イスラム過激派「イスラム国(IS)」による人身売買や性暴力の実態を訴え続けるナディア・ムラドさんのノーベル平和賞受賞。そして、その自伝や映画などの発表で日本でもクルド人を巡る問題に注目が集まりつつある。
実は日本にも数千人のクルド人が逃れ、暮らしている。彼らは、何から逃れてきたのか。
世界最大の少数民族
クルドはトルコ、シリア、イラク、イランにまたがって暮らす民族だ。人口は4ヵ国計で推定3000万人。シリアの総人口を上回る。しかし、独自の国家を持たないため、「国家を持たない世界最大の民族」と呼ばれる。
その大多数がイスラム教を信仰しているが、キリスト教徒や、ヤズディ教徒もいる。言語はクルド語。アラビア語やトルコ語とは別系統の言葉だ。
クルド人が国を持たない理由は、その居住地域が自らの意思と無関係に分割されたことにある。
クルド人の多い地域を示した地図
第一次大戦後、この地域を支配していたオスマントルコが崩壊した。英仏などの手により、歴史的な経緯や民族分布を無視したかたちで境界線がつくられた。
このため、クルド人らの暮らす地域は4つの国に分割され、いずれの国でも「少数民族」として不利な立場に置かれることとなった。
むしろ、それぞれが根深い対立の構図を持つトルコ、シリア、イラク、イランの4ヵ国が、ほかの国を攪乱する道具としてクルド人を利用しようとしてきた。
イラクでは
イスラム過激派「イスラム国(IS)」による過酷な人身売買と性暴力の被害を受け、それを世界に訴え続けたことで2018年にノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドさんの出身地イラクでは、北部を中心に600−780万人のクルド人が暮らす。
クルド人らは長く、アラブ人が実権を握るバグダッドの中央政府と自治を求めて争い続けてきた。政府側のクルド人弾圧は過酷だった。
1988年にはイラク北部のクルド人の街ハラブジャで、イラク軍が化学兵器を使い、5千人といわれる市民が無差別に殺害される事件まで起きた。
サダム・フセイン大統領の独裁下だったイラク政府は、当時続いていたイラン・イラク戦争でクルド人がイランに協力しているとみなしていた。
実際に、フセイン政権からの独立を求めてきたイラク北部のクルド人民兵組織には、イランや米国から武器などが供給されていた。
イラクでのクルド人の転機は、米軍を中心とする多国籍軍がフセイン政権軍を圧倒した1991年の湾岸戦争だ。フセイン政権が産油国クウェートを一方的に占領したことで、米国はフセイン政権への姿勢を転換したのだ。
国連安保理がイラク北部と南部に飛行禁止区域を設定し、フセイン政権軍の行動を制限したことで、主要都市アルビルを中心とする北部のクルド人地域が、事実上の自治権を獲得した。
さらに、アラブ人と敵対するクルド人の「敵の敵」であるイスラエルも、陰に陽にクルドを支援した。
中東の政治情勢は、めまぐるしく変わる。このため、どの勢力にとっても「敵の敵」がすぐに入れ替わり、組む相手も変わる。どんな「連携」も、あくまで一時的なものにすぎない。だから、クルドがイスラエルと組むこともあるし、シリアと組むこともある。
そして各地の市民は、政治のこうした動きに振り回され続けてきた。
ナディアさんの悲劇の背景に領域争い
米軍が再び攻め込んだ2003年のイラク戦争でフセイン政権は崩壊した。
連邦制となった新生イラクで北部クルド人地域は、「クルディスタン地域政府」(KRG)としてほぼ完全な自治を実現した。クルドの民兵「ペシュメルガ」は、KRG直属の公的な軍事組織となった。
イラクはフセイン政権の崩壊後、混乱を極めた。各地で反米闘争や宗派対立が噴出し、内戦といえる状況となった。
そんな中でも、地域政府による秩序が確立したクルド地域だけは例外的に安定し、経済的にも発展した。「首都」のアルビルや主要都市スレイマニヤなどでは、急速にビルが建ち並んだ。
だが、クルディスタン地域政府の管轄が、クルド人が暮らす地域をすべてカバーしているわけではなかった。
険しいシンジャル山脈に守られたシンジャル地方は、クルドでも独特のヤズディ教という宗教の信仰と生活様式を維持してきた。しかしここは、クルディスタン地域政府の所属ではなく、イラク中央政府が管轄するニナワ県の一部だった。
これが、2014年8月に起きたIS侵攻と、それによって引き起こされたナディアさん悲劇の背景だ。
トルコとシリアでは
トルコでは、人口の2割ほどをクルド人が占める。
トルコ政府は伝統的に全国民を「トルコ人」と位置づけて同化する政策を採り、クルド人の独自性を認めてこなかった。1980年代、クルディスタン労働者党(PKK)が、分離独立を求めてテロや戦闘などの武闘路線を始めた。
PKKはトルコだけでなく米国政府などからもテロ組織に指定された。トルコのエルドアン政権は現在も、PKKを「テロ組織」と呼び、強く弾圧している。
トルコ東部などで軍とPKKの戦闘が起きたほか、軍や警察によるクルド人の拘束や、強制的な家宅捜索なども相次いだ。こうしたことから、多くのクルド人が故郷を離れざるを得なくなった。
トルコと国境を接するシリアでも、シリアの人口の1割の200万人弱のクルド人がいる。長く抑圧されてきた。
転機は、シリア内戦だった。
アサド政権が2011年に民主化要求デモを弾圧したことに端を発する内戦は、ISなどさまざまな過激派の流入や各国の介入を招き、複雑化した。
一方、クルド人にとっては、混乱は自治を広げる好機ともなった。
2012年夏、アサド政権軍は首都ダマスカスの防衛などのため、クルド人の多いシリア北部の広範な地域から撤退した。その隙間を埋めたのが、シリア・クルド民主統一党(PYD)と、その軍事部門の人民防衛隊(YPG)だった。クルド人らはアサド政権軍の撤退地域で、事実上の自治を始めた。
シリア内戦で事実上の自治
PYDとYPGは、トルコPKKの影響を強く受け、姉妹組織といえる関係にある。それだけに、トルコはシリア内戦でのクルド人の行動を強く警戒してきた。
一方で、アサド政権はクルド人勢力を、シリア反体制派の結束を乱し、同時にトルコを牽制する道具として利用してきた節がある。1990年代には、国境紛争などを抱えるトルコへの対抗策として、トルコPKKの指導者オジャラン党首を匿っていた時代もある。
シリア反体制派のなかで、アラブ系シリア人は「アサド政権の打倒」を最優先課題とした。一方でクルド系シリア人にとって、最優先は「自治の獲得」だった。
シリアの反体制派は分裂を繰り返した。その理由の一つは、アラブ人とクルド人の立場の違いだった。そのギャップを、アサド政権が意図的なクルド地域からの撤退で広げた可能性は、否定できない。
イラクとシリアでのISの侵攻
シリアでは、各国から入り込んだイスラム過激派が地元勢力と結合した。イラクでも同様の事態が起きた。そして生まれたのが過激派組織「イスラム国(IS)」だ。
極端なイスラム教解釈をもとにした「国家」建設を目標とし、2014年1月に「独立」を宣言。イラク西部を根拠地の一つとしたほか、内戦の混乱のなかでシリアで支配地域を広げた。
2014年6月、ISはイラク第3の都市モスルを陥落させた。イラク政府軍はほとんど抵抗できず、米国に供与された最新の兵器を置き去りにして逃げた。
モスルはニナワ県の県都だ。そこからナディアさんらヤズディ教徒が暮らすシンジャル地方まで車で2時間ほど。ISが迫るのは時間の問題だった。
しかし、住民を守るべきイラク軍はすでに敗走し、KRGのペシュメルガもシンジャルにはほとんど展開していなかった。ISは、抵抗をほとんど受けないままシンジャル地方を占領し、蹂躙した。男性や年配の女性ら数千人が虐殺された。若い女性らは「奴隷」として、男の子は「少年兵要員」として連れ去られた。
さらに数万人が標高約1463メートルのシンジャル山脈に逃れ、水や食料の乏しいままに置かれた。
シンジャルの住民救援は国際的な問題となり、ペシュメルガと米軍などが共闘し、ISに対する反攻に乗り出した。シンジャル地方はのちに解放されたが、数千人の住民が虐殺され、さらに数千人が行方不明のままだ。
シリアでも米軍が、YPGなどクルド人民兵部隊に協力し、米軍特殊部隊の派遣や空爆による支援などで、ISの掃討戦に乗り出した。
これをトルコは「なぜ米国政府もテロ組織と認定しているPKK系の組織を米軍が支援するのか」と非難を続けてきた。
そしてクルドの今は
トランプ大統領は2018年12月、米軍にシリア撤退を命じた。
「シリアでISを駆逐した」というのが、その理由だった。トランプ大統領は、国外での米国の負担軽減を公約の一つとしてきた。
2020年の再選に向けて国内の支持基盤固めを最優先するトランプ大統領は、マティス国防長官らの反対を押し切ってシリアからの撤退を宣言した。
米軍が撤退すれば、その支援を受けてきたシリアのクルド人らは軍事的な後ろ盾を失うことになる。そこで起きているのが、クルド人のアサド政権への最接近だ。
ISの脅威は今も消えたわけではない。また、トルコはシリアのクルド人勢力を「トルコの安全保障上の脅威」とみなしており、クルド人に対するトルコ軍の越境攻撃を示唆している。
このため「敵の敵」であるアサド政権とクルド人勢力が接近しているのだ。
アサド政権は2018年12月末、クルド人勢力が要衝として確保してきた北部の街マンビジュに、政権軍の部隊を入れた。越境攻撃の姿勢を見せるトルコに「シリアの主権侵害」と牽制した。
とはいえ、アサド政権が全土を「再平定」した時、シリアに連邦制を導入してクルドに自治を与えると信じる人は少ない。
どの国も、中東のめまぐるしく変わる対立の構図のなかで、クルドを利用しようとはするものの、その独立を本気で支援しようとはしなかった。そのツケを払わされるのは、クルド人自身だ。
クルドに安住の時は来るのか
イラクでは2017年9月、クルディスタン地域政府が、イラクからの独立を巡る住民投票を行った。
クルド戦闘部隊が米軍と協力してISと闘ったことで国際的な評価を高めたことから、この勢いで独自の国家を手にする時が来たと判断したのだ。
住民らは熱狂的に独立を支持し、90%を超える賛成票が集まった。
しかし、各国は一斉にクルドに背を向けた。
イラク中央政府は、クルドが実効支配してきた産油地キルクークにイラク国軍を進軍させ、圧力を掛けた。
自国内のクルド人への刺激を恐れるトルコ、イランも強く反発した。
イランは国境も空路も閉鎖した。トルコは、クルドが独立に動けばトルコ領内を通り地中海とクルド地域を結ぶ石油パイプラインを閉鎖すると宣言。さらにトルコ領内でイラク軍と合同軍事演習を行い、力を誇示した。
トランプ大統領もクルド独立を支持しなかった。追い詰められたクルド地域政府のバルザニ大統領は辞意を表明。独立の夢は消えた。
そして日本では
日本には数千人のクルド人がいる。
特に、推定で2千人ともいわれるトルコ出身のクルド人が埼玉県蕨市から川口市にかけて集まり、「ワラビスタン」と呼ばれるほどだ。
だが、日本政府はクルド人の難民認定に後ろ向きだ。
トルコ出身のクルド人で難民として認定された人はおらず、不安定で苦しい状況に置かれている。入管に長期にわたり収容されている人も珍しくない。
難民問題に詳しい弁護士らは「日本政府がトルコ政府との友好関係を維持するため、難民と認めようとしない」とみる。
戦乱のシリアから逃れてきたクルド人も、難民と認められなかった。
東京高等裁判所は2018年10月25日、戦乱と弾圧を逃れて日本にたどり着いたクルド系シリア人、ヨセフ・ジュディさんの難民申請を却下した。
現在の日本の入管制度では、ジュディさんのように明らかに戦乱から逃れてきた人も、その迫害を証明するシリア政府発行の文書などを提出しなければ、難民と認定しない。
戦乱や逮捕から逃げようとする人が、そんな書類を集めて回ることは可能だろうか。ジュディさんの場合、兄弟はすでに英国で難民に認定されている。だが本人だけは、シリアから英国への渡航に失敗。経由地だったはずの日本で立ち往生して難民申請し、却下された。
パスポートがないため日本から出ることすらできないジュディさんは、法相の裁量による「在留特別許可」という不安定な立場でカフェを経営し、何とか暮らしている。
日本には、足元でできるクルド支援がある。
日本でもナディア・ムラドさんのノーベル平和賞受賞をきっかけに、クルド女性に関する出版や映画の上映が続いています。その記事はこちらへ。