原爆のキーホルダーにショットグラス。原爆を作った人は英雄なの?留学先で受けた衝撃

    広島と長崎に落とされた2つの原爆は、米国ニューメキシコ州で作られました。高校時代に同州に留学した私は、博物館に原爆のキーホルダーなどのお土産があったことに衝撃を受けました。

    6月末、米国人の原爆の捉え方に疑問の声をあげた日本人留学生のことが、NHKに取り上げられ、話題となった。長崎に投下された原子爆弾に使われたプルトニウムを生産した、アメリカ西部のワシントン州リッチランドに留学していた、福岡県出身の高校生だ。

    彼女の留学先の高校のロゴマークは「キノコ雲」。現地の人々は、そのマークや原爆を誇りに思っているという。彼女は高校が運営するYouTubeを通して「原爆では多くの人が亡くなった。原爆が福岡に投下されていたら私はここにいない。学校のロゴマークを変えたいと思っているわけではないけど、こんな意見もあると知ってほしい」と発信した。

    米国で1人、行動を起こした彼女のニュースを読み、多くの人が感心しただろう。しかし私は、米国留学をして同じような違和感を感じたものの、行動を起こせなかった日本人の女子高校生を思い出した。

    10年前の私だ。

    2008年から09年にかけて、私は米国南西部ニューメキシコ州の高校に留学していた。

    ニューメキシコ州は、広島と長崎に落とされた原爆が作られた場所で、人類史上初めて、核実験が行われた場所でもある。

    上の写真は、1945年7月16日にニューメキシコ州北部アラモゴードの砂漠にある「トリニティー」(三位一体)実験場で行われた、史上初めての原爆実験の様子だ。この数週間後、広島と長崎に原爆が投下された。

    街の「誇り」である原爆開発

    留学先の高校は州都のサンタフェにあり、普段、原爆のことについて考えることはなかった。

    衝撃を受けたのは、原爆を開発した国立研究所があるロスアラモスを訪れた時のことだ。

    ホームステイ先のホストマザーが「ニューメキシコ州に留学した日本人なら、行っておくべき場所がある」と、車で1時間ほどの場所にあるロスアラモスに連れて行ってくれた。

    第二次世界大戦中の1943年、原爆を開発するマンハッタン計画のもと、ロスアラモス国立研究所が創設され、そこで原爆が開発された。研究所には今も国内最高峰の科学者らが集まり、軍事関係の研究や開発が行われる「閉ざされた研究所」だ。

    この街にあるブラッドベリー科学博物館を訪れた。

    博物館の最も目立つところに展示されているのは、1945年8月6日に広島に投下された「リトルボーイ」と、8月9日に長崎に投下された「ファットマン」のレプリカだった。

    その横で流れていた映像の字幕を目にして、衝撃が走った。

    "World War ll was finally ended by the only two nuclear weapons." (第二次世界大戦はついに、たった2つの原子爆弾によって終わった)

    「原爆投下こそが長きにわたった戦争を終わらせ、戦争が続いていればさらに犠牲になっていたはずの多くの命を救うことができた」

    この認識は、アメリカでは決して珍しくない。しかし、日本で小学生の頃から戦争の被害を学び、平和教育を受けてきた日本人の高校生にとっては、衝撃的だった。

    この広い博物館に当時あった原爆の被害に関する展示は、出口付近にある広島の焼け野原のパノラマ写真だけだった。

    全身が焼けただれた子どもの写真もなければ、苦しみを語る被爆者の証言パネルもない。

    まるで奪われた全ての命を無視するような展示だ。そう思い、パノラマ写真の前で、しばらく立ち尽くした。

    展示はあくまで「戦勝国の米国」としての目線であり、戦争を終わらせた原爆を開発した街の「誇り」として歴史を紹介している。博物館のウェブサイトには「遺産の歴史を紐解こう」という文字が踊る。

    ロスアラモスで原爆がどのように開発されたのか、詳細な説明の展示があった。写真や資料を交えた年表の前には「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマー初代研究所長と、マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス米陸軍准将の像が立っている。

    この記事を書くにあたり、アーカイブから写真を探した。2016年2月に博物館で撮影されたという、来館者の感想が綴られたノートの写真を見つけた。

    そこには、日本からの来館者の「世界が平和でありますように」という言葉。しかしその下には差別用語を含み「だから日本に原爆を落としたんだろ」と英語で書かれている。博物館のスタッフか他の来場者かはわからないが、消しゴムで消してあり、文字は薄くなっている。

    一方で核なき世界を望むメッセージもあった。

    「核の根絶を」「とても興味深い展示でしたが、偏っていると思います。原爆は何十万人という罪のない人の命を奪ったのに、それがここでは語られていません」

    「その綺麗な建物は何?」

    留学中、「米国では原爆の被害が若者に知られていなさすぎる」と感じる出来事があった。

    美術の授業でのことだ。建物のデッサンを練習する日で、生徒はそれぞれ描くモデルとなる建物の写真を持参していた。

    私が用意したのは、出身地の観光名所・大阪城と、広島にある原爆ドームだった。

    隣に座っていたアメリカ人のクラスメートは、原爆ドームの写真をみて「その綺麗な建物の写真は何?どこかの遺跡?」と私に聞いた。

    「原爆ドームを知らないの?」

    原爆を落とした国の人たちが、日本人にとっては原爆被害や平和のシンボルである原爆ドームを知らない。信じられず、尋ね返した。

    答えは「No」だった。

    「戦争中にアメリカが落とした原爆で破壊された広島の有名な建物だよ。原爆のことは知ってるよね?」

    悲しい気持ちになりながらも、できるだけ責める口調にならないように尋ねた。

    クラスメートは「あ、それは歴史の授業で少し習った気がするよ」と少し焦った様子で答えた。

    原爆グッズがお土産コーナーに並ぶ博物館

    私は2008〜09年の高校留学を終えた後、日本国内の大学に進学した。2012年に、大学の交換留学制度を使い、再びニューメキシコ州に1年間、留学した。その際、大学があった同州最大の都市アルバカーキにある国立原子力博物館を訪れた。

    ロスアラモスでのブラッドベリー科学博物館の経験があったため、原爆開発を讃える内容の展示があるだろうことは、予測していた。

    それでもショックだったのは、同館のお土産コーナーだ。

    facebook.com

    国立原子力博物館のFacebookページより。投稿は2018年12月のもの。

    お土産コーナーに並んでいたのは、ファットマンやリトルボーイのキーホルダーやショットグラス。広島に原爆を投下した米爆撃機B29の「エノラ・ゲイ」や2つの原爆のピンバッチや、置物。自分の目を疑った。

    米国の有名科学者をコップのデザインにした「HEROS OF SCIENCE(科学の英雄たち)」というシリーズにはオッペンハイマー氏も入っていた。

    この博物館では、子ども向けの科学イベントも頻繁に開かれている。

    もちろん広島や長崎の被害を表す展示は、ほとんどない。「ここの展示やお土産コーナーをみた子どもたちは、原爆についてどう感じて成長していくのだろうか?」。そう思った。

    私が博物館を訪れたのは2012年だったが、同博物館のFacebookには2018年8月のお土産コーナーの写真が投稿されている。私が訪れた時と同じような商品が並んでいる。

    米国人生徒に囲まれて学ぶ原爆開発の歴史

    大学での交換留学中、ニューメキシコ州での原爆開発に関する歴史の授業を受講する機会に恵まれた。

    講義名は「原子爆弾ーロスアラモスから広島までー」。歴史専攻の院生や大学4年生を対象とした少しレベルが高い授業で、毎週毎週、辞書のように厚い文献を読み、論文を提出する課題が出た。

    アメリカの大学は社会人の学生も多い。この授業にも40、50代の学生がいて、高いレベルの議論が交わされていた。教授はロスアラモスでの原爆開発などを研究する、いわば原爆の歴史の専門家だったが、リベラルな視点を持った人物だった。

    そもそも日本の学校で原爆について学ぶ機会は、中高での歴史の授業や、平和学習で教えられる内容程度に程度に限られる。

    私たちが知る原爆とは、原爆投下が引き起こした被害のことだ。

    原爆という兵器がなぜ、どのような経緯で開発され、その後軍事的、政治的に利用されていったかという歴史を学ぶ機会は、日本ではほとんどない。

    それもあって、膨大な課題を読みながら、米国史専攻の院生や社会人学生が多い授業についていくのは正直、大変だった。

    授業では「トルーマン大統領はなぜ原爆投下を決めたか」「そこにアメリカのロシアとの関係性はあったか」など、内容の濃いディスカッションが行われた。

    日本人留学生が1人、アメリカ人学生でいっぱいの教室で原爆について学ぶことに、不安さえも少し、覚えていた。

    初めは「私が日本人だと知ったら、何か言ってくる学生もいるんじゃないか」「口に出さなくても本当はどう思われているんだろう」と思っていたが、クラスメートは一学生として接してくれた。

    セメスター最後の授業で、広島や長崎の復興に関する動画を見た。

    その後の意見交換の時、勇気を出して、どれだけの遺族や生存者がまだ原爆によって心に傷を負っているか、そしてどのように広島や長崎の街が強く、美しく復興を遂げたかを話したことを覚えている。

    最終日だったので、授業終了後に教授にお礼を言いに行った。すると一冊の本を手渡された。

    「私はもう教授職も引退するし、あなたは原爆の歴史のクラスを受講してくれた初めての日本人だった。この広島についての本は日本語で書かれている部分もあるから、あなたが持っておいてくれるのが良いだろう」

    お礼を言って、日本へ帰国しても原爆について学ぶことを約束した。

    日米の学生が共に訪れる広島・長崎

    留学を終え帰国した後、通っていた大学が共催していた平和プログラムに参加した。

    長年8月に続けられているプログラムで、日本とアメリカの学生らが共に広島と長崎を訪れ、原爆投下の被害や歴史について学ぶものだ。両県で被爆者から直接話を聞き、6日と9日には追悼式典に出席した。

    日米の学生が多かったものの、カナダからの参加者や、日本側には韓国や中国からの留学生もいた。広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑や、長崎の原爆朝鮮人犠牲者の碑で共に献花をし、岡まさはる記念長崎平和資料館も訪れた。

    語り部としてお話を聞かせてくださった被爆者の方の「核廃絶を」「長崎を最後の被爆地に」という悲痛な願いが心に残っている。

    被爆者らが長年求めつづけ、2017年に国連でようやく採択された「核兵器禁止条約」に、日本政府は署名をしていない。

    条約採択の原動力となった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞し、広島で被爆したサーロー節子さんが、オスロでの授賞式で核廃絶を訴える講演を行い、世界中で賞賛されたにも関わらず。

    原爆をテーマにしたテレビ番組も、年々減っているように感じる。日本は世界唯一の被爆国として、原爆投下を繰り返さない最大の努力ができているだろうか。

    8月9日に行われた長崎平和祈念式典で、田上富久・長崎市長は「日本政府に呼びかけます。核兵器禁止条約に一刻も早く署名、批准して下さい」と訴えた。

    被爆者代表のあいさつに立った85歳の山脇佳朗さんも、「安倍総理に対してお願いしたい」と呼びかけた。

    「被爆者が生きている間に、あらゆる核保有国に、核兵器をなくそうと呼びかけて下さい」「核廃絶の毅然とした態度を示して下さい」

    そのあと、安倍晋三首相も式典であいさつしたが、今年も、核兵器禁止条約については触れなかった。