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「善意の集合体」が維持してきた仕組みを壊す 筋ジストロフィーの人が50年以上病院で暮らしてきた理由(後編)

6月1日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」に登壇した社会学者、立岩真也さんの講演詳報、後編です。

全身の筋肉が衰え、症状の進行と共に人工呼吸器や経管栄養などを使って、生活の全てに介助を必要とする難病、筋ジストロフィー。

結核の旧国立療養所を転用して、筋ジストロフィーの人が暮らすことになった「筋ジストロフィー病棟」がなぜ未だに残り続けているのか。

兵庫県西宮市で6月1日に開かれたシンポジウム「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」(主催:メインストリーム協会)で講演した社会学者、立岩真也さんの講演詳報の講演をお届けする。

そして、筋ジス病棟は55年続いてきた

結核患者がいなくなった旧国立療養所を残そうと、代わりに筋ジストロフィーの人が入所することが1965年ぐらいから始まるのですが、それから55年という時間が経った。

55年は結構すごい時間だと思うんです。

最初、数年の間はメディアでも取り上げられて、「こんなことが始まった」とか、「これから治療法の研究が進む」ということで話題になったのかもしれません。

しかし、その状態は急速に当たり前のことになっていきます。

筋ジストロフィーと診断されたら、各地の国立療養所に入っていく。そういうことなんだというのが、本人、親、保健所の人たちの中でルートができて、自然とそう流れていく仕掛けができる。

世間の大部分からは見えない出来事として、そのあとの時間が静かに流れていく。そういう感じでした。

そこから出て、地域で生活しようとする試みもあった

では、その間に何事もなかったのかというとそうでもないわけです。

この後、『こんな夜更けにバナナかよ』を書いた渡辺一史さんが、鹿野靖明さんという北海道で暮らした筋ジストロフィーの方の話をされると思います(渡辺さんの講演内容は後日公開予定)

鹿野さんのように、何人かの人たちが、国立療養所でないところで暮らそうという試みをしたことが記録に残っています。

鹿野さんは1959年の生まれで、僕より1つ年上なだけなんですね。

57年〜59年頃に生まれた人たちは、65、66年ごろに小学校に上がるぐらいの年齢で、ちょうど療養所に入院させられる時期でした。国立療養所体制が確立するころと発症が重なり、親に連れられて入っていく。そういう時期の人たちがいるわけです。

ただ、その時は、こういう動きをこれから始めて、療養所は療養所で頑張ろう、スタッフはスタッフで頑張ろうという前向きな空気があった。

また、60年代の終わり頃から70年代の初め頃、いろんな社会運動が盛んになりました。福祉や医療に関わって世の中をなんとか良くしなければいけないと考える大学生たちも施設にやってきて活動したという記録も残っています。

始まったばかりの時に入り、社会もいろんな意味で騒々しく、いろんな思いを持っている人がまだいた70年代半ばには、この状況をなんとかできるんじゃないか、なんとかしたいという人もポツポツ出てきました。

施設の出来立ての時期は、それなりに療養所の自治会も機能していて、自治会同士のコミュニケーションが取れていた時期もあったようです。

そんな中で、療養所の待遇を改善しようとか、ゆくゆくはそこから出て暮らそうという動きもあった。

僕はたまたま1980年代後半に、文献を調べたり、インタビュー調査をしたりしていて、こうした試みをした人たちの書いたものを見たので、こういう人たちがいるんだなと知りました。

個々人の試みが大きなうねりにはならなかった

例えば、山田富也さんという方です。

この人は仙台で、「ありのまま舎」という組織を作って、ケア付き住宅を作りました。これはものすごい努力です。

ありのまま舎からは何十冊も本が出ています。いろんな出版活動をし、募金活動をし、皇室とも仲良くなって、いろんな人と仲良くなってつながって、70年代から80年代にかけてそういう場を作ろうとした。

そういう動きが一つあり、それが今も続いているわけです。

ただ、その一つの動きがそれ以上の何かにつながったかというと、これはちょっときつい言い方になるかもしれませんが、なかなか難しい。

これはケア付き住宅という運動全般に言えることですが、一つ、二つできて終わってしまう。例えば、東京には八王子自立ホームというのができます。東京青い芝の会という組織が作ったのですけれども、1つできたまま50年経ってしまっているわけです。

みんな頑張っているのはわかっているのですが、頑張っている力がどう使われてきたのか、どこで途切れちゃったのか、それと同じ力だったなら他にやりようがあったのではないか。過去の先人たちの試みを見ると考えさせられます。

山田兄弟も上二人は割合早く亡くなりますが、末っ子の富也さんは長生きされて、ずいぶんたくさんのものを書いて残されました。

20代で亡くなっても残したものを受け継ぐ

僕の本には、他に福嶋あき江さん高野岳志さんという人も登場します。

二人とも千葉の国立療養所に暮らし、高校を出る20歳前後は、1977年頃でした。

その少し後の1981年は「国際障害者年」というのがあった年でもある。そんなこともあって、「自立生活運動」という言葉がいくらか広まりもしました。そうしたことにも影響されて、高野さん、福嶋さんはほぼ同時期に、千葉市とさいたま市で自立生活を始めました。

そして、わずかですけれども、彼、彼女らが残した文章が残っています。福嶋さんの場合は亡くなった後ですけれども、本が1冊出ています。

そのおかげで、80年代の初頭にそういう動きがあったということも調べれば分かる。

単純に、彼らは寿命の制約はありました。高野さんは27歳で、福嶋さんは29歳で亡くなりました。

特にデュシェンヌ型筋ジストロフィーの寿命は、10代半ばぐらいか、20歳超えたらまあいい方という時期がずいぶん長く続いたわけです。

60年代の国立療養所に残されている文集に詩が残っているのですが、それはだいたい中学校2年とか3年ぐらいの年齢の人たちが書いています。二十歳を超えるものは少ないです。

そういう状況が70年代に続き、今に至るまで根本的な治療法はわかっていません。でも、特に呼吸器の使用によって寿命は延びていった。70年代から80年代にかけて20代だった寿命は、今では40代、50代も珍しいことではなくなっています。

ただ、国立病院療養所が始まった時に小学生で入って、その間10年ぐらいいて、社会の動きも捉え、出ようと思い、そこから出たごく少数の人たちは出て2年や3年で、20代半ばで亡くなってしまう。その死でその試みは終わってしまう。それがぽつぽつあったのが80年代半ばぐらいです。

ただその方たちは亡くなっても、そういう思いがあったということ、じゃあどうしようかという動きがあったということは記憶にとどめていたいと思います。

遺志を受け継ぐ人もあちこちにいる

例えば、一昨年、約30年ぶりに聞き取り調査を再開して、福嶋さんのボランティアとして入った、当時埼玉大学の大学生だった佐藤一成さんという人にインタビューをしました。

僕より少し若いぐらいの男性です。彼は、福嶋さんが亡くなってから30年、さいたま市にある「虹の会」という組織の事務局長的な役割を果たしてきて、今に至ります。ここの代表は、筋ジストロフィーの人です。

そういう形でポツポツと、当事者が亡くなっても続いている出来事もまたあるわけです。

20代で亡くなった高野さんについても本人が亡くなられた後、その遺志を継ぐように、彼に関わった人たちが千葉市での活動を続けています。

そうした動きもありながら、ただ全体としてどうだったかというと、大きな長い沈黙がその後続きます。

そうやって忘れてしまって、気づかないうちに30年ぐらいの月日が経ってしまったというのが現在なのだろうと思います。

それは、なぜか?

一つには、その体制を作って維持してきた人たちと、この40年、50年の間の障害者運動、特に介護保障をめぐって頑張ってきた運動が、長い間接点を持ち得ていなかったということが大きなポイントだろうと思います。

それにもいろんな曰く因縁があります。

「善意の集合体」が作り上げたものを今、改めて問う

この間、ドラマ『白い巨塔』が再放送されましたが、ああいうのはわかりやすい。悪い奴が出てきて、事実を隠蔽する。そういうことも世の中には実際あるわけです。

でも、筋ジストロフィー病棟という出来事を作った動きは、ある意味、「善意の集合体」みたいなものなわけです。

親は親で子どものことを思い、医師は医師で患者のことを思い、政治家は政治家で涙する親にホロリと思いということが合わさってできてきたものです。そこには、悪人はいません。

でも、そうではない暮らしもあるのではないか?と問い直す動きが同じ時期に存在するのに、お医者さんと親と政治が絡んだ、ある種のサークルの仲間たちの間ではその情報は全く入っていなかった。

そのサークルではみんな仲が良くて、親は医師たちを褒め上げるし、医師たちは親たちに頑張っているねと励ます。そういうサークルの中ではそれと違う発想、違う生活もあるかもしれないという流れをほぼ自覚もされない。

全く知らないものとして、脇に寄せられていて、自分たちの善意が寄り集まった空間が、そのままで30年40年続いてきたと言えるのでしょう。

そうして温かく作られてきた組織は、お医者さんたちも施設を運営する人たちも看護師も含めて結構熱心なんです。それがやがて当たり前になり、社会的には誰も知らない。良し悪しは別として互いに頑張ろうという熱気で作られてきた仕組みも抜けていって、あとはいったん作られた仕組みが毎日繰り返されている。

長生きできるようになったということは、年をとると重度化し、重い状態が同じ人の中でより長く続くわけですから、同じ数のスタッフを置いておくだけでは、むしろ仕事は大変になっていくわけです。

大変になっていく中でスタッフの数が変わらなければ、入所者の生活もしんどくなっていく。そういう意味で、変わらないというよりは少しずつ、「仕方ないんだよね。予算がこうなんで、仕組みもこうなんで」といっているうちに、生活自体が少しずつ劣化していく。

そして、その劣化は気づかれない。その頃には、療養所間のコミュニケーションもなくなり、他が自分たちのところよりもましなのか、そうでないのかということもわからない状態になりました。

わからないままだんだん生活がしんどくなっていき、だけどそれを訴えるルートも存在しない。そのようにして続いてきたんだろうと思います。

忘却と無知が維持していた空間

多くの現実はそういう具合にでき、そこには悪い人はいないけれど、同じことの繰り返しと忘却と、そしてある種の無知によって、その現実は維持されてきました。

自分たちの仕事以外に別の仕事があり、別の生活をするための手段があるという発想や現実に全く関心のない人たちだけによって作られてきた空間になってきた。

僕はこの出来事を何で知ったのかよく覚えていません。ただ、『国立療養所史』という4巻ものを入手して読み込みました。厚生省がまとめたもので全部で2000ページ弱、市販されたものではありません。

国立療養所の所長さんが自分の施設の昔話を嬉々として語っている。「ああ、こういう風に人々はこのように自分のやっていることを肯定するんだな」と思いました。その自己肯定感は分かるとともに、気持ち悪くもあります。

それと同時に、現在、国立療養所とかつて言われた施設の中で暮らさなくてもいい人たちがたくさんいることも当然わかってきますから、そこはなんとかしようと思いながら、雑誌連載を続け、本を作りました。

ここ数年の間に、障害者差別解消法などがぽつぽつ出てきて、身の回りにある差別事例を出し合おうという動きがありましたね。それはそれで大変結構なことなんですが、1000人単位の人たちがいつの間にか、ほぼ忘れられたままで40年とか、30年とか、人によっては50年暮らしているわけじゃないですか。

その問題は、わざわざ探しに行かなくてもそこに厳然とあるわけですから、そこをなんとかしなければならないんじゃないですかということを、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の全国集会があった時などにちょっとアジったりしました。

探して見つけるのではなくて、そこらにゴロゴロあるじゃないかと。そこはちょっと手をつけなくていけないんじゃないのということは思っていました。

ぬるく維持されてきた仕組みを壊す

先ほど触れた介護保障の要求、障害者自立の運動はちゃんあり続けてきたわけです。40年も50年も、気合の入ったものがあってきたのです。

でも、でも、施設を守ってきた側はそれを何も知らないのです。同じ日本という国なのに全然違う空間が二つに割れている。互いに互いを知らないみたいな状態です。

その間の壁がどうすれば壊れるか。

実は、そんなに大したことではないんですよ。ネットが普及していく。流石にネットはだめという国立療養所はないわけです。さきほど言った人たちが完全に情報から遮断されていたかというとそうでもないんですよ。

例えばこの間亡くなった古込和宏さんという、金沢の医王病院にいた人は、日本筋ジストロフィー協会の機関紙を親が取っていて、自分も読んでいたそうです。筋ジストロフィー仲間のメーリングリストにも入っていた。

だけどそれは、在宅で最初から親が面倒みることになっていて、親がいてなんとかなっている人たちの集まりであったり機関紙であったりで、古込さんの場合、親はあてにならなかった。「だけど、ここにいるのは嫌だ」という古込さんには役立たないものでした。

それで困ったなと悶々としている間に、家族がいなくても、他人による介護で介護保障制度を使ってやっていけるという話からことは始まるんですよね。

この仕組みは、ぽっとできたわけじゃなくて、30年、40年、50年かけて、我々の国の障害者運動が作ってきた。そして、古込さんは最初は偶然、やっていけるという話を、Facebookで友達になったさくら会の川口有美子さんから聞いたところから話は始まるんですよ。

そこから、東京の介護保障協議会や介護派遣のプロたちの集まりにつながって、具体的に、病院を出て地域で暮らすところまで支援しようとなった。

さらに、これまで地域移行をいろんな形で支援してきた日本自立生活センター(JCIL)メインストリーム協会の人たちが、ネット上でこういうアイディアがあるとかこういう制度があると伝えるだけではなくて、一人一人が金沢にいって彼に会って、あれだったらこうするこれだったらこうすると支えました。

実際に一時的に外泊させることをやりながら進めていきました。

もう壊れないのかなと思っていた仕組みが壊れた。ぬるく保存されていた、でも堅固な硬い構造を壊し、穴を開けることがここ数年の間に起こってきた。

大まかな流れを私はそういうふうに見ています。

各自の力や技を組み合わせて強い力にする

周囲から批判されることもなく、医者と親が互いに褒め合い、ぬるい感じでなんとなく続いてきたものに対して、別の生活もあるし、病院での生活ももっとマシにできると訴えることには当然理があります。理があるだけではなくて、現実的な解決方法や手段というものもあります。

この頃僕はよく言うのですけれども、相手はぬるいけれどもそれなりに歴史がある。その中で一人二人の、一つ一つのやり方だけで変わっていくというものではないのだろうなと思います。

私のような研究者は、誰が読むんだろうと思われるような昔話をいっぱい記録する。人に会って、ちゃんと目を見て話すことができる人は、そうやって当事者の気持ちを伝える。お金の勘定ができる人はする。喧嘩ができる人はちゃんと喧嘩をする。

そうやって各自各様に自分の力や技をを組みあわせることで、強い力になる。

戦後75年という長い時間で作られたシステムを壊すことは易しいわけではない。

だけれども、どうしようもないほど堅固でもない。敵は敵でぬるい。どこか見くびるぐらいでもいい。もっと賢いやり方を教えてあげるのでもいい。そういういろんな手練手管を使って、考えていく、変えていくということは今からでもできることだろうし、今ここでできていることでもあります。

例えば今日のような集まりで出たいろんな人の発言や、公の場でないところでも話して、書いたものをまとめて、公開可能なものは公開していく。そうでないとやっぱり死んだ後に何も残らない。

27歳で死んだ人だって、27歳までに書いたものがあるからいなかったことにはならない。80年代にはこういう人がいてここまでやったけれども亡くなっちゃったということを知ることができる。

知ったことによって、じゃあその次を自分がやろうということにもなるわけです。

福嶋さんはちょっと悲しいエピソードがあって、彼女は呼吸困難になった時の機器を購入して自分のアパートに置いていたそうです。ただ、その当時、入ってくるのは大学生のボランティアだった。

そういう機械があるとボランティアが恐がるかもしれないということでしまってしまい、いざ呼吸困難になった時にそれを使えなかったらしいです。スーパーに買い物に行って、帰ってしばらくして呼吸困難になってそのまま亡くなった。

彼女はそれで意識がなくなって亡くなってしまいましたから、彼女の書いたものには残っていない。だけど彼女の周りにいた人々がそれを書いて残していたりする。そういうところからいろんなことがわかったり、悔しかったり、こんなことは繰り返さないようにしようという思いが生まれるわけです。

いろんな悔しいことやうまく行ったこととも含めて、僕は記録して記憶として残して、それをみなさんが読んだり見たりする。そのうち動画も載せて、見てもらう。

そういうことだったら僕ら研究者学者のできることだと思うので、いろんな動きがあることについて、やれることをやっていきたいなと思います。

(立岩さん講演、終わり)

【立岩真也(たていわ・しんや)】立命館大学大学院先端総合学術研究科教授

1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(イースト・プレス、2010)『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)『不如意の身体――病障害とある社会』(青土社、2018)『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社、2018)