笑えてくる。

    以前は星の位置を確認しながらさまざまな海を渡っていた私が、いまは自宅でトイレを探すのに苦労している。

    20ページの論文を瞬きせずに書くことはできるのに、道を間違えずに進むのは難しい。

    この病気になった当初に読んだ、仏教僧たちの言葉をよく思い出す。

    彼らは私たちに、この世に不変のものなど存在せず、生は常に変化していると教えようとしている。

    自分の将来を取り巻く不確実性から逃げられないが、そもそも逃げられる人など誰もいない。

    私はただ、不確実性と共に生きることを学ばなければならないだけだ。

    主治医が言っていたように、今回私に起こったできごとは、すべてが理解しがたいものだ。

    だが、理解する必要もないのだ。


    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:平井眞弓/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan