見せ合いで感じる「リアルなつながり」

    相互自慰は大事な性的体験。そうとらえる男は自分の他にもいるのかについて、探求してみた。

    ニューヨークのウエスト26thストリート。何の変哲もない建物の一室にあるのが、「フレンドリーなSMクラブ」こと、パドルズ(Paddles)だ。「鞭打ち、スパンキング、ボンデージ、支配と服従、足フェチ、異性装、その他さまざまなフェティッシュが好きな、良識ある人たちのための遊び場」と銘打たれた、時間外営業の店だ。ここで月に一度、ラストオーダーというよりハッピーアワーの時間帯(営業開始時)に提供されているのが、本日のフェティッシュ「相互オナニー」だ。

    このイベントを主催しているのは、ニューヨーク・ジャックス(New York Jacks)というグループだ(訳註:Jackには射精の意味がある)。彼らは、男性のほとんどが1人でひっそりとやっている行為を、皆で集まって見せあいながら行うイベントを定期的に開催している。毎週火曜日はパドルズを占領し、毎週日曜日は、ウエスト38thストリートにある建物の3階が会場だ。

    筆者がニューヨーク・ジャックスの集まりに、ある友人と初めて参加したのは、数週間前の火曜日のことだった。景気付けに会場近くでビールを一杯ひっかけ、イベント予定開始時刻をある程度過ぎて、そろそろニューヨーク的に適切なころだろうと思える時間まで待ってから、開かれたドアをくぐった。

    曲がりくねったコンクリートの階段を降りていき、何か集会の物音が聞こえないかと耳をそばだててみる。出て行く男たちと何人かすれ違ったが、顔を紅潮させ、いわくありげな表情をしていた。さらにドアを開けると、短い廊下の先にはチケット売り場があり、ちゃんと服を着た若い男がダルそうにこう訊いてきた。「ジャックスだよね?」

    会場に向かう前、筆者と友人は、不安に思っていることについて話し合った。誰もいなかったらどうする? 誰か知っている人に会ったらどうする? 友人たちから聞いた話によると、そういったことは、この街で行われている一部のゲイセックスのイベントでは珍しくないらしい。

    そう、僕らが恐れているのは、人目に晒されてしまう、ということに尽きる。そして、それは肉体的な話だけではない。ニューヨーク・ジャックスの場合で言えば、ちょっと変わった性的体験として、人と一緒にマスターベーションをしたがっている人、いわゆる「ベイター」である自分を、人に見られてしまうということだ。ただ、出会い系アプリ「Grindr」であれ、ブルックリンのゲイバーの裏であれ、「露出」しなければ出会うこともできない。

    どんなフェティッシュのコミュニティでも、怪しげでいやらしいことに参加している人として露見するのではないかという恐怖がある。それで、ベイターだけでなく多くの人たちが、自分たちの性的関心を隠している。しかし結局のところ、相互オナニーなんて、それほど大した行為でもない。マスターベーションなんて、大抵の人がもうやっていることだ。まあ、大抵は1人で、なのだが。

    しかし世間では、マスターベーションは「失敗したセックス」であり、孤独なネット荒らしたちがやるものだ、という考え方が一般的だ。そのため、できれば相互オナニーをしてみたいと渇望している人たちも、その性的な思いを隠す状況になっている。

    男性と性行為をしている男性たちの間では、相互オナニーは、性行為そのものではなく、性行為と隣り合わせにあるものと見なされることが多い。あるいは、自分の同性愛的性向を隠すための「異性愛的なイチジクの葉」になっている場合もある(「これは性行為じゃなくて、男同士で遊んでいるだけ」というわけだ)。

    また別のケースでは、オードブルとして扱われていることもある。他にも複数の友人たちから、相互オナニーは、うまくセックスできなかった際の一種の妥協策だったという話を聞いたことがある。例えば、「彼と一緒に家に帰ったけれども、僕が疲れていたので一緒にヌイたんだ」といったような話だ。

    しかし、筆者を含めた多くの男性にとって、相互オナニーというのは、「あんまりお腹が空いていないので、サラダだけ食べよう」的なセックスなんてものではない。むしろ僕らは、相互オナニーそれ自体を、わざわざ経験したいと求めているのだ。

    筆者には、1年半ほどの付き合いになる、リアルの「ヌキ友」が一人いる。彼はゲイの友人で、オープンな関係の彼氏がいる。知り合って数年で、一緒にオナニーしないか、という話をお互いに切り出した。僕らはいま、数ヶ月に一度は会っている。読書会ほど頻繁ではないが、ワシントンハイツに住んでいる大学時代の親友よりはよく会っているというペースだ。街を散策してから、マスターベーションをするのだ。

    こうした関係は、いわゆる「カジュアルなセックス」では大抵、いやほとんど、不可能なかたちでのフレンドリーさだと言えるだろう。僕らの親密さには、プラトニックな部分とムラムラする部分の両方がある。マリファナでちょっとハイになることもあるし、ポルノを見ることもある。そして、事が終わるといつも、友達のことや仕事のこと、他に計画していることなどについて近況報告をする。友達と夕食に行くみたいなものだ。僕らは時が経つにつれて、より親しくなってきているが、それはセックスのおかげだけでなく、それとは全然関係のない理由からでもある。

    僕は、相互オナニーの魅力と、それを追い求めるコミュニティについての理解を深めようと考えた。そして、人と一緒にするオナニーは、単なる「セックスに付属する行為」ではなく、バランスのとれた性生活を送るためには重要なことなのだ、と思っている男性が自分の他にもいないのか、探してみることにした。

    すると、そうした人たちは友人たちの中にもいたし、ソーシャルメディア上や、これまで僕が到達したことのなかったインターネットの谷間にも存在していた。中でもすごいのが、テキストメッセージングアプリ「Kik」と、マスターベイターたちの世界的なソーシャルネットワーク「BateWorld」だ。BateWorldは、GrindrとFacebookを掛け合わせたような機能を持ち、懐かしのMySpaceのようにHTMLがきらめくサイトだ。

    話を聞いた中には、いろいろな人たちがいた。相互オナニーに惹かれる気持ちを、年少の頃のクイアな欲望と結びつける男たち。「ストレート」男性との出会いを求めて、ヌキ友を探し始めた男たち。相互オナニーを、他の性的行為よりも安全で、簡単な代替策だと思っている男たち。

    ネット上のこうした空間に足を踏み入れてみたことで、彼らは、筆者にとって必要と思っていた範囲を超えて、個人的な話を打ち明けてくれた。

    ニューヨーク・ジャックスの集会は、筆者にとって、初めての公共の場でのグループセックスではなかった。ベルリンに住んでいた頃は、いわゆるハッテン場である男性用サウナ「Der Boiler」によく通っていたのだが、そこでは、客同士での性行為が、暗黙のうちに行われているのではなく、はっきりと広告されていた。

    しかしニューヨーク・ジャックスでは、「誰かの何かをどこかに挿入すること」は禁じられており、「お尻プレイ禁止、おしゃぶり禁止、本番行為禁止」が明確に謳われている。この特異性は、ニューヨーク・ジャックスが、セックスパーティー愛好家のコミュニティではなく、フェティッシュのコミュニティであることを示すものだ。筆者はこの時まで、自分の性的嗜好が、これほどまで多くの男性たちと合致するかもしれないという可能性を探ってみたことがなかった。

    ニューヨーク・ジャックスの入場料は25ドルだ(年会費30ドルを払えば、会員料金で20ドルになる)。この金額には、服装検査スタッフへのチップは含まれていない(チップは払ったほうがいい)。集められた入場料は、会場費や組織運営の経費となり、チップはイベントごとに、ボランティアスタッフたちに分配される。

    のめり込みすぎたくないので、筆者は1回分の入場料だけを払った。「ヌキまくりの未来」に対する投資に関しては、オープンマインドな姿勢を維持することを決意したのだ。

    一番奥のドアの向こう側では、先ほどよりも少し年配の大柄な男が、ジョックストラップ(スポーツ用サポーター)にスニーカーという姿でチケットをもぎりながら、初めて来たのかと訊いてくれた。そして、新入生オリエンテーション会場での2年生のような明るい兄貴的優しさで、会場について教えてくれた。

