• medicaljp badge

「人生は自分で作ることができる」 出産後につかんだ大学生活

妹の病気で幼い頃に2年間、親から引き離されて育った坂田菜摘さん。その経験がその後の人生に影を落としていましたが、出産を機に、自分の生きたかった道に挑戦し始めます。

妹の病気で2年間親から引き離されて育った経験が、その後の人生にも影を落としていた坂田菜摘さん(37)。

結婚、出産を機に自分の人生を見直し、大学進学を決意した。

しかし、母に治療が難しいがんが見つかった。看病と受験勉強を両立させたものの、母は亡くなった。

母の死で「自分の人生をやっと生き始めた気がする」という。

それまでの人生でずっと執着してきたのは、母の存在だった。母の死に寂しさを抱えながらも、大学生活を満喫する坂田さんは言う。

「遠回りはしたけれど、私は努力して自分を作っていきたい。過去にどんなことがあっても、自分の人生は自分の力で作ることができると思うんです」

結婚で変わった家族関係

夫が実家に住むようになり、母、母が再婚した新しい父、弟、自分という不思議な家族構成で暮らす生活が始まった。妹は家を出て一人暮らしを始めていた。

夫は自分の境遇を一通り聞いてくれたが、あまり気にしていないようだった。

「私もそういうところが気に入ったんです。あまり可哀想だ、可哀想だと言われると、こちらも落ち込んでしまうし、やっぱり自分の過去はダメだったのだと思ってしまうので」

それまで自分を一人の人間として愛してくれる人はこの世にいないだろうという諦めのような気持ちがあった。

「私は自分で自分の過去を否定していたし、すごく自己評価が低いんです。でも、夫があまりにも何も言わないので、私も過去は今の自分とは関係ないのかなと思えるようになっていったのだと思います」

夫は母と自分の緊張関係も、「まあまあ」と緩衝材のようにいなしてくれた。以前のように母と強くぶつかり合うことが減った。

摂食障害もいつの間にかなくなっていた。久しぶりに感じる穏やかな時間だった。

長男を出産 「自分の過去にも意味がある」

不妊治療を経て結婚して3年後に妊娠し、出産。4750グラムの大きな男の子だった。

これまでに感じたことのない喜びが湧き上がった。

「生きてて良かったと初めて思えたんです。自分の生きてきた道が少しでも違っていたら、別の人と出会って別の子どもだったかもしれないし、子どもを産んでいなかったかもしれない。この子と会えたのだから、これまでの人生、全部良かったんだと思えました」

「小さい頃から、『一人で生きている』という感覚がすごく強かったんです。自分のためだけに生きるのはすごく虚しいし、生きていなくてもいいかなと思っていた。子どもが生まれたことで、子どものためにも生きなくてはと思ったし、生きていく意味を与えられた気がします」

子育てをしていると、幼い頃の自分と息子を重ね合わせることがある。

「私は子育てで、自分がしてほしかったことをいつもしているんです。もちろん悪いことをしたら叱りますけれども、いるだけで素晴らしいと思っているし、毎日いいところを見つけてあげたい。可愛いって言ってあげたい。母もそうしたいと思っていたと思うのですが、私は十分そうしてもらえなかったという気持ちが残るので」

逆に、母親になってあの頃の母の気持ちを理解できるようにもなった。

「息子は風邪をひきやすいのですが、咳をしているだけでもとてもつらい。母の場合、自分の子どもが死ぬと言われたわけですから、おかしくなるだろうとは思うんです」

一方で、幼い息子が自分に甘えてくる姿をみては、複雑な思いも蘇った。

「こんなに小さい子をなんで忘れちゃっていたの?と思うこともありました。そんなことがよくできたなって。産んでから余計に、あの頃の母はおかしくなっていたのだろうと理解できるようになりました」

子育て中に高卒認定試験に合格

そして、子どもを産んでから、大学進学という夢に挑戦することについて具体的に考えるようになった。

「高校を辞めた瞬間からずっと後悔していたんです。勉強は好きだったのに、なぜ私はもっと学び続けられなかったのかしっくりしていなかった。子どもを産んで生きる意欲が湧いてから、自分のことを真剣に考えられるようになったのだと思います」

心の奥底では、母が願っていた大学進学を果たして、母を喜ばせたいという気持ちもあった。あれほど反抗したのに、いつもどこかで母に認められること、母に振り向いてもらうことを求めていた。

まずは高等学校卒業程度認定試験(高卒認定資格)を取ろうと、出産後1年間独学で勉強して、2011年8月に取得した。

そのまま勉強して大学に入ることを願っていたが、東日本大震災で心が乱れて勉強が手につかず、翌年独学で受けた大学は落ちてしまった。

しばらくパートとして働き、2014年からフルタイムで働いたのが、妹を研修医時代に担当した小児外科医、松永正訓さんのクリニックだった。母から開業したらしいと聞いて、息子の病気で受診したのがきっかけだ。

だが、フルタイムで働き、子どもの世話をしていたらそれだけでクタクタになる。

「帰宅したら本も一冊も読めないし、子どもが大きくなるにつれて教育費もかかるようになるし、もう無理なのかな、やっぱり現実的ではないのかなと半分諦めたような気持ちになっていました」

母のスキルス胃がん発覚 「退職金を大学の費用に」

2015年10月、母が突然、血を吐いて倒れた。

胃がんの中でも治療が難しいスキルス胃がん。既に肝臓や卵巣、腹膜にも転移しており、「余命1ヶ月」と言われた。

「全く現実味を感じられなくて、悲しささえなかったかもしれません。受け入れられなくて。母は、私たちが母の死をちゃんと受け入れられるように、それから1年半も闘病してくれたのだと思います」

母は抗がん剤がよく効き、手術にもこぎつけた。坂田さん一家と同じマンションに引っ越してきた母と毎日一緒にご飯を食べて、闘病生活を支えた。

がんはいったん、検査では見えない状態にまでなり、母は仕事にも復帰した。

「その頃、母が『私の退職金で大学に進学しなさい。予備校の費用も出すから』と私に言ってくれたんです。母は、自分のせいで大学にやれなかったとずっと言っていて、私が大学進学を諦めかけているのが気にかかったのだと思います」

クリニック勤務と両立して日曜日だけ予備校に通うことを決めたが、予備校に入学して1週間で母の再発が発覚する。

「あと4ヶ月の命です」と言われ、坂田さんは看病に専念するためにクリニックの仕事を辞めた。

「母はそんな状態でも私に受験勉強をさせたがっていました。亡くなる数日前にも予備校に行っているんですが、母が『もっと勉強しなさい』と言って行かせてくれたんです。私が大学に入るのを本当に楽しみにしていました」

結局、試験の結果を見届けることなく、母は2017年8月4日に亡くなった。

試験はその年の12月4日。12月11日に法政大学キャリアデザイン学