「政治とメディアの距離がおかしい」 大本営発表のウソ、今への教訓

    若手研究者が調べ上げた「不適切すぎる関係」の末路

    戦後、権力者にとって都合のいい情報の代名詞となった旧日本軍の「大本営発表」。実は、第二次世界大戦当時も疑問視している国民はいた。その声が広がらなかった、最大の原因は政治とメディアの一体化だ。

    なぜ、メディアは明らかなウソ発表を許容してしまったのか。若手近現代史研究者は、「いまの時代こそ、大本営発表の失敗を学ぶ必要がある」と語る。その真意は……。

    戦後71年「いま政治とメディアの距離がおかしい」

    辻田真佐憲さん(31歳)。第二次世界大戦を中心に、政治と文化、メディア利用をテーマにした著作を発表する在野の研究者だ。

    今年の夏、著作「大本営発表」(幻冬舎新書)を発表した。辻田さんは大本営発表を書くうえで、政治とメディアの関係に焦点を置いた。根底にあるのは、こんな問題意識だ。

    「戦後70年を過ぎた、いま政治とメディアの距離がおかしくなっています。例えばNHKのトップである籾井勝人会長が熊本地震のとき、原発報道は『公式発表をベースに伝えること』と発言しました」

    NHK・籾井会長と「マスゴミ」批判論の共通点

    「これは大本営発表の問題を歴史から学んでいない発言です」

    大本営発表は、戦時の「公式発表」だ。ありもしない戦果を発表し、不正確どころか、自分たちに有利な捏造した情報を流した。

    「当時のマスメディアも公式発表をそのまま載せていたのではなく『公式発表をベース』にした、軍部のレクチャーをもとにした内容を載せていた。その結果、なにが起きたのか。政治とメディアの緊張関係がなくなり、都合がいいにもほどがあるデタラメな情報が歯止めなく掲載されるようになった」

    「これに対してネット上では、擁護する声があります。取材態度が悪い、あるいは伝える内容がひどいといった『マスゴミ』批判と結びつくわけですね。確かにマスコミの報道にもひどいことはあるでしょう。でも政治とメディアの一体化は、それ以上にひどい。社会の破壊、と同義です」

    いまの政府は、当時の日本軍と違って正確な情報を発信しているのに、なぜわざわざ日本軍と比較するのかという声もあるだろう。大本営発表がなぜ、現代に通じるのか。そもそも、どういう発表を重ねたのか。

    その疑問を解くため、辻田さんと一緒に歴史を遡ってみよう。

    初期の大本営発表は正確だった

    辻田さんは歴史から、意外な事実を発見する。

    「私のカウントでは、大本営発表が始まったのは1937年です。初期の大本営発表はかなり正確でした」

    その理由は明確だ。軍部は確認不足のまま、情報を流す従軍記者に悩まされていた。今も昔も、記者の最大のインセンティブは特ダネにあるのは変わらない。ここでいう特ダネは、公式発表に先んじていち早く、情報を流すことにある。

    「ありていに言ってしまうと、従軍した記者は特ダネ狙いでいち早く、いろんなことを書きたい。当局の発表をあてにしない特ダネのため、ときには不正確な情報が出回ります。その対策として、当局が正式な発表をする。これが大本営発表の位置付けだったのです」

    軍部と記者はここでは一定の緊張関係があった。変化はどこで始まるのか。もう少し、時間を遡って軍部と、当時の最主流派メディア・新聞の関係をみておこう。

    メディア戦略に苦慮した日本軍→広報強化

    新聞は大正デモクラシーや第1次世界大戦後の軍縮ムードを背景に、軍に対して好意的な報道姿勢ではなかった。

    こうした報道に対抗するため、軍はメディア対策を強化する。まずは陸軍が、記者クラブに加盟する大手メディアに積極的に情報を「レクチャー」するようになる。

    昨今の企業が、メディアに情報提供をするのと同じように、当時の軍部もまた、メディアを通じて存在を国民にアピールしようとしていた。

    しかし、新聞側は簡単には従わず、社会も新聞を支えていた。関係に変化が生じるのは、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年開始)だ。開戦当時、世論の支持を受けた日本軍の様子を取材しようと、新聞各社は前線に従軍記者を派遣した。

    前線からの特ダネ競争、報道合戦は過熱し、しばしば軍部は頭を悩ました。

    不正確なマスコミ、現地レクから始まる統制

    辻田さんはこんな事例をあげている。

    1937年のことだ。軍の参謀が「××は取れそうだ」とつぶやけば、記者が「なら××は占領にしましょう」と言って、「占領」と伝えられる。軍が正式発表をするまで、南京占領の報道はダメだといっても、臆することない新聞は「南京陥落」ともとれる記事を各紙とも書き始める。

    困り果てた軍は大本営発表として、新聞よりいくぶん正確な事実を発表する。その後の作戦では、中国に報道対策要員を派遣、いってみれば公式発表を現地でレクチャーすることで、メディアコントロールを図っていった。

    ここから政府、軍部は、本格的なメディア統制を強化していく。

    紙と人材を押さえる

    コントロールは一気に進んだというより、少しずつ進んでいった。

    1938年に国家総動員法が成立し、これに基づき「新聞用紙供給制限令」が発令された。そして、1941年から報道班員制度が始まる。この2つの制度を作り、組み合わせることで、軍のコントロールは力を発揮する。

    辻田さんはこう話す。

    「簡単にいえば、報道班員制度は、新聞記者を好きに徴用して、軍属として報道させる報道班員とする。『新聞用紙供給制限令』と組み合わせると、なにができるか。新聞用紙を統制する権利は政府=軍部にある。気に入らない新聞には紙を渡さず、新聞記者はいつでも軍にとることができる」

    「紙と人材を握れば、新聞はコントロールできる、と思ったのではないでしょうか」

    それは、おそらく予想以上の効果をもたらした。開戦を歓迎した世論の影響もあり、太平洋戦争が始まった1941年12月8日時点で、表立って軍部を批判する記者、特ダネ狙いで好き勝手やる記者はもう姿を消している。

    ニュース価値を軍部が決める

    気がついたとき、マスメディアは軍部の考えを、自ら推し量って行動するようになっていった。

    「象徴的な証言が残っています。当時、大本営発表は『朝刊』『夕刊』と呼ばれていました。新聞記者が大本営に『夕刊はでますか』と聞き、大本営の担当者が『締め切りに間に合わないから、夕刊は出さない。代わりに朝刊は3本だ』と返す」

    「政治と報道の癒着は完成しています。ほんの4年前まで、良くも悪くも統制がとれなかったマスメディアと軍の関係は逆転しているのです。大本営のなかには、見出しにまで口を出す人がでてきた。ついたあだ名は『整理部長』です」

    新聞の見出しやニュースの大きさを決める部署は今でも「整理部」という。大本営発表といえば「発表された情報を検証しないで報道するメディア」という意味合いで、いまも使われることがある。

    ニュース価値を当局に口出しされていた、当時の新聞に当てはまっている。

    歴史を振り返れば、これでも、まだマシだった。日本にとって有利な状況が続き、軍部もわざわざ情報を捏造する必要がなかった。正確な情報を流すだけで戦果は伝わった。しかし、一度、状況が悪化するとどうなるか。

    どこまでも過大に報告された戦果

    架空の戦果が捏造されていくのである。

    辻田さんの集計では、1942年には、すでに戦果の捏造が始まり、それは1945年の敗戦まで続いていく。

    「この本を書くにあたって、大本営発表を集計しました。大本営発表に基づくと、太平洋戦争で、日本軍は敵国である連合国の戦艦を43隻、空母は84隻沈めたことになっている。しかし、実際には沈めた戦艦は4隻、空母は11隻に過ぎません」

    「他の国でも多少の戦果の過大報告はあるでしょう。しかし、これほどではない。そして、日本軍の損害も過小報告されていきます」

    「ベースになったのは現地から上がってくる報告です。これもどこまで正確かわからないのに、ろくに情報を精査せず、鵜呑みにする。正確に沈没を確認できたのかすら、疑わしいのに、現地からの報告を否定できない。少しでも疑問を呈すと、現地で頑張っているのに否定するのか、否定する根拠がないだろうと、現地から反論されたようです」

    それは「空気」で決まった

    では、架空の戦果を積み上げた原因はどこにあるのか。

    「のちに担当者が、大本営発表は『自然の成り行き』で決まったという証言を残しています。つまり空気です。なんとなく、全体が納得する空気。これが捏造の根底にあります。この問題が根深いのは、意図したのではなく、情報を軽視した結果、なんとなく、決まったということです」

    「本来ならチェック機能を担うはずの、マスメディアは統制されている。だから『確認されないから…』『どうせ、わからないだろう』となっていくのです。当局のレクを担当する軍幹部だって、本当にやばいときは、顔色にでていたといいます。記者たちだって、さすがに何かおかしいと思っていたでしょう。しかし、だれも言い出せない」

    外に歯止めがなく、内部の倫理観頼みになると、組織は暴走する。

    言葉が作られる

    戦局が悪化すると数字のごまかしだけでなく、新しい言葉も生み出されていく。劣勢による撤退は「転進」となり、全員戦死は「玉砕」という言葉になっていく。

    「大本営発表の代名詞とも言える玉砕ですが、実際に調べてみると、使われた期間は1年にも満たないものです。あとは全員戦死という、より直接的な言葉が使われていきます。玉砕という美辞麗句でごまかせる時期は、本当に短かかったのです」

    「ほんまのことは新聞には書かれへん」

    戦局が悪化する一方だった1942年〜43年には、国民から疑問の声があがるようになっていく。

    辻田さんは思想犯を取り締まった、特高警察の資料を調べた。「ほんまのことは新聞には書かれへん」「本当は負け戦ばかりだ」「勝った、というのに戦死者がいる。事実かどうかわからない」という、国民の声が記録されていた。

    「大本営発表=正確な情報」という当初の信頼は、すでに崩れかかっていたことがわかる。こうした声が拾われなくなったのは、軍部と癒着したメディア側に大きな問題があった。

    戦争末期、「陸海軍」か「海陸軍」で5時間の言い争い

    そんな時、軍部は何をしていたのか。

    戦争末期になっても軍部では、大本営発表を巡ってこんな争いが起きていた。表記は「陸海軍」なのか「海陸軍」か。つまり、発表時に陸軍の名前を先に出すのか、海軍を先にだすのかでもめていたのだ。

    戦局が悪化の一途を辿っているときに、軍内部の派閥争いに時間を費やす。これが日本軍だった。

    「軍人といっても、幹部クラスともなれば高級官僚です。官僚独特の言葉をめぐる争いがあるのです。こんなくだらないことで、5時間も争っていたといいます」

    そして、また新しい言葉も生み出される。

    長崎の原爆被害は「比較的僅少」?

    「これも有名ですが、広島そして長崎で使われた原爆は『新型爆弾』と発表されました。原子爆弾とはいわない。広島は大本営が『相当な被害』、長崎は西部軍管区司令部から『比較的僅少』という表現で発表しました。東京大空襲は、被害を発表せず、火災発生時刻と鎮火時刻を発表するだけ。目下調査中として、その後は発表しないという手法も使われました」

    戦争継続派は最後まで工作を仕掛けた

    なぜ、勝っているはずになのに、本土空襲が続くのか。そんな国民の疑問に答えもせず、大本営発表は最後の最後まで政争に使われた。

    辻田さんはこんなエピソードを紹介する。

    敗戦間際、戦争継続派の報道担当者は大本営発表風の文案を作り、記者室で勝手にレクを始めた。文書を捏造し、マスメディアを使って、戦争を終わらせない工作をした。

    記者たちはさすがに、ここではツッコミをいれたようだ。いつも見ているハンコと違うなど、細部に目をつけて、上層部に確認をしたところ、戦争継続のための、勝手な発表であることが判明する。

    ウソにウソを重ね、瑣末な文言一つで言い争い、そして内部争いから自壊していく……。これが政治とメディアが一体になった「大本営発表」の末路だった。

    「政治とメディアが一体化した最悪のケース」

    話を現代に戻す。

    辻田さんに言わせると、「大本営発表は、政治とメディアが一体化した最悪のケースだ」。

    70余年前の、最悪の歴史から導ける教訓はこうだ。

    「政府が常に正しい。そんなことは絶対にありません。誰もチェックしないとわかれば、情報には急速にウソが混ざる。そして、ウソを誰もチェックできないとわかれば、さらにウソを重ねるようになります」

    「政治がメディアをコントロールしようとするのは、とても危険です。それはメディアだけでなく、政治にとっても、社会にとっても危険です。いま、果たして、この教訓が学ばれているといえるでしょうか」

    安倍政権の戦略 メディアは「配慮」していないか?

    引き合いに出されるのが、安倍政権のメディア戦略だ。巧みだ、と表現する論者もいる。しかし、そこで問題を留めていいのか。辻田さんは、続ける。

    「放送法を巡って、停波の可能性を総務大臣が口にする。あるいは、総選挙前に政権与党である自民党が在京キー局に『公平中立』『公正の確保』を求める文書を送る。現状を見る限り、メディアのコントロールに成功したといえるでしょう。しかし、それは望ましい方向なのか。メディア側が政権に配慮して、先んじて行動しているように私には見えます」

    思えば、暗い歴史の第一歩も「軍部の気持ちを推し量ること」から始まった。

    安直なマスゴミの批判の先に……

    「マスメディアが多様な報道をするのは、社会の豊かさの証です。ネットの『マスゴミ批判』の多くは、政府の『公式』ベースのほうが、マスゴミの『反日』的な報道よりマシだと思っている節があります」

    冒頭のNHK会長の「公式ベース」発言は、いまのマスコミ批判の空気とリンクする。「公式ベース」のほうが、「マスゴミ」よりマシなのか。

    「ここで、しかし、と問わないといけません。チェックがないと思った瞬間、政治の側はどうなるのか。70余年前の歴史が教訓になります。善意頼みでは危ないから、チェック体制を作るというのが、近代政治の基本ではなかったですか。チェックを放棄した先には、もっとひどい情報体制しかないということがどれだけ理解されているか」

    「もちろん、悪い情報は批判されないといけない。大事なのは、批判の仕方です。政治とメディアの癒着を促すような批判は意味がないのです」

    安直なマスゴミ批判の先にあるのは、マスゴミより救いようのない、政治とメディアの一体化という道ではないか。

    政治とメディアの一体化に抗う

    そして、こう言葉を強めるのだ。

    「いちど成功した統制は簡単には終わらないものです。安倍政権はいずれ終わりますが、これだけ成功したメディアコントロールの手法は引き継がれるでしょう。野党が仮に政権を再奪取しても、続くかもしれない。問題は政治的スタンスにかかわらず、政治とメディアを一体化させないことです」

    誰もチェックしない政府は劣化する。政治とメディアのもっとも暗い歴史が教える教訓は、シンプルだが強いものだ。