過疎化が進む村で、難民を歓迎したら、ポピュリズム政権の標的になった

    滅び行く中世風の村は、移民を喜んで迎える村長によって再建された。そのせいで村長は、イタリアのポピュリズム政権の標的になり、心ならずも左翼のヒーローになった。

    イタリア、リアーチェ発--ドメニコ・ルカーノは、世界からただ放っておいてほしいと考えている。

    ルカーノは、イタリアの南端近くにある中世風の小さな村の村長として、数百人の難民を喜んで受け入れて、村を滅亡から救った。現在ルカーノは、世界的な極右の台頭と反移民感情の高まりへの抵抗の象徴として、世界中の進歩主義者から求められている。11月10日、反移民法に反対して大勢の人々がローマに集まった集会では、スピーチの主役だった。

    150.000 people in Rome against #Salvini, supporting #mimmolucano and #Riace system https://t.co/6WRa5LwImG

    サルヴィーニに反対し、リアーチェのルカーノ村長を支援する人々が15万人、ローマに集まった。

    だが、ルカーノは注目されて喜んでいるわけではない。

    「いい加減にしてくれ! 誰もが私の注意を引きたがる。この瞬間に自殺するほうがましだ!」。先週のある晩、BuzzFeed Newsに居所を突き止められた時、ルカーノは、アパートの耳障りなインターホンごしにこう叫んだ。「誰もが私を利用している…。誰も難民のことなど気に掛けていなかったのに、今はあんたみたいにやってくる。もうたくさんなんだ。ほとんどすべてのことに」

    ルカーノの村リアーチェは、20年以上前に、イタリアに船でやって来た難民を喜んで受け入れ始めた。だが、2016年の難民危機の真っただ中で、ルカーノは国際的に注目を集めた。フォーチュン誌が選んだ2016年の「World’s Greatest Leaders(世界で最も偉大なリーダーたち)」の1人に選ばれ、無数の記者の訪問を受け、ローマ法王に賞賛された。イタリアの300を超える自治体が現在、「リアーチェモデル」として知られるようになったモデルに従って、独自の移民統合プログラムを実行している。

    だが、ルカーノの生涯の功績はいま、欧州の民族主義運動の大立て者であるイタリアの内務大臣マッテオ・サルヴィーニによって消し去られようとしている。サルヴィーニは、ソーシャルメディアを利用して議論を巻き起こした。そしてイタリアの政治を、移民をめぐる絶え間ない戦いに変えることによって、同国の有力政治家になった。そして、リアーチェのプログラムに対する財政支援を永久的に打ち切った。現在は、イタリア全土の同様の構想を骨抜きにしつつ、大勢の国外退去につながりかねない、包括的な反移民法を成立させようとしている。

    サルヴィーニは10月、リアーチェに突然襲いかかった。検察がルカーノを訴追したのだ。容疑としては、村の契約に関する誤った対応や、「不法移民の助長」といったことが示された。

    ルカーノの協力者によると、この訴追は政治的な動機によるものであり、裁判官は最も重大な申し立てを斥けたらしい。だが裁判所は、ルカーノがリアーチェに入ることを禁じた。たいていは、マフィアによる不正行為や嫌がらせに適用される条項を利用してのことだ。

    サルヴィーニはTwitterにこのニュースを投稿した時に、次のように述べた。「イタリアを移民だらけにしたい理想主義的な慈善家はみな、今何を考えているのだろうと思う」

    イタリアの左翼は、最近の選挙で壊滅状態になった。サルヴィーニと対決できるような、信頼できる政治家が国内にはいないため、ルカーノがその隙間を埋めることを期待する者は多い。だがルカーノは、左翼の殉教者にはなりたくないと思っている。それに、挑戦したところで、サルヴィーニを破ることはできない。サルヴィーニはFacebookに350万人以上のフォロワーがいるのに対し、ルカーノはこの3年間、ソーシャルメディアに投稿したことがほとんどない。

    ルカーノはようやくインタビューのために座ってくれたが、彼の携帯電話はひっきりなしに鳴り、ようやく鳴りやんだのは電源が切れたときだけだった。ルカーノはある発信者に腹を立てた。今月に300マイル離れた場所で開かれる集会に参加するよう求められたのだ。

    ルカーノはすぐに謝った。「君に怒っているんじゃない。自分自身に腹を立ててるんだ。何もかもうんざりしていて…。皆が助けようとしているのはわかっている。君がどういう人間なのかも理解している」

    「他のどこへでも呼ばれるが、リアーチェには呼ばれない」

    ルカーノは追放された後、しばらくは自分の車で車中泊した。今は、近くの町にある、最低限の機能しかないアパートに滞在している。

    オフィスは裸電球に照らされたキッチンで、デスクは、1950年代の世界から抜け出たように見える、家畜柄のテーブルクロスで覆われたダイニングテーブルだ。

    インタビュー中に目に入った食べ物は、トレイに載った食べかけのクッキーと、緑がかった白い色のボトルに入った柑橘系リキュールだけだった。ルカーノは記者をもてなしてくれて、地域の方言が混じったイタリア語で不満を爆発させながらも、クッキーとリキュールを勧めてくれた。

    「うんざりしてるよ。私の暮らしぶりは見てのとおりだ。寝室はひどい散らかりようでね。見せるのが恥ずかしいよ。ほら、このとおり。どうしようもない」とルカーノは言った。

    リアーチェはもっと悪い状態にある。クラウドファンディングキャンペーンが行われて、村のために約35万ドルが調達されたが、財政破綻を避けるには200万ドル以上が必要だ。それに、プログラムが頼りの移民数百人は、食べ物や家賃に充てる金をまったく持っていない。スクールバス用のガソリンが得られないので、移民の子どもたちは学校に行くのをやめている。

    ルカーノがBuzzFeed Newsのインタビューを受けたのは、ミラノで開かれた集会から戻った直後のことだった。空港に到着していなければならない時間の数時間前まで、ルカーノはその集会のことを忘れていたという。20年間にわたって歩み寄りがなかった派閥が集会で団結したことに心を動かされたようだったが、ルカーノには苦々しい思いも残ったという。

    気分を害した理由をルカーノは明らかにしなかったが、中道左派の民主党に属するミラノ市長のジュゼッペ・サラが、ルカーノを接待した直後に、「移民が我々のニーズや機会に抵触する」とイタリア人は人種差別主義者になるというインタビューを、民主党のウェブサイトに投稿したからかもしれない。

    ルカーノがいないリアーチェでは、人々がその不在を残念に思っていた。イタリアで最も尊敬されている反レイシズム活動家の1人が、シチリアから車で6時間掛けてリアーチェに現れた。彼は、サルヴィーニの政策に反対してローマで行われる大規模な抗議運動に、ルカーノを誘いに来たのだった。ドイツから来た休暇中の環境活動家2人も、支援を行うためにリアーチェにふらりとやって来た。

    ルカーノの92歳になる父ロベルトは、息子がランチの約束を突然キャンセルして以来、電話で連絡が取れていないと語った(ルカーノはそのとき、前日に飛行機で飛び立たなければならなかったことを思い出したのだという)。

    ロベルトは息子を誇りに思っていて、息子はいつも社会正義に情熱を傾けてきたと述べた。ルカーノが10代の頃、チーム全体の功績であるべきだと信じていたので、サッカーの賞を辞退したこともあったらしい。

    この話について質問されると、ルカーノは、自分の倫理観は「世界革命に近づいている」という感覚によって形成されたと述べた。1973年にチリの社会主義者サルバドール・アジェンデ大統領が倒された、アメリカの支援を受けたクーデターを、ルカーノはよく覚えている。当時、ルカーノは15歳だった。

    ルカーノは今でもまだ、キューバの革命家チェ・ゲバラの言葉に導かれているという。「残念ながら我々は、他の誰かの身に起こりうる不正や屈辱を、自分の肌で感じなければならない」という言葉だ。

    状況に疲れ切っていて、全てをやめたい、と考えているのかと尋ねられ、ルカーノは最初、口ごもった。「わからない。何もわからないんだ」。彼はそう言って、自分自身の捜査報告書が含まれた山積みのフォルダーの上にうなだれた。「私は心ならずも、イタリア左翼の象徴になってしまった」

    だが、ルカーノはまもなく、元気と落ち着きを取り戻した。ルカーノの考えは、急進的な聖職者やマルコムX、ビートルズに言及した長いスピーチの中で表現され始めた。ゲバラの言葉によって使命を与えられたが、他者の重荷を背負えるほど自分は十分強くないかもしれないと常に心配している、とルカーノは説明した。

    リアーチェがあるカラブリア州では以前から、やってくる移民を同情的に扱うという習慣があったという。それは、カラブリア出身者が、仕事を求めて海を渡った長い伝統も理由となっていたと思われる。アメリカに定住したカラブリア出身者は、郷土料理であるミートボール入りスパゲティを広めるのに貢献した。

    カラブリア州は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公である英雄オデュッセウスが訪れたことがあるとされている。ギリシャやアフリカ、中東からやってきた迷った船乗りを何度も保護したことがある。

    難民に協力し始めようと決めた時、大きな計画があったわけではなかった、とルカーノは言う。「自然に思いついたことを、何でもやった」

    比較的最近リアーチェにやって来て、この地を頼りにしている者の1人に、ナイジェリアのデルタ州出身のエベリン・サミュエル(28歳)がいる。デルタ州は、地域の石油供給をめぐって何十年も戦闘が起きてきた一帯にある。サミュエルは、リビアで6年間働いた後、過度の情緒不安定になり、数カ月の赤ん坊を連れて船でイタリアに向かうことに決めた。海でNGOの船に助けられた後、10カ月前にリアーチェに落ち着いた。

    「どこに行くべきかわからなかった」。サミュエルは英語で泣きながらそう言い、ルカーノのことを、「村長」を意味するイタリア語「シンダコ(sindaco)」という言葉で呼んだ。「サルヴィーニはシンダコのことが気に入らない。黒人も好きではない。シンダコは黒人が好きだ。サルヴィーニは私たちを追い払おうとしている」

    プログラムが打ち切られたため、混乱が広まっていた。財政支援を打ち切られたのはルカーノのせいだと信じる移民もいる。多くの者は、ルカーノの妻であるエチオピア難民に怒りを向けた。彼女がルカーノを操って、難民の間で特別扱いさせ、プログラム全体を危険にさらしたと信じたのだ。

    20年前に第1陣の難民グループとともにリアーチェにやって来たバハラーム・アルカーは、ルカーノが追放されたことについて、「かなり絶望的な状況です。誰もその隙間を埋めることはできません」と語る。

    アルカーは現在、難民プログラムを実行するためにルカーノが設立した労働協同組合(コレクティブ)で働いている。だが、プログラムの資金が尽き、家族を養う術がないので、アルカーもこの労働協同組合を去らなければならないだろう。

    「とてもすばらしいプロジェクトだったのに、この2年間でめちゃくちゃになりました。何が起きたのか、まだ理解しようとしているところです」とアルカーは言う。

    アルカーは1998年に、約200人の難民グループとともに、船でリアーチェにやって来た。船は、トルコ南岸から8日間の危険な航海を経て、近くの浜辺に着いた。

    難民グループは、クルジスタンから集団移住した者たちの一部だった。彼らは、クルド人の派閥争いと、サダム・フセイン(1991年に終結した湾岸戦争で破れた後、独立したイラク北部の地域を取り戻そうしていた)から逃れようとしていた。

    彼らが欧州に到着したことで、欧州連合(EU)内には不協和が生じた。この不協和は、EUが現在直面しているものと多くの類似点があるが、関係国の反応は今とは逆だった。イタリアが、カトリック教会から促されて難民を擁護したのに対し、ドイツは、国境がこれほど突破しやすい南欧の国が、EUが新たに設けたシェンゲン圏(1985年に署名されたシェンゲン協定が適用されるヨーロッパの26カ国の領域。圏内では国境検査が不要)への参加が認められるべきかについて、疑問視したのだ。

    当時ルカーノは、リアーチェにある学校の教師だった。クルド人が来たことを地元の司教から初めて聞かされた時、政治的なことについてはほとんど考えなかったという。クルド人が地元の教会という避難所を失った時、ルカーノは、アルゼンチンに渡った叔母や外国にいる他の親戚に電話して、リアーチェに残された家にクルド人を泊める許可を求めた。数時間以内に100人分の避難所を手配したという。

    50年にわたって空き家になっていた家もあった。時には、朽ちた窓枠や、崩れかけた壁の隠し場所から鍵が消えていて、侵入しなければならないこともあり、明かりを求めてろうそくを探し回った。

    運命に導かれて彼らがここに来たように感じられた、とルカーノは言う。クルド人の1人にこう言われたのを覚えていた。「私たちには家がありません。私たちがたどり着いた場所には、人がいない家がありました」

    クルド人の大半は最終的に、ドイツにいる家族に合流するために村を去った。だが、ルカーノとアルカー、他の数人は、「Future City(未来都市)」という名称の労働協同組合を作って、他の難民を受け入れることに決めた。

    建物を修復したり、地元の作業場の職人の協力を受けて見習い制度を作ったり、「エシカル・ツーリズム」に興味がある観光客を惹きつけることを願って、小さなホテルを経営したりする計画を立てた。

    まもなく、子どもがいる家族や病人、性労働を強制される危険性がある女性のような、弱者である難民に焦点を絞り、そうした難民たちを地域社会に統合させることに特化した国家プログラム「SPRAR」に、リアーチェを参加させた。

    「私たちは、このプロジェクトがもっと有名になってほしいと考えました」とアルカーは語る。「観光客も惹きつけて、外部の金が入ってくるようにしたかったので、重要なプロジェクトだと考えたのです。けれども私は、このプロジェクトは様々な問題も引き起こすだろうとは思っていました。ルカーノもそう思っていました」

    イタリアの古代遺産を修復するアフガニスタン人やエチオピア人、ナイジェリア人の写真は、理想的な移住の有り様を体現しているように思えた。リアーチェのようなプロジェクトは、イタリアの主要な難民制度「CARA:庇護申請者および難民受け入れセンター)に代わる、歓迎すべきものだった。CARAでは、移民は隔絶したキャンプに収容され、組織犯罪に利用されることが多いからだ。

    こうした取り組みは、リアーチェにもともと住んでいた人たちのためにもなると考えられた。新入生の流入で学校は閉鎖を免れ、歴史的建物は修復され、レストランと食料品店は再開した。

    国からは不定期にしか資金が入らなかったので、村の中を循環する地域通貨も発行した。紙幣には、ネルソン・マンデラやゲバラ、そして、マフィアに殺された地元の活動家たちの顔が印刷されていた。

    ルカーノは2004年に無所属で村長に選ばれ、2009年と2014年に再選された。リアーチェが初めて国際的な関心を引いたのは2008年。移民をテーマにした短編映画をドイツの有名監督が制作したときだ。そして2010年に、ルカーノは世界の傑出した市長・村長リストに含まれた

    だが、ルカーノに関する記事が英語で登場し始めると、2015~2016年の難民危機の真っただ中で、彼は国際的な象徴になった。ルカーノの熱狂的支持者はいつも、フォーチュン誌が2016年に選んだ「世界で最も偉大なリーダーたち」のリストに彼が含まれていることに言及する。このリストでルカーノは40位にランクインした。アフリカ最大の国ナイジェリア出身のアミーナ・モハメッド国連副事務総長(2016年当時は環境大臣)と、慈善家でビル・ゲイツの妻であるメリンダ・ゲイツに挟まれた順位だ。

    ルカーノと、難民の権利を擁護するコミュニティに属する彼の協力者の考えでは、このように国際的に知られたために、2018年にイタリアでポピュリストが権力を握る前も、リアーチェは標的にされた。当時与党だった中道左派の民主党が、移民反対派の反発に怯えていた2016年夏、プログラムの監査のために、監査官が初めてリアーチェにやって来た。

    さらにイタリア政府は、イタリアの沿岸を目指す難民船から人々を助けようとするNGOについて、規制の強化を行った。また、移民の渡航を阻止することを期待してリビアと協定を結んだ。

    リアーチェを監査した結果として、曖昧な表現ながらも、ルカーノが政府の金で特別扱いをしてきた可能性があると示唆する報告書が作成された。だが報告書では、多くの請負業者がマフィアと結託している地域では、公開入札は困難だとも指摘されていた。

    追加報告では、不正はまったく見あたらず、「ホスピタリティのモデル的存在」としてプログラムを賞賛していたが、内務省はその報告書を秘匿する一方で、犯罪捜査を進めた。2016年にはプログラムへの支出も凍結し、プログラムを実行し続ければ債務を抱えるよう、リアーチェを追い込んだ。

    ルカーノはBuzzFeed Newsに対し、彼らはプログラムを拡大した時に間違いを犯してしまったと語った。新たなグループが「悪用する人々」も含めた形でプロジェクトを実行できるようにしたというのだ。だが、リアーチェをモデルにした共同体連盟「Network of Townships of Solidarity(連帯する住民ネットワーク)」の責任者であるジョバンニ・マイオーロはBuzzFeed Newsに対して、政府の対応は、赤信号を無視した者に終身刑に言い渡すようなものだと述べた。

    その頃までに、検察はルカーノと他の35人を、腐敗した契約協定や「不法移住の助長」など広範な罪で起訴していた。ルカーノの電話の盗聴記録がメディアに流出したが、彼はその中で、ナイジェリア人の若い女性に対し、国際結婚によるグリーンカード(永住権カード)取得に相当する手配について話し合っていた。けれども、会話の記録全体から、夫候補がその女性との性交渉を求めた際に、ルカーノがその考えを斥けたことも明らかだった。

    サルヴィーニの執務室と地元捜査官に、捜査についてコメントを求めたが、回答はなかった。

    2018年6月、サルヴィーニが内務大臣になった時には、こうしたことすべてがルカーノに差し迫りつつあった。サルヴィーニは内務大臣に就任した直後、ルカーノの価値は「ゼロ」だと述べる動画を投稿した

    サルヴィーニによる反移民法案に反対する11月10日の抗議集会を主催した「人種差別に反対するシチリア・フォーラム」(Sicilian Anti-Racism Forum)のアルフォンソ・ディ=ステファノはBuzzFeed Newsに対して、「今は何もかもが危険な状態です」と語った。

    サルヴィーニは、現在は国家的な非常事態であり、特別な規則の下で法案を議会に上程すべき時だ、と主張しているが、2016年にピークを迎えて以来、新着移民はかなり減少している

    この法案が可決されると、移民がイタリアでの滞在を嘆願できる根拠が大幅に制限される。さらに、イタリアの庇護法を弱体化させる他の多くの措置が含まれている。

    ドナルド・トランプ米大統領によく似た印象を与えるサルヴィーニは、一時、「麻薬の売人と酔っぱらいのたまり場」と彼が呼ぶ「エスニック系の店」に営業時間制限を課す条項も法案に含まれると約束していた。イタリア人が銃をもっと購入しやくする法案も推進したことがある。

    「こんな最悪な状態になったことはこれまでありませんでした。ファシスト党の独裁政権が人種法を制定してから80年しか経っていないのに、野蛮な人種差別を行うようになるとは思いもよらなりませんでした」と、「人種差別に反対するシチリア・フォーラム」のディ=ステファノは言う。

    法案は先週、上院を通過した。SPRAR制度の対象となる新着移民数を大幅に制限することにより、リアーチェが実行しているようなプログラムに終止符を打つとみられる。地域社会に溶け込むための支援を得る代わりに、隔絶した難民キャンプに収容される難民が、もっと増えることになる。

    イタリア南部では、これはマフィアの一員への贈り物になるだろう、とディ=ステファノは指摘する。マフィアたちは、地域の営利農場での労働を手配する仲介業者になっており、難民キャンプ管理者からの金と利益を着服してきたからだ。

    希望の兆しがあるとすれば、ルカーノの逮捕をきっかけにして、「人権にとってひどい暗黒時代」に、市民社会の人々が結集していることだと、「連帯する住民ネットワーク」のマイオーロは言う。彼らは、リアーチェのためのクラウドファンディングキャンペーンを組織し、これまでに35万ドルを集めた。リアーチェが必要とする額からすればごく一部にすぎないが、イタリアの基準では、この金額はめったにない成功だ。

    それにイタリアでは、移民に対する草の根の支援を示す他の徴候もある。北部の小都市ロディが、多くの移民の子どもを学校給食プログラムの対象から外した際には、オンラインでの活動で数万ドルの資金が調達され、その年の残りの期間、彼らに学校給食が提供された。

    ルカーノは、旧約聖書のダビデが巨人ゴリアテと戦った時のようにサルヴィーニと闘ったが、結局は追放された。ルカーノは、追放されたことについては辛いと感じているが、支援には感謝していると語る。だが、世界中を支配しようとしている「純粋な政治的利益のために、人々の不安につけ込む業界」に対してリアーチェが一つの対抗勢力となっていることは、ルカーノも認識している。

    ある時ルカーノは突然、歯のない笑顔を見せながら、サルヴィーニはこれまで本当にジョン・レノンの曲「イマジン」を聴いたことがあるのだろうかといぶかった。「ジョン・レノンは、当時の我々にとってヒーローの1人でした」とルカーノは言い、初めてリアーチェの空き家を難民たちの避難所にした時に、すべてがどれほど簡単に元の村に戻ったか、という思い出話をした。

    「イタリアがどうやって今の状態になったか考えると、努力して、そうした単純さに戻りたいと思うのです」とルカーノは述べる。

    クルド人がやって来た1998年当時、ルカーノは、2020年に最後の住人だけが残った未来のリアーチェを想定した劇を上映する手助けをしたばかりだった。リアーチェは、村を去った者たちがいつか再び船で故郷に戻ってくることを夢見て、「ユートピア通り」として改名された道路沿いに、海の壁画を描いていた。ルカーノにとってクルド人たちは、長年行方知れずだったが、違う肌の色になって戻ってきたリアーチェの住民であるかのように見えた。

    「顔は違いましたが、それは重要ではありませんでした。彼らは同じ人間でした」


    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:矢倉美登里/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan