「異なることがうれしい」 ろう者の写真家・齋藤陽道が「聴こえる」子どもを迎えて

    ろう者の写真家、齋藤陽道さん。同じくろう者の妻・まなみさんとの間に生まれたのは「聴こえる」子どもだった。

    齋藤陽道さん。34歳、写真家。『感動』『宝箱』と題した写真集2冊を発表し、Mr.Childrenやクラムボンら有名アーティストの撮影も手がけてきた。

    「2人目の子どもが、もうすぐ生まれるんですよ。でも、上の子を入れる保育園がどこもいっぱいで見つからなくて。家の周りは緑も少ないし。引越しした方がいいのかなあ。そんなことを考える日々です」

    小さな子どものいる家庭のありきたりの悩みを教えてくれる齋藤さんは、耳が聞こえない。妻のまなみさんもろう者。長男の樹さんには聴覚障害はない。

    音がないから、写真という映像の道を選んだのか。息子とはどうやってコミュニケーションを取るのだろうか。

    お互いに声が聞こえあっていても、わかり合うことは難しい。齋藤さんの著作『声めぐり』は、こんな書き出しで始まっていた。

    「声」は伝わらない。それが僕の実感だ。

    聴者の文化に馴染もうと必死で生きてきた。

    齋藤さんの両親は耳が聞こえる。だから彼も16歳になるまで聴者の文化で生きようとしてきた。母と一緒に発声訓練をし、補聴器をつけて学校に通った。

    正しい音か自信を持てぬまま、家族や同級生を真似て自分の声を恐る恐る絞り出した。相手の声を聴き逃すまいと耳を澄まし、唇の動きを必死で追いかけた。

    聴者に馴染もうと懸命に過ごす毎日。補聴器をつけても大きな音しか聞き取れず、ノイズにも悩まされる。聴者と同じように周囲の音を理解することはできないし、自分の声が届いている実感はなかった。

    聴者が自分を馬鹿にしている言葉だけが、時折わかった。そういう時は、あからさまに大げさに口を動かすからだ。

    当時の記憶はあまりない。同級生との会話も、自分の声も思い出せない。わかり合う関係ではなかったからだろう。『声めぐり』でこう振り返る。

    当時のぼくにとって、ことばは使い捨てるものだった。今ならわかる、ことばを使い捨てることは、こころを使い捨てることだ。

    16歳で入学したろう学校で出会った、ろう者の文化。聴者の世界に馴染めなかったが、ここなら自分を受け入れてくれると感じた。

    はじめて目にする手話。手話でなら「おはよう」という挨拶も、冗談で笑い合うことも意識せずにできる。初めて、「ことば」で他人とつながることができた。手話は目に見える「声」だった。

    彼にとって初めての居場所だった。そして、あることに気付いた。

    「表情にも意味がある手話を言葉とするろう者は、表情の表現がとても豊かです。それに慣れてしまうと、ときどき、聴者の人のことが心配になることがあるんですよね。あまりにも表情が乏しい聴者と接しているとき、んん、なんか気持ち悪いなあ、この人大丈夫かなあとか思ってしまったり」



    「でも、それは違うんですよね。逆に、聴者からしたら、手話の表現を、身振り手振り程度のことしか伝えられない幼稚なものだとみなしたり……というか、ぼく自身が、そう思っていました」

    「単なる文化の違いにすぎないはずなのに、自分の知っている文化を全てだと思って、そこに引き寄せて考えてしまうことで、差別が生まれるのだと思います」

    聴者の文化で生きようともがき、ろう者の文化に居場所を見出したからこそ、よくわかる。それぞれの違いは、違いにすぎない。優劣はない。表情豊かなろう者同士だからこそ生まれる力強い「会話」もある。

    ただ、ろう者の文化の素晴らしさ、力強さを知ることで、全ての悩みが消えるわけじゃない。2つの世界を経験した齋藤さんは、エッセイ集『それでも それでも それでも』で、その気持ちを率直に表現している。

    「もういやだ」と何度思ったことだろう。

    「諦めたい」「逃げたい」「話したくない」という思いと同時に、「諦めたくない」「逃げたくない」「話したい」と、「それでも、もう少しなんとか」と、何度思ったことだろう。

    千千に乱れる感情のあいだで、自分に言い聞かせてきていた思いは「それでも それでも それでも」という、生きのびるために必要な感情でもあった。

    生き延びるために齋藤さんが選んだのは、補聴器を外して生きることだった。

    聴者に近づくのではなく、ろう者として生きる。そう決めたのは、20歳の誕生日だった。

    もう一つ決めたことがある。写真家として生きていくこと。

    初めて手に取ったカメラは、中学校時代に流行った「写ルンです」。当時、撮っていた写真には不自然なまでに人が写っていなかった。

    ろう学校ではそれまでのコミュニケーションの不足を補うように、39枚撮りの「写ルンです」を1ヶ月に1つ使い切るペースで毎日のように写真を撮った。

    ろう学校卒業後、2年間の社会人生活を経て大阪にある写真の専門学校へ入学するが中退する。そのあとは、手話で話す人を自分が見たままに撮る表現方法を模索してきた。その集大成が、上記の「MY NAME IS MINE」になった。当時のバイト代のほとんどはフィルムや現像の費用に消えたという。

    当時は写真で食べていけるとは思っていなかったと齋藤さんは語る。

    「25歳になっても写真集が出せないなら、すぐやめて、違う仕事をしようと思っていました。『感動』(1つ目の写真集)を出してなかったら、写真はやっていなかったですね」

    障害者、LGBT、死を目前に控えた人など、これまで写真を撮るなかで向き合ってきた人々は「マイノリティ」と呼ばれる人であることが多い。でもそれは、齋藤さんにとっては結果論にすぎない。

    「いろんなからだをもつ人に会うのが好きです。そのいろんなからだが、結果として障害のある人が多いだけで、障害を撮りたいということが先行しているわけではありません。似て非なるものです」

    様々な場所を訪れ、たくさんの人と出会い、シャッターを切ってきた。

    これまで撮ってきた人々を振り返り、書かれた文章「その傷のブルースを見せてくれ」にはこんな一文がある。

    ぼくがこれまで撮ってきてなによりもうつくしいと思う人は、自分の弱さや悲しみをことばでごまかさず、すでにその全身で差しだしている存在でした。

    そのとき、その全身は、路傍の石のように、路上を歩く犬のように、
    森の一部として盛える樹のように、ただそこにあるだけでブルースでした。

    手話と日本語で会話するバイリンガルな樹さん。

    28歳の時に、同じろう学校出身で2歳年下のまなみさんと結婚。4年後の2015年10月に第一子の「樹」(いつき)さんが生まれた。

    生まれたばかりの樹さんは、お腹がすいたりおむつを変えてほしいとき、聴こえない両親へ思いを伝えるために、足をばたつかせて全身で訴えかけてきた。

    まだ赤ちゃんの彼にとって、声に頼ることなくコミュニケーションをとることはごく自然なことだった。

    齋藤さん夫妻と樹さん、親子の間の会話は手話だ。樹さんは生後半年頃から手話を覚え始め、1歳半の頃には指文字や手話で意思疎通ができるようになった。

    これは普通の赤ちゃんが言葉を発するよりも早い。3歳になる現在も、手話が第一言語だ。

    手話でない「音声言語」は、まなみさんと一緒にアジアンショップを営む齋藤さんの妹と、その家族が教えている。樹さんは手話が通じないとわかると、音声を発して言葉を伝えているという。

    手話と音声言語、父とは違う形で2つの世界を経験し、成長していく息子に齋藤さんは何を望んでいるのだろう。

    「あなたはこのことば。わたしはこのことば。どうやって話そうかね、というふうな、いろんな言葉に対してやわらかく迎えられる姿勢を身につけてほしいなと思ってます」

    どれか一つの言葉を押し付けることだけはしたくない、と強調する。それは、かつて自分がされて、苦しんだことでもあったから。

    齋藤さん夫妻は「言葉」と「ことば」をはっきりと区別して使っている。

    他者へ向けて自分の意思を伝えるために用いる文法や規則が定められているものが「言葉」で、声や踊りやまなざし、ふるまいを含めたものが「ことば」だ。

    だから、音声言語だけが「ことば」ではない。

    このインタビューは筆談によるものだ。

    齋藤さんの「ことば」を目で追いながら、私は筆の進むスピードや一度書かれて消された文字などに、その人の人柄や声色が確かに現れると知った。

    音がなくとも、そこに「ことば」は存在し、会話をすることができる。

    「声」とは、音そのものだけではなく、伝えたいという姿勢も含まれる。「聴く」ということもまた、相手の想いを受け止める姿勢なのかもしれない。

    異なることを恐れる気持ち、それは音に縛られていた幼き日の自分が感じていたこと。

    社会的マイノリティとして常時感じずにはいられない、冷たい「異なり」に対して、ただ悲観や怒りに明け暮れるばかりでなく、それでも ー 無類の喜びがどこかにあるはずだと信じて ー 「異なることがうれしい」と、まずはそう言い切ってしまってから物事をはじめようと思っている、ぼくは。

    『異なり記念日』, 医学書院)

    「異なることがうれしい」という言葉は2015年、3331アーツ千代田で開催された「なにものか」展での長津結一郎さんとの対談の中で生まれた。

    「この言葉と出会うまでは、差別のような冷たい異なりと出会ったとき、そこに向きあうことは無駄だと考えていたんです。そんなところに向き合っても、時間がかかるばかりで、なにも産まれるものがないというか」

    「でも、いろんな人と出会ってみて、時間をかけてこそ伝わるものや、徹底的に違うからこそやってくる深い喜びがあることも知っていって。異なることに対して、辛さだけではなく、喜びも含まれているはずだと考えられるようになりました」

    「まあ、<異なることがうれしい>という言葉ありきなんですけどね。ずっとこの言葉を考えているうちに、実感としてわかってきて、それが子どもを迎えた日々を過ごすうちに決定的なものになりました」

    いまも「異なる」ことをきっかけに排除される人々がいる。何か一つの基準で線引きをし、「普通」が作られ、そこから外れる「異なり」を許さない人が大きな声で叫ぶ。

    「普通であれ」とのプレッシャーが、そこにはある。齋藤さんは何を思うのか。

    「困惑、気持ち悪さ……いや、怒りですね。はらわたが煮え繰り返る思いが腹の底にはあります。でも、普通であるべきという同調圧力は聴者に馴染もうと必死で、音声の言葉に縛られていた時期のぼく自身が感じていて、そして他の人にもそれを強いていたものでもあります」

    「だから、このときのぼく自身に響く写真や言葉がどんなものかということを考えながら、文章を書きました。白黒つけられるようなわかりやすさや明快さばかりを良しとする風潮に対して、何ができるのか。そんなことを考えながら書いたものが、『声めぐり』『異なり記念日』の2冊です」

    子どもが生まれても、撮りたいと思うものは変化しなかった。


    「目にしなければならないと思うものが、よりくっきりとしてきました。子どもが生まれて起きたことは、なにか別のものになる変化ではなくて、どこにも動かないままそこに潜っていく深化のように思います。だから、ぼくの写真も表面上はあんまり変わってない。でも、より奥ゆきが生まれたような気は、ちょっとしています」



    「でも、そう考えることって、とてもエゴイスティックで、写真に対して失礼な考え方だから、言ったり、思ったりしたらだめなことなんですけどね」と齋藤さんは笑って付け加える。

    違う人間へとなっていく樹さん。こみ上げてきたのは「うれしさ」だった。

    子どもとの異なりを意識せざるを負えない日々。そのなかで、これから樹さんはどんどんと違う人間へとなっていく。

    きみはどんどん大きくなって、ことばを覚えていく。言えなかったものが、言えるようになる。できなかったことが、できるようになる。そして、ぼくたちはお互いに考えていることが、感じていることが全然違うことを知っていく。

    ぼくたちはどんどん違う人間になっていく。ひとつことばを覚えれば、そのことばは、あらゆる感覚を呼び覚ましていくだろう。こうしてぼくたちは、どんどんどんどん異なりの境目を深くしていく。

    そのことを素直に寂しく思うし、素直に嬉しいと思う。

    (『異なり記念日』, 医学書院)

    ろう者の間に生まれた聴者の子ども。そんな言葉から思い浮かべるのは、言葉が通じずに苦しむ親子の姿かもしれない。

    でも、写真に写る、まなみさん、樹さんとの日々は笑顔で溢れている。

    そもそも、たとえ「聴こえる」者どうしの家族であっても様々な「異なり」を持っている。家族といえど、突き詰めてしまえば他者でしかないのだから。

    11月には新しいメンバーが家族に加わる。あと2ヶ月で、樹さんはお兄ちゃんになる。次はどんな「異なり記念日」が生まれるのだろう。