• medicaljp badge

「治すことを願って」6、7歳で入った 筋ジストロフィーの人が50年以上病院で暮らしてきた理由(前編)

6月1日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」に登壇した社会学者、立岩真也さんの講演を詳報します。

全身の筋肉が衰え、症状の進行と共に人工呼吸器や経管栄養などを使って、生活の全ての介助を必要とする難病、筋ジストロフィー。

その診断を受けた人が生活する国立の「筋ジストロフィー病棟」というものがあることをご存じだろうか?

1960年頃から全国にできたこの病棟に、1000人単位の筋ジストロフィーの人が入所し、一生を過ごしている。

一方で、「自分の好きな場所で暮らしたい」と地域での生活を求め、実行する人も近年、増えている。

そんな自立生活を支援してきたNPO法人「メインストリーム協会」の主催で6月1日、兵庫県西宮市で「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」と題するシンポジウムが開かれた。

登壇したのは、障害者が置かれた社会環境について調べてきた社会学者、立岩真也さんと、筋ジストロフィーの主人公とボランティアの関係を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』映画化されて話題のノンフィクション作家、渡辺一史さん

二人の講演の詳報をお伝えする(読みやすくするためにご本人たちの了承を得た上で少し改変を加えた)。

まずは立岩さんから。

記録して忘れないこと 何があったか覚えておくこと

旧国立療養所の「筋ジストロフィー病棟」で暮らしている、筋ジストロフィーの人たちと、私たちはこれからどういう風に生きていけばいいのでしょう。

今日、明日のことを考えるために、どうしても昔に遡って歴史を知らなければいけないかと、そうでもないかもしれませんね。やらなくてはいけないことは決まっているんですから。でも、聞いて損はしない。

特に、社会福祉や医療、看護など、人を支援する仕事に携わっている人が何も知らなかったり、学校で嘘を教わったりしていることが結構あります。

詳しいことは私たちのWebページに載っています。2018年12月24日に行った「第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれから」の集会も文字化しています。

こういう記録を残すことはすごく地味なのですが、すごく大事なことです。

去年のことでも先月のことでも、僕自身そうですが、喋ったことを忘れる。何も覚えていない。できるだけ文字にして後で見てもらえるように、地味に記録して行きたいと思っています。

そうでないと、筋ジストロフィー病棟から出て、地域で暮らすために京都や兵庫の人が支援してきた古込和宏さんという人がついこの間、亡くなったのですが、亡くなってしまったら喋れないわけです。

けれども、彼の場合は亡くなる1、2年の間に書かれたものがいくつもあって、それはかろうじて読めます。こういう場でダイレクトに顔を見て話すことと、同時にそれを画像や文字で残すことは大切だと思っていて続けています。

筋ジス病棟の前身、国立療養所とは何か?

国立療養所という言葉自体あまり聞いたことがない方が普通なはずです。

今は法律が変わって、名前も変わっているんですけれども、元々は「国立療養所」というものがありました。

1945年に日本は戦争に負けましたが、その時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令もあって、全国にできていきます。

そこに入所したのは、主に結核の療養者です。特に戦争の直後、栄養状態も悪く、衛生状態も悪い時に結核がすごく流行る。そういう人たちを収容する場所として、全国各地に国立療養所を作ったわけです。

実は、それ以外に、ハンセン病の国立療養所というのもできました。ずっとハンセン病の人たちが住んだまま、70年や80年経っています。

そこは入れ替えがありません。ハンセン病の人はずっとそこに住み続け、今生きている人は80代や90代になっています。そういうハンセン病の国立療養所もあります。

そこも今、高齢化していて、入所者がいなくなりつつある状況です。例えば、このあたりだと瀬戸内海の長島愛生園があります。実はそこの消えつつある資料をどうやって残そうかという課題があって、来年になるかもしれませんが、立命館大学で展示を行うことにしています。

入所者がいなくなった結核療養所の生き残り策

結核の療養所には、多くの結核の人たちが何万人という単位で入っていました。ただそれが、1940年代、50年代を超えていくと、だんだんと治るようになっていく。特効薬ができたこともありますが、栄養状態も良くなって出られるようになっていく。

そういうことが1950年代からぽつぽつ出てきます。そこから出ていくようになると、病院はいらなくなるわけだから、じゃあ閉めようかというとそうはならなかったんですね。

これはよくあることで、世の中のものは、それを守ろうとする人がいる限り、そしてその人たちの力が一定程度強いものである限り、姿形を変えて残ろうとする。

例えば、精神科病院も、戦後、国立というより、私立の病院が山ほどできたわけです。そういうものも上手くやれば、だんだん減らすことができるのですが、一定の定員を抱えてしまったその病院は、減らすと働く人が困る、経営者が困るということがあり、維持するという力が働くわけです。

それと同じようなことが国立療養所でも起こります。

1940年代、1950年代にかけて結核患者がだんだん少なくなった。じゃあどうしようかとなるわけです。

そこに登場するのが、実は一つは筋ジストロフィーの人たちなんです。もう一つは、今日はお話ししませんが、重症心身障害児と呼ばれる知的にも身体的にも障害の重い人たちです。そういう二種類の人たちを収容することによって、国立療養所というのは生き残りを図っていきます。

入所の始まりは仙台 筋ジストロフィーの三兄弟

始まりは、1960年。ちなみに僕も60年生まれです。今から59年前に、仙台市の国立病院機構仙台西多賀病院に、筋ジストロフィーの山田兄弟が入ったのが最初だと言われています。

山田3兄弟は、元々は九州から出てきたようなんですが、3人とも筋ジストロフィーの中でも重い種類のデュシェンヌ型という病気でした。

それを見るに見かねて、その時はまだ、結核や結核の一種のカリエスの人たちを収容していた仙台の国立療養所である仙台西多賀病院が、山田兄弟を収容してみたというのがどうやら初めのようです。

山田富也さんは3人兄弟の末っ子ですが、彼はのちに仙台で「ありのまま舎」という社会福祉法人を立ち上げて、そこで障害者のグループホームを作る活動に関わります。そういう流れもが面白いのですが、そういうことが1960年代、1970年代にぽつぽつ出てきます。

一方、1964年に、日本筋ジストロフィー協会の前身である「全国進行性筋萎縮症児親の会」という全国組織ができます。数は母親の方が多かったのですが、彼らが、例えば国会に行って、国会議員や大臣に陳情に行き、何とか支援してくださいということを言って回る。それを議員は聴く。

そして別のところでは、お客さんが減って、さてどうしようかなと思っていた施設の側があります。経営者だけでなくそこで働いていた人たちも、お客さんがいなくなると自分たちの仕事がなくなってしまうので困っていました。

ちょうどそうことが、1960年代の半ばぐらいに同時に起こるわけです。

「なんとかしてくれ」という親たちと、「なんとかしてあげないといけないのかな」とほろっと同情する政治家と、それを後押しするマスメディアと。そして、次のお客さんいないかなと思っていた経営者と、労働者と。

そういう人たちの思惑や利害が一致して、65年ぐらいから筋ジストロフィーの人たちの収容が始まるというのがことの始まりなんですよ。

もちろん筋ジストロフィーの人たちは、ずっと前からいました。在宅で大変だったと思いますけれども、そうやって、国立療養所の収容という出来事が始まっています。

6、7歳で「治ること」を願って入った

入所した筋ジストロフィーの人たちは、当初、子供ですからね。

だいたい6、7歳、小学校に上がるか上がらないかの時に、足がうまく動かなくなって診断してもらう。筋ジストロフィーだということがわかる。

子供たちはなんだかよくわからないまま、「あそこに行ったらそのうち治してもらえるかもしれない」と思う。

これは一つ大きなポイントだったんですよ。

国立療養所を経営、管理していた人たちは医者です。その場は、単に収容するだけではなくて、治療法や病気の原因を解明するためにあるんだという大義名分がありました。

そこに患者が入ってくれば、その人たちを研究することによって、助かるかもしれないし、自分たちは医学的な貢献ができる、という仕掛けの理屈になっています。

ちなみに残念なことですが、筋ジストロフィーというのはなぜ起きて、どうやったら治るのかということはいまだにわかっていません。

しかし、60年代に収容が始まった時には、単に暮らす場所ではなく、そこで原因を解明し、治す方法がわかり、治す場所だと信じられていました。そういうところなんだよと親も思い、親に言われ、6、7歳の子どもたちも入った。

病院での生活はどうだったのか?

そこでの生活はどういうものであったのでしょう。

大きくはつらい生活であったし、それが続いてきた。ずっと同じだったのか。むしろこの頃、もっとつらくなっているという話も聞くことがあります。あとで少し触れます。ただ、僕は実態をよく知っているわけではないので、詳しいことは言えません。

ただ、何人か、療養所での生活を経験した人たちが手記や本で書かれていて、今回の私の本(『不如意の身体 ―病障害とある社会―』『病者障害者の戦後 ―生政治史点描―』)の中にも引用しました。やっぱりしんどいという感じが分かるくらいには書いたつもりです。

そうやって、60年台半ばから70年代にかけて、「こういうものができたよ」「こういう人は入れるよ」ということで、大きな動きとして人が入る出来事があった。

それは特に、お医者さんたちも、病院もこれから研究して頑張って治療療法を開発してやっていくんだ、というある種の熱気があった。親の会と共に研究所を一緒に作ろうと言っていた時もありました。実現はしなかったんですけれども。

(続く)

【立岩真也(たていわ・しんや)】立命館大学大学院先端総合学術研究科教授

1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(イースト・プレス、2010)『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)『不如意の身体――病障害とある社会』(青土社、2018)『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社、2018)