世界129ヵ国を徒歩で旅し、平和を訴えてきた38歳のリビア人、ヌーリ・フナスさんが日本を訪問中だ。19歳で旅に出て、出会う人と世界平和を語り合うようになって19年。日本では平和のあり方を学びたいという。
フナスさんはリビア東部のベンガジ出身。少年時代、リビアはカダフィ政権の独裁下にあり、安定していたものの、言論の自由のない時代だった。ボーイスカウトに入っていたフナスさんは世界が見たくなり、高校を出るとまず中東レバノンに旅立った。1999年のことだ。レバノンを歩き、さらにエジプトに向かい、紅海を越えてサウジアラビアに入った。
それから19年。フナスさんは今も旅を続けている。アフリカ、中東、欧州、アジアなど世界129ヵ国を訪れた。国と国を超える時や安全面などの事情がある時以外は、移動手段は基本的に徒歩。バックパックに寝袋とテント、多少の着替えを詰め込み、出会った人と、平和について語り合う。
「言葉が通じなくても、笑顔さえあれば、あとは身振り手振りで意思は通じる。みんな同じ人間だから」。これまでの旅で、アフリカで野生動物に襲われたことはあるが、人間にものを奪われたり脅されたりしたことはないという。
そしてフナスさんが130ヵ国目に選んだのは、日本だった。韓国を徒歩で横断して平昌冬季オリンピックを見てから、飛行機で入国した。
韓国・平昌の五輪会場でのフナスさん
日本では、ビザの有効期限の関係もあるのでまず東京から長崎に飛び、そこから広島、そして富士山を徒歩で目指すという。
長崎と広島を訪れるのには、理由がある。自国で続く内戦と混乱だ。
リビアで続く混乱のきっかけは、民主化運動だった。独裁を抜け出して新しい国をつくろうと人々は立ち上がったが、行き着いた先は、新たなる内戦だったのだ。
リビアでは2011年2月、エジプトやチュニジアで起きた反体制デモ(通称「アラブの春」)の影響を受けて、40年にわたり独裁を続けてきたカダフィ政権に退陣を要求するデモが、フナスさんの故郷ベンガジなどリビア東部を中心に始まった。
リビアには歴史的なベンガジなど東部(キレナイカ)と首都トリポリを中心とする西部(トリポリタニア)の間の対立感情がある。
東部の人たちは、カダフィ政権下で抑圧され、都市開発などでも後回しにされてきたと感じてきた。それだけに、チュニジアとエジプトで、次々とデモにより長期独裁政権が倒れるのを見た人々が、自分たちもと立ち上がったのだ。
フナスさんも「ベンガジは、世界有数の産油国リビア第二の都市なのに、ずっと発展が止まってきた。それはカダフィの悪政のせいだった」と語る。カダフィ氏は膨大な石油収入を独占し、次男を後継者に据えようとしていた。
ベンガジなどリビア東部はあっと言う間に「反カダフィ」一色となり、地元の人々が蜂起。東部出身の軍人や警察官も政権に反旗を翻し、地域の自主管理を始めた。
これに対するカダフィ政権の反応は激しかった。西部から国軍を出動させ、ベンガジを市民もろとも攻撃しようとしたのだ。
フナスさんはこの時たまたま、ベンガジに戻っていた。それまでのアフリカ東部の旅をまとめた本を執筆し、2月末に首都トリポリの出版社から出版する予定だったからだ。
トリポリのカダフィ政権と、ベンガジを本拠とした反カダフィ派の戦いが始まり、印刷が仕上がったばかりの自著を取りにトリポリに行くことも出来なくなった。それ以前に、故郷がカダフィ政権軍に押しつぶされそうになったため、フナスさんも反カダフィ派民兵に加わり、街を警備した。
「私は絶対的な平和主義者ではない。人間には守らなければならないものがある。私の場合は、家族であり故郷だった。だからカダフィが倒れた時点で、民兵からは退いた」
北大西洋条約機構(NATO)軍などが反カダフィ派を支援して軍事介入したこともあり、カダフィ政権は崩壊。カダフィ氏は2011年8月、殺害された。
これで、リビアに新しい時代が来るとフナスさんをはじめリビア人の多くが期待したが、事態はそう進まなかった。
今度は、各地で反カダフィ派の民兵組織同士が、カダフィという共通の敵を失い、互いに権力争いを始めたのだ。カダフィ政権と反カダフィ派の戦争は、今度はバトルロワイヤルのような勢力争いに転化した。リビアはアフリカ大陸最大の石油埋蔵量を誇る。そこからしたたる権力の味は、とても甘いのだ。
リビアでは今も、複数の「政府」が存在し、勢力を争っている。こうした混乱が広がる中、一時は過激派組織「イスラム国(IS)」が支配地域を広げた。
「ここ数年で以前より状況は良くなってきたが、さまざまな勢力が権力を独占しようとし、報復合戦を続けてきた。だからこそ、報復を求めず平和な国をつくった日本、特に長崎と広島でさまざまなことを学び、リビアに持ち帰りたい」とフナスさんは言い、こう付け加えた。
「もしも歩いている私を見かけたら、微笑んでください」