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「それって、ただのわがままじゃない?」 なぜ、しんどさや大変さを声に出すことに抵抗感を抱くのか

政治に対して意見を表明すること、デモをすることはわがままか?あえて「意見を言うこと」を「わがまま」と表現した社会学者・富永京子さんが伝えたかったメッセージとは。

今の日本では、どうして意見を表明することに抵抗感がつきまとうのだろうか。

立命館大准教授の富永京子さんは、意見を言うことをあえて「わがまま」と表現することで、政治や社会と日常の生活をつなげることを試み、『みんなの「わがまま」入門』と題した本を書き上げた。

「それって、ただのわがままじゃない?」
「そんなことをやったって、社会は変わらないでしょ」
「自分だって我慢している。だから、お前も我慢しろ」

政治的な活動に参加する「彼ら」と、それを眺める「私たち」との間には大きな溝が広がっている。それはなぜなのか。参院選を控え、富永さんに聞いた。

あえて、「わがまま」という言葉で表現した理由

ーー意見を表明することを「わがまま」という言葉で表現したことに、正直驚きました。

もともとは中高生向けの講演で用いた言葉で、そこに同席していた編集者さんから「わがまま」を題名にした本を書かないか、というオファーがあって書き始めたのです。

ただ「わがまま」というのは当然ネガティブな意味を持つ単語なわけで、社会運動をはじめ、意見を言うことを「わがまま」と冠した本を出すことが良いのかどうか。これは、かなり悩みました。

2年前に『社会運動と若者』という本を執筆しました。安保法制への抗議行動という、当時話題のトピックを扱ったこともあり、いわゆる学術書としては反響もあり、取材にお答えすることも何回かありました。その中で、あるご取材にお答えした内容が社会運動に関わられている方の中でネガティブな意味で話題になってしまい、社会運動に対して批判的、冷笑的な研究者だと見られるようになった経緯がありました。

自分の中では非常に辛い経験で、自分自身についてはどう見られようが仕方のない話ですが、これまでお世話になった社会運動参加者の方々を裏切ってしまう、傷つけてしまうことが耐え難かった。

ですから、これ以上表に出ることも、「わがまま」という題名をもった、運動に対するネガティブな見方を敢えて押し出すような本を出すことにも抵抗があった。

そんな時、ある友人に「この本を出すことで、自分がどんな研究者なのか、自分の社会運動に対する見方を素直に書くことで、他人から漠然と与えられた輪郭ではなく、距離はあるけれど共感はしているという立場を明確に提示することができるのでは」と背中を押していただきました。

これまでは、おそらく悪い意味で、自分の立ち位置の判断を見る人に委ねていたというか。研究者として社会運動に携わる人に話を聞き、論文なり学術書を書く。それはあくまで「研究の成果」と考えていた。だから、それをどう現実社会の中で用いるかは記者やライターの方次第だと。

そこにどのような価値を付与しても、それをどのように取り上げられるにしても、自分の立ち位置は受け取る側へお任せしていたんです。あとは読む方のお好きに判断してください、と。

ただ、自分は積極的に社会運動をやっていないにせよ、ごくわずかですがメディアで発言する機会があるし、社会運動をされている方に本を読んでもらうこともある。その点で、僅かではありますが社会の一部であり、社会運動の一部ではすでにあるんだなということも感じつつあった。だから、いくら表に出ることを拒否し、論文だけに自分の研究成果をとどめたとして、もう「観察者」という曖昧な立場に自分を留保しておけないんじゃないか。社会運動の研究者として、社会から自分を離したままにするのは無理があるんじゃないかと。

誰に批判されてもいいから、自分の立ち位置を明らかにしようと決めました。

私が社会運動に対して距離を感じているのはごまかしようのない事実です。でも、その距離があるからこそ書けるものがあるし、社会運動に対してできる応援の仕方、恩返しの仕方があるんじゃないかと考えました。その方法としてこうした主題をもつ本を出したことが良かったかについては、今も悩んでいますが。

「社会運動=怖い」?データから読み解くと…

日本人はデモや座り込みといった多くの人に見られる場所で行う活動にはとても厳しく、逆に比較的おとなしい活動、たとえば政府に対して制度を変えてほしいと交渉をしたり、あるいは署名を集めて政府や企業に提出するといった活動にはかなり寛容であると言われています。
(『みんなの「わがまま」入門」)

日本、ドイツ、韓国における社会運動への「許容度」を調査した研究結果を引用し、富永さんはこのように指摘する。

デモや座り込みと署名や請願・陳情への許容度の差は、「批判する」だけか「提案もする」かということに対する受け止め方の違いなのではないかと考察する。

批判でなく対案を求めるこうした風潮は、結果として声を上げることそのもののハードルを上げてしまう危険性をはらんでいる。

また、多くの人が社会運動に代表性を感じておらず、加えて「秩序不安」という項目を見ていくと、50%近くの人々が「社会運動=怖い」と感じていることもデータからは明らかだ。社会運動は「自分とかけ離れた人々がやっているもの」という認識は人々の間で思いのほか根強い。

このような現状を踏まえた上で、激しい言葉を使って表現する人の背景を想像してみることの重要性を富永さんは呼びかける。

まず、デモの場で人々は「激しい言葉しか使えない」可能性があります。なんで政治家との交渉とか選挙での投票じゃなくてデモをやっているのかというと、それまで冷静に話しても聞いてもらえなかったからですよね。聞いてもらえないから激しい表現になる。
(『みんなの「わがまま」入門』)

富永さん自身、社会運動の表現が「許容できない」と感じる人々の気持ちもよくわかる。だからこそ、こうした忌避感を一つひとつ解きほぐすことを試みた。

社会運動はこれまで「バズらせ方」の技術を磨いてきた

ーーSNSなどには過激な表現や断定的な言葉も溢れています。忌避感を与えることなく、「わがまま」を伝えるにはどのような表現が必要だと思いますか?

そもそも論からお話しすると、社会運動論の伝統的な問題意識は運動をいかに成功させるかということにあります。いかにして、問題を広く伝達し、人々を動員し、運動を発展させ、成功へと導くか。つまりは「バズらせ方」の技術なんですよね。

自分たちのメッセージを伝えるために、バズらせることは大事。でも、「自分もその問題は重要だと思っているけれど、その伝え方はしたくない」という人もいるよなと大学院に入学した頃からずっと思っていたんですよ。

例えば、「保育園落ちた日本死ね」という言葉はすごく力がある。だからこそあれほど多くの人の気持ちを揺るがし、政治に届いた。ただ、現実として「保育園落ちた日本死ね」といった言葉に違和感や「そこまで言っていいのかな」という感情を覚えてしまう人はいるかもしれない。

そうした人へとメッセージを届けたり、またそうした人々自身が自分なりに社会を変えようとしていくためにも、バズることを求めない、日常を通じた社会運動の技術も必要なのだと思います。

日常を政治的に生きるということですよね。そうした日常を繰り返すことで、かつて過激だったり怖いと思っていた運動の共感も作られていくかもしれない。

ーー『みんなの「わがまま」入門』のゴールも社会を変えよう、デモをしようといったことではありませんよね。社会運動はあくまで「きっかけづくり」だと。なぜ、日常を通じた社会運動にこだわったのでしょうか?

10年間社会運動を見続けた中で、社会運動とはもちろんそれ自体社会を変化させるものでもあるけど、その後の変化の糧となるような「きっかけづくり」でもある。そして社会運動を経験して、人も変わっていくのだと実感したんです。

近年の日本だと、安保法制への抗議行動が非常に大きな社会運動でしたが、あれほどの運動ですら安保法制そのものの改正を止めることはできなかった。でも、携わっていた人々は、各々がジャーナリズムの道へ進んだり、最低賃金の問題を取り扱ったり、フェスを立ち上げたりしていますよね。彼らより下の世代が新たに社会運動を始めたりもしている。

自分なりに「わがまま」を伝えることは間違いなく、未来の自分や他の誰かに影響を与えている。結果として影響を受けた「誰か」が社会を変えることだって十分ありうることだと思うんですよ。

なぜ「わがまま」を言うのか。その背景を想像するということ

ーーなぜ「わがまま」を言うのか、その背景を想像してみようと富永さんは呼びかけています。でも、自分のことを考えるだけでも忙しい中で誰かの背景を想像する、その一手間をかけることが難しいと感じてしまう人もいるのでは。

たしかに手間も時間もかかります。でも、いきなり遠い誰かの「わがまま」の背景を想像してみることは難しくても、自分の身近に存在する「わがまま」にアンテナを張ることはできるのではないでしょうか。

例えばある大学生のお話を聞いていて、非常に興味深く思ったのが合宿で泊まるホテル選びに関するお話です。

1泊1万円の部屋にするのか、1泊5千円の部屋にするのか。それは単純な数字の問題ではないですよね。背景には親の仕送りがいくらか、バイトにどれだけの時間をかけることができるのか、といった個々人の生活の構造の問題があります。

自分の大学の学生などを見ていると、そういう身近な誰かの背景を想像することに長けているように感じますし、その想像を踏まえて意思決定をしているように思います。

顔の見えない誰かの背景を想像する際に求められている手続きも、おそらくはこれらと全く同じはずなんです。

逆に言えば、自分とは遠いと思っていた人々の「わがまま」の背景を想像することで救われるのは、もしかしたらあなたの隣にいる「誰か」かもしれない。

周囲にいる、自分と異なる背景を持つ人々の差異がどこから来ているか敏感になることは、社会に関わるきっかけになるはずです。

ーー政治を考えることに距離を感じてしまう人もいます。「正しい選択をしたい」と思うからこそ、投票から足が遠のいたり…そんな人々へ声をかけるとしたら、何と伝えますか?

あまりに気負いすぎて足がすくんでしまう人にこそ、あなたのために政治があるんだ、と伝えたいですね。

政治という大きくて遠いものの前で、自分の存在なんてちっぽけに感じるかもしれない。でも、自分の生活のために政治に関わる選択をしていいんです。税金が高いなら高いと言っていいし、夫婦同姓によって起こるもろもろが面倒くさいなら、面倒だと言っていい。

もしかしたら、政治は自分よりも偉い人が決めるもの、自分よりかわいそうな人を救うものと考えているかもしれません。自分なんて、本当に大変な人と比べたらそんなに困ってもないし苦しくもないから、政治に参加する必要ないと思うのかもしれない。

誰であれ大変な思い、しんどい思いをしていて、それを自分のせいにしてしまいがちだけど、そのしんどさや大変さは社会や政治によって押し付けられている可能性は十分にある。

そういった、自分自身が知らず知らずのうちに抱えている傷や苦しみを何とかするためにもまた、政治があると思ってもいいんじゃないでしょうか。

そもそも自分はそんな傷ついてない、困ってない、という人も多いかと思いますが、まず傷や苦しみに気づくために、身近な範囲で「わがまま」を言ったり聞いたりしながら、生活と政治をつなげていければと考えています。