中央メキシコにあるアテンシンゴ。
この小さな町では、家賃から、電気代、結婚式での花代、墓石まで何でも、アメリカの親族から送られてくる仕送りで賄われることが多い。
そして毎晩、約4200キロ北に住む家族や恋人たちと、チャットアプリのWhatsAppで連絡を送り合って過ごす。
何十年もの間、この町に住む家族たちは、アメリカからの仕送りや出稼ぎしている家族、恋人との大切な会話は “永遠に続くもの” と信じていた。
アテンシンゴには、約11,000人が住んでいる。だが今年の初め、新型コロナが中国からヨーロッパへと飛び火し、アメリカでも感染が広まった。
メキシコで本格的に感染が拡大する前でさえも、トライステート・エリアと呼ばれるアメリカの3つの州、ニューヨーク、ニュージャージー、コネティカットで死亡者数が増えているという状況は、アテンシンゴにも届いた。
大流行が始まった最初の数週間で、1名、2名、8名とアテンシンゴがあるチエトラからの移民が、新型コロナによって亡くなった。
アクセル・マンティージャさんもそのひとりだった。
8月初旬、マンティージャさんの母アナ・マリア・ヒメネスさんは、1階建ての貸家の居間に座り、メキシコに遺灰が送られてきた隣人の名前を指折り数えていた。
「ここに息子がいます」と食卓の上に設置した小さな聖壇を見つめて、ヒメネスさんは言った。
そこには息子マンティージャさんの写真と遺灰が収められた骨壺が置かれていた。
玄関には、新型コロナと勇敢に戦った証として白いリボンがかけられている。
「(その他にも)ファンさん、友だちの兄弟、エルヴィラさんの息子……」と次第に声が小さくなった。
もっとたくさんいるとヒメネスさんは続けたが、聖壇を飾る電飾の電気の差し込みが抜けているのに気づいて、気が散ってしまった。
メキシコからの移民のうち、全米で少なくとも2,270人が新型コロナに感染して亡くなっている。
このうち771人がトライステート・エリア在住で、その多くがメキシコのプエブラ州出身だった、とメキシコ外務省は発表している。
死者の多くは、新型コロナの感染が最初に急増したとき、レストランの厨房や建築現場で働き続け、アメリカでの大流行で最初の犠牲者となった。
これにより、国境の両側に悲しむ身内は生まれ、仕送りを受けていた家族は資金難に苦しむようになった。
今年1月~6月までに移住者が故郷に送った金額は、急落するとの経済学者の予想に反して、メキシコでは前年同時期比で10.6%増加した。
だが、アメリカで新型コロナで亡くなった移民が祖国に残した家族の多くにとっては、頼りにしていた仕送りが突然なくなってしまった。
メキシコ経済が低迷している今、犠牲者の身内は、餓えや立ち退きの可能性に直面している。
13年前、マンティージャさんは、大きな夢を抱いてアテンシンゴから旅立った。
新しい生活を始め、母を支えるのに十分なお金を稼ぐためだった。
アテンシンゴは小さな町で、その経済は地元の製糖工場を中心に回っていた。
それ以来、ヒメネスさん(61)は、生活のほとんどすべてのものを仕送りに頼るようになった。
故郷から遠く離れていても、母親と再会する日を心待ちにすることで、マンティージャさんは長時間働くことができた。
だが、新型コロナに感染した1か月後の4月15日、マンティージャさんはブルックリンの病院でひとりで亡くなった。
鎮静剤を投与されたあとも、母親のヒメネスさんは息子にメッセージを送り続けたが、7月中旬に息子の遺灰を受け取った。
それは、マンティージャさんの35歳の誕生日の翌日だった。
「息子は自分の足で戻ることはありませんでした」とヒメネスさんは話す。
「灰になって戻ってきました」
2007年の時点で、マンティージャさんの姉ナンシーさん(41)がノースカロライナに住むようになって数年が経っていた。
ある夜、ナンシーさんはマンティージャさんに電話をかけ、アメリカへの密入国を手伝ってくれる業者を見つけたと告げた。ナンシーさんのところに来られるようにだ。
マンティージャさんは当時21歳で、ためらっていた、と母親のヒメネスさんは語る。
メキシコのデパート「コッペル」で家具を運ぶトラックを運転するため、免許を取ったばかりだった。
だがアメリカではもっと大金を稼げ、離婚した母親への仕送りもできる。自分の父親は暴力を振るい、アルコール依存症で、州外へ逃げたと母親から聞いていた。
何十年もの間、アメリカ移住を夢みる多くの子どもがいるメキシコの町で、このような電話は、ある種の通過儀礼になっていた。
定住した親戚が、兄弟姉妹や若い親戚を呼び寄せ、泊まれる場所を提供し、最初の仕事を探すのを手伝うのだ。
マンティージャさんは行くことに決めた。
母親にハグし、密入国業者と出発し、メキシコを端から端まで移動し、入国管理の職員の目を逃れて何マイルも砂漠を横切って歩いた。
ようやくノースカロライナに着いたときは、足には水ぶくれができ、身体中が痛かった。マンティージャさんはヒメネスさんに電話をし「やったぞ」と伝えた。
すぐに、マンティージャさんはケンタッキーフライドチキンで仕事を見つけ、毎週稼ぎの一部を母親に送金し始めた。
ヒメネスさんはバスに乗って地元の銀行へ行き、列に並び、ニューヨークなどアメリカ各地から送られてくるお金を引き出す同じ身の上の人たちと一緒に待った。
世界銀行の調べでは、このような送金は昨年、メキシコの国内総生産(GDP)の3.1%を占めている。
ミチョアカン州やゲレロ州などでは、送金が国内総生産(GDP)の10%以上を占める。
ラテンアメリカ金融研究センター(CEMLA)によると、アテンシンゴがあるプエブラ州では、4.32%にものぼる。
今年の上半期には、送金が急増した。メキシコペソがアメリカドルに対して下落したことと、メキシコからの移民がアメリカ市民になり、失業手当をもらえるようになったことが理由として挙げられる。
家を見回し、ヒメネスさんは、マンティージャさんが国外から送ってくれたお金で買ったものを指さした。
居間にまばらに置かれているステレオ、食洗機、オーブン、家具と、寝室にある洋服、2017年の地震のときにひび割れた場所を覆っている明るい青の絵もそうだ。
マンティージャさんの支援なしでは、この10年間、ヒメネスさんの生活は成り立たなかった。
他の子どものうちアメリカに住んでいる2人はときおり送金してくれるが、一番の頼りはマンティージャさんだった。
数年間、ノースカロライナに住んだあと、マンティージャさんと姉のナンシーさんは、ニューヨークの方が賃金が高いことを知り、荷物をまとめて北へと引っ越した。
マンティージャさんはすぐに慣れた。バーテンダーやウェイターとして働いていないときは、タイムズスクエアでスケートをしたり、散歩したりした。
メキシコに帰るつもりはなかったが、その代わりに母親にニューヨークにきて欲しかった。
ビザを申請しようと母親のヒメネスさんは、メキシコシティの米国領事館へ2度出向いたが、2度ともビザはでなかった。
今年初めに新型コロナがニューヨークに大打撃を与え始めたとき、マンティージャさんは、ブルックリンのパークスロープにあるコロンビア料理レストランの仕事に行き続けていた。
3月初旬、風邪にかかったかと思い、診療所を訪れた。診療所では自宅隔離するように言われた。
息をするのが苦しくなり、タクシーを拾って近くのニューヨーク大学ランゴーン病院へと向かった。
マンティージャさんは病院のベッドにひとりで横たわりながら、母親の面倒を頼むと言った、と姉のナンシーさんはブルックリンのアパートからの電話越しに語った。
何年もの間、マンティージャさんは毎週約100ドル(10,616円)を母親の食料や光熱費のために仕送りしてきた。
自分がいなくなってしまったら、母親はどうやって生計を立てていくのか、とマンティージャさんは心配していた。
「肺炎で陽性だったよ」マンティージャさんは3月14日、WhatsAppのチャットでヒメネスさんに書いている。
その後、新型コロナで陽性だった、とヒメネスさんは話す。
翌日、朝食は取ったか、ヒメネスさんはチャットで尋ねた。短い答えが返ってきた。
3月16日、ヒメネスさんは息子にメッセージを6回送っている。殆どが祈りや詩編だったが、返事はこなかった。
3月18日までには、マンティージャさんは挿管されていた。
28日後、マンティージャさんは帰らぬ人となった。
マンティージャさんが亡くなってから数週間後、ナンシーさんは弟の遺灰にニューヨークのお別れをさせた。
遺灰が入った木の骨壺を腕に抱き、マンティージャさんを最後に地下鉄に乗せるために、ブルックリンの自宅からニューヨーク市地下鉄D系統に乗り、ハドソン川を渡って、マンハッタンへと向かった。
42丁目で地下鉄を降り、ブライアント公園を1周し、7番街をタイムズスクエアへと向かった。
歩きながら、ナンシーさんは、子どものころの話や最近の思い出を、遺灰に向かって囁いた。
故郷に帰る前に「マンハッタンに来られて喜んでいた」とナンシーさんは言った。
そして、ナンシーさんは、街を横切って在ニューヨークメキシコ総領事館へと歩いた。
そこでマンティージャさんの遺灰は、約250人のメキシコ移民の遺灰とともにメキシコへと送還される。
7月11日、総領事館が、新型コロナがニューヨークを襲い亡くなった人たちのために、セント・パトリック大聖堂で祈祷会を開いた。
マリアッチ音楽のバンドがソーシャルディスタンスを保ちながら、故人に敬意を表し別れを告げるため集まった親族に向かって演奏した。
メキシコ空軍機が遺灰を祖国へ送る前に、ティモシー・ドラン枢機卿が遺灰を前に神の加護を祈った。
メキシコ外務省はこれを「前例がない」試みと説明した。
遺灰がメキシコシティに到着した後、それぞれの州、そしてそれぞれの町へと送られた。
プエブラへと送られた遺灰には、黒い布がかけられていた。骨壺にはそれぞれメッセージが書かれていた。
「お帰りなさい、プエブラの人。生まれ故郷で安らかに」
遺灰と一緒に、ヒメネスさんは手書きのメモを2枚受け取った。
1枚は娘のナンシーさんから、もう1枚はマンティージャ叔父さんと仲がよかった11歳になる孫メラニーちゃんからだった。
メラニーちゃんはヒメネスさんへのメッセージで書いている。
「つらいと思うけど、神様がしてくれた最高のことがこの箱の中に入っています。マンティージャおじちゃんだよ」
ヒメネスさんは、居間の明るい青の壁をイエス・キリストと聖母マリアの像、キリスト降誕の情景、陶器でできた4人の天使で飾ったが、マンティージャさんのためにミサは開けなかった。
それでも息子の遺灰が家に届き、安堵感を抱いている。毎日、ヒメネスさんは息子が好きだったフルーツの皿を聖壇に供える。
だが、娘のナンシーさんは遠く離れていて、教会も感染予防で閉じていて、ひとりで喪に服すのは寂しい。
最近ヒメネスさんは、新型コロナで同じように亡くなった移民のファンさんの母親にお悔やみを言いに行った。
「同じものをなくしてしまいましたね」とヒメネスさんは言った。
他の子どもたちがときおり少額を送ってくれるが、子どもたちも職探しに苦戦している、とヒメネスさんは話す。
糖尿病を患っているヒメネスさんは、60ドル(6,370円)の家賃、光熱費、食費をどう払えばいいか分からない。
新型コロナにかかるのが怖いので、前みたいにゼリーを売りに行くことができない。
だが、なんとかする、とヒメネスさんは話す。
「昼食の豆が少しばかり買える限りは」