小学校で過ごした6年の間、音読の時間が何よりも苦手だった。
順番が回ってきたときに頭文字でどもってしまわぬよう、いつだって先回りをして自分が読まなくてはいけない文章の頭文字を必死に探す。
どもりやすいのは「た行」。緊張すると自分の名字ですらつまずいた。
どもった瞬間、突然生まれる静寂が何よりも怖い。気付けば愛想笑いが上手になっていたのは、気まずい沈黙をとりあえず笑ってやり過ごす、そんな時間があまりに長かったからだと思う。
「普通に喋りなよ」という言葉を何度も投げかけられた。きっとクラスメイトに悪気はなかったはずだ。でも、無邪気に突きつけられる「違い」への違和感は大人のそれよりも時に鋭い。
とはいえ中学校に入学した頃から、どもる頻度は減っていった。より正確に言うと、どもりそうな言葉がわかるようになった。どもりそうなときは、とっさに違う言葉で言い換える。どうしても言い換えられないときには、その言葉の前に「えっと…」や「あのー」なんて言葉を付け足して勢いをつけてしまえば問題ない。
これは僕の実体験だ。
大学入学後、これが「吃音」と呼ばれるものだと知った。きっかけはある新聞記事だった。そこで「生きづらさ」として記されているものを、私は知っていた。
そんな吃音当事者で「吃音を治す努力を否定する」と1976年に宣言した人々がいる。吃音のセルフヘルプグループ・言友会だ。
どもることを治すことに必死だった小学校、中学校時代を過ごしたからこそわかる。「どもりながら生きる」ことへの覚悟は並大抵のものではないはずだ。
なぜ彼らは「どもりながら生きる」ことを、こんなにも声高に宣言することができたのだろう。
すべて吃音のせいにして、「逃げて、逃げて、逃げまくった」
言友会の創立者、伊藤伸二さんは75歳になったいまも精力的に全国を飛び回る。取材の前日も東京で講演の仕事をこなしていた。
1965年に日本初の吃音当事者団体を立ち上げ、1986年には京都で第1回目の吃音者の世界大会を開催するなど吃音の当事者運動を牽引してきた。
言友会を通じて打ち出した「吃音を治す努力の否定」というメッセージは、あまりに強いその表現もあいまって一部の人からはいまも誤解され続けている。だが、伊藤さんが否定したいのは治したいと思う当事者の気持ちそのものではないと語る。
「治したいという一人ひとりの思いは否定しない。でも、治すことばかりに意識を向けるのは損だと伝えたかったんです。どうせエネルギーを向けるのであれば治療することではなく、自分の人生をどう生きるかということに向けるべきでしょう、と」
伊藤さん自身、誰よりも吃音を治すことを願っていた人の1人だ。何かできないことがあれば「どもる自分には無理だ」と吃音のせいにして片付けた。だからこそ、「吃音さえ治れば…」という思いは痛いほどよくわかる。
いまも小学生たちの前で講演をすると、「どもることで困ったのはどんなとき?」という質問を投げかけられる。だがその度、「どもることで困ったことはない」と答える他ない。なぜなら、そもそもどもらないよう、他者と関わりを持つことを避けていたからだ。
「僕は逃げて、逃げて、逃げまくった。どもらない人間のふりをして生きていた」
「自分の殻の中に引きこもってしまえば、外部との接触がなければ、どもることもないし笑われることもないでしょう?」
いまでは、ほとんどどもることはない。取材中、伊藤さんがどもったのは片手で数える程度だった。言葉の頭文字で時々つっかえる。特に過去の体験を思い起こしながら当時の気持ちを言葉にするとき、その頻度は上がった。
あのとき、「どもってもいい」と教えてくれたら…
初めて吃音を意識したのは小学2年生の秋、学芸会の直前だった。活発でクラスの中心にいるような存在だった伊藤さん。当時は勉強も得意で、学芸会でのクラス劇「浦島太郎」でも主役級の役割を与えられるだろうと信じて疑わなかったという。
だが、配役発表の日、どれだけ待っても自分の名前が呼ばれることはなかった。割り当てられたのはセリフのない役だった。
「当時は先生が成績順に一方的に役割を決めていくような時代でした。だから成績も良い自分が、なんで主役や準主役になれないのかわからなかったんです。そのとき初めて、それは僕がどもるからだと気が付いたんです」
みんなの前でどもってしまえばきっと笑われる。そんな辛い体験はさせまいとする、その教師なりの配慮だったのだろうと振り返る。だがこの配慮が暴力となり、伊藤さんを追い詰めていく。
その日、どもりは悪いものだ、劣っているものだというメッセージを受け取ってから伊藤さんの性格はみるみる変わっていった。「どもりのくせに」、そんな言葉を浴びせられたことは1度や2度ではない。
「どもっていてもいい、色々な人がいるんだとあの当時、誰かに教えてもらえていたら…小学校のとき、中学校のとき、高校のときあんなに悔しい思いをすることはなかっただろうなあ」
そして、「どうしても忘れることのできない出来事がある」と口にした。その声のトーンは一段と低い。
それは高校入学直後のことだ。
中学時代から卓球部に所属していた伊藤さんは卓球が好きだった。白球を追いかけている時間だけはどんなに嫌なことも忘れることができる。当然、高校でも卓球部に入部した。
だが、入部後、新学期早々で男子卓球部と女子卓球部の合同合宿で新入生の自己紹介コーナーがあることを知る。女子卓球部には気になる女の子がいた。彼女の前でだけは、どもる姿を見せたくなかった。合宿前日、卓球部を退部することを決める。
その日、伊藤さんは大好きだった卓球を、そして自分の恋すら手放した。
言友会が打ち出した「治す努力の否定」
教師から貼られたスティグマを剥がすきっかけは、21歳で吃音の矯正施設・東京正生学院に入所した際に訪れた。
そこで出会ったのは自分と同じようにどもる人々。それまで孤独を感じ、誰にも理解されずに悩んできたが、同じように悩み、苦しむ人々と出会った。あっという間に仲間ができ、そして初めての恋人もできた。
「こんなにどもっていても話を聞いてくれる人はいるし、恋人だってできる。そのとき、このまま自分の人生をどもりを治すことだけに使うのはもったいないと思ったんです」
30日間の治療プログラムを終えた伊藤さんは、新聞配達をして大学に通うそれまでの生活に戻るのではなく、違う生き方をすることを決める。
はじめたのは、喋ることが必要不可欠な接客のバイトだった。バイトを続ける中で吃音を理由に嫌な思いをすることもあったが、「どもっていても生きていけるはず」と信じた。
それが吃音当事者のヘルプグループ、言友会の発足へとつながる。
「傷つかない人生よりも、多少傷ついたとしても誰かと触れ合いたい。そんな思いから言友会をつくったんです」
当初、言友会は吃音とともに生きるための知恵を持ち寄り、学び合う場だった。そこには東京正生学院で出会った仲間をはじめ、多くの吃音当事者が集まった。
そこに集まった人の語りに耳を傾けると、同じように吃音を治そうと必死にあがいてきたが上手くいかなかった人が多くいることに気付いたという。
「どもりを治そうとするのではなく、どもりと共に生きる。問題はどう治すかということではなく、どう生きるかなのではないか」
このメッセージを広く伝えるため、1976年の言友会創立10周年記念大会で打ち出したのが先述の「吃音者宣言」だ。
私たちは、長い間、どもりを隠し続けてきた。「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた。
「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」と考えられ、「どもらずに話したい」という、吃音者の切実な願いの中で、ある人は職を捨て、生活を犠牲にしてまでにさまざまな治すこころみに人生をかけた。
しかし、どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかかわらず、充分にむくわれることはなかった。それどころか自らのことばにも嫌悪し、自らの存在への不信を生み、深い悩みの淵へと落ち込んでいった。また、いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私達は人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。
私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を。そして、言友会10年の活動の中からも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた。全国の仲間たち、どもりだからと自分を下げすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であることを、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した。どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである。そして私たちはこれまでの苦しみを過去のものとして忘れ去ることなく、よりよい社会を実現するために生かしていきたい。
吃音者宣言、それは、どもりながらたくましく生き、すべての人と連帯していこうという私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らの決意である。
私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。
その後、伊藤さんは言友会の全国組織の会長を務めていたが、組織上の問題と、「治す努力をすべきかどうか」の路線の違いもあり、会を離れ、日本吃音臨床研究会を設立した。セルフヘルプグループの活動は大阪と神戸の仲間と続けている。
人は目の前の人が語る吃音を理解する
「治ること、治したいと思うのは構わない。でも、もっと素直に、自然に振る舞えばいいと思うんです。人は目の前の人が語る吃音を理解するのであって、漠然とした社会の問題として報じられたところで理解にはつながらない」
社会の理解を得る上での最初の一歩は、実際の生活の中で自分がどもりながら語っていく他ないのではないかと考える。過去の辛い記憶も、悔しい思いも、意味付けを自分なりに変えていくことで前に進んできた。
「社会が変わるまで、自分は待っているだけなのか。どれだけ社会が変わっても、少なからず差別は存在するし、偏見はある。一番早く変えることができるもの、それは自分なんですよ」
「僕らは素直にどもっていくし、語る必要があれば語っていく。それは自分自身のためだけでなく、目の前の人に理解してもらうために、そしてその人たちがこれから出会うであろうどもる人たちのためです」
〈編集後記〉
伊藤伸二さんと言友会の存在を知ったのは2018年9月のこと。東京大学先端科学技術センター主催の『どもる人たちの当事者運動を振り返る 伊藤伸二さんを囲んで』というイベントで、半世紀近くも前に吃音と共に生きることを提唱した人がいたことを知った。
治すことに必死だった小学校時代、学校を早退して通った「ことばの教室」での喋る練習を今でも時折思い出す。吃音のことを考えれば考えるほどにどもる自分に、「どもることは悪いことだ」と言い聞かせ続けていた。
取材を終えて、あのとき僕が本当に欲しかったものが何だったのか気付くことができた。
「どもっていても大丈夫」。ただその一言が欲しかった。