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「大変です、広島がやられました」原爆投下の一報を知らせた少女、その証言をたどる

8月6日、被曝74年目の「原爆の日」を迎えた。あの日、広島に起きた惨劇をいち早く伝えたのは、14歳の少女だった。

広島に原爆が投下された、1945年8月6日。「広島、全滅です」とその第一報を知らせたのは、中国軍管区司令部に学徒動員されていた14歳の少女だった。

岡ヨシエさん、享年86歳。当時14歳だった岡さんは、空襲警報の連絡業務中に、爆心地から約500mの地下壕で被曝した。

その後も原爆の後遺症に苦しみ、晩年まで被曝当時の体験や平和への願いを語り継ぐ活動を続けていた岡さん。

アメリカのオバマ元大統領が広島を訪れた2016年5月には、「罪のない市民がどんな苦しみを受けたのか、しっかり見てもらいたい」と訴えていた。その翌年、悪性リンパ腫で亡くなった。

広島を襲った惨劇を最初に知らせた14歳の少女は、74年前のあの日、なにを見たのか。

BuzzFeed Newsは岡さんが56歳のときに証言した内容を記録した広島平和記念資料館平和データベースの映像を一部書き起こした。

「ものすごい紫色の閃光」

交換機に向かって「広島県、8時13分、空襲警報は…」って言いかけた途端なんですね。ものすごい紫色の閃光がパッと目をいりましてね。瞬間、ちょっと頭の中では「電気の事故かな?」とこう思ったわけなんですね。

…と、思う間もなくズーンと体が浮き上がって、そのまま意識がなくなったわけなんです。それで、時間にすれば1分か2分ぐらいのもんじゃないかと思うんですけど、目の前が灰色一色なんですね。

それでおかしい、どうかしたのかしらと思いながらだんだん目を開けてみましたときに、自分が仕事の位置から1m以上飛ばされて、その場で仰向けに倒れてたわけなんですね。

それで「あ、これは何事か起きたのだ。これは大変なことなんだ。これはただ普通の電気の故障ではないな」と思いました。

「新型爆弾にやられたぞ」

外に出てパッと一瞬外を見ましたら、今まであった参謀本部の立派な建物も全然なくて。で、なんかもう全般的に茶褐色って感じだったんですね。赤茶けた感じというわけで。

どうかなったのかしらと、ただキョロキョロ、キョロキョロしていましたら、その時に、防空壕を出ました右側の方にですね、用水路がございまして。その辺りにいらっしゃいました兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞ」と、うめきとも叫びともつかない声でおっしゃったわけです。

で、「新型爆弾…?」っていうのを自分自身心の中で繰り返してみたんですね。で、「え、新型爆弾どうなってるんだろう、どういうことだろう」と思いましたから、横からお堀端に上がりまして広島の街を見たわけです。

「赤茶一色の瓦礫の街」

そうしましたらね、一瞬、ばっと目の中に海が入ってきたんですね。そしてもう家が全然建物がなくて。

赤茶一色の瓦礫の街という風景で、似島がもう目の前にパッとそびえてたわけなんです。で、もう愕然としましてね、なんかもう血が引く思いというか、頭から血がズーンと下がるような思いがしましてね。

「これは大変だ!広島がやられた!広島がやられた!広島がやられた!」と心の中では思いましたけれど、周りには元気な方はいらっしゃらないわけなんです。みんなうめいてらっしゃる方とか、誰かわけのわからない方ばかりで。

私はそこにあります電話機の倒れているのを起こしましてね、手当たり次第に回して、一番初めに出てくださった方に「大変です!」って言ったわけなんですね。

(質問者:最初に出た相手は?)その方が福山の司令部の、お名前はあとでわかったんですけど、福山司令部のオガワさんという当時、一等兵の方だったらしいんですね。

「いえ、広島、全滅です」

それで私はもうしゃにむに出られた方に「大変です、広島がやられました」と言ったんですね。

そしたら「なに、師団がやられたのか?」とおっしゃったわけです、割れるような声で。それで「いえ、広島、全滅です」って言ったんです。思わず。それで「なに?!」と割れるような声でおっしゃったわけですね。

そうこうしてましたら、(中略)防空壕の中にゴーッという音とともに熱い風がごうごう入ってきましてね。

私は「もう火がつきましたから、ここを出ます」って言ったんです、その連絡した兵隊さんに。そしたらその兵隊さんが「頑張ってください、しっかりしてね」と言われて。それでこの防空壕を後にしたわけなんです。

「『つらい』とか『痛い』とか言わないんですよ」

ちょうど私たちの交代の番にあたっておりました学徒が大本営の前で、朝礼の後に竹槍訓練が長引いてたみたいなんですね。で、竹槍を持ったまま即死した同級生もおりますし、みんなもう虫の息でね。

そういう友達をみんな幼年学校に私たちがずっと、もう夜ここで仕事をして、交代でまた夜幼年学校に来て看病したんです。

ずっと7日、8日、9日と看病したんですけれども、「きっと痛いだろう、つらいだろう」と思うのに、もう一言もみんな「つらい」とか「痛い」とか言わないんですよ。

「一口だけよ、一口だけよ」

で、私たちがやかんにお水をくみましてね、あの当時のみんな軍医さんから「火傷に水をやるとすぐ死ぬるからやってはいけない」なんていう言葉をそのまま信じましてね。

「一口だけよ、一口だけよ、たくさん飲んじゃダメなのよ」って言いながら、やかんで口に直に持っていって「一口だけ、一口だけ」って言いながら、みんなを看病して歩いたんですけども、みんなお仕事のことしか言わないんですね。「交代の時間です、交代の時間です」って。

もう意識の中に交代の時間だということがあるもんですから、「交代の時間だから行かせてください」とかそういうお仕事のことしか言わなくて。私たちも看病しながら非常に辛かったんです。

「お父さん、お母さん、お世話になりました」

兄が二人おりまして、その兄がですね……。未だに胸が痛いのは、亡くなります時にね、本当に気力もないのに、昔の人はそういう教育をきちっと受けてたんですね。お布団の上に正座しましてね。「天皇陛下バンザーイ」と叫びましてね。

「お父さん、お母さん、お世話になりました」って言って亡くなりました。

あの当時19歳でね。まあそういう風な立派な死に方をするっていう人はね、あの当時だからこそじゃないかなと思います。

やっぱりもう心からお国のためにっていう気持ちをね、もう本っ当に詰め込まれてた、純粋に信じ込んでたというか、そういう風に思いましたね。