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積極的安楽死に反対の緩和ケア医が、安楽死の議論を始めようとするワケ

自らの生と死は自らの意志で選び取っていきたい

「先生、もう終わりにしてくれませんか」

「終わりにしてほしいというのは…。なにかおつらい気持ちがあるのでしょうか」

「いえ、本当に終わりにしてほしいんです。このままダラダラ生きても迷惑をかけるだけです。どうにかして、人生を終わらせる方法はありませんか」

ある日、私にこんな相談をしてきたこのAさんは、60代の女性で、全身にがんが広がり、緩和ケア病棟に入院していました。余命は限られていましたが、痛みやその他の症状はよくコントロールされ、比較的穏やかに毎日を過ごしていました。

しかし、徐々にからだは衰弱し、トイレに自力で行くことができなくなりました。着替えをするにも看護師の助けが必要になってきたころに、「もう終わりにしたい」という言葉が出たのです。

私は、その言葉の意図を知りたいと思いました。客観的に見て、命を縮めたいと思うほどの苦痛にさいなまれているという印象は受けません。それでもなお、「もう終わりにしたい」と願うほどの思いがあるのかということを。

Aさんは、私の問いかけに答えました。

「もう、やりたいことは全てやりました。会いたい人にも会うことができました。それをできるようにしてくれた、先生方や看護師さんたちには感謝しています。でも、これから先、私はできることがひとつひとつなくなっていきます。生きていても迷惑をかけるばかりで、それは私が望むことではありません。だから、私はもう終わりにしたいんです」

日本には死について語りあう土壌すら育っていない

このようなやりとりは、患者を看取る医療者であれば多くの方が経験していることです。

もちろん、医師が患者さんに対して心臓を停止させる薬物を投与したり、医師が処方した致死的薬剤を患者さん自らが服用するなどの方法によって、死を早める(つまり安楽死を施す)ことは、日本の法律では認められていません。

その一方で、朝日新聞社が2010年に行った世論調査(有効回答2322人、回収率77%)では、積極的安楽死を自ら選びたいか、また日本において法律で認めるようにするべきか、という質問にどちらも約70%の方が賛成しています。

また、脚本家の橋田壽賀子さんが、その著書『安楽死で死なせて下さい』 (文春新書)にて、スイスでの積極的安楽死を望んでいることを明らかにしたり(その後、「あきらめた」ということも報道されましたが)、海外で安楽死を遂げた方の報道がなされたりする機会がしばしばあります。日本国内でも安楽死についての議論が起きているのです。

しかし、日本においてはそもそも「延命こそが至上」「医療のことは医師にお任せ」とされてきた歴史があります。それが最近になって「幸せに生きるとはどういうことか」「医師との話し合いで自分の治療を決めていく」というところへ、ようやく国民の意識が変わり始めてきたところです。

そのような現状において「死について自己決定する」ということまではほとんど考えられてきておらず、日本における積極的安楽死の議論はまだそれが建設的に行われる土壌すら育っていないというのが現実です。

緩和ケアはまだ日本に普及しているとはいえない

BuzzFeed Japan Medicalにインタビュー記事が載った、がん患者のカメラマン、幡野広志さんと最近、私は個人的な交流を持つようになりました。彼は、安楽死についてこう語っています。

「僕は安楽死が必要だと感じています。全ての患者にとって幸せな医療を受けられているか疑問を感じるからです。医師の技術や経験、人格や組織や地域によっても差があり、病院によって格差があります。一般的な患者は家から近い大きい病院に行くので、当たり外れは運のレベルかもしれません」

「医療従事者の方からすれば反論はあるでしょうが、医師の目指す医療のゴールと患者の目指すゴール、家族の目指すゴールは必ずしも同じゴールになるとは限りません。患者のゴールと家族のゴールは食い違うことが多いです。患者は苦しい思いをしたくないと考えますが、家族は1分1秒でも長く生きて欲しいと願うからです」

「患者は、家族にこれ以上迷惑をかけられないと本人の望まないゴールを、安堵感を得られないまま医師と家族に引っ張られて進むことがあります。苦しんで亡くなる患者さんや、それを後悔する遺族が少なくありません」

私は、この幡野さんのご意見を伺ったとき、「やっぱり、日本ではいま安楽死ができるようになるべきではない」と感じました。

まず、病院や医師ごとの緩和ケアの格差があるために、十分に苦痛が緩和されない人たちがいるから安楽死が必要という論調は危険です。その状況で安楽死が認められると、緩和ケアの発展は止まり、本来は生きたかった患者さんが、不十分な緩和ケアしか受けられない中で耐えきれずに安楽死を選ぶ、という悲劇が発生しかねません。

そして、家族と患者さん本人の目指すゴールが違う場合に、必ずしも患者さん本人の意思が優先されない場合があるということも、安楽死が行われるうえでは危険です。患者さんが、家族の気持ちを慮って、「生きていても家族が迷惑する」と、望まない安楽死を求める場合もあるかもしれません。

緩和ケアは万能なのか

私は緩和ケアを専門とする医師として、積極的安楽死が日本で行えるようになることには反対です。

自らの命を縮めたいと思うような苦痛を感じないですみ、「人生を全うしたい」と思ってもらえるように支えるのが緩和ケアであり、安楽死を望むような状況にしないように努めることが私たちの使命だからです。

その一方でなぜ、タイトルにあるように「安楽死が日本で行えるようになるには」という議論を始めたいと思ったのか。

それは、Aさんのように「緩和ケアでは緩和できない苦痛がある」ということを痛感しているからに他ありません。Aさんは、身体的にはほとんど苦痛はありません。うつとか不安とか、精神的な苦痛があるわけでもありません。それでもなお死を望むほどの「苦痛」がAさんにはあるのです。

ある調査では、ホスピス・緩和ケア病棟で専門的な緩和ケアを受けている患者さんの10%に「死を早めてほしい」という希望があったと報告されています。

そして、その理由は「迷惑をかけているという気持ち」「楽しみや意味がないこと」「自分で自分の死の時をコントロールしたい希望」があり、全体の30%では身体的な苦痛はなかったと報告されました。

適切な緩和ケアが普及したとしても、「全ての」苦痛が緩和されうるということには明確な根拠がありません。もちろん、ほとんどの苦痛は緩和されますし、緩和ケアの専門家はより質が高い治療やケアを日々工夫しながら患者さんに向き合っています。

しかし、それでもなお、医療者と患者さんの望むゴールがいつでも一致するとは限りません。緩和ケアが万能で、誰しもが納得して死を迎えられるはずだなどと言うのは、傲慢ではないかと思います。

自らの生と死を自らの意志で選び取る

幡野さんはまた、このようにも語っています。

「僕は安楽死という選択を最後の切り札として用意してあげることで、患者に安堵感を与えられのではないかと感じています。僕自身、身近にあった散弾銃でいつでも死ねる状態にあったのは一種の安堵感がありました(幡野さんは猟師)。もちろん自殺するのには勇気が必要です、なかなかできることではありません」

「安楽死が認められるオランダでは、苦しんで死ぬよりも安楽死を多くの人が希望するそうです。しかし結局は多くの人が緩和ケアにかかり亡くなるそうです。スイスでも同様なことが起きているそうです」

「僕は選択肢のひとつとして安堵感を与えるためにも安楽死があればいいと思っています。選択肢が増えることにデメリットを感じません」

「日本で安楽死ができないということは社会に認知されています。安楽死の代わりに薬で眠ったまま死を迎える鎮静があることは、おそらく社会にまだ認知されていません。これが患者の安堵感を失わせているひとつです」

「安楽死ができない日本ならば、患者自身が最後は鎮静を希望するようになればいいと感じます。誰だって苦しんで死にたくないし、大切な人を苦しめて死なせたくないわけです。

緩和ケアや鎮静がうまく機能できていないのであれば、安楽死が選択肢のひとつとして必要だと僕は感じます」

これは宮下洋一さんによるルポ『安楽死を遂げるまで』(小学館)でも、海外で同じ感覚をもつ方々がいることが報告されています。安楽死という選択肢があることによってはじめて、自ら安楽死を選択しないという自由が生まれます。

日本では、死を早める安楽死はできませんが、耐え難い緩和困難な苦痛があるときに、死までの数日間を眠って過ごす「鎮静」という方法があります。幡野さんは、この「鎮静」を受けながら死を迎えることを「鎮静死」と表現しました。

鎮静は本来、医療者がその適否を判断して実行するものであって、患者さんの希望に応じて行うものではありません。しかし、この「鎮静死」という言葉からは、「眠って過ごす時を、自ら決める」という意志を感じます。

自らの生と死を自らの意志で選び取っていきたい。その希望は、日本の中でも確実に育ってきています。

「鎮静」で苦痛を和らげたAさん

冒頭に紹介したAさんもまた、「自分の人生を自分で決めたい」という思いでした。しかし、安楽死ができない現状では、その希望を直接的に叶えてあげることはできません。

私は、家族とも話し合い、Aさんへ伝えました。

「命を縮める、ということを私はすることはできません。確かに、これからできることはひとつひとつなくなっていくかもしれませんが、その時にはその時で、できることはあるはずです。私は、それをサポートしていきたいと思っています。私たちも、ご家族も、あなたが生きていることで迷惑だと考えたことはありません。だから、『その時』が来るまでもう少しお付き合いいただけませんか。それでも、Aさんの想いが、どうしてもつらくなって耐えられない、ということでしたらまた相談しましょう」

Aさんは泣いていましたが、それでもその場では「わかりました」と答え、数日間は穏やかに過ごすことができました。

しかし、徐々に息苦しさが強くなってきたAさんは「もう本当に終わりにしたい。もう頑張れない」と涙ながらに訴えられ、最終的には鎮静で、眠ったまま過ごされることを選ばれました。

家族も、こう言いながらAさんの手を取って泣いていました。

「彼女は本当に頑張ってきました。もう楽にしてやってください」

Aさんは、最後にご家族や親しい方とのお別れをし、その日の午後から薬を使って鎮静を始めました。そして、数日後、家族が見守る中で息を引き取りました。

家族は「本当によい最期でした。ありがとうございました」と帰っていかれましたが、私はこの最後の数日間のことが、本当にAさんにとって良かったことなのか、いまだに考え続けています。

いまから冷静に、生と死の議論を始めよう

日本人における家族主義、他人依存的な性質というのは、ある意味で温かい文化でした。生き方、そして死に方ですら家族みんなで決める。みんなが納得して、その決定の苦痛すら家族全員で分け合う。家族が決められなかったとしても、心優しい医師が、正しい道を導いてくれる。

しかし、それは一方でお互いを縛る鎖にもなりうる文化でした。安楽死が法的に認められている国の多くは「自分の人生は自分のもの」という価値観をもっています。そして日本においても、自己決定と自律に大きな価値を置く人たちが、若い世代を中心に増えてきていることを感じています。

そういった世代が「死」に向き合うようになった時、Aさんのような希望をもつ方は今よりも増えていくかもしれません。しかし、その時を待って、安楽死を含む、生と死についての議論を始めたのでは、私は遅いと思っています。

20年後の未来、自分たちが生と死に対してどう向き合っていくのか。その議論を今から始めていくべきだと私は考えています。

【西智弘(にし・ともひろ)】 川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科医

2005年北海道大学卒。家庭医療を中心に初期研修後、緩和ケア・腫瘍内科の専門研修を受ける。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。一方で「暮らしの保健室」を運営する会社を起業し、院外に活動の場を広げている。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。著書に『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)がある。