「ゲイを治す悪魔祓い」やセラピーを受けてきた元牧師が、自らの遍歴を語る

    アンソニー・ヴェン=ブラウンが初めて悪魔祓い(エクソシズム)で苦しめられたのは、20歳のときだった。それは、以降数何十年も続くコンバージョン・セラピー(矯正治療)のはじまりだった。ゲイの「治療」という圧力との戦いについて、ヴェン=ブラウンはBuzzFeed Newsに語ってくれた。

    ホールの木製の床はつやつやと輝き、アンソニー・ヴェン=ブラウンを取り囲む人々の足音を大きく響かせた。広々としたスペースの中央に置かれた椅子に座る彼に向かって、足音が近づいてくる。そして、牧師とその助手は、ヴェン=ブラウンの頭と肩に手を置いた。

    うまくいきますように、とヴェン=ブラウンは必死に願った。「あまりにも長いこと苦しんでいましたから」

    牧師は、ヴェン=ブラウンの前に新聞を広げた。読ませようとしたわけではない。ヴェン=ブラウンがあとで吐き出すであろう胆汁を受け止めるためだ。牧師は、同性愛という悪魔を追い出すためのお祓いが始まれば、じきに20歳の若者である彼が過呼吸になることがわかっていた。

    しかし、その価値はある。悪魔はすぐに敗れ去るだろう。

    椅子に座るヴェン=ブラウンは、希望に満ちた救済が訪れるのを待った。そして「ありがたい」と思った。「ようやく苦しみと別れることができる」

    男性を求める想いはあまりにも激しく、自分は取りつかれているのだとヴェン=ブラウンは考えていた。ゲイであることは、彼にとっても周囲の人すべてにとっても、罪であり、病気であり、忌み嫌うものだった。

    ヴェン=ブラウンはそのときまだ、悪魔祓いは、苦しみにピリオドを打つ方法と治療を模索する数十年にわたる道のりの第一歩にすぎないことを知らなかった。悪魔祓いが終わったら、異性愛者への矯正を目的とした施設に6カ月間入ることになっていた。その施設はまさに、同性愛者を治療するコンバージョン・セラピーという運動が始まった場だった。

    当時、ヴェン=ブラウンを矯正しようとしていた人たちが、誰ひとりとして予想できなかったことがある。彼らは、ヴェン=ブラウンを異性愛者に変えるどころか、彼らにとっての悪夢のような人間をつくり出そうとしていたのだ。

    ゲイであることを公言し、世界に先駆けて彼らのやり方を暴露した人間。彼らの方法や嘘をすべて見抜き、LGBTの人々を「治療」しようとする試みがなくなるまでその手を休めないであろう、元福音派牧師――それがのちのヴェン=ブラウンだ。彼はまた、悪魔祓いで心に傷を負った人々を支援し、福音派との対話を始めるための、草分け的組織を2つ創設している。

    しかし、それは復讐のためではない。

    初めての悪魔祓いから約50年が過ぎたいま、ヴェン=ブラウンは、悪魔祓いが行われたニュージーランドから遠く離れた地で、椅子に座り、ゲイに対する「治療」で受けた傷を癒す活動に人生を賭けてきた理由を、BuzzFeed Newsに語っている。

    コンバージョン・セラピーのはじまりから現在にまでおよぶ、内部告発者としての彼の物語は、悪魔祓いという闇の魔術についての洞察だけでなく、その体験を完全に乗り越えるためのカギを教えてくれる。

    ロンドンでヴェン=ブラウンに会ったのは、イギリス政府がコンバージョン・セラピーをいずれ禁止すると発表を行う数日前だった。それはヴェン=ブラウンにとって、単なる法律以上の意味を持つ出来事だ。

    ヴェン=ブラウンは、本を書き、講演を行い、活動家を鼓舞し、世界各地の宗教界とかかわりを持つことで、新しいメッセージ「愛は治療を必要としない」ことを説いている。

    病気と愛は別のものなのだ。

    ヴェン=ブラウンと会うと、まずは驚く。コンバージョン・セラピーや悪魔祓い、セクシュアリティやジェンダー・アイデンティティなどの「矯正治療」で苦しんだ体験を持つ人の多くは、明らかに傷ついた様子をしている。ガードが堅く、よそよそしく、羞恥心でがんじがらめになっているように見えるのだ。まるで、「恥」という物体を背負っているかのように。

    けれども、67歳のヴェン=ブラウンは、私たちに会うと大声で挨拶をし、すぐにハグをし、まるでお酒の席でもあるような気楽な感じでおしゃべりを始めた。私たちは初対面だった。彼は、ふわふわとした心地よいオーストラリアなまりで話す。カメラマンと冗談を交わし、撮影中はポップミュージックを流しておくよう言い張り、しょっちゅう笑った。その目はいたずらっぽく輝いている。

    沈黙が下りたのはずいぶん時間が経ってからで、記憶がひとつひとつ、よみがえり始めてからだ。

    ヴェン=ブラウンは1951年、3人きょうだいの末っ子として生まれ、中流家庭が暮らすシドニー郊外のニュートラル・ベイで育った。父親は、自動車部品を売る会社で働いていて、家族は地元の英国国教会に通っていた。

    当時のオーストラリアでは、同性愛は違法で、ヴェン=ブラウンが生まれる直前までは死刑になる罪だった。ニュー・サウス・ウェールズ州で同性愛がようやく処罰の対象から外されたのは、ヴェン=ブラウンが33歳だった1984年になってからだ。しかし、同性愛はその後も長いあいだ、嫌悪され、タブー視され、頻繁に暴力の対象となった。

    彼は思春期のあいだずっと、男性に対する自身の感情に、恐れを抱いていた。「後ろめたい秘密をもって生きているようなものです」とヴェン=ブラウンは言う。「心のなかで『神様、どうしてこの感情を私から消し去ってくれないのですか? こんな気持ちは持ちたくありません。あなたなら私を解放してくれる力を持っているではありませんか』と考えていました」

    けれども、彼は解放されなかった。「それで、『もしかしたら自分は本当に悪魔なのではないか』という思考プロセスに陥るようになりました。自分には信仰心が足りないのかもしれない。問題は神にあるのではなく、自分にあるのだ、と」

    10代のころにセクシュアリティが表面化すると、ヴェン=ブラウンはますます嘲笑を浴びるようになり、英国国教会から距離を置き始めた。「自室でよく手首を切っていました」とヴェン=ブラウンは振り返る。「ひげそり用のかみそりで」。彼は手首の内側を示して言った。「本当に絶望していたのです」

    彼の知る限り、学校にゲイの男性は、ほかに1人いるだけだった。シリルという名前のその少年は、ほかの男子学生たちには明らかに異質に映ったため、敵意が向かう格好のターゲットとなった。シリルは自殺した。

    その一方で、ヴェン=ブラウンが苦悩を抱えていることは誰の目にも明らかだった。隣に住む女性がおせっかいを焼いて、悩みを打ち明けるようしつこく言ってきていた。「彼女がこっそり誰かを紹介してくれるのではないかと思いましたが、『親に言うべきだ』と言われました。私は『できない』と答えました」

    結局、その女性はヴェン=ブラウンの母親に話したが、母親は、父には内緒にしてくれた。

    いまとなっては、母親に何と言われたのか覚えていないという。「強烈な恥ずかしさを覚えたことだけは記憶しています」。心のどこかで、いずれ悪いことが起きるという予感があった。

    ヴェン=ブラウンには、急激に強まりつつあるセクシュアリティのはけ口がひとつだけあった。オーストラリアにある、ゲイが集う「beat(ビート)」と呼ばれる場所に行き、ほかのゲイの男性と会って束の間の解放感を味わうことだった。ビートはその後何十年にもわたり、彼が自身のアイデンティティを表現する場であり続けた。

    出会いは毎回、ほんの30秒から60秒程度で終わったという。「名前を教え合うこともなければ、優しさや愛情を示すこともありませんでした。どうしても行ってしまい、悪魔に誘惑されているかのように、罪を犯すという感じでした。楽しいとは思いませんでした。終わると、できるだけ早くそこから逃げ出さなくては、という感じだったのです」。その後は後悔にかられ、許しを求めて祈りを捧げた。

    2度、好きでもない年上の男性にレイプされた。ヴェン=ブラウンは当時、そうしたつらい体験をすれば男性に対する感情が消え去るのではないかと思った。しかし、そんなことはなかった。

    それどころか、ビートに行くことでつかのまの安らぎを得ると同時に、絶えまない自己嫌悪に悩まされることが続いた。

    「警察に捕まって少年院に入れられるのではないか、そんなふうにして犯罪者になって家族に恥をかかせるのではないか、という恐怖心をいつも抱いていました」とヴェン=ブラウンは言う。「私が若いころは、ゲイの男性にとっては恐ろしい時代でした。社会的な影響が重大で、常に恐怖を抱えて生きていたのです。変わりたいと必死になるのは当然です」

    ヴェン=ブラウンは、母親に言われて精神科医を訪ねた。当時はまだ、同性愛は精神疾患だと考えられていたのだ。そのため、精神科医は同性愛者の「患者」に、電気ショック療法を施したり、ホルモン剤や吐き気を催す薬を与えたりしていた。コンバージョン・セラピーに先行する「アバージョン・セラピー(嫌悪療法)」と呼ばれるやり方だ。

    このときに関しては少なくとも、彼は診察を数度受けたあと、さほど痛手を負わずに逃げ出すことができた。それは単に、その精神科医が、ヴェン=ブラウンが同性愛者だということを深刻にとらえなかったためだ。医師はそれをひとつの「段階」だとみなし、気持ちを高揚させる薬をヴェン=ブラウンに処方しただけだった。

    ヴェン=ブラウンにとって、最後の頼みの綱は神だった。彼は18歳のとき、英国国教会を離れ、「生まれ変わった」。1960年代のキリスト教におけるカリスマ運動から枝分かれしたバプティスト派と福音派の運動に参加したのだ。オーストラリアではその数年前から盛り上がりを見せていた運動で、ヴェン=ブラウンは熱心な信者になった。

    彼らは、悪魔憑きや異言、癒しの力を信じる宗派だったが、ヴェン=ブラウンはそのすべてを受け入れ、20歳にして伝道こそが使命だと悟った。そして、ニュージーランドのウェイタオにある神学校「フェイス・バイブル・カレッジ」(Faith Bible College)へと向かった。

    そこでは、ひたすら祈り、学び、賛美する数カ月を送った。そして、男性に魅力を感じていることを学長に打ち明けた。すると学長はこう言った。悪魔祓いをするしか方法はない、と。

    それから数週間、週末になると、カレッジ職員がヴェン=ブラウンをクイーン・ストリート・アセンブリー・オブ・ゴッド(Queen Street Assembly of God)と呼ばれる巨大なペンテコステ派の教会に連れて行った。その教会の牧師長であるネビル・ジョンソンは、神のビジョンを見る力と悪魔を呼び出す力があるとして知られていた。

    ヴェン=ブラウンは、その教会で起こったことを詳しく語り始めた。「ジョンソン牧師とその助手は、私を教会の2階に連れていきました」。そこはホールで、中央に椅子が置かれていた。

    同性愛に戦いを挑む前に、懺悔が必要だった。「これまでに犯した罪をひとつ残らず、告白しなくてはなりませんでした」とヴェン=ブラウンは振り返る。「浄化のためです。近所の雑貨屋からチョコレートバーを盗んだことまで、思いつく限りすべてを告白して、罪を清めるのです」

    先祖がフリーメイソンの会員だったことも告白せざるを得なかった。その教会では、フリーメイソンはオカルト教団だと考えられていたのだ。さらには、マスターベーションしたことも懺悔した。

    それから、牧師と助手は祈り始めた。ヴェン=ブラウンのなかにいる悪魔を呼び出すためだ。

    「君は祈るな、と言われました。私たちが祈るから、君は悪魔を追い出すことに専念しろ、と」。ヴェン=ブラウンは懺悔を続け、男性に魅力を感じていることを認めると、ジョンソンと助手は異言を話し始めた。悪魔に対して出てくるよう求め、声を張り上げ、ヴェン=ブラウンに息を吐くよう大声で言った。息をどんどん吐き出せば、同性愛の悪魔を破壊しやすくなるのだという。

    「実際は、過呼吸になります」とヴェン=ブラウンは語る。「私は両手をぐっと握りました。顔のあちこちに刺激を感じるようになったので、『ああ、悪魔が姿を現わそうとしている』と思いました。それから、もっと激しく息をして、悪魔を追い出そうとしました」。過呼吸がひどくなると、体中に痺れを感じた。息を無理に吐き出そうとすると咳が出た。ヴェン=ブラウンは酸素が不足して苦しみ、椅子から転げ落ちた。

    胆汁が込み上げてくると、顔の前に新聞紙が置かれたので、ヴェン=ブラウンはそこに吐き出そうとした。

    しかし、吐き気はあっても何も出て来なかったという。ジョンソンと助手はまだ、悪魔に出てくるよう呼びかけ、声をますます張り上げた。「『忌まわしい悪魔よ、出でよ! キリストの名において出でよ。さあ、同性愛の悪魔よ!』と叫んでいました」。

    そして彼らは、ヴェン=ブラウンから飛び出してきた「悪魔」を数え始めた。悪魔がひとつ残らずいなくなったと言われるまで、彼は床で咳込み、過呼吸であえいでいた。

    悪魔祓いには2時間かかったが、それでは不十分だった。そして、翌週も、さらにはその次の週もやるから来るようにと言われた。

    「自分のなかに悪魔的な力が宿っていると考えることは精神的によくありません」とヴェン=ブラウンは言う。しかし、その意味をヴェン=ブラウンが詳しく説明したのはあとになってからだった。

    ヴェン=ブラウンは当初、悪魔祓いは成功したと考えた。男性に対して何も感じなくなったからだ。とはいえ、女性に対して魅力をまったく感じないことも自覚していた。いま振り返ると、本来の欲求が弱まったからといって、同性愛の気持ちが弱くなったわけではなかったことがわかる。単に、心の傷が深くなっただけだった。

    その翌年、ヴェン=ブラウンはシドニーに戻った。悪魔祓いが失敗したことは明らかだった。「抑え込もうとすればするほど、悪魔の醜い顔が現れるのです」

    彼は、牧師の指示に従って、異性愛者になるための矯正施設に入った。集中的に治療を受ければきっとうまくいく違いない、と自分を納得させたのだ。

    それは1972年、いわゆるコンバージョン・セラピー(別名「修復療法」)が台頭し始めたころのことだった。キリスト教の世界では何世紀も前から「ヒーリング」や悪魔祓いが存在し、数十年前には、前述したアバージョン・セラピーも登場したが、コンバージョン・セラピーはこれらすべてを融合した上で、伝統的な心理療法から借りたテクニックを混ぜ合わせていた。それは、国際的な改革運動となった「脱ゲイ運動(Ex-gay movement)」というイデオロギーであり、実践だった。

    米国では「エクソダス・インターナショナル(Exodus International)」などの組織が林立したが、オーストラリアでは、大規模な組織は少なく、小さな教会がコンバージョン・セラピーに取り組んだ。ヴェン=ブラウンが所属する福音派のコミュニティーは、その先頭に立っていた。

    矯正施設「ムーンバラ・ハウス」(Moombara House)は、シドニーのすぐ南、ポート・ハッキングの隅に立つ大きな砂岩の建物で、「バンディーナ・クリスチャン・フェローシップ」(Bundeena Christian Fellowship)が運営していた。

    ムーンバラ・ハウスは、世界初の居住型「脱ゲイ」センターと考えられており、後に米国でコピーされ、同様の施設がいくつもつくられた。

    ただし、ムーンバラ・ハウスはゲイ専用ではなく、依存症患者や性労働者の救済施設も兼ねていた。こうした受け入れ方針は1990〜2000年代、英国の福音教会でも採用された。壊れているとみなされた人々をまとめて癒やすという方針だ。

    ヴェン=ブラウンによれば、この矯正施設の運営者はシャーリーという女性だった。シャーリーはヴェン=ブラウンに対して、悪魔祓いでは不十分で、考え方を丸ごと変えなければならないと伝えた。施設に到着したヴェン=ブラウンに向かって、「彼女は、私を変えるには2年かかると言いました。私は落胆しました。すでに何年も努力し続けてきたためです」

    収容者とスタッフ、カウンセラー、ワーカー、牧師を合わせて、20人がそこで暮らしていた。ムーンバラ・ハウスは通常の教会としても機能しており、100人以上が通っていた。

    ヴェン=ブラウンにはパトリックという世話係が付き、5人部屋に案内された。パトリックは、ヴェン=ブラウンの荷物を調べた。女っぽい服、セクシーな服、ゲイらしい服を没収するためだ。ヴェン=ブラウンは、ぴっちりした短いブリーフの着用を禁止され、大きめの旧式ブリーフのみ許可された。

    ヴェン=ブラウンによれば、ゲイの収容者はほかにもいたが、「互いに話すことは許されていませんでした」

    ムーンバラ・ハウスのアプローチを大まかに言うと、コンバージョン・セラピーに基づき、さまざまな考え方を融合したものだった。

    同性愛の原因は子供のころに負った傷であり、多くの場合、母親は高圧的で、父親は無関心だ。虐待やいじめ、ネグレクトが背景にあることもある。そのため、セラピストの仕事は、同性愛の原因となった「傷」を特定し、癒やすことだとヴェン=ブラウンは説明された。

    多くの場合、この過程で、男性に男らしさ、女性に女らしさを強いるため、さまざまな方法が提案された。ヴェン=ブラウンの場合、ガーデニングや雑用など、屋外での作業を日課にすることだった。「台所で料理することは許されませんでした」

    外部の友人と連絡を取ることもできなかった。家族に電話すると、スタッフがそばで聞き耳を立てていた。マスターベーションしたいという衝動に駆られないよう、毎朝6時にベッドから出なければならなかった。日中は常に監視されていた。「世話係が付けられ、シャワー中も、マスターベーションしないよう監視されていました」

    コンバージョン・セラピーを受ける人はしばしば、祈ること、あるいは、子供のころに負った傷を分析することで、同性愛の幻想に打ち勝つよう教えられた。例えば、「私があの男性に引かれたのは、愛情を示してくれなかった父親を思い出すからなのだろうか?」といった分析だ。ヴェン=ブラウンも考えようとしたが、2つの方法で水を差された。ヴェン=ブラウンは、起きている時間の大部分、聖書のテープを聴くことを義務づけられていた。

    「誰かが聖書を読む声が録音されていました。私たちは聖書を開き、神の言葉を聞くことで、“心を入れ替える”ことの意味を学んでいました」

    ヴェン=ブラウンはキリスト教のカウンセラーと話し、男性に引かれないためにはどうすればよいかと相談する機会も与えられた。

    多くの場合、カウンセラーは福音派の概念に言及した。「コリント人への手紙」で述べられている通り、イエスの信者は「新しく造られた者」だ。「古い物事は消え去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。つまり、このように再生を信じれば、変化は可能ということだ。

    ヴェン=ブラウンは、ゲイの感情を懺悔した後で、コリント人への手紙の一節を呪文のようにつぶやいた。40年以上がたった現在も、ヴェン=ブラウンは、まるで本能的な行動のように、この一節を小声で素早く繰り返す。

    ヴェン=ブラウンによれば、この一節を口にすることは、それが「現実になる」ことを意味する。「あらゆる思考の誘惑に打ち勝ち、心をほかの何かに向けて、神聖で純粋な思考」を持つ手段になるという。

    しかし、このときすでに、それ以上の何かを抑え込む必要はほぼなくなっていた。ヴェン=ブラウンの体験はあまりに衝撃的で、性的欲望が顔を出すことすらほとんどなくなっていたのだ。ヴェン=ブラウンは心を乗っ取られていた。

    「まるで機能停止状態でした。変わろうと努力したことのストレスと悪魔祓いが原因です。常にそのような状態でした」とヴェン=ブラウンは振り返る。「あそこ(ムーンバラ・ハウス)に行ったとき、私は精神崩壊に近い状態でした」。そのため、ヴェン=ブラウンは抵抗すらできず、すべてに無条件で従っていた。

    「私はただ、言われるままに行動していました。私の人生はすべて計画されたものでした。起床時間、就寝時間、食事すべてです。私は人生の主導権を他人に渡すしかありませんでした。制御不能な状態だったためです」

    悪魔祓いを体験したときと同様、ヴェン=ブラウンは、一度も施設の待遇に異議を唱えなかった。「彼らは善意で行っていると思っていました」

    ただしヴェン=ブラウンは、ムーンバラ・ハウスの人々の残酷さに気づいていた。ヴェン=ブラウンはあるとき、ほかの収容者と日帰り旅行に出かけることを許可された。「私たちはクイーン・ストリートという街に行きました。私はポストにもたれかかり、売春婦のまねをして、誰かに写真を撮ってもらいました」。その後、シャーリーがその写真を見つけたが、ヴェン=ブラウンはそれに気がついていなかった。

    ムーンバラ・ハウスに入居して数カ月後の日曜日、ヴェン=ブラウンは品行方正を認められ、初めて外部の友人たちを招くことになった。

    「そこに、彼女が写真を持って現れました。そして、皆の前で声高に、“あなたたちは同性愛者になりたいですか? もしそのような人がいたら、私たちが矯正してあげます”と言いました。彼女は私に恥をかかせたのです。私はその場で泣き崩れました。私は台所に逃げ込み、“帰った方がいい”と友人たちに伝えました」

    この出来事が引き金となり、ヴェン=ブラウンは入居から6カ月弱で、ついに退所を決意した。「まるで虐待でした」とヴェン=ブラウンは話す。「だから、私は出て行きました。“もう我慢できない”と思いました」

    しかし、退所した後も、ほんとうの意味で自由になるまでには数十年がかかった。変わろうと必死に努力し、できることは何でもした。女性と結婚し、2人の娘が生まれた。「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」の教会でフルタイムの牧師になったあとは、世界中を周り、解放されたいという一心で、多くの人にイエスのメッセージを伝えた。1980年代を通じて、同性愛から解放してほしいと祈り続けた。しかし、祈りは届かなかった。

    1991年、結婚生活を送っていたヴェン=ブラウンは、公園で出会ったジェイソンという男性と恋に落ちた。そしてそれをきっかけに、すべてが壊れていった。妻は、ヴェン=ブラウンがジェイソンに宛てて書いたラブレターを見つけ、詰め寄った。

    そのあとすぐ、ヴェン=ブラウンはカミングアウトした。自分が不誠実だったことを信者たちに打ち明け、牧師を辞めた。妻とは別れ、子どもたちを置いて家を出た。

    「『こんなことをする自分は、おそらく地獄に落ちるだろう』と思いました」。祈りの力を信じることも止めた。近くにある崖の上まで行き、そこに立って下を見下ろし、飛び降りようかどうしようかと悩んだ。

    だが、飛び降りる代わりに、自分の存在と向き合う決心をした。ジェイソンと暮らすために、シドニーに移り住んだ。関係は長くは続かなかった。

    一方で、20年間コンバージョンを試みたことによる腐食作用は続いていた。彼は今でも、「治療」が残したものは何かと尋ねられると、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」と答える。

    自分が経験している状態がPTSDだと認識するまでに、何年もかかった。「働きながら、感情的にメルトダウンするか、燃え尽きるところまで、自分を追い込んでしまっていたのです」。今でも、悪夢を見たり、フラッシュバックが起きたりする。施設にいたときから30年が経っても、ゲイの男性がリハビリ施設に入る映画を見て、自分の経験とあまりにも似ているシーンに、泣きながら映画館を飛び出した。

    自己嫌悪に陥り、何年もの間、それが自虐的な行動になって表れた。「とても荒れた生活をしていました。薬をやったり、危険なセックスをしたり。どうにでもなれ、という気持ちでした」

    しかし、1990年代後半に転機が訪れた。シドニーで行われたHIVのチャリティーイベントでボランティアをしたときのことだ。道端でチラシを配っていると、1人の男性が、エイズで亡くなった自分の友人たちの話をしてきた。「私が『ゲイでいるって、最悪だよね』と言うと、『いや、ぼくはゲイでいるのが好きだよ』と彼は答えたのです。『100万年経っても、これを変えるつもりはないよ』と」

    ついに、ヴェン=ブラウンは目標を得た。自分もこの男性のようになるのだ。「彼の境地に達するのは、素晴らしいことに違いないと思いました」。自分の人生でバラバラになってしまったもの、つまり「信仰」と「セクシュアリティ」のかけらをつなぎ合わせる決心をした。自分自身と、自分と同じように傷ついた人たちの両方を癒そうとする試みが、20年以上を経て、ライターであり、教育者であり、先頭に立ってゲイ治療反対のメッセージを送る活動家である、今のヴェン=ブラウンをつくったのだ。

    まずはYahoo!サイトで、ゲイの福音派たちのグループを立ち上げることから始まった。「ペンテコステ派の聖職者だったが、ゲイだったので牧師の任務を放棄した人物なんて、世界に自分だけだと思っていました」。しかし、世界中から何百人もの人々が仲間になった。その多くは、異なる「治療」を経験していた。彼らは初めて、自分の経験を打ち明ける場を持ったのだ。

    その道のりは簡単ではなかった、とヴェン=ブラウンは説明する。これほどたくさんの人々が、似たような形で傷を負っていると、互いのトラウマを刺激し、ぶつかり合ってしまうこともある。自分のことを決して語らない人もいる。こういう場でさえ、語ることができないのだ。

    ヴェン=ブラウンは2004年に本を出版した。『A Life of Unlearning』(邦訳なし)は、彼が経験した苦悩のすべてを著した自伝だ。本はベストセラーになり、世界中の「コンバージョン・セラピー」の犠牲者たちからメールが押し寄せた。

    「本がすべてを変えました」と彼は言う。「こうした人々が、自分の胸の中にあるものを吐き出したのです。私はパソコンの前に座って、よく泣いていました」

    これを機に、ヴェン=ブラウンは「Freedom2b」を立ち上げた。キリスト教や、カリスマ派の背景を持つLGBTの人々のための組織だ。彼らは、オーストラリア各地で毎月ミーティングやワークショップを行い、人々が信仰とセクシュアリティの折り合いをつける手助けをしている。メンバーは、自分の経験を公に語っている。

    2007年、シドニーで行われたLGBTの祭典「LGBTマルディ・グラ」で、彼らは初めてパレードをした。ヴェン=ブラウンは、「あのときのことは、決して忘れません」と言う。「パレードがまさに始まろうというとき、私は同じグループの人たちを見回しました。私はそれぞれが経験してきたことを知っていました。自殺しようとした人たちもいました。彼らがどんな人生を歩んできたかを知っていました。失ってしまった人たちのことも思い出しました。私は泣き始めました。周りを見ると、グループのみんなも泣いていました」

    彼らは毎年パレードに参加する。「パレードの前に、私はみんなにこう言っていました。『パレードが終わるころの君は、パレードが始まったときとはまったく違う人になっているよ。あの通りに出て、何万人もの人々が君を応援してくれると、自己嫌悪や羞恥心なんてきれいになくなってしまうんだ。悪魔祓いみたいなものだよ』」

    結局自分は、他の人たちが、かつての自分よりひどい状況に陥らないようにしているのだ、とヴェン=ブラウンは言う。「誰かが崖から飛び降りないようにしている」のだ、と。彼らは、自殺防止のための団体も運営している。

    Freedom2b設立から6年経ったとき、ヴェン=ブラウンは、教会のリーダーたちと直接話をし、教会とLGBTの人々の対話を始めたいと思った。そこで、Freedom2bのリーダーを譲り、「アンバサダーズ・アンド・ブリッジ・ビルダーズ・インターナショナル(Ambassadors and Bridge Builders International:ABBI)」という別の組織を立ち上げた。

    「無知や間違った情報を、克服しようとしているのです」と彼は語る。ABBIは、セミナーを開いたり、コンバージョン・セラピーについての研究を発表したり、それを取り巻く社会政策についてアドバイスしたりしている。

    ヴェン=ブラウンはまた、牧師ひとりひとりに連絡を取り、彼らと会い、話をしている。「ゲイを憎んでいる牧師もいます。でも、憎しみが反感に変わり、反感が不快に、不快が許容に、許容が容認に、容認が肯定になり、そして最後には擁護になることもあるのです」

    ヴェン=ブラウンは、少なくとも1歩か2歩、牧師たちを動かそうとしている。その中の1人で、LGBTコミュニティがあるシドニーのダーリングハーストでバプテスト派の牧師をしているマイク・ハーコックは、マルディ・グラでFreedom2bがパレードしているのを見て、あることを思いついたという。「彼はこう言ったんです。『いいことを思いついたよ。来年は、100人の牧師をつかまえて、ゲイ・コミュニティへの謝罪文に署名させる。そして、マルディ・グラで彼らもパレードするんだ』」

    そしてそれは、現実となった。100人の牧師が謝罪文に署名したのだ。「パレードしたのは全員ではありません。35人くらいです」とヴェン=ブラウンは言うが、彼にとってはそれで十分だった。その手の謝罪としては、初めてのものだった。

    自分が入っていた施設の集まりにも行った。シャーリーはまだいた。「『彼女と向き合わなければ』と思ったのです。だから、彼女のところに行き、『やあ、シャーリー。お元気ですか? ぼくは最近、とても楽しくやっていますよ。ゲイだということが、心から幸せでね』と話をしました。彼女は『あなたがやっていることについては聞いています。私がそれをどう思っているかは、わかるでしょう』と答えました。私はベランダへ出ました。彼女が私を辱めた、あの場所です。そして、つぶやきました。『あなたはぼくに対して、もう二度とあれほどの影響力を持たないだろう』」

    そのころから、コンバージョン・セラピー運動は分裂し始め、一部では支持をなくした。しかし一部では勢いを得ている。ゲイを治療する組織として最大の「エクソダス・インターナショナル」は2013年、治療は意味がないことをリーダーのアラン・チェンバースが認め、苦痛を与えたことを謝罪し、組織を解散した。アメリカのいくつかの州と、ほかに数カ国が、ゲイに対する治療を違法とした。

    しかしブラジルでは2017年、それまで20年間禁止してきたコンバージョン・セラピーを認める判決が出された。そしてアメリカでは、ミシェル・バックマンからマイク・ペンスまで著名な政治家たちが、コンバージョン・セラピーを支持したために非難を受けている。世界的には、キリスト教や他の宗教団体が、今も悪魔祓いや治療を行っている。

    イギリスでは、リバタリアン(自由至上主義者)やキリスト教右派が、コンバージョン・セラピーを支持し続けている。先日は、新聞のコラムニストとして著名なチャールズ・ムーアが、コンバージョン・セラピーを受けたいなら、それは許されるべきだと主張した。そのコラムでは、傷つきやすい若者にどのような力が働くと、自分にはコンバージョン・セラピーが必要だと信じるようになるのかは、分析していなかった。若いころのヴェン=ブラウンには、誰一人として強制したものはいなかったのだ。

    ヴェン=ブラウンがBuzzFeed UKのオフィスにやってきたのは、彼がアメリカとヨーロッパを回って、新しい本のための証言を集めているときだった。この運動のことをもっと明らかにし、原因を探り、その思想を糾弾する本だ。「私は、すべてを教会の足下に晒すつもりです」と彼は語る。そこには、コンバージョン・セラピーのブラックな部分、すなわち「欺瞞、否定、そして意図的な無知」があるのだ。

    ヴェン=ブラウンは、コンバージョン・セラピーがやっていることを説明するため、セラピーを経験した人から受け取ったFacebookメッセージを紹介してくれた。「彼は、自分が知っている20人の『脱ゲイ』の中で、生きているのは6人だけだ、と言いました。1人は自然な理由で亡くなりましたが、他はすべて自殺でした」

    ヴェン=ブラウンは、コンバージョン・セラピーの禁止を支持しているが、宗教指導者に対してそれをどれくらい強要することができるかについては疑問に思っている。「キリスト教徒が、人間の姿をした悪魔を信じているとします。でも、だからと言って、私たちが『人間の姿をした悪魔を信じてはいけない』と法律で強制できることにはなりません」。「ゲイのコンバージョン・セラピー」について語るときには、それが何を意味するかを明確にすることが重要だ、と彼は説明する。

    問題は、明確な境界線がないことだ。一部のセラピストによって形式に則って行われているコンバージョン・セラピーは存在する。しかし、その効力を示す証拠はないし、メンタルヘルスを守ろうとするほとんどの団体が、それを非難している。そして、もっと多くの非公式な「治療」が、宗教団体によって行われている。

    テリーザ・メイ英首相が「ジーザス・ハウス(Jesus House)」という教会を訪れ、「活気があり」「成長している」と称賛したのは、つい2017年のことだ。この教会は、ゲイの人々に悪魔払いを行っていたことで批判されたことがあった。

    ヴェン=ブラウンが帰る前に、筆者は、「神学校に進む決心をする直前の20歳の自分に声をかけられるとしたら、何と声をかけますか」と尋ねた。彼は動きを止め、そのころの自分を思い出すかのように、遠くを見た。「私はこう言うでしょうね。『うまくいくよ。大丈夫だよ』と」

    いまの彼は、うまくいっているのだろうか。

    「ええ」と彼は答えた。「うまくいっていますよ。私を愛してくれる娘が2人、かわいい孫たちもいて、素晴らしい友人たちに囲まれています」

    「パートナーは?」と尋ねると、彼は笑った。「慢性的な独り身ですよ。もう20年以上そうです」

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:遠藤康子、米井香織、浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan