裸のラリーズを脱退し北朝鮮へ 「最近ハマってるのはBABYMETAL」

    ハイジャック、拉致、ミサイル…よど号メンバーの主張は

    今年で結成50周年を迎える伝説のバンド「裸のラリーズ」。前編に引き続き、元メンバーで「よど号事件」を起こして北朝鮮へ渡った、若林盛亮のインタビューをお届けする。

    【インタビュー前編はこちら

    BuzzFeed Newsは、平壌の「日本人村」に住む若林を電話で取材。やりとりは2時間を超え、ラリーズ脱退後の歩みからハイジャックへの悔恨、拉致やミサイル問題まで、話題は多岐に及んだ。

    学園祭で「紳士の決闘」

    ――ギター、ボーカルの水谷孝さんは神秘的なイメージがありますが、学生時代に間近で接してどんな方でしたか。

    あのころは、そんなに謎めいている感じはしなかったけども。まあ、彼は独特の雰囲気を持ってますよ。あんまり大きな声でしゃべる人ではなく、ぼそぼそっと話す感じ。議論をするというタイプでもないし、一見もの静かですよね。

    ――『山口冨士夫 天国のひまつぶし』(河出書房新社)に収録された若林さんのエッセイには、1968年秋の同志社の学園祭で、ラリーズがゴールデン・カップス(?)に「ゲバルト」を仕掛けた、という記述があります。5 、6月には脱退していたということですから、この時はすでに正式メンバーではないですよね。

    確か脱退した時に水谷孝君たちにベースを渡したはずです。学園祭の時は楽器を持っていなかったので、ハーモニカを誰かから借りて参加して。ブルース・ハープとかの高級品じゃなくて、普通のヤツです。

    サングラスをかけた水谷君の友人が、琵琶を持っていたのが印象的でしたね。あれは久保田麻琴君だったのかなあ。

    ――いきなり乱入されたら、相手方のバンドメンバーも怒るのでは。

    ゲバルトといっても物理的に乱入したわけではなく、恐らく学園祭の前座として正式にやってると思いますよ。水谷君は紳士ですから、あくまでも紳士の決闘。内容で勝負しようということです。

    正規盤の「'67-'69 STUDIO et LIVE」の1曲目に「Smokin' Cigarette Blues」という曲があるでしょう。あれはあの学園祭の時のものではないかっていう気がするんですけどね。もし録音していれば、ですが。

    当時、そんな名前の曲はなかったですよ。即興演奏で、何の練習も約束もなしに突然始めた音楽ですから。

    でも「Smokin' Cigarette Blues」を聴いていると、あのハーモニカのような音をどうも体が覚えているというか。ウワウワウワって吹いてるところ、どうもああいう吹き方をしたなっていう気がするんです。

    「ディランと水谷君はどこか似ている」

    ――元メンバーの久保田麻琴さんは「ディランは、日本で一番近いとしたら水谷かな」(2006年、『ロック画報』25号)と発言しています。

    久保田君の言う通り、ディランと水谷君はどこか似ている。

    私もディランは好きで、エレクトリック・ギターを持ってブーイングを浴びたころから気になっていました。水谷君とそういう話をしたことはないけど、言うまでもなく彼もディランには注目していたと思いますよ。

    ――水谷さんは学生時代、ジョン・コルトレーンやアルバート・アイラー、オーネット・コールマンなどのジャズをよく聴いていたそうです。そういう話題が出ることはありましたか。

    ジャズ喫茶の「しぁんくれーる」にたまってましたから、彼もそれなりに刺激を受けていたとは思いますよ。

    ただ、彼の音楽的関心は自分たちが何をやるかということ。当時はジミ・ヘンドリックスがエレキギターを駆使して革新的なロックをやってましたし、ジャズよりはロックからより刺激を受けたのでは。

    昼間の世界にしらけていた

    ――ラリーズの歌詞には「夜」という言葉がよく出てきますね。

    あのころ、昼間はしらけるって感じがありましたね。「しぁんくれーる」に集まるのもだいたい夜。高度成長、昭和元禄…イケイケドンドンな昼間の世界に、私たちはしらけていた。

    「しぁんくれーる」は2階にあって、ドアを開けるとジャズの洪水。「Enter the Mirror」 じゃないですが、なかに入ると別世界でしたね。昼間とは違う、夜の世界に創造があるというか。

    当時は私も昼よりは夜、春よりは秋が好きでした。とまあ、これは私なりの解釈ですよ。実際のところは水谷君に聞いてください。

    ――ラリーズはある時期、劇団現代劇場とコラボレーションしていたそうですが、これは若林さんの脱退後ですか?

    それは私が抜けた後ですね。1969年ぐらいからじゃないですか。

    あの当時はロックよりむしろ、演劇界の方に革新が台頭してた。京都でも寺山修司さんの天井桟敷や唐十郎さんの状況劇場の公演がありましたし。だから、ラリーズが現代劇場でやったというのは、何となく理解できますよ。

    演劇といえば、天井桟敷の「書を捨てよ町へ出よう」の出演者オーディションを、素人を募ってやっていたことがあって。そこに行った記憶はありますね。私一人だったか、水谷君たちも一緒だったかは記憶が定かではないのですが。

    「もう後戻りはしない」長髪を切った

    ――脱退後も交流は続いていたということですが、よど号事件の前にラリーズのメンバーと何かしら連絡はしたのでしょうか。

    学園祭でゲバルトをかけて以来、会っていないと思いますよ。多分あれが最後。もしかしたら、「しぁんくれーる」あたりで会ったかもしれないけど。

    私はハイジャックの前に長髪を切りました。それはやっぱり、彼らとの決別でもあるわけです。

    私は革命の方に行くし、彼らはバンドで自分たちの表現をする。それぞれの道を極めましょうと。だから、わざわざ別れの挨拶をする、とかいうことはなかったですね。

    ――髪を切る時はそれだけの覚悟をしたと。

    そうですね。ハイジャックの時に目立ってはいけない、という実際的な理由もあるわけですが。

    高校生以来の長髪、自分のアイデンティティーをバッサリやるわけですから、「もう後戻りはしない」と決意、覚悟はしました。事件が1970年の3月31日ですから、髪を切ったのは2 、3月ごろでしょうね。

    「人を犠牲にする大義はない」

    ――ハイジャック事件を起こしたことを反省しているのですか。

    乗客を人質に取るというやり方自体が間違っていた。人を犠牲にする大義はありません。

    (偶然よど号に乗り合わせた医師の)日野原重明さんは、乗客代表として記者会見をした時に、「恐ろしい目に遭ったでしょう」という質問に対して「学生だから理性的だった」という趣旨の発言をされた。

    私たちは「良き理解者」だと受け止めていました。しかし、ハイジャックから30年の節目に日本で開かれた集会の際、日野原さんは「精神的・肉体的トラウマになっている」という言葉を寄せた。

    私はガーンとなりましたよ。もちろん自分たち自身で「ハイジャックは間違っていた」という総括はしていましたが、どこかに「乗客は理解してくれていた」という甘さがあった。

    乗客を死ぬほどの目に遭わせてしまったことを、軽く考えていたんです。日野原さんの言葉のお陰で、改めて事件について捉え直すことができました。

    ――妻の黒田佐喜子氏を含め、よど号グループのうち3人が、ヨーロッパで日本人を拉致したとして結婚目的誘拐罪の容疑で国際手配されている。拉致被害者の家族は強く反発しています。

    私たちは日本人を拉致するなどということはやっていないし、そんなことをする意味もない。そこは明確に否定します。

    ただ、逮捕状が出ていて真相も解明されていない以上、ご家族が怒ったり、日本の世論が反発したりするのは当たり前だと思います。

    日本の同胞が拉致されて怒らない方がおかしい。私だって日本にいたら「よど号、けしからん」と考えるでしょう。ご家族や日本国民の側に立ってみれば、そう思うのは当然です。

    濡れ衣だ、冤罪だ、不当だと頭ごなしに文句を言っても仕方がない。そう考えて『「拉致疑惑」と帰国 ハイジャックから祖国へ』(2013年、河出書房新社)という本も出しました。

    11月をメドに、「ようこそ よど号日本人村へ」というサイトの開設も準備しています。

    「核とミサイルは朝米間の問題」

    ――ここ最近の日朝関係の緊迫化についてはどう考えていますか。

    確かに日朝が緊迫してますよね。しかし、実際は朝米間の緊張が極限状態まで来ているということであって、日本に何か問題があって緊張しているわけじゃない。核とミサイル問題は、朝鮮とアメリカの問題です。

    朝鮮とアメリカの間は(朝鮮戦争の)休戦状態であり、戦争状態はまだ終わっていません。

    朝鮮はずっと「戦争状態をもうやめよう、停戦協定を平和協定に変えよう」と要求を出しているが、アメリカが拒否して戦争状態を維持している。アメリカの核の脅威に対抗する抑止力として、朝鮮は核とミサイルをやっているわけです。

    ――しかし、現に日本の上空を北朝鮮のミサイルが飛んできているんですよ。

    日本の米軍基地が朝鮮を狙っているというところから来る問題であって、日本の自衛隊は朝鮮の敵じゃないわけですよ。

    戦争になれば日朝両方にとって不幸なことですから、できるだけ避けたい。そのためにも、日本政府はアメリカと一緒になって動くのではなく、独自の外交を進めてほしいです。

    特殊漫画家・根本敬の訪朝

    ――話をラリーズに戻します。北朝鮮に渡ってから、ラリーズのメンバーとやり取りしたことは。

    こちらに来てからは余裕もないし、連絡とってどうしようとかいうことはなかったですね。お互い違う世界ですから。

    ――では、どのようにしてその後のラリーズのことを知ったのでしょう。

    ラリーズが残っているなんて、まったく思ってもみませんでした。

    1990年代に(特殊漫画家の)根本敬さんとテリー伊藤さんが平壌に来たんですよ。根本さんが「幻の名盤解放同盟」をやっていて、ラリーズのファンだということで「'67-'69 STUDIO et LIVE」のカセットテープをもらって。

    その時、初めて「まだやってるんだ」と知りました。メジャーな雑誌とか新聞には出ないですからね。

    ――ラリーズ以外では、どんな音楽を聴いているのですか。

    80年代後半ぐらいから、日本の尾崎豊世代の人たちとのやりとりが増えて、渡辺美里、中村あゆみ、浜田省吾、佐野元春といったミュージシャンを知るようになり、日本の音楽シーンに接近しました。

    BABYMETALにハマって妻から小言

    最近だと、特によく聴いているのがBABYMETALですね。

    ――ベ、ベビメタですか。

    日本の方が送ってくれて。最初、ヘビーメタルだと思ったのですが、よく見ると「BABY」と書いてある。気になって見始めて以来、「おっ、なかなかいいな」という感じで結構ハマってますよ。

    ――動画で見ているのですか。

    動画ですよ。動画で見なきゃダメでしょう。

    「イジメ、ダメ、ゼッタイ」とか、テーマ的に下手をすると説教くさくなってしまいそうじゃないですか。でも、そうならずに会場を楽しませるライブをしている。彼女たちを支えるバンドの技量も相当なものです。

    ――若い女の子のグループにハマって、奥さんに怒られたりしないのですか。

    奥さんはもう枯れてるからいいんじゃないですか。「いい年して何で女の子に」とか「いい加減にしなさいよ」とか言われながらも、メゲずに応援してますよ。

    ――英国出身の元欧州議員、グリン・フォード氏との交流のなかでもラリーズの話題が出たそうですね。

    彼とはだいたい毎年会っていて、よくサッカーの話で盛り上がります。確か2000年代に入ってから、「よど号に楽器をやる人がいるだろう」と聞かれ、もしかしてラリーズのことかと尋ねると、「おお、それだ」と。

    彼の友人で反ネオナチの運動をやっている人がファンだというんで、サインとメッセージを書きました。サインといっても日本語とローマ字で名前を書いただけですが。

    「飛べない鳥は水谷が必要」

    ――これだけ長い間、国内外でラリーズが支持される理由はどこにあるのでしょう。

    英国製の海賊版とされる「Yodo-go-a-go-go」というCDには、「溺れる飛べない鳥は水羽が必要」という日本語の副題があるのですが、ローマ字で「Oboreru Tobenai Tori wa MIZUTANI ga Hitsuyo」と書き添えられています。

    「水羽」が「MIZUTANI」に変わっているわけです。つまり、いまでも水谷君を必要とする、「溺れる飛べない鳥」がたくさんいるということでしょう。

    誰がつくったものか知りませんが、私は勝手に、これは水谷君からのメッセージだと解釈しているんです。

    誰のものでもない、自分のものをつくるんだという志。そういうブレない姿勢と潔さが、支持されているのではないでしょうか。

    (わかばやし・もりあき) 1947年生まれ。滋賀県立膳所高校を卒業後、京都の同志社大学に進学。1967年、水谷孝・中村武志と裸のラリーズを結成。翌年に脱退。1969年、東大安田講堂事件で逮捕。1970年、赤軍派メンバー9人で「よど号」をハイジャックし、北朝鮮へ(国外移送目的略取などの容疑で国際手配)。政治亡命者として平壌の「日本人村」で暮らす。


    インタビュー前編では、裸のラリーズ結成の経緯や命名の由来、初ライブのエピソードなどについて聞いています。

    裸のラリーズ結成50周年 ハイジャックで北朝鮮へ渡った元メンバーが語る

    BuzzFeed JapanNews