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あの日世界の終わりを見た〜震災から8年。震災直後の南相馬市で闘った消防団員

普段は会社員として働き、非常時に活躍する消防団員。3.11直後の福島県南相馬市では、全く想像していなかった作業を行うことになった。

8年経って、ようやく喋れる——。

深いため息とともに語り始めたのは、2011年3月11日の後に続いた救助活動の日々だ。

震災から約1ヶ月にわたり地元消防団の仲間と行った救助活動は、家族や妻にも話せなかった。

大きな揺れに続いて起きた、今世紀最大級の津波。当時32歳だった消防団員、石井恒彦さん(仮名)が住む福島県南相馬市には、東京電力福島第一原発事故というさらなる災害まで降りかかった。

地域の半分が津波に飲み込まれた中で出された突然の避難指示。

消防活動や災害時の避難誘導にあたる消防団員は、消防組織法上、非常勤の特別職公務員という位置づけだ。しかし、報酬は名目的なものに留まり、実態としては地域住民による「ボランティア」に近い存在だ。

南相馬の消防団員たちは、そんな立場で相次ぐ「想定外」の事態に立ち向かった。何を感じ、どう乗り越えたのか。

地元に踏みとどまり、地元の顔見知りの人々の遺体を運び続けた日々。それを今、ようやく語れるようになったという石井さんに聞いた。

警報の色の違いもわかっていなかった。

曽祖父の代から福島県の海沿いに住む石井さんは「つなみ」という言葉を小さい頃からよく耳にしていた。

「どこか遠くの外国で地震が起きれば、津波警報が出て、テレビの端の方に津波警報が出ていることが表示される。自分が住んでいる地域に色が塗られていたけど、それを見たからと言って慌てることもなかったし、その色が黄色なのか、赤なのか、その違いもわかっていなかった」

すぐに消防に向かった。

海から2kmほどの場所に建っていた石井さんの自宅は、津波の被害からは幸い免れ、そのまま残っていた。しかし、家からほんの500m先まで、昨日まではなかった灰色の海が広がっていた。

「地域のほとんどが水に使っているような状況だった。これはすごいことになってしまったと、すぐに消防の詰所に向かった」

石井さんは19歳から地域の消防団に参加し、震災当時は32歳で班長を務めていた。

消防団とは、会社員などを別の仕事をしながら、火災や災害があった時に集合して、消防署員に地域の情報を共有しながら共に作業する自治体の組織のことだ。

参加は強制ではないが、石井さんの住む地域では、各家庭から1人ずつ消防に参加するのが慣例になっていた。

団員には報酬や手当もあるが、名目的な金額に過ぎない。実質的には、地域住民によるボランティア活動だ。

「何もなければ月に一度集まる程度。小さな集落なので、協力するのは当たり前だと思っていた」

地域のほとんどが津波に飲み込まれたこの日の夕方、消防の詰所には15人ほどが集まってきた。しかし、停電が続いて真っ暗の中、とても作業が行える状態ではない。次の日からの段取りを決めて、この日は帰宅した。

自治体解散宣言

3月12日に東京電力福島第一原発の1号機が水素爆発をしたことで、事態はさらに悪化する。

石井さんたちが住む場所も避難地域として指定された。

「消防の仲間と一緒に、行方不明者を探している最中に、原発が爆発したという情報が入った。『屋外にいてはダメだ』と言う指示が出て、家に帰った。着ていた服を全部、外で脱いだ。そういう指示があった訳じゃない、でもなにが付いているかわからない服を着て、そのまま家に入ってはいけないということだけはわかった」

3月14日の朝、石井さんが住む地域では「自治会の解散宣言」が出された。事実上、消防団も解散ということになる。

大きなバスが近くの小学校に乗り付け、住民はすべて避難するようにとの指示が出された。

3歳と5歳の幼い息子と家族は妻の実家がある県内の内陸部に避難させたが、石井さんはすぐ自宅に戻ってきた。

救助作業を続けるためだ。

義務だったわけではない。しかし戻らずにはいられなかった。

「地震翌日に作業をした時、海沿いに何十人という遺体があった。とても1日では終わらなかった。あの人たちを、あのままにしておくことはできない」

それから約1ヶ月の間のことは、生涯忘れられない。

翌日、作業のために集まったのは5人だった。

「本当は消防の作業は無線で指示を出す人、現場で作業に当たる人と別れてするんだけど、5人しかいないから全員がポータブルの無線機を持って作業した。

最初のうちは毎日、遺体を運んでいた。同じ地域に住んでいた人だから、知り合いも多かった。消防団の仲間の家族もいたし、遺体で見つかった消防団員もいた」

避難している家族に、作業のことは言えなかった。

「どういう作業をしているのか、何があったのか、どうしても話す気になれなかった。

防護服を着て、近所に住んでいた人の遺体を回収している。それを言ったら、あれを『現実』だと認めざるを得なくなるような気がした。

朝から晩まで、足場の悪い場所で作業しているんだから、疲れているはずなんだけど、当時は全く眠れなかった。目を閉じると、ご遺体の顔が次々と浮かんで来る」

目の前にあった悲惨な光景と、自分が放射能汚染を避けるための防護服を着て立っていることは、紛れもない現実だった。それが、自分の生まれ育った土地で起きたのだ。

どうしても、それをすんなりと受け入れることができず、家族にもそのまま伝えることができない自分がいた。

お昼の時間が一番辛かった。

「毎日ラップに包んだおにぎりをもらうんだけど、手を洗う場所もないから遺体を持ち上げた手でそのまま食べないといけない。海水で泥を落として、ラップだけをつかんで食べたあのおにぎりの味は思い出したくもない。

食べたくないけど、食べないと体力が持たない。食後にタバコを吸って気分転換しようと思って海を見てたら、テトラポットに遺体が張り付いている。あの頃は、毎日がそんなことの繰り返しだった」

「100年後には、津波が怖いなんてこと忘れている」

石井さんが今、自分の子供にいつも伝えているのが、災害が起きた時には「中途半端はだめ。自分で状況を判断して考えろ」ということだ。

「俺が生きて家に帰れたのは、反対車線を逆走して帰ったから。指示が出るのを待っていてはダメだ。中途半端に周りに合わせていたら死ぬ。自分で考える力が一番大事だ」

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