グラミー歌手の「激やせ」に喝采と落胆。背景に潜む、セレブの体型へのジレンマ

    歌手のアデルが数カ月見ないうちに「激やせ」したと世間が騒いでいる。アデル自身は自分の体型について、一言も語っていない。

    ぽっちゃり体型のセレブを見て安心する人には、悪いニュースだ。グラミー歌手のアデルが激やせしている。

    この数カ月間、公の場にあまり出ず、新曲も発表していなかったが、自身の32歳の誕生日にインスタグラムで写真を公開した。誕生日のお祝いに礼を言い、コロナ禍の第一線で働いてくれている人たちに感謝するものだったが、別人のような体型に世間の注目が集まった。

    痩せたアデルの写真が最初に表に出たのは、2019年10月のことだった。人気ラッパー、ドレイクの誕生日パーティで撮影された写真には、別人のようなアデルが写っていた。

    「前は泣いていたけど、今は汗を流しているわ」と自身のインスタグラムには書いている。相当の運動をしているのだろう。今年1月にはファンに向かって、45キロ近く痩せたと話していた。

    今回の激やせ騒動について、アデル自身はひと言も語っていない。蚊帳の外から彼女の体型について議論するのは、もはやつまらない。

    「007 スカイフォール」で2013年アカデミー歌曲賞を受賞、グラミー賞も通算15回獲得し、その他にも数々の世界記録を打ち立てている。にもかかわらず、その偉業すらも十分ではないかのように、激やせを喝采する人もいる。

    これまでの30年間でアデルが成し遂げたことに比べてみたら、今回の激やせは大したことではないが、近年では一番の偉業のように語る人が出ている。

    反対に、アデルの激やせを少し残念がる人もいる。太っている人(痩せていない人)にとって、アデルはヒーローだったからだ。

    体重に自分を定義されずに、大きくても成功できることをアデルは証明した。

    アデルの成功は、彼女自身だけのものではない。アデルは意図せず、ぽっちゃりしたロールモデルを切望していた人たちにとって、大切な象徴になった。「太っていても何でもできる。アデルを見てご覧なさい」と。

    「もっと痩せていたら、身体を見せびらかしたかって?たぶんしないわ。だって、私の身体は、私のものだから」とアデルは2015年にローリング・ストーン誌のインタビューで答えている。

    「私を見ていると、みんなは自分のことを考えるのだと思う。みんなが私と同じサイズではないけど、私が完璧じゃないから共感するのだと思う。(有名人の)多くは、完璧で、手が届かなくて、触れられない存在と受け取られるから」

    これはあくまでも私見だが、アデルが成し遂げたことを考えたら、彼女は1度たりとも「共感できる」存在ではない。文字通りの意味で、私たちがどんなことをしようと(この部分は憶測だが)、数々の賞に輝き、私たちよりもはるかに上手く歌えるミュージシャンだ。

    一番体重が重かったときでさえ、群を抜いて美しく、それこそがアデル神話のすべてかもしれないが、その体重がゆえに彼女は親しみやすかった(その態度、感じのよい口調、そしてひっきりなしに吸うタバコも全て)。

    痩せてしまい、ありきたりで手が届かない人へと変えてしまうセレブ・マシンにアデルを取られてしまった。お金持ちで、ブロンドで、才能があり、そして今では痩せている。

    だが難しいのは、激やせについて説明する義務が、アデル本人にはないことだ。大きかろうが小さかろうが、変動があろうが、人が望む体型でいる必要はない。

    有名人の体重が減ると、一般の人は中立の立場で受け止められないようだ。

    アデルの激やせは、髪を切ったり、トレードマークの翼のあるアイライナーがなくなったりするのと同じような、単なる美的な変化ではないらしい。

    まるで、それ以前の彼女がどういうわけか物足りなかったかのようだ。そしてそれは明らかに、に関してトラブルがある人たちの気持ちを損ねた。だがそれは実のところ、アデルのせいではない。

    自分の身体がどう見られたいかを決めるのは個人の自由と本当に考えるのであれば、アデルには大きくなる自由もあるし、小さくなる自由もある。

    激やせが、健康上の理由か美容面での理由かは誰も知らないが、選択するのはアデルの自由だ。たとえそれで、がっかりする人がいても。

    ここで一番重要なのは、アデルが激やせについて無言を貫いていることだ。アデルは(まだ?)水着でウィメンズヘルス誌の表紙を飾っていないし、ハーパーズ バザー誌の「What I Eat in a Day(私が1日に食べているもの)」ビデオにもまだ出ていない。

    運動や激やせに関するアデルのこれまでのコメントの殆どは、かなり断定的ではなく、ライブを演じる持久力を維持するためとだけ語っている。「ジムみたいな場所にスキップして通っているってわけじゃない」と2015年にローリング・ストーン誌のインタビューで答えている。

    意図せずして、アデルの身体は一種のメディアであり、メッセージでもある。実際にどれくらい痩せ、なぜ痩せたのか、どうやって痩せたのかは分からないが、痩せたことは見れば分かる。

    結果として、アデルのようなセレブは板挟みになる。才能があって有名になったのに、「共感できる」容姿のおかげで好かれる。その「共感できる」容姿が群を抜いて美しくても、だ。

    アデルは表に出てきて、激やせのことを話すことができない。痩せる前の自分に悪いところがあったと示唆してしまうからだ。

    そして無視もできない。知らない人が、自分の身体に価値と意味があるとみなすのを許してしまうからだ。

    自分のQOL(生活の質)のために痩せたのかもしれないし、1日じゅう見られる人であるという多大な重圧のために痩せたのかもしれない。どちらも正当な理由だが、失望の種となる苦悩をはらんでいる。

    大抵の物事と同じように、アデルの激やせに対する私たちの反応は、アデル自身というよりも、私たち自身について多くのことを語っている。

    アデルに喝采を送っているのであれば、体重について、自身の身体との関わり合いについて、すでに少々不幸であることを示唆している。

    憂鬱になるようであれば、従来の美と格闘し、適合できない自分自身を思い知らされている。アデルは勝てない。そして私たちも勝てない。

    でも、アルバム「21」をまだ聴けるじゃないか。アデルの容姿がどうであれ、「Rolling in the Deep」(訳注:心をもてあそんだと、別れた相手に怒りをぶつける歌)は胸にビンビン響いてくる。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan