エイズと最前線で闘った85歳の医師が、最後に慰めを求めたもの

    1980年代、ニューヨーク市にあったジョゼフ・ソナベンド博士のクリニックは、AIDSと闘う最前線だった。ソナベンド博士はBuzzFeed Newsに、ストレスの多い生活のなかで、曲を書くことは「別世界に行くような気分でした」と振り返る。

    ジョゼフ・ソナベンド博士は本棚に手を伸ばし、1冊の日記を取り出した。背表紙には1984年と書いてある。ソナベンド博士は、ピアノの上に日記を置くと、ページをめくって名簿を探し当てた。そして、名前を読み始めた。

    「彼はヒスパニック」

    「彼はセント・ビンセント病院で息を引き取りました」

    「彼が編んでくれたセーターをまだ持っています」

    これは、AIDSで亡くなった患者たちのリストだ。ソナベンド博士は300人以上の名前を読み上げたが、それほど時間はかからなかった。

    ソナベンド博士は、1984年にこの名簿をつくり始めた。何かがおかしいと気づいた6年後のことだ。患者たちは原因不明の症状に苦しんでいた。ソナベンド博士は1979年に警告を発したが、無視された。初めてメディアに取り上げられたのは、その2年後のことだ。

    感染症について学んだあと、1970年代、ニューヨークで性感染症クリニックを開業したソナベンド博士は、AIDS流行の初期徴候に気づいた医師のひとりだった。ソナベンド博士は当時、何が起きようとしているのか、わかっていなかった。

    ソナベンド博士はまた、自身が今後どれほど影響力を持つようになるか、論争の的になるかもわかっていなかった。現在HIV/AIDSとの闘いを主導している2つの組織を立ち上げ、HIVへの差別をめぐる訴訟で重要な判例をつくり、その間、活動家と科学者の両方から敵意をむき出しにされた。まさに全面戦争だったと同氏は振り返る。

    ソナベンド博士の人生とキャリアには、40年間にわたるHIV/AIDSの歴史がすべて含まれている。当時はまだ知られていなかったHIV/AIDSは、ソナベンド博士が別の才能を開花させるきっかけにもなった。

    ソナベンド博士は5時間近くにわたって、アパートの中を歩き回りながら、記憶を引き出したり、これまでに目撃したことと正面から向き合ったりした。ソナベンド博士の物語は驚くべき逸話に彩られているが、個人的な激動や、歴史的に重要な出来事の波に揉まれながらも前進し続けることができたのは、おそらく2つの原動力があったからだろう。そのひとつは音楽だ。

    1980年代、ソナベンド博士は毎週数時間だけ休息を取り、ピアノの前で曲を書いた。今は英国ロンドンに暮らしているが、当時はニューヨークのアパートにピアノを置いていた。効果的な薬はなく、何が起きているかもわからず、医師たちはなすすべもない。人々が次々と命を落とす中、作曲活動はソナベンド博士の心のよりどころだった。

    ソナベンド博士の曲を聴いた人は、これまでいない。ソナベンド博士は自分のためだけに曲を書いていた。しかし7月、ソナベンド博士が書きためたクラシック曲が初めて披露されることになった。85歳にして、作曲家としてデビューすることになったのだ。

    AIDSの流行を記念して開催されるフェスティバルの一環として、ロンドンで2度のコンサートが開かれ、弦楽四重奏曲やピアノ曲、声楽曲が演奏される。

    ソナベンド博士はコンサートについて、「想像すらしていませんでした」と話す。「ほんとうに現実とは思えません……もしそのことを考えると、たぶん少し怖くなるので、考えないようにしています」

    ソナベンド博士が考えないようにしていることは、ほかにもたくさんある。


    ソナベンド博士は現在、ロンドンのアビイ・ロードにある、赤れんが造りで出窓のあるアパートで暮らしている。「ビートルズ」のアルバムジャケットで有名な横断歩道から数メートルしか離れていない。数週間前、同じブロックにある別のアパートから引っ越してきたばかりだ。

    ソナベンド博士は借家に暮らし続けている。自分に残された時間はわからないし、いつ金が尽きるかもわからないと話す。

    今も、ほとんどの部屋に、未開封の段ボール箱が高く積み上げられている。ソナベンド博士自身も中身を把握していないが、すでに開けられている箱がいくつかある。日記が入った箱もそのひとつだ。ソナベンド博士は名簿を読み続ける。

    ノーマン・キーティング

    「彼はスタッテン・アイランドに住んでいました。麻薬使用者で、ゲイではありません。スタッテン・アイランド・フェリーで働いていました。彼の母親を覚えています。何度か自宅を訪ねたことがあります」

    ソナベンド博士は、日記に書かれた名前を指でなぞりながら、もう片方の手で頭をさすっていた。記憶をよみがえらせようとしているかのように。もしかしたら、心を落ち着かせようとしていたのかもしれない。ソナベンド博士は次に、ボビー・ブルームという名前を口にした。ソナベンド博士の人生のもうひとつの面を知っている人物だ。

    2人は一緒に音楽を演奏した。

    「彼はフルートで、私はピアノ。彼は驚くほど才能に恵まれていました」とソナベンド博士は振り返る。「彼は作曲家で、適切な訓練を受けていました。楽器の修理で生計を立てていました」。2人は週末に会った。「その後、彼はカポジ肉腫になりました」

    AIDSが到来するまで、カポジ肉腫のような皮膚がんは非常に珍しいものだった。「彼の顔は風船のように膨らみ、フルートを吹くことができなくなりました」。ブルームの唇は腫れ上がってしまったが、何とかピッコロは吹くことができた。2人は違うデュオとして再出発し、最後まで演奏を続けた。

    「かわいそうなボビー」。ソナベンド博士の優しい声は、いつも隠そうとしている1つの感情、つまり、悲しみを帯びていた。

    ブルームは26歳で亡くなった。

    ソナベンド博士は抑揚のない静かな声で話し、可能な限り、感情を隠そうと努力している。さまざまな出来事に関する説明もほぼ例外なく、冷静で、事実に基づいている。こちらが曖昧で不正確な質問をすると、まるで軽蔑しているかのように訂正が入る。

    ソナベンド博士は何十年も自分で髪を切っているが、お金の無駄なので、と説明している。この事実でさえも、彼の性格を物語っているように思える。基本的なことを重視し、細かいことにはこだわらない性格なのだ。取材当日も、台所のテーブルで、何も付いていないトーストを食べ、サイズの大きい古びたシャツを着ていた。写真を撮られることなど全く気にしていないようだった。「私は人生の大部分にわたって、世間の注目から逃れようと努力してきました」

    それでは、ソナベンド博士がどのような人生を歩み、AIDS流行の前兆を目にすることになったかを説明しよう。

    ソナベンド博士は南アフリカ出身。両親はユダヤ人で、医師と学者だった。ジンバブエ(当時はローデシア)で育ち、南アフリカに戻って、ヨハネスブルグの医学部に進学した。感染症の専門家として訓練を受けた後、英国に移住し、有名なウイルス学者アリック・アイザックスの下で働いた。

    1970年代、ソナベンド博士はニューヨークに移り住み、マウント・サイナイ医科大学の准教授になった。その後、ニューヨーク市保健局で性感染症の責任者を務めた。40代になり、研究助成金も底を突いてきたころ、ニューヨークのゲイシーンの中心地だったグリニッジ・ビレッジに、性感染症クリニックをつくることに決めた。1978年のことだった。

    感染症と性感染症の専門家が、グリニッジ・ビレッジでクリニックを開業。その後起きたAIDS問題に気づくうえで、これ以上うってつけの人物がいるだろうか。

    「私は運命によって、この流行の始まりへと導かれました」とソナベンド博士は話す。「私は最初の数年間に、普通の性感染症では説明できない現象を、立て続けに目撃しました。白血球数の減少、腺の肥大化、脾臓(ひぞう)の肥大化などです。このような現象があまりに多かったため、1979年、保健局に手紙を書き、血小板数の減少がほかにも報告されていないか尋ねました。たしか、返事すらなかったと思います」

    ソナベンド博士は、別の現象を目にするようになった。ニューモシスチス肺炎(PCP)という珍しい肺炎だ。ソナベンド博士の不安はさらに大きくなった。「何かがおかしいことに気づきました。梅毒、肝炎といったあらゆる感染症に、繰り返し感染していることもあり得ると思いました。私が目撃していたことはそのようなことでした」

    しかし、すべてが変わったのは、カポジ肉腫の患者を初めて見たときのことだ。後にフルート奏者のブルームをむしばんだのと同じがんだ。

    患者の名前はスペンサー・ビーチ。ソナベンド博士はこの名前をはっきり覚えている。当時のボーイフレンドの名前と韻を踏んでいたためだ。ソナベンド博士のボーイフレンドは、バリー・リーチという名前だった。

    ビーチは貧血状態だった。消化器の異常があるかもしれないと考えたソナベンド博士は、ビーチに胃カメラ検査を受けてもらった。その後、検査担当者から電話がかかってきた。「検査担当者は私に、胃の中に複数の腫れがあり、紫色の病変が見えると言いました」。そこで、生検を行うことにした。「検査担当者は、“カポジ肉腫です”と言いました」

    消化器専門医は、このがんについて聞いたことがなかった。カポジ肉腫は通常、顔や体の皮膚に、暗い色の斑点として出現するものだ。当時は誰も知らなかったが、後に、AIDSの特徴的な症状のひとつとされるようになった。

    検査担当者は米国立がん研究所に電話をかけ、カポジ肉腫について知っている人がいないかを問い合わせた。そして、ニューヨーク大学の皮膚科医アルビン・フリードマン=クラインを紹介された。フリードマン=クラインは検査担当者に対して、驚くべきことを告げた。ニューヨークだけで10人以上のゲイが、カポジ肉腫の診断を受けているというのだ。

    「全く信じられませんでした」と、ソナベンド博士は振り返る。その後、ソナベンド博士自身も、フリードマン=クラインに電話をかけた。何か奇妙なことが起きているのではないかと思ったソナベンド博士は、ニューヨーク大学で行われていた研究を手伝うことにした。午前中は研究室に行き、午後は自分の患者を診察した。

    「お金のためではありませんでした」とソナベンド博士は話す。「何かせずにはいられませんでした。もっと重大なことが起きそうだと思っていたためです」

    1981年、「41人の同性愛者が珍しいがんに」と題された「New York Times」の有名な記事をきっかけに、事の重大さが初めて明らかになった。そして、症例が増え始めると、事態は急速にエスカレートしていった。

    HIVが原因だと判明する前、感染経路がわかる前、治療薬が開発される前、公衆衛生キャンペーンが始まる前の数年間、混乱とパニックが人々を支配した。1984年までに、アメリカだけで3000人以上がAIDSで命を落とした。

    ソナベンド博士は再び名簿に目を落とし、ページをめくり始めた。名前がびっしり書かれたページをめくるたび、「これ、これ、これ、これ、これ」と指差していく。ソナベンド博士はビーチの名前を発見し、その数ページ後、ボーイフレンドだったリーチの名前を見つけた。2人は1年以内に相次いで亡くなった。

    ソナベンド博士は、別の名前で手を止めた。「レイモンドは自殺しました」。1980年代、AIDSと診断された人々の間では、決して珍しいことではなかった。治療法はなく、痛みに耐えながら、早過ぎる人生の終わりを待つ。多くの場合、家族や友人にも拒絶される。AIDS患者の遺体が入った遺体袋の引き取りを拒否する病院もあった。

    入院患者の中には、隔離される者もいた。看護師は病室に入るのを恐れ、扉の外に食事を置いた。日和見感染におびえる若い患者たちには、恐怖と孤独だけしか残されていなかった。

    ソナベンド博士は次に、マイケルという男性に言及した。「私が付き合っていた人の兄弟、つまり義理の兄弟でした」

    ソナベンド博士はさらに名前を読み上げていく。名前を口にするたび、30年前に引き戻される。デクランというカトリック教徒の男性は「発作を起こし、カトリック系の病院に救急車で運ばれました。彼はゲイだという理由で、(病院内部で)隠されました。彼は、安らかに亡くなることすら許されなかったのです」

    ソナベンド博士は、チップ・エドガートンという別の患者については笑顔で思い出した。「建設作業員として通っていましたが、建設作業員ではありませんでした。いくつものハンマーをベルトからぶら下げていたんです」。ちょうど、メンバーそれぞれが、ゲイ受けを狙った職業等のコスプレをしていたバンド「ヴィレッジ・ピープル」が人気を呼んだ時代だったのだ。「すごく印象的だったんですよ!」。ソナベンド博士は、雰囲気を明るくしようとしているかのように声の調子を上げたが、長くは続かなかった。

    「私は、あらゆる記憶を鈍らせようと努力してきました」。しかし、AIDS流行の中心地に身を置き、病気の残酷さと汚名にもがき苦しんできた医師の体験は、忘れることができないほど圧倒的なものだった。

    「人々が謎の病気で次々と倒れていく中、微生物学者として、何が起きているかを突き止めなければなりません。研究に参加し、多くの人が力を合わせても、毎日20~30人の恐ろしい症状に苦しむ人々、死んでいく人々を見るというのが現実でした」。それでも、何が起きているのかを理解するために立ち止まれる者はいなかった。

    「常に気を張っていなければいけない状況では、とにかく時間がありません」とソナベンド博士は話す。「基本的には、絶望感にひたる暇もありません。そんな自由はないのです。結果として、そういう状態が、目の前の状況に対処する助けになるのだと思います」

    こうした状態は、私生活にも侵入した。ソナベンド博士は性的な関係を自粛した。

    「やめなければいけないと思いました。もしかしたら自分も一因になっているかもしれないと……」。ソナベンド博士の言葉は弱々しく消えていった。「当初、何が起きているかを知る者はいませんでした」。ソナベンド博士はどのように恋愛を続けたのだろう?

    ソナベンド博士はそんな問いを、「あなたは何を考えているんですか?」と一蹴した。そして、暗い様子で少し笑いながら、「わたしは恐怖におびえていました」と語った。

    けれども、ソナベンド博士の警戒もむなしく、恋人たちは次々に病に倒れていった。

    「私が付き合った男性は全員死にました」。ソナベンド博士は早口で言い、別のことに移った。同氏は、男性と恋愛しながら、女性と結婚し、子供も授かった。自分でも自分の性的指向がわからないと述べている。ソナベンド博士にとっては、それはあまり重要ではないようだった。

    HIV検査が導入されたのは1984年。普及したのは1985年だ。ソナベンド博士は患者たちに、この検査を受けないよう助言した。「治療法がないのに、受ける意味があるのでしょうか?」。ソナベンド博士は、診断を受けた人が自殺するリスクも心配していた。

    ソナベンド博士自身も、1990年代までHIV検査を受けなかった。結果は陰性だった。しかしそれまでは、「想像できると思いますが、自分の皮膚にしみを見つけるたびに、私はそれ(恐怖)を皆と共有していました」

    ソナベンド博士は仕事、つまり自分の患者に集中し続けた。患者の自宅を訪問したり、自分の自宅の電話番号を教えたり、検査や治療にかかる費用を肩代わりしたり、信頼を得ようと努力したり、患者のパートナーを支援したりした。落ち込んでいる暇などなかった。

    私たちは、コンピューターのある部屋に移動した。ソナベンド博士は、コンピューターに転送された音声ファイルを再生し始めた。1980年代、自宅の留守番電話に残されたメッセージだ。クリニックの受付係からの誕生日メッセージ、連弾をしていた患者からの、会いたいというメッセージなど、ごく日常的な内容もある。

    しかし、スピーカーから聞こえてくるメッセージの中には、死の間際に助けを求める患者たちの声もあった。35年前のあるメッセージは若い男性の声だったが、大量の投薬と重病の影響で、ろれつが回らなくなっていた。

    「ピーッ。デニスです。入院していたんだけど、退院させられてしまった。どうか電話をください…緊急事態なんです。ジョー、お願いだから電話をください。どうぞお願いします」

    ソナベンド博士はコンピューターから離れた。「こういうことが起きていたら、自分のことであれこれ悩む暇などありません…とにかく動き続けるだけです。状況を受け入れなければなりません」

    しかし、禁欲のほかにも、ソナベンド博士の助けになったものがある。音楽だ。ソナベンド博士は子供のころにピアノを習っていたが、最初は嫌いだった。

    「12歳くらいになったとき、突然、音楽はとても面白いということに気づきました」。音楽は当時の彼に何を与えてくれたのだろう? ソナベンド博士は「すぐに答えることはできません」と述べ、自分はあまり内省的ではないのだと付け加えた。ソナベンド博士はオルガンも弾いた。それでは、1980年代に、AIDS危機に直面したとき、演奏と作曲は何を与えてくれたのだろう? この問いへの答えははっきりしていた。

    「別世界に足を踏み入れるような気分でした」とソナベンド博士は語る。「仕事への没頭を忘れ去ることができました。あの時期に起きていたすべてのことから切り離された活動であり、ある種のメリハリを与えてくれました」

    ソナベンド博士は、音楽と患者への対応に時間を費やすだけでなく、可能な限り多くの方法で危機に対応しようとした。その結果、同氏は賛否両論の評価を受けた。


    1983年5月、ソナベンド博士は知り合いのゲイ2人とともに、AIDS時代の安全なセックスをテーマにした初めての冊子「病気が流行しているときにセックスする方法」を作成した。コンドームを使用し、ウイルスから身を守ることを推奨した初めての公衆衛生アドバイスでもあった。

    私たち現代人からすれば、当たり前に聞こえるだろう。しかし当時の医学会では、この「殺人ウイルス」に一度でもさらされれば、すぐに感染すると広く考えられていたため、破れる恐れのあるコンドームは勧められないという意見があった。しかし、ソナベンド博士は別の仮説を唱え、論争を巻き起こした。当時起きていたことはすべて、持続的かつ常習的な暴露の結果であるという説だ。

    結局、どちらも間違っていた。現在知られているのは、AIDSウイルスはかなり弱く、感染から発症までの潜伏期間が数年に及ぶということだ。ソナベンド博士の助言は、根拠こそ間違っていたものの、現代の安全なセックスの青写真になった。

    ソナベンド博士は1983年後半、患者だった弁護士から勧められ、「AIDS医学財団(AIDS Medical Foundation)」を設立した。AIDSについて理解し、治療法を見つけることが目的だった。現在は「米エイズ研究財団(amfAR:American Foundation for AIDS Research)」に名前を変え、HIVの研究を目的とした世界最大級の財団として存続している。

    ところが、新進の研究者を支援するという当初の意図は消え去り、すでに認められている研究者を支援する財団に変わってしまった。「つまり、すでに資金を得ている人々ということです」

    ソナベンド博士が今も腹を立てている変化は、これだけではない。同氏は余談として、当時の混乱だけでなく、歴史の危機的な展開にすら関わった初期の財団の秘話を語ってくれた。

    ソナベンド博士は1985年、資金調達と広報活動の担当者として、テリーという活動家を雇った。「ある日、オフィスに入ると、電話が鳴っていました」

    この電話の原因が、AIDS流行に対する世間の反応を一変させた。

    「それは、ある(テレビ)局からの電話で、(財団から)プレスリリースを受け取ったと言っていました。近い将来、異性愛者の間でAIDSが流行するという内容でした。私はこう答えました。"でたらめです。その情報をどこで入手したのですか?"」

    その答えはすぐに判明した。テリーによれば、テリーと、財団の共同創設者マティルデ・クリムが「米国にAIDSが押し寄せようとしています」というプレスリリースを勝手に作成したというのだ。2人はソナベンド博士の許可を得ず、プレスリリースを送付していた。

    間もなく、ある警告が「Life」誌の表紙を飾り、全米を恐怖に陥れた。「今やAIDSと無縁な人はいない」。白人の若い男女と赤ん坊の写真も添えられていた。記事には次のように書かれていた。「AIDS患者はこれまで少数派だったが、彼らは現在、異性愛者で麻薬を使用しない多数派にも感染を広め始めている。100万~300万人のアメリカ人が、無症状の保菌者になり、感染源となる可能性がある」

    事実無根だった。確かに、AIDSは異性愛者にも広まろうとしていたが、その規模は著しく誇張されていた。実際、上記の数字に到達するまでに20年かかった。しかし、もう手遅れだ。このメッセージはパニックを助長し、その結果として、財団への寄付も増えた。

    ソナベンド博士は、脇に追いやられたことへの抗議として、財団を辞職した。これほど不正確な情報が、自分の組織によって広められたことが腹立たしかった。

    「いまや彼らは巨大組織です」とソナベンド博士は話す。「彼らは年間1億ポンド(約150億円)規模の研究助成を行っています。私のオフィスでつくられた組織ですけどね」。ソナベンド博士は、締め出されたことで傷ついていると同時に、組織の意図が様変わりしたことに失望しているようだ。

    患者たちを目の前で失うことから来るストレスは、こうした争いによってさらに増大し、音楽という慰めの必要性がさらに大きくなった。ソナベンド博士は日曜日が来るたび、スタインウェイのピアノの前に座った。「(本能的にピアノを求めているという)自覚はありませんでした。完全に個人的なものでしたし、人前で演奏したいと思ったことはありませんでした」。しかし、年月が過ぎるうちに、死者が増え、争いも大きくなり、ソナベンド博士はピアノを求め続けた。

    1987年、ソナベンド博士は「PWAヘルス・グループ」を共同で立ち上げた。AIDS患者に未承認の新薬をもたらすことを目的とした初めての組織だ。このアイデアは間もなく、ロン・ウッドルーフ(など)にコピーされた。ウッドルーフの小さな医薬品配給サービスは、ハリウッド映画「ダラス・バイヤーズクラブ」の題材にもなった。

    ソナベンド博士は、トム・ハナンという活動家とともに、「PWAヘルス・グループ」を立ち上げた(現在の名称は「ピープル・ウィズ・AIDS・ワーキング・フォー・ヘルス」)。このハナンこそが、ソナベンド博士の人生に新たな亀裂を入れた人物だ。

    「殺しの脅迫を受けました」とソナベンド博士は振り返る。「彼は私に、ジアゼパム(抗不安薬)を処方してほしいと言いました。しかし、私の患者ではないため、断わりました。すると、彼は怒りました。留守番電話に殺しの脅迫のメッセージが入っていました。その夜は家で眠ることができませんでした。極度の緊張状態でした」

    1980年代後半、抗がん剤として開発されたAZTにHIVへの効果が発見されたとき、ソナベンド博士にさらなる怒りが向けられた。活動家たちは、治験のプロセスをスピードアップさせるため、当局に大きな圧力をかけた。

    ところが、スピードアップの結果、大量の投薬によって有害な副作用が生じ、しかも、死者を減らすことはできなかった。ソナベンド博士はエビデンスの欠陥を広範にわたって指摘したが、わらにもすがりたい医師と患者たちは、ソナベンド博士の指摘を無視し、さらに非難した。

    「ものすごい敵意でした」とソナベンド博士は話す。「私は科学的反応の欠陥に気づき、それを指摘したことで、多くの科学者を敵に回したのです」

    ある意味、「AIDSはずっと科学界のジョークでした。HIV専門クリニックの研究は多くが見かけ倒しで、とんでもない治験が行われていました。その最たる例がAZTです。しかし、名のある科学者が立ち上がり、研究を見直して、“私たちが間違っていました”と言ったことがあるでしょうか? 答えはノーです」

    AZTに異論を唱えたソナベンド博士への怒りは、1990年代初頭、AIDSの唯一の原因はHIVだという当時の通説を受け入れなかったことでさらに増幅した。ソナベンド博士はいわゆる「多因子」理論の代名詞となった。多因子理論とは、一連の要因が組み合わさることでAIDSの症状が生じるという説だ。ソナベンド博士は、AIDS否定派と同一視された。AIDS否定派は、AIDSの原因がHIVであることを否定し、同時に、複数の抗レトロウイルス薬を組み合わせる現在の治療法も否定する非主流派だった。

    ソナベンド博士はAZTのときと同様、エビデンスが確立されるまで、どのような説も支持しないという立場を貫いていた。科学者にとっては、ごく普通の立ち位置だ。しかし、当時はごく普通の時代ではなかった。多くの人にとって、辛抱強く待つことは不可能だったのだ。

    ソナベンド博士はさらに、AIDS患者を治療していることに対する差別と闘う必要があった。グリニッジ・ビレッジのクリニックが入居していた建物が共同組合スタイルの経営に変わり、1階がクリニックフロア、上階がアパートになった。

    「賃貸契約が切れたとき、彼らは契約を更新してくれませんでした」とソナベンド博士は説明する。「彼ら(アパートを所有し、建物を管理する自治会)は、私の患者がロビーを通ることを嫌がっていました。AIDS患者、つまり、ゲイが不動産価値を下げると思っていたのです」。ソナベンド博士は自治会長から、面と向かってそう言われた。

    「弁護士がすぐに対応してくれ、私たちは自治会を訴えることにしました」

    ソナベンド博士は勝訴した。HIV/AIDSへの差別に関するアメリカ初の訴訟で、初めての判例となった。それでも、自治会はソナベンド博士を追い出そうとした。「彼らは私に金を払い、退去させようとしました。私が居座り続けると、1カ月ごとに金額が減っていきました」

    それでも、ソナベンド博士は動かなかった。ソナベンド博士は金額がゼロになるまで待ち、それから退去した。

    「考えただけで嫌な気分になります」。ソナベンド博士を突き動かしてきた患者たちも、新しいクリニックに移った。

    ソナベンド博士が最もつらいと思った死はあるのだろうか? ソナベンド博士は部屋に置かれたピアノや箱に目をやって、しばらく考えていた。

    そして、「あります」と答えた。「名前はマイケル。シャイで、自信がなさそうな男でした。理由はわかりませんが、私は彼の面倒を見ていました。彼を守らなければならないと思い、受付係の仕事を与えました」

    ソナベンド博士によれば、財団を立ち上げた当初は金がなく、唯一の収入源である治療費も請求しないことが多かったため、最終的に、マイケルの賃金を支払うことができなくなったという。マイケルはしばらくよそで働いていたが、「認知症になってしまいました。貯金を切り崩しながら、ホームヘルパーを雇い、金がなくなるまでそのような生活を続けていました」。すでに家族には見放されていた。

    ついに貯金が底を突くと、マイケルはホスピスに入った。そして、肺炎を発症し、救急救命室(ER)に送られた。「私が駆けつけると、彼はベッドに横たわり、苦しそうに呼吸していました」とソナベンド博士は振り返る。「彼はおびえていました。明らかに死が迫っており、誰もそばに付いていませんでした。1人で死んでいく運命にありました。彼は見捨てられたのです」

    ソナベンド博士の動きが止まった。思い出に浸りたかったのだろう。「私は医師たちに声をかけましたが、彼らにできることはありませんでした。完全な虚無感と無力感……あの恐ろしい感情です。目の前で人が死んでいく。そして、何もできない……」

    しかし、ソナベンド博士自身の虚無感は、ほとんどの場合、誰も耳を貸さないことによるものだった。白血球数の低下に関する問い合わせ、AZTについての警告、自身が立ち上げた2つの組織の使命。

    「私は、いくつものチャンスを逃したことを、とても悲しく思っています」とソナベンド博士は話す。「もし私の努力が中傷を受けなければ、私たちはもう少し早く、もう少し多くのことを成し遂げていたかもしれません」

    AIDSが到来する前に、感染症と免疫抑制を専門としていたソナベンド博士は、1980年代に、肺炎を予防するための薬も投与すべきだと提言していた。

    「命を救うことはできなかったでしょうが、ニューモシスチス肺炎の恐ろしい死に方だけは回避できたはずです。窒息による死です」。そして、気持ちを切り替えるように、声の調子が淡々としたものになった。「私は全力を尽くしましたが、誰も聞く耳を持ちませんでした」

    7月には、多くの人がソナベンド博士の音楽を聴くことになる。皮肉にも、ソナベンド博士が心から警告を聞いてほしいと願っていたときにつくられた音楽だ。コンサートは、美しい装飾が施されたロンドンのフィッツロビア・チャペルで開かれる。このチャペルはかつて、英国初のAIDS病棟があったミドルセックス病院の一部だった。

    GoFundMe」で調達した資金を使い、「AIDSの歴史と文化の祭典」が開催されることになっており、その一環としてコンサートが行われる。

    しかし、ソナベンド博士は困惑しているようだ。「誰も興味を持たないと思っていました」と同氏は話す。「私がつくった曲が演奏されるとは夢にも思いませんでした」

    ソナベンド博士は、コンピューターに保存されていた別の音声ファイルを再生した。ソプラノ歌手によるリハーサルを録音したものだ。歌にはピアノ伴奏が付いている。低音で繰り返されるもの悲しい曲に、19世紀後半の軽快なハーモニーが加わり、ソプラノ歌手の声が徐々に高まっていく。歌詞は、日本で9世紀につくられた短歌を翻訳したものだ。

    「Dew on the tips of branches, slowly falling to the roots, just as we delay in this world.(枝先の滴は、ゆっくりと根に向かって落ちていく。私たちも遅かれ早かれ、この世をそのように落ちていく)」僧正遍昭(816 - 890)の短歌「末の露 本のしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん」

    さまざまな論争を巻き起こしてきたソナベンド博士だが、現在はシンプルに、HIV/AIDSの歴史のパイオニアと評価されている。2000年には、皮肉なことに、ソナベンド博士が去った後に巨大財団へと成長したamFARから、初代「勇気の人」賞(Award of Courage)を授与された。amFARは選出理由として、ソナベンド博士は「AIDSとの闘いが孤独で報われない努力だった時代、多大な貢献をしました」と説明している。

    筆者は再び、自身の音楽がついに演奏されること、それを聞くことについて質問してみた。この問いに対する答えは、同氏のいまの率直な気持ちなのか、あるいは、30年前に起きたほかの何かに関する気持ちなのかはわからないものだった。ソナベンド博士は窓の外を見ながら、眼鏡を外し、淡々とした口調で答えた。

    「私は今も、それを感じないようにしているのです」

    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan