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あの時、島は戦火にのまれた。米兵が見た「沖縄戦」カラーで振り返る

人工知能を使った自動色付け技術で、白黒写真をカラー化した写真で振り返る

沖縄は6月23日、「慰霊の日」を迎えた。

太平洋戦争末期に繰り広げられた激しい地上戦の末、日米両国で20万人以上が犠牲となり、県民の4分の1が命を落としたとされる沖縄戦。その組織的戦闘が終結した日だ。

戦火にのまれたとき、島にはどのような風景が広がっていたのか。

人工知能を使った自動色付け技術で、かつての風景を蘇らせるプロジェクトに取り組んでいる東京大学・渡邉英徳教授(@hwtnv)らがカラー化した写真で振り返る。

1945年3月23日、米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い「ひめゆり学徒隊」に動員令が下された。写真は前年春に撮影された、沖縄師範女子部の生徒たち。

1945年4月1日撮影。沖縄本島に上陸後、渡具知部落の牧歌的風景のなかを進撃するアメリカ兵たち。

1945年4月2日撮影、沖縄近海にて。空母「ハンコック」の甲板上で出撃を準備するF4UコルセアとTBFアヴェンジャー。

1945年4月4日撮影。日本軍が設置した竹でできたおとり飛行機。

1945年4月7日14時20分過ぎ、沖縄に向けて航海中の戦艦「大和」は多数の爆弾と魚雷による攻撃を受け、坊ノ岬沖で沈没した。

1945年4月11日撮影。沖縄戦において戦艦「ミズーリ」に突入する特攻機。この攻撃の跡は現在も「ミズーリ」の船体に残されている。

1945年4月12日,沖縄戦における「菊水二号作戦」の特攻機の突入によって炎上する戦艦「テネシー」。

1945年4月13日。沖縄に兵士と貨物を荷降ろしするアメリカ艦艇。

1945年4月15日撮影。すさまじい砲爆撃にさらされる沖縄・伊江島を本部半島から眺めるアメリカ兵たち。

1945年4月16日撮影、沖縄・読谷村。古堅の部落を通過するアメリカ軍戦車。

1945年4月24日撮影。沖縄・読谷飛行場の沖に停泊する大量のアメリカ軍艦艇。

1945年4月28日撮影。アメリカ軍が爆撃前に撮影した首里の航空写真。まだ被害はない。

1945年5月11日撮影。日本軍の方向に向けて火炎放射車で攻撃するアメリカ兵たち。

1945年5月15日撮影。沖縄・首里近くの大名高地を攻略するアメリカ兵。

1945年5月15日撮影。空、海、陸からの砲攻撃によって燃える那覇の街。

1945年5月15日撮影。砲撃をあびて崩壊した沖縄・首里の第一中学校。

1945年5月18日撮影。沖縄・那覇で民家を破壊しながら進撃するアメリカ軍。

1945年5月24日撮影、焦土と化した沖縄・与那原の町。何も残っていない。

1945年5月27日撮影。那覇の街を進撃するアメリカ軍のシャーマン戦車。

1945年6月6日撮影。沖縄守備軍第32軍司令部のあった首里城城壁から、廃墟と化した首里市街を臨む。

1945年6月13日撮影。沖縄・那覇の廃墟を眺めるアメリカ兵。

1945年6月16日撮影。アメリカ軍の那覇攻撃後、沖縄南部の人々は、安全な場所へ移動させられた。写真は瀬長島の真向かいにある防波堤を横切る人々。

1945年6月18日、沖縄の「ひめゆり学徒隊」に解散命令が出された。翌日から約1週間の間に8割の生徒が亡くなった。

1945年6月20日撮影。沖縄の屋嘉収容所にて。移送のため集められた日本軍捕虜たち。奥にみえる連山は恩納岳方面。

1945年6月20日撮影。沖縄・古宇利島で保護された住民たち。

1945年6月21日撮影。喜屋武半島の荒崎を占領し、星条旗を掲揚するアメリカ兵。

1945年6月21日,南部の戦闘に巻き込まれ負傷し,沖縄・具志頭村のアメリカ軍政府診療所で手当てを受ける住民たち。

1945年4月5日、アメリカ軍に占領された沖縄・名護の街。

1945年6月22日撮影、沖縄・糸満。真栄平で日本軍の砲弾がさく裂する中を進撃するアメリカ軍戦車。

写真の多くは、アメリカ軍が撮影したものだ。より悲惨な戦闘の実情については、多くの住民たちが証言を残している。(写真キャプションは渡邉教授による)


BuzzFeed Newsでは、沖縄出身のタレント・りゅうちぇるさんが「慰霊の日」に寄せる思いに関する記事【「沖縄慰霊の日を知ってほしい」 りゅうちぇるがTwitterで呼びかけた理由】も掲載しています。