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「帰れぬ故郷」から群馬県のあの街に。人々が移り住んだその理由

都心からそう遠くない群馬県館林市。実は約260人のロヒンギャが住んでいます。ミャンマー政府の弾圧を逃れて来た人々です。

東京・浅草から東武伊勢崎線に乗り1時間半。ある人々に会うために、電車を乗り継ぎ群馬県館林市へと向かった。何回も川を越えると、車窓からの風景は、住宅街から、田んぼが広がるのどかなものへと変わって行く。

館林は駅前に目立ったビルもない、静かな街だ。

だが、駅から少し行くと、イスラム教徒向けの「ハラール」のマークがついた肉やスパイスが所狭しと並ぶ雑貨店がある。イスラム教徒の女性が被るヒジャブ、ミャンマーで人気の噛みタバコも売られている。市内にはイスラム教のモスクも2カ所ある。

この街には、ミャンマーでの弾圧から逃れてきたイスラム系少数民族のロヒンギャの人々が集まって暮らしているのだ。その数は約260人。日本にいるロヒンギャの総数の9割近くに及ぶ。

雑貨店「ドスティ・ハラル・フード」に案内してくれたカン・モハメドさん(50)は、「イスラム教は戒律で食べ物にも決まりがあるので、ハラール食品店の存在にとても助けられています。モスクでは子どもたちはコーランを学びます」と話す。

モハメドさんは1995年、難民としてミャンマーから日本にやってきた。

イスラム系少数民族のロヒンギャは、ミャンマーで生まれ育っても、「ミャンマー人ではない」という扱いを受け、国籍もパスポートも与えられない。

日本でロヒンギャへの虐待が注目されるようになったのは、2017年夏以降のことだ。ミャンマーでロヒンギャに対する組織的といえる暴力や追放の動きが強まり、70万人以上が故郷を捨てて難民となる事態となった。

だが、ロヒンギャの人に対する迫害はそれ以前からずっと続き、暴力や殺害、放火などが起きていた。

日本に逃れてきたロヒンギャの人々

館林に住んでいるロヒンギャは、90年代や2000年初頭にミャンマーでの迫害から逃れ、日本に難民として渡った人々や、その家族だ。

なぜ、ロヒンギャの人々は東京でも大阪でもなく、館林に集まったのか。

複数の関係者によると、民主化活動をしていて日本に逃れてきたあるロヒンギャ男性が1990年ごろ、館林で暮らしはじめた。館林には当時から、バングラデシュ人やパキスタン人などイスラム教徒のコミュニティがあった。ロヒンギャの男性は、こうしたつてで、館林での仕事を紹介されたという。

これがきっかけとなり、90年代前半に難民として来日したロヒンギャたちがコミュニティを形成した。館林には自動車関係などの工場があり、ロヒンギャの人々の多くは、こうした工場で働いている。子どもたちは、日本で生まれ育った。

1994年には在日ビルマロヒンギャ協会(BRAJ)が発足。ロヒンギャの人々の支援が始まった。

協会によると、現在、館林には約260人、日本全体では約300人ほどのロヒンギャが生活しているという。BRAJのセイドル・アミン事務局長(46)とモハメドさんに話を聞いた。

アミンさんは1990年にミャンマー・ラカイン州のマウンドーからバングラデシュに逃れ、その後タイ、マレーシアを経由して2003年8月に日本に渡った。

アミンさんはパスポートを持っていなかった。生まれ育ったミャンマーの政府に迫害され「ミャンマー国民」とすら認めてもらえなかったからだ。「命が助かるためには仕方ない。カナダ国籍名義の偽造パスポートで日本へ渡りました」

「関西空港に到着して、入国審査官はすぐに偽造パスポートであると分かったのでその場で拘束されました。収容施設から難民申請を出して、異例の1カ月25日という速さで、難民認定がされました」

アミンさんがミャンマーを逃れた理由は、学生時代に民主化運動の中で結成され、アウンサンスーチー氏が率いた最大野党「国民民主連盟(NLD)」で政治活動をしていたことだ。「民主化されれば、ロヒンギャの人権問題も解決される」と信じて活動していたという。

「政府はNLDで政治的活動をしていた学生たちを捕まえ、殺していました。1990年の総選挙の後は特にNLDで活動していた人々への圧力が強まっていたので、家族を置いて、バングラデシュへと逃げました」

当時、日本に逃れてきたロヒンギャの多くはNLDで政治活動をしていたメンバーだった。モハメドさんもそのうちの1人だ。

この写真は、民主化運動をしていた時のモハメドさんのNLDの身分証明書だ。今でこそ公に見せることができるが、当時は警察や政府関係者に見つかれば、命の保障はなかった。

モハメドさんもアミンさんと同じく、まずバングラデシュへ逃げ、その後1995年に偽造パスポートで日本へ渡った。

1962年の軍事クーデター後、ミャンマー国内でロヒンギャに対する圧力が強まり、1982年に施行された改正国籍法でロヒンギャは「無国籍」とされた。無国籍でパスポートがないロヒンギャが空路で他国へ渡るには、違法ブローカーが手配する偽造パスポートが、唯一の方法になるという。

今では2人とも、難民認定を経て日本の永住権を取得しており、比較的安定した生活を送っている。しかし2人の親族には、まだマウンドーにいる人もいれば、バングラデシュの難民キャンプに逃れた人もおり、心配は絶えないという。

「帰りたくても帰れない。殺されるかもしれないから」

多くのロヒンギャが住むラカイン州では2017年8月、武力衝突が発生したり、ロヒンギャに対する暴力が吹き出した。家屋が破壊されたり、軍によるロヒンギャ女性のレイプが発生するなどし、大量のロヒンギャがナフ川を渡ってバングラデシュへと渡った。

2人の出身であるラカイン州のマウンドーはナフ川に面している国境沿いの街。特に当時は情勢も不安定だった。

親類を心配する気持ちはあるが、ミャンマーへは帰れないという。

アミンさんは「私たちは生まれ故郷に帰りたくても帰れないんです。殺されるかもしれないから」と話す。

「テレビでニュースをみても辛い思いをするばっかりだった。アウンサンスーチーさんが国を変え、ロヒンギャも助けてくれると思ったけど、何も変わらず本当に落胆しました」

「ロヒンギャはイスラム教徒というだけで、ミャンマーで生まれ育ったミャンマーの人間です。国籍を与えられなかったり、故郷を追われ人権を侵害されたりするというのは、本当にあってはならないことなんです」

働けず移動も制限、「ミャンマーと一緒」


それぞれ地域社会で職を得て働くアミンさんとモハメドさんが今、BRAJで尽力するのは、日本に逃れてきた他のロヒンギャの人々の支援だ。

BRAJによると、日本に約300人いるロヒンギャのうち、難民申請が認定されたのは20人にも満たない。日本には公的支援を受けられる難民認定に次ぐものとして、人道的配慮に基づいて日本に在留することが認められる「特別在留許可」という制度があるが、これさえ出ていない人も多くいる。

アミンさんは「収容施設から出ていたとしても、(許可が無いため)生きていくため働いてお金を稼ぐこともできず、県外への移動も制限されている様子は、ミャンマーのロヒンギャが置かれている状況と全く変わりません」と指摘する。

ミャンマーでは、ロヒンギャは隣町への移動さえも制限されている。

そして日本でも、難民申請者は在住する県の外に出る際は、入管に申請して許可を得る必要がある。移動の制限という観点からいうと、状況は確かに似ている。

「生きていけない」


2001年に日本へ渡り難民申請をしたが、18年にわたり特別在留許可も出ないままというロヒンギャ男性は「せめて明日のごはんを食べるために毎日数時間でもいいから働きたい。本当に生きて行くことができません」と話す。

ミャンマーでは学生時代、NLDで民主化運動に関わっていた男性は、2001年にミャンマーを出国した。偽造パスポートで空路で韓国に入国し、1年間過ごしたあとにコンテナ船に乗り込み、横浜港から入国した。

そこから難民申請を繰り返しているが18年間、特別在留許可も降りていないという。働くことができないため、2人の子どもを含む一家の生活費は全て、在留資格を持つミャンマー人の妻が稼いでいるという。

男性は入管施設に収容されていたこともあり、「仮放免」となって出るときに保証金が必要だった。数十万円〜数百万円と、人によってそれぞれ金額は違うが、支払いは必須だ。

「命からがら難民として日本へ逃れて来て、働く資格もないから働けない。それなのに、保証金をどうやって払えというんでしょう」

ロヒンギャのコミュニティでは、収容されている人が仮放免となる際には、いつも仲間内で募金を集めて保証金を用意するという。

このような状況に置かれているのは、この男性だけでない。

館林に住む多くのロヒンギャの人々が置かれている状況について、アミンさんは「少しでも日本の人々にも知ってほしい」と話す。

「ロヒンギャの人々は国でも迫害され、日本へ渡ってもたったの十数人しか難民認定されない。みんなで支え合って生きていますが、問題は山積みです。ロヒンギャも、人権を認められるべき人間であると伝えたいです」