「私は、私にしか歩けない道を進む」 外国人女流棋士の苦悩、葛藤、そして挑戦

カロリーナ・ステチェンスカさんは語る。愛する将棋を仕事にできた喜びを。

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「私は、私にしか歩けない道を進む」 外国人女流棋士の苦悩、葛藤、そして挑戦

カロリーナ・ステチェンスカさんは語る。愛する将棋を仕事にできた喜びを。

カロリーナ・ステチェンスカ。職業、女流棋士。

およそ10年前、日本の「将棋」と出合ったことで、彼女の人生は大きく変わった。


「もっともっと、強くなりたい」

そう願った彼女は、母国ポーランドからたった一人で日本にやってきた。そして、プロの女流棋士になる夢を叶えた。

ステチェンスカさんはいま、愛する将棋を生業にできた喜びを謳歌する。

その一方で、こんな言葉もつぶやいた。


「心が折れそうになったこともあった」


成功の裏には、日本の将棋界に異国の地から飛び込んだ女性としての苦悩と葛藤があった。

逆境に打ち勝ち、夢を叶えるために必要なことってなんだろう。ステチェンスカさんに、そのヒントを聞いた。


すべては、漫画「NARUTO」からはじまった。

――ステチェンスカさんが将棋と出合ったのは、漫画の影響があったそうですね。


16歳の時、漫画「NARUTO」と出合ったのがきっかけでした。その中に、奈良シカマルが登場する将棋の話があったんです。

ポーランド語版では「ジャパニーズ・チェス」と書いてありました。そこから「将棋って、どんなゲームなのかな?」って気になったのが始まりでした。

調べてみると、将棋は相手の駒をとったら自分の手駒として使える。そこがチェスと違う。ゲームに変化を与えるから、ダイナミックなものになる。その魅力を知って、将棋が好きになりました。

リアルで将棋をやりたいと思ったのですが、当時はまだ駒や盤が手に入りにくかった。だから色々と工夫をしました。

駒のイラストを印刷して、それで駒を作りました。将棋盤は友達に譲ってもらったりね。

インターネットの将棋サイト「81Dojo」でも将棋を指し始めました。オンライン上でプロの指導対局を受ける機会があって、そこで北尾まどか女流二段と出会いました。

北尾先生は、私に女流棋士の道をすすめてくれた恩師なんです。


北尾まどか女流二段とのツーショット/Facebook
――恩師との最初の出会いが、ネット上だったのですか?


そうなんですよ(笑)。翻訳者を通じて、チャットで会話をしたのがはじまりでした。北尾先生は私の対局を見て、興味をもってくれたようです。

私が「もっともっと将棋が強くなりたい。それが夢なんです」と伝えたら、北尾先生が「もしかして、プロになりたい?」と。そこで来日を勧められました。普通、そんなことあり得ない。本当に嬉しかったです。

初めての日本は、2011年の3.11(東日本大震災)の直後でした。先生のご自宅にホームステイしながら、将棋道場に行ったり、将棋ファンやプロ棋士の方たちとも交流したりもしました。

それでもネットの将棋しか知らなかった私にとって、本物のプロ棋士の姿を見ることは「女流棋士とは、将棋のプロとはどんな仕事なのか」を知る上で、大きな経験になりました。

「人生楽しくなるかも!」好きな将棋で生きていく決意

――初来日の翌年(2012年)にあった女流王座戦で招待選手に選ばれ、プロの女流棋士に勝利しました。女流プロを初めて破った外国人女性として注目されましたね。


この時、本気で「プロの女流棋士を目指そう」と思った。プロに勝てたことは、将来を決める大きなきっかけになりました。

その後、女流棋士の養成機関でもある「研修会」の試験を受けようと決意しました。

女流棋士になるためには、研修会に入って勉強しないと。そのためには、日本に移住しないといけない。そこで、父と母に「日本でちゃんと将棋の勉強をして、将来はプロになりたい」と打ち明けました。

母は、やはり心配だったのでしょう。「行かないでほしい」と。いまだに「いつ戻ってくるの?」って聞いてきますから(笑)。

父は「好きなことをやりたいなら、行きなさい。本当に好きだったらね」と、背中を押してくれました。

――通っていたワルシャワの大学を卒業し、ポーランドで安定した暮らしを得る道もあった。それを投げうって、なぜ将棋のプロを目指そうと思ったのでしょうか。


確かに安定した道もあったかもしれません。でも、当時の私はまだまだ考え方が子どもでした。とにかく将棋が好きで、ただただ強くなりたかった。

その上、プロとして将棋を仕事にできたら「人生すべて楽しくなるかも!」みたいな感じでしたから(笑)。

でも、やっぱり色々なハードルがあった。結局そんな簡単な話ではありませんでした。

小学生にも負けた研修会での日々「将棋の厳しさを思い知った」

――2013年6月に研修会に合格し、プロへの道の一歩がスタートしました。


研修会入りが決まると、北尾先生から盤と駒をいただきました。「棋譜を毎日並べてくださいね」と。いつも北尾先生は見守ってくれる。

きっと北尾先生がいなかったら、プロになろうとは思わなかった。それだけ私にとって大きな存在です。

――念願の研修会。はじめは思うように成績が上がらず、大変だったと聞きました。


ポーランドから引っ越して、日本語を学ぶため山梨学院大学に編入しました。日本語の勉強と並行しながら研修会に通った。

新しい環境に飛び込んだばかりで、色々と苦労はしました。山梨と、東京の将棋会館を往復する日々は大変でしたし、乗り換えの駅で迷ったりもした。

研修会に通っている子どもたちの強さにも驚きました。小学生にも何回も負けました。

将棋の世界では、たとえアマチュアでも一度はプロに勝つ機会があるかもしれません。

しかし、プロになるためには、何度も対局に勝ち続けて成績を上げないといけない。一度プロに勝てたからといって、プロになれるとは限らないのだと思い知らされました。

――将棋の厳しさ、勝負の厳しさを知った。


「絶対、プロになれる」と考えていたのは、まだまだ子どもの考えだったなと。それでも、研修会に入る前にプロに勝てたことはモチベーションにはなりました。

研修会2年目(2014年)に、ハンガリーのブダペストで開かれたヨーロッパ将棋選手権に出場しました。研修会では結果が思うように出ていなかった。

でも、ブダペストで指した将棋では「確実に強くなっている」という実感が持てました。

その後、女流王座戦で6連勝し、2次予選まで進めた。「女流3級」にも昇級しました。プロの女流棋士として認定される「女流2級」まで、あと一歩のところまできました。

将棋も人生も、壁にぶつかると一度は落ち込みます。それでも、グッとパワーを溜めれば、ジャンプすることができる。そういうイメージを持てるようになりました。

折れそうな心を救ってくれたのは「初心」と「友達」

――やはり厳しい勝負の世界です。心が折れそうになったことはありましたか。


女流3級になって1年経ったころでした。プロになるまで「あと1勝」というところで負けてしまい、昇級のチャンスを逃してしまいました。

そこから成績が思うように伸びなくなったんです。

「女流2級」になるには、「女流3級」になってから2年以内に規定の成績をあげなければなりません。

大学院での授業や課題もあるし、そんな中で将棋の勉強をしたり、イベントに出演したり。忙しい中で、勉強も練習もいっぱいしたけど、なかなか勝てない。

さすがに落ち込んだ。「もう将棋なんか嫌い!」ってなったこともありました。

――「プロになれなかったら」と、頭をよぎることも…。


当然ありました。でも、あまり考えたくなかった。それくらい心が弱っていた。

そんな時でした。香港で開かれた将棋大会で元「奨励会」(プロ棋士の養成機関)の方にお会いしたんです。

将棋がうまく指せなくて悩んでいるという話をしたら、こんな言葉をかけてくれました。

「悔しさの中でも、楽しみを見つけないと。将棋はね、楽しくないと感じると、強くもならない。だから負けてしまうんだ」

昔の将棋仲間にも救われました。この年(2016年)のクリスマス、私はワルシャワに里帰りして、仲間たちと将棋を指したカフェテリアに行きました。

そして、当時の友達と一緒にお茶を飲みながら、将棋を指しました。

そうしているうちに、色々なことを思い出しました。「あぁ、あの頃は将棋が楽しかったなぁ」って。

日本語でいうところの「初心」ってやつですね。おかげで心も穏やかになりました。

――「初心」を取り戻したことで、心が復活した。


初心を思い出すと、自分がどんな夢をもっているかを再確認できる。私は将棋が大好きだった。将棋ばっかりの人生です。

夢を実現するには初心を思い出すことが大切だと、改めて感じました。

2017年2月の女流名人戦の予選でした。格上の貞升南・女流初段に勝った。この対局で、女流2級に昇級できました。

北尾先生がパーティーを開いてくれて、私の友達や応援してくれる人も呼んでくれた。先生が自ら、私の好きなカレーを作ってくれました。嬉しかったですね。

家族からもFacebookでお祝いのメッセージが来ました。父からは「誇りに思っている」と。

母は「ポーランドに帰ってきてね」って。そこはやっぱり、お母さんですね(笑)。心配だったのだと思います。

成績が上がらなかったときに、諦めず将棋を続けるという決断ができたこと。折れずに続けて、人生のハードルを越えられたことは、私自身も誇りに思っています。

アマチュアからプロへ「勝つか負けるかしかない」

――アマチュアとプロになったので将棋への向き合い方は変わりましたか。


もちろん将棋が楽しいという気持ちはありますが、向き合い方は大きく変化しました。

日々の対局がありますが、研修会時代とはレベルがまるで違います。一つでも手を間違えたら負ける。

プロの世界ですから、勝つか負けるかしかない。とても競争が厳しい。「ちゃんとした将棋を指さなきゃ」というプロ意識が芽生えました。

それでも、プロになったことで戦術面で広がりができました。

以前は詰将棋や定跡しか知りませんでしたが、いまでは最新の戦術をすぐに知ることができる。

新戦術を試している他の棋士の対局も見ることができる。勉強の幅が広がりました。

――そんな厳しい勝負の世界で、どうやって日々のモチベーションを保っているのでしょうか。


英語には「It will pass」という言葉があります。たとえ今が良くなくても、いつかは良くなる。

いまは悲しくても、明日はきっと少し良くなる。その次の日も、また少し良くなる。

そのために、できることを少しずつこなしていく。何事もそうだと思います。一度に全部やろうとしてはいけない。

一歩一歩、できることを少しずつ。それが大事だと思います。

「私にしか歩けない道」を歩きたい。

――将来、どんな棋士になりたいですか。


「もっともっと強くなりたい」というのはもちろんですが、世界への将棋の普及活動をもっとやってみたいですね。

世界の将棋プレーヤー同士が、ネット上でコミュニケーションができるようにしたい。そう思って「International Shogi Magazine」というオンラインの英文雑誌を立ち上げました。

私が編集長になってボランティアの人たちと一緒に作っています。将棋の歴史や戦法、将棋と出会った頃の話や将棋普及者のインタビューなど。将棋連盟の機関紙『将棋世界』の協力で棋士のインタビューも掲載しています。

英語で将棋の話が読めるので、海外のファンがとっても喜んでくれています。

今後も海外からプロ棋士になりたいという人は必ず出てきます。そういう人たちを支えられるようになりたい。

日本の将棋界と世界の将棋界の橋渡しみたいな。そんな棋士になれたら嬉しいですね。

今夜はカロリーナ先生のShogi×英語レッスン第2弾です! まずは前回の復習で駒の英語名から、居飛車、振り飛車戦型の名称を習っています。横歩どり、腰掛け銀、筋違い角、全てに名前が付いているってなんだかすごい!!(モ1号

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――海外出身のステチェンスカさんならではの夢ですね。


里見香奈・女流四冠や清水市代・女流六段をはじめ、憧れる女流棋士の方がたくさんいます。

でも、私が里見先生や清水先生のような女流棋士になれるかというと、それは違うかなあと。

自分の目指すべき女流棋士の姿は、自分の中で作りたい。それは私にしか歩けない道だから。外国人であることも含めてね。

「こうなりたい」という願望だけではなくて、自分の理想や夢を叶えるため、実際に動くことが大切です。

――夢を叶えるために一番大事なことって、なんですか。


自分を信じることが一番大切です。

将棋もそうです。「自分は勝てる」と信じきることができると成績が上がる。逆に、「うまくいかないなあ」って弱気になると、成績が落ち込む。

他の人から「君には無理だ」と言われても、夢のために戦うのは自分です。他人の言うことはどうでもいい。だから、まずは自分を信じるところから、一歩一歩はじめてみましょう。

最近、思うんです。挑戦することって、人間が人間である特徴かもしれないなと。

人間は自分にとって居心地の良い場所があったら、ずっとそこに居たいと思う。それって、自然なことだと思います。

でも、私は将棋がやりたかった。居心地の良い場所を離れて、夢のためにあえて挑戦したかった。それができるのが、人間の特徴かもしれない。

だから、自分の選んだ道に後悔はしていません。

私は、私にしか歩けない道を進みます。