    パドルズの細長いスペースの中にはバーがあり、そこにはドリーミーなピンクのネオンサインで「Whips and Licks Caf」と書かれている(訳注:Whipsは、クリームのホイップとムチをかけている。Lickは舐める、の意)。とはいえ、ニューヨーク・ジャックスのイベントでは酒類は販売されていないし、飲酒も禁止だ。その代わり、小さなプラスチックのカップが積み重ねられている横で、水とジュースが提供されている。

    メインフロアの一番奥には階段があり、中二階につながっていて、そこには椅子とフェイクレザーのカウチが数脚、置かれている。その反対側、バーを遮るように設置されている約2.5~3メートルの壁の後ろには、もっと薄暗い空間があり、革製のスリング(吊り具)が備え付けられた小部屋につながっている。

    筆者はトイレを探していて、ここに迷い込んでしまった。会場に音楽は流れておらず、エンドレスにゲイポルノが放映されているテレビの音声はミュートになっている。耳に入る音はといえば、参加者兼スタッフが新しく入ってきた人たちとおしゃべりをする声と、あちこちから聴こえてくる小さなうめき声だけだ。

    僕らは、入り口近くのベンチで服を脱ぎ、靴を履き直して、荷物預かりの受取票を靴下にはさむと、中に足を踏み入れた。ニューヨーク・ジャックスでは、靴は履かなければならないきまりになっているが、フルヌードになることは義務付けられていない。下着は付けたままでも構わないことになっているのだが、見たところ誰も下着は履いていなかった。裸で靴だけ履いているというのは奇妙だが、その違和感も数分後には薄れてしまい、気にならなくなった。

    パドルズで毎週行われている他のイベントのことを思えば、ニューヨーク・ジャックスの活動など、ありふれたものに感じられる。キンクとフェティッシュの線引きは難しいが、キンクは性的な嗜好であり、フェティッシュは性的満足を得るための必要条件である、と定義するのはひとつの方法かもしれない。

    相互オナニーをしている人たちの多くは、それをキンクだと捉えているかもしれないが、他のソロセクシャルを自認する者たちにとっては、そのキンクがフェティッシュのレベルにまで上がっている。つまりこれは、彼らが好む、あるいは唯一の、性的行動の方法なのだ。ソロセクシャルの人たちの中にも、他者との性的交流を持つものもいる。しかしそうでない人たちは、いわゆる禁欲生活を送っていることになる(自分自身を性交渉の相手の数に入れないのであれば、だ)。

    筆者が話を聞いた相手のほとんどはゲイの男性であり、自分をソロセクシャルだとは思っていなかった。彼らにとって相互オナニーというのは、他もさまざまにある同性愛者の楽しみ方のひとつだ。ニューヨーク・ジャックスがターゲットにしているのは、こうした男性たちだ。彼らのほとんどがゲイで、集団でマスターベーションすることに興味を持っている。そして、その場に立ち会ってみて、参加してみて、同じような趣味を持った仲間を作るのだ。

    ニューヨーク・ジャックスのオーガナイザーの一人、スティーブという男性はメールで、このイベントで裸になることは、「大きな自由をもたらし、多くの男がバーで感じる身構えのほとんどを消し去ってくれる」と確信していると述べた。そして「隠すものが何もないんだ!」と付け加えた。というかむしろ、隠す場所がどこにもないのだ。

    スティーブによると、ニューヨーク・ジャックスには約300人のカード会員がいる。しかし、ジャックスのイベント参加者の大半は、旅行者や、このイベントを聞きつけた好奇心の強い観光客などの非会員だと彼は推測している。

    「ほとんどの男はオナニーをするし、他の男たちのペニスに好奇心があると思うんだ。だから時おり、ただ参加する男がたくさんいるよ」とスティーブは述べる。「他の男たちとオナニーをすることで、自分たちのカルチャーの恥ずかしさとか、皆がやっているこの行為の恥ずかしさが、かなり消えるんだ」

    スティーブは、ジャックスの参加者全員がゲイというわけではないと強調した。彼は、参加者の約10%は、女性と結婚、または付き合っていると推測している。その女性たちがパートナーの性的嗜好について知っているのかどうかはわからないが。

    ジャックスの会員登録の際に確認が求められることは一切ないが、実際の割合がどうであろうと、相互オナニーの魅力は必ずしも、男性にしか興味がない男性に限定されるわけではない。

    相互オナニーは歴史的に、キンゼイ指標(異性愛と同性愛の指向を示す指標)をさまよう男性にとって、性的なはけ口として機能してきた。セントラルパークの「ランブル」エリアで女性を探すが、ジムのサウナでも目をキョロキョロさせるような男性のことだ。

    自分はストレートだと思っている男性の一部にとって、相互オナニーは、男性への興味を、安全なかたちで探る一つの方法になる。つまり、ストレート男性という自分のステイタスを根本的に脅かす恐れがない形で、試してみるということだ。ちょうど、普段の自分の好みではないアダルト動画をクリックしてみるかのように。

    筆者が話を聞いた男性の何人かは、ストレートの友達と行った「実験」について、詳しく話してくれた。アダルト動画を一緒に見たり、相互オナニーをしたりするという実験だ。そしてこうした出来事は、今は自分はゲイだと自認する人たちに強く影響している。

    インタビューの後で考えてみると、多くの男性は、「自分はこういうことが好きなのか?」という気持ちと、「自分はもっとできるのだろうか?」という気持ちのバランスをとりたがっているように思える。おそらくこれらは、性的な接触ごとに生じる、両極端の気持ちなのだろう。しかし、こうしたバランスを取ることは、自分自身の欲望について理解するうえで重要だ。そしてこうしたプロセスでは、オンラインであれ現実世界であれ、相手探しや、別のかたちでの半ば匿名のセックスなどが大きな役割を果たしうる。

    そうしたオンライン・スペースのひとつが「Kik」だ。Kikには、相互オナニーに夢中だというニューヨーク在住男性が集う大きな非公開チャットグループが少なくとも一つ存在する。筆者は、そのグループメンバーの一人に話を聞いた。彼は既婚のゲイ男性だが、第三者との関係を持つことを認めるオープンマリッジの形をとっている。彼の夫は、彼のこの嗜好を認めているそうだ。

    彼は最初、相互オナニーの相手を、コミュニティサイト「Craigslist」で探していた。「『ストレートの男』と出会う方法」として始めたのだ。彼はしばしば、ストレートの男になりすまし、経験の浅いストレートの男性と会おうとしていた。主に、オファーされる種類のセックスを回避するためだ。ゲイの男性であれば、事をさらに進めたがる可能性がある。

    「僕は本当に、ただ他の男とオナニーをしたかっただけなんだ」と彼は話す。「実際、ストレートの男を探すことで、安全上の理由でセックスを避けることがしやすくなる」

    相互オナニーは、他人とするセックスのなかでは最も安全性が高いセックスと言える。そして、男性間で行う多くの一般的なセックス行為と違って、準備がほとんど必要ない。相互オナニーは、男性間のカジュアルセックスの基本単位であり、相手探しや、ほかのノンベッドルーム・ランデブーにうってつけなのだ。

    Kikの彼は、「最初はストレートの男になりすましたり、ストレートの男を探したりしていたけど、数年後にはそれをやめた」と話す。「相手を求める投稿では自分のことを、『リラックスすることと、男が好むようなことをするのが好きな男です。ただし一緒にね』という感じにしていたよ。相互オナニーは、誰かと共有したい趣味だとわかったんだ」

    「趣味」という言葉は、ふつうは、セックスと頻繁に結びつくものではない。しかしそう表現することは、熱心なベイターたちが、相互オナニー、つまりペニスを使った自由なアクティビティについてどう考えているのかを理解する最良の方法なのかもしれない。

    「男がやりたいこと。ただし一緒に」という表現は、相互オナニーのコミュニティではよく知られている合言葉だ。そのコミュニティは、Tumblrのポルノコンテンツ「ルームメイトに見られちゃった」などの人気ジャンルから(ここでは、相互オナニーはどちらも積極的にしようとしたのではなく偶然そうなってしまったもので、「ストレートの男性」として安心して試せるものとして扱われている)、BateWorldやGrindr上のたくさんの男性のプロフィールまで、様々だ(「ヌキ友募集中」は、よくある、気持ち良いくらい率直な表現だ)。

    共通するもう一つのテーマは、単純にペニスに対して感じる魅力だ。Kikの彼は最初の経験について、「僕はペニスを見たかったんだ!そして触りたかったんだ!」と語る。ペニスを見たり触ったりすることは、許容され、共有されたかたちで他の人をフィジカルに探求するということであり、ある種の親密な行為だ。そしてそれは、他の男性の体に対して思春期に抱いた興味を思い出させるのだ。筆者が話した多くの男性が、そうした興味を持ってきたが、それを満たす機会がなかったと述べた。

    この話題について一緒に話したゲイの友人は、多くの男性にとって最初の性体験は、彼らがどんな認識をしていたとしても、実は男性とのセックスだと指摘した。つまり、自分自身ということだ。他人のプライベートな性行為を見ることには、われわれの多くが一人で発見したことを共有し、あたかも初めてのようにその発見を経験するという、追体験的な喜びが存在するのだ。

    別のKik利用者は、「興奮する理由のひとつは、若かった頃、友人とオナニーをしたことがなくて、チャンスを逃してしまったと本気で思っていたことだと思う」と話す。「だから、オナニーをしたり見たりすることが許されている状態がうれしいんだ。…もし中学生や高校生の自分に、将来はこんなことが起こるなんて話しても、信じないだろうね」

    筆者の場合、10代に時々行なっていた実験は、ひっそりとした秘密のものだった。そしてそれらは、自分の嗜好に関して、長く続く深い恥の感情を生んでいた。どんなクローゼットも、欲望を隠す必要性から作られる。多くの場合、同性愛者という大きなクローゼットから出てきてもなお、人生には数々の小さなクローゼットが存在しうる。

    筆者がカミングアウトするずっと前から、相互オナニーは、筆者のパーソナルクローゼットだった。しかし筆者は最近まで、そのことに気づいていなかった。相互オナニーについて話し始めて初めて、誰もそれについて話してこなかったのだと気がついたのだ。

    他にも、Twitterで筆者と相互フォローしていた男性がメールで質問に答えてくれた。彼は、自分の仕事場の近くに住む定期的なヌキ友について教えてくれた。彼らは「一緒にオナニーするためだけに」週に1~2回会うのだが、「キスさえしたことないと思う」という。

    キスしたいとは思わない誰かとの定期的なセックスというのは、共通の興味に基づいて築かれた友情と呼べるだろう。そして、靴だけ履いて後は裸、というジャックスでの格好のように、時間が経っていけば自然に思え始めてくるのだ。

    「僕は、他人のプライベートな儀式を見るのが好きなんだ」と彼は話す。「彼らが自慰行為をするときどうするのかを見たいし、僕にもそうしてもらいたいんだよ」。幾度もの破局の後、挿入するセックスに対して不安を感じた彼は、今はGrindr上で頻繁にヌキ友を探しているのだという。「相互オナニーはリアルなつながりなんだ」

    2番目にコンタクトをとったKikユーザーが言ったように、もっと簡単な言葉にすれば、こういうことだ。「それに、痛くないんだ。僕はペニスをとても愛しているからね」

    こうした身体部位への素朴な称賛は、アダルト誌「Juggs」を読む10代のストレートの男子のように幼稚に見えるかもしれない。また、同性愛の男性たちのペニス崇拝、つまり、男性の体を称賛する男好きな男性というのは、少々鼻につくように見えるかもしれない。ペニスを振り回しに出かけるのは痛い男性のように見えるかもしれない。しかし、誰かの前でシンプルに裸になることは、相互オナニーや一緒に露出することがもつ魅力の大きな部分を占めている。そしてそれは素敵なことに思える! しかしそう思う筆者は、偏っていることになるのだろう。

    ペニス崇拝というこのカルト的な人々は、SNSのBateWorldでたくさん見かけることができる。BateWorldにアクセスするには、メールアドレスを登録しなければならない。基本的には無料だが、プレミアム会員(料金は90日25ドル、1年契約は60ドル)になれば、ビデオチャットなどの機能を利用できる。会員登録してから7日間は、プレミアム会員と同等の機能を無料で体験できる。

    Kikで話を聞いた全員が、BateWorldはコミュニティーへの入り口のようなものだと教えてくれた。ほかのアプリで男性に出会っても、BateWorldのプロフィールを持っているか聞かれることが多いという。

    BateWorldのプロフィールは検索可能で、現在地(自分の郵便番号からの距離または都市名)、年齢、ペニスのサイズ、性的指向、さらには割礼の有無などで絞り込むことができる。ほとんどのユーザーはプロフィール写真を公開していないか、ペニスの写真を使用している(多くの場合は、サムネイルのアスペクト比を操作し、極端に細長いか太いかのどちらかに見せている)。フォトアルバムを公開することも可能で、やはりペニスの写真が大部分を占めるが、顔写真が含まれていることもある。

    BateWorldは、初期のFacebookのような共通の関心を持つ人たちのグループに加えて、オナニーのミームから、オナニー用語の「ディックショナリー(ペニス辞典)」まで、何でもありの公開フォーラムなどを用意している。バケーション中のルームシェアを可能にする「Airbnb」のベイター版「Airbnbate」もあり、ベイターたちがオナニーしやすい世界中の宿泊先が提供されている。ニューヨーク市ブッシュウィックのどこかにあるクイーンサイズベッドの半分など、ちゃんとした部屋というよりは「カウチサーフィン」に近い宿泊先もあるが、Airbnbに登録されているようなきちんとした宿泊先もある。

    BateWorldがFacebookに勝る点は、アメリカの民主主義をむしばむ秘密裏の個人情報売買が行われていないことだけではない。友達になりたい人を探す際に、ドロップダウンメニューが「友達」、「親友」、「興味本位」、「恋人」、「そのほか」にカテゴリー分けされており、必要とする関係、あるいは求めている関係を明記できるのだ。

    さらにユーザーは、ベイターQ&Aを公開することもできる。質問の内容は、「あなたがこれまでにオナニーした最もおかしな場所は?」、「あなたの親友は、あなたがベイターであることを知っていますか?」などだ。

    筆者がプロフィールを見た人のほとんどは、2つめの質問に「いいえ」と答えていた。文句なしの合理的な答えだが、少し悲しくもある。多くの場合われわれは、現実世界の知り合いには秘密にしていることを、赤の他人に話す。現実世界では、他者を受け入れるためのハードルがはるかに高いのだ。おそらくそれは、何よりもセックスに当てはまる。

    BateWorldのプロフィールの多くは、Grindrと同様に、自身の関心に驚くほど率直で、その表現は具体的かつバラエティーに富んでいる。ユーザーたちは、「ポッパーベイター(性的興奮剤常習者のベイター)」や「ストーナーベイター(大麻常習者のベイター)」などと自称している。

    「グーニング」という言葉もよく使われる。「自分の内なるフリークさ(変わったところ)がオナニーセッションを完全に支配することが許された状態」と定義されるものだ。なおこの定義は、BateWorldのフォーラム「LPSG」(「ラージ・ペニス・サポート・グループ」の略)から引用されたものだ。予想できるとは思うがこのフォーラムは、メニニスト(フェミニストの男性版)による挑発的な発言が続くところだ。グーニングという言葉はしばしば、原始的で男性的な性的興奮や享楽にアクセスすることや、オナニーを介した一種の肉体的な会話を指す場合もある。

    どのような定義であれ、筆者自身は、グーナーを自称するにはあまりに普通で、あまりに抑圧されている。しかしグーニングという言葉は、オナニーをセクシャリティーの真剣かつ重要な一部として捉えるコミュニティーが存在することを物語っている。

    オナニーは原始的かつ男性的な行為であるという主張は、相互オナニーとセックス、そして、それらに関連した独特な関係性の間の境界線だと考えると興味深い。異性愛者という見かけを残すための不誠実な偽装より、「男の行為をする男たち」という概念の方がおそらく、男が男を求める欲望の中核に近いと言えるだろう。

    オナニーは自分とのセックスだ。相互オナニーは、自分とのセックスを他人と一緒に行うことで、その他人も、自分自身とセックスを行う。このように、相互オナニーは多くの人にとって、誰かとオープンな関係を築いた上で、別の誰かと浮気するときの理想的な方法となり得る。「越えてはならない一線」が暗に示されているためだ。相互オナニーを求める男性が、キスやオーラルセックスに関心を持っているケースもあるが、一緒にオナニーしたら、必ずその先があるというわけではない。

    ベイターたちは、1人で、さらには2人で性的解放を体験できるが、その一方で、この行為の特異性が、主要な関係のロマンティックな真剣さを脅かすことはない。ジョン・キャメロン・ミッチェルの映画『ショートバス』(2006年)で、セックスパーティーの主催者ジャスティン・ビビアン・ボンドが新しいゲストたちに、「のぞき見は参加よ」と説明する場面がある。この言葉は間違いではない。しかし、のぞき見はセックスではない。そして、一部の人からすれば、相互オナニーもセックスではない。

    セックスかどうかを、その活動のレベルによって線引きするのは的外れに思える。身体的な接触は、必要条件なのだろうか。ほかのシナリオでは、挿入や、時にはオーガズムさえも、セックスではないと合意できるのだろうか。誰かとヌーディストビーチに行くのはセックスではないが、砂丘の陰で勃起したペニスを見せ合うのはセックスかもしれない。

    もちろん、何をセックスと見なすかについては、特に挿入に関しては、異性愛の世界でもしばしば議論される。そしてこの議論は、受け入れることができる性的関係の境界線や機能という概念にまで発展している。

    筆者がストレートの友人たちにヌキ友の話をしたら、ほとんどの友人が、面白いけど信じられない、というふうに頭を振った。ゲイたちにとってのセックスと友情の曖昧さ、風通しの良さが理解できないようだった。

    テレビドラマ「フレンズ」の全10シーズンは事実上、男女が長期的に半ば性的な友情関係を結ぶことは不可能だという内容だった。一方、クィアたちの映画鑑賞会や引越祝いパーティーは、昔の恋人や「Tinder」のデート相手で彩られている。再びベッドをともにするかどうかは別の話だが。いずれにせよ、ただ状況が変わったという理由で、なぜ最高の仲間を捨てなければならないのだろう?

    筆者は10年以上前にカミングアウトし、少なくともクィアの親友たちに対しては、性的嗜好を比較的オープンにしている。しかし、相互オナニーへの関心は、完全に認めるのには抵抗があった(それなのに今、公の場で告白している)。

    筆者の初期の性体験には、お泊まり会や、保護者のいない地下室、「スカイプ」での相互オナニーが含まれていた。それでも、筆者はしばしば、そうした秘密の探求が自分の性的発達に大きな影響を与えたことを認めるのが怖いと思っていた。筆者は何年も、同年代の男の子に求めていることとその理由から目を背け、自分の関心を閉じ込めていた。人類学的な好奇心をもっともらしく否定していたのだ。

    当時の筆者にとって、誰かとオナニーすること(あるいは、その行為について話すこと)は、同性愛の欲望を認めることに最も近い行為だった。男の子特有の好奇心だとラベルづけはしていたが。男はみんな、ほかの男性のペニスを見たがるものだよね? という感じだ。 おそらく多くの男性がそう思っているのだろう。だが筆者にとっては、自分の欲望をより一般的なかたちにすることが、自己受容の唯一の道だった。ニューヨーク・ジャックスのイベントを訪れたのは、筆者を含む多くの人が思春期にベッドで何時間も空想していた夢を実現させるためだった。

    クローゼットを出てからの人生の方が長いゲイたちでさえ、露出への恥じらいや恐怖が自分自身を形づくってきたことを簡単に忘れてしまう。筆者もその仲間入りを果たそうとしているようだ。相互オナニーの親密さは、文字通り、そして比喩的にも、露出と大きな関係がある。ロマンティックな意味で一緒に裸になることよりも、肉体的には率直かつ探求的だ。さらに個人的には、あまり語られないこと、あるいは一種の性行為と見なされていることを共有しなければならないためだ。

    筆者は、恥じらいに混乱しながら、希望のない状態で夢見ていた過去の日々を振り返りながら、その夢が今は、手を伸ばせばそこにあるという事実に勇気づけられている。


    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan