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鎮静は安楽死の代わりの手段なのか? 治療の一つだと信じてきた私の動揺

私は安楽死に代わる、死に方の選択肢を広めていたのか? 鎮静と安楽死について考える連載後編です。

鎮静するかしないかは自分自身で決めるべきか?

人生の最期に、耐えきれないほどの苦痛がある患者は、自分で鎮静を行うかどうかを自分で決めることができないことが多く、結局家族に判断が委ねられます。そしてその後を生きる、家族にとってさらに悲しみを深めることがあることを前編で述べました。

それならば、鎮静を受けるかどうかは、患者本人が決めたら良いのではないか。本当に苦しくなってから決められないのなら、予めまだ体調がよい間に、本人、家族と、医師が話し合っておいたら良いのではないかと思うのは当然です。

しかし、この当然の事を現実に実行するのは、そんなに簡単なことではありません。

なぜなら、「あなたは間もなく死を迎える」ということを伝えずして、鎮静を話し合うことはできないからです。

「今後病状が進み、死を間近したとき、あなたは相当苦しむかもしれない。その時は鎮静を受けますか?」と、本当に患者に「死を迎える」と告げることが、ふさわしい鎮静の決め方なのでしょうか。

本人に鎮静の希望を尋ねて苦痛を与えた医師

私がかつて病院で勤務していたときに、こんな事件がありました。

いつもの通りホスピス病棟で回診しているとき、「大変な事が起きてしまった、先生すぐ来て下さい」と、別の病棟に呼ばれたことがありました。「肺がんの患者さんとその奥さんが、大いに怒り、そして担当医を替えろと言っているのです」というのです。

その患者を、外来ではベテランの医師が治療を担当していましたが、入院したその日から、ある若い医師が担当になりました。彼は、礼儀正しく、勤勉な医師でした。医師の丁寧な説明と、患者の自発的な同意、そして医師と患者が一緒に治療を決めることが、理想と教えられ信じていました。

彼は、担当した患者に、「あなたは、亡くなる直前に相当苦しくなる可能性が高い。恐らく緩和治療を行っても、呼吸が相当苦しくなるだろう。その時には鎮静という治療がある。予めあなたの同意を確認しておきたい。あなたは将来鎮静を受けるか」と説明したのです。

その説明の直後から、患者は「どうして出会って間もないお前にそんなことを言われなくてはならないのか」と怒りだし、妻は、「急に前触れもなく死を宣告された」と泣き崩れてしまったのでした。

私は、そのご夫婦と以前の入院でも関わりがありました。顔見知りの私は、間に入り、よくよく患者、医師双方の話を聞きました。

患者は、「自分も病状は悪いと分かっているが、何の心の準備もないままに、『死ぬ』と言われるなんて非常識だ」と訴えます。

その医師は、「またまだ患者の体調がよく対話をする余裕があるうちから、きちんと患者と家族に治療を説明し、意思を確認し、同意を確認したいと思った」と話していました。

確かに正しいやり方なのですが、結果的には患者に相当な苦痛を与えてしまいました。大切な何かが足らなかったのです。

「きっと医師と患者、家族の関係がきちんとできあがってから向き合うことができるようになってから、同じ話をすればきちんと通じただろうとは思います」と私がその医師に話すと、「それならば、一体医者と患者は、どの段階で鎮静のことを話し合えば、よいのでしょうか。それだけの時間が、この患者に残されているのでしょうか」と尋ねられました。

その時の私は彼の問いには答えることができませんでした。

信頼する担当医が最期を看取るとは限らない

現実に、今の都市部の病院では、外来と入院で医師が違うこともありますし、どの病院でも、内科から外科へと科が代われば、治療を担当する医師も代わります。

夜中に救急車で運ばれてくれば、初対面の医師が、患者の診察に当たります。休日の昼間にたまたま来ていたアルバイトの医師に当たるかもしれません。

もしかしたら、知識と経験が十分ではない若い医師や、全く専門分野の違う当直する医師が、一番患者が苦しいときに立ち会うかもしれません。

自分が一番信頼している担当医が、いつも自分が一番苦しいときには駆けつけてくれる、立ち会ってくれるとは限らないのです。

また、医師と患者が関係を構築している時間的な余裕があるときばかりではありません。病状が急変し、自分自身の生命に関わる大きな決断を、急に迫られることもあります。

もしかしたら、意識がなくなり、自分の考えを伝えられない状況になるかもしれません。それならば、患者本人が、予め鎮静を含めて自分の受ける治療、自分の死に方をよく考え、周囲に予め伝えておいた方が良いのではないかと、私も考えるようになったのです。

さらに、患者自身が「私は余命幾ばくもないとき、苦痛があれば鎮静の治療を求めます」と自分の考えを、自ずから医師に伝えれば、患者の死後も続く、医師や家族の救いようのないその後の葛藤を解消できると思うようになりました。

そこで、一般の方に向けて、できるだけ分かりやすく鎮静のことについて、あちこちに発信をし続けたのです。

やがて色んな人たちも鎮静について、自分の考えを話すようになり、少しずつ鎮静は知られるようになったと実感するようになりました。この数年は、半年に一度くらい、患者から「私はいずれ、苦痛が強くなれば鎮静を求めます」と診察の時に言われることもありました。

前編で紹介した方のように、患者自身が家族にも「もう苦しいから鎮静してほしい。自分の願いを叶えてほしい」と言う現場に立ち会うことも数回ありました。以前では考えられなかったことです。

「(患者が)自分自身で鎮静のことをきちんと理解して、自分から求めた治療をきちんと実行した」という記憶が家族にあれば、患者の死後も鎮静に関する葛藤や後悔が軽減できることが分かりました。

ああ、鎮静に関する自分の疑問もまたこうして解決したのだ。私は何年か振りに再び自分の中で、鎮静のことが明確になった実感を得ました。

しかし、何かが明確になった瞬間から、また新たな疑問が生まれるのが自分の性分なのです。しばらくすると、さらに別の疑問が生まれたことに気がつきました。

鎮静死という言葉。自分で死に方を選択する人たち

少し前まで鎮静は、「鎮静は緩和ケアの一つ。時には必要な患者が存在する」「鎮静を行っても死期を早めることはない」ということが定説でした。最近のいくつかの研究では、新たな問題が指摘されています。

それは、鎮静を実行する医師の中には、患者の苦痛を緩和する同時に、患者の死を早めることを意図しているという、日本国内の医師に対する調査報告があったのです。医師も時代とともに鎮静に対する考え方が変わってきたのです。

患者の考えも変わってきました。がんで余命を宣告されているカメラマン、幡野広志さんが、「もしものときはセデーション(鎮静のこと)はできますか?」と、入院したときに自分から医師に伝えたとブログに書きました。

彼自身は、鎮静とは、「強力な鎮静剤で眠らせて、苦しまずに眠ったまま自然死を迎えるものだ」と書いており、さらに、「鎮静には大きな問題がある、鎮静は医師の判断で行うものだ。患者が苦しみ家族がなんとかしてくれと望んでも、医師の裁量で施さないというのが現実として起きている」と指摘しています

彼の指摘は正しく、鎮静を自分の信念に反する行為だというはっきり言う医師が、確かに医療現場に存在します。患者が求めても、医師の信念が理由で、実際に鎮静が受けられない事態もあるのでしょう。

「人は最後まで意識が保たれることが、何よりも大切なこと」、薬で意識を下げることは人間として「社会的な死」とか「心の死」と、鎮静に反対する医師もいます。

また、緩和ケアを学んだ経験がない、さらに鎮静を実際に自分で行ったことがないという医師は、目の前で患者が苦しんでいても、治療の方法を知らないので、何とかしたいと思っても、有効な治療ができません。

「人の最後はぼんやりすることが普通である。また産まれるときと同じように、死ぬときもある程度苦しいのは仕方がない」という信念の医師もいます。

このような考えに対し、イタリアの緩和ケアの大家である医師のメルカダンテさんは、こう主張しています。

「死を迎える前は、患者はぼんやりしている。だから、患者はもう苦痛は感じていないというが、誰が本当に苦しんでいないと断言できるのか。医療者がこれ位は普通のことだ思うことでも、残される家族にとって、最期に患者が苦しんだことは、後々まで心の傷になるのだ」

そして、医師はあらゆる知識と技術を発揮して患者の死の苦痛を緩和せよと述べています

安楽死や自殺幇助との違い

日本の緩和ケアの大家である医師の森田達也さんは、自身の著書で「鎮静は筆者にとっては自殺や自殺幇助よりは好ましい選択、できれば、自分である程度死の時を制御したい」と述べています。

誰もが、自分の死に方を表明する時代になってきたのです。さらに橋田壽賀子さんら複数の著名人が、安楽死に賛同する発言が目に付くようになりました。また、安楽死できないのなら、せめて鎮静で最期を迎えたいという患者に出会うようになりました。

ついに安楽死と鎮静は、この日本で新たな局面を迎えたのだと実感しました。

鎮静は苦痛の緩和を、安楽死は死を目指している。鎮静は、数日間生き続けることがあることが多いが、安楽死は数分の間に死に至る。また使う薬も全く異なると強調されてきました。

専門家にとって鎮静は安楽死とは違うと分かっていても、一般市民にとっては同じようなものと理解していることは、国内の調査でも分かっています。また、鎮静は「ゆっくりとした安楽死」と指摘する人もいます。

幡野広志さんだけでなく、がんサバイバーの桜井なおみさんは、安楽死との対比が意識された「鎮静死」という見慣れない言葉を使い、痛みで苦しんだときには鎮静を受けたまま死にたいと語っています

もはや、患者にとって、鎮静は苦痛を緩和する治療法の一つというより、患者が自発的かつ積極的に選択する「鎮静死」という死に方の一つであるという、新しい意味を持つものになったのだと私は悟りました。

私は、まず医療者が、緩和ケアと最後の手段として鎮静について知って欲しい、次に患者自身は自分の受ける治療として鎮静を知ってほしい、そして、鎮静を体験し、残された家族の重責と後悔をケアしたいと願い、ずっと活動してきました。

私は、安楽死を認める前に、患者、家族が苦しい状況でも生きていく支えとなる、医療としての緩和ケアをもっと充実させねばならないと主張してきました。そして、安楽死は、緩和ケアの治療に含めてはならないと、消極的な姿勢を取ってきたのです。

私の懸念は既に現実になっています。カナダでは、2016年安楽死が認められました。医師だけでなく、ナースプラクティショナーという資格をもつ看護師も実行できます。既に3年間で、3500人を超える、当初予想を上回る大勢の人たちが、安楽死を受けています。必要な患者でも、緩和ケアはなかなか受けられないのに、安楽死はみんなが受けられると大問題になっています















私は緩和ケアの専門家として、どんな考え、どんな境遇、どんな出自、どんな病気の患者も、向き合って診察することを、一番大切にしてきました。ですから、自分の患者が安楽死を求めているのであれば、その考えを否定することなく、尊重したいと、医師として思っています。

自分の患者を自分の手で死なせることに耐えられるか?

でも、もし安楽死が日本でできるようになったとして、実際に自分が、いつも診察している患者のために、致死量の薬を注射したり、致死量の薬の処方箋を書いたりできるかと問われれば、今の自分には恐ろしくてできないというのが、医師としてだけでなく、1人の人間としての本心です。

実際に安楽死ができるオランダでも、安楽死を引き受けず断る医師も多いことが知られています。自分の考えがそれほど特別とは思いません。

安楽死を実行できる医師には、「安楽死は患者を救う正しい方法だ。患者の人権は最大限尊重するべきだ」という、自分自身の経験から生まれた強い信念を必要とします。そう、手塚治虫の漫画、ブラックジャックに登場する、安楽死と慈悲殺を是とする、「ドクターキリコ」のように。

皆さんも想像してみてください。安楽死は間違いなく、数分以内に、目の前で、自分が診療している、顔見知りの患者を死なせるのです。その行為に普通の人間の心は、耐えられるのでしょうか。医師なら、耐えなくてはならないのでしょうか。最初は恐ろしくても、何度も安楽死の手伝いを繰り返すうちに、慣れてしまうのでしょうか。

宮下洋一さんが書いた『安楽死を遂げるまで』(小学館)という本でオランダで安楽死を初めて実行する事になった女医の話が書かれていました。

点滴をする手が震え、涙を流しながら、やっとのことで自分の任務を果たし、男性を安楽死させます。この女医の心の苦しみに、私は深く共感するのです。安楽死が認められているオランダでも、医師は苦悩しながら安楽死と向き合っているのです。

私の中で生まれた新たな疑問の正体が分かってきました。安楽死に消極的な自分には恐ろしくてできないと言っておきながら、実は日本で合法的に実行できる安楽死の代わりの方法として鎮静を、積極的に広めているのではないかということなのです。

自分は安楽死を引き受けない医師だと信じていました。でも、もしかしたら、鎮静を積極的に実行する私は、既に周りからは、「ドクターキリコ」に見えているかもしれません。この事実に今の私の心は動揺し混乱しているのです。

【前編】みんな、患者を苦しみから救う鎮静のことを誤解している

【新城拓也(しんじょう・たくや)】 しんじょう医院院長

1971年、広島市生まれ。名古屋市育ち。1996年、名古屋市大医学部卒。社会保険神戸中央病院(現・JCHO神戸中央病院)緩和ケア病棟(ホスピス)で10年間勤務した後、2012年8月、緩和ケア専門の在宅診療クリニック「しんじょう医院」を開業。著書 『「がんと命の道しるべ」 余命宣告の向こう側 』(日本評論社)『超・開業力』(金原出版)など多数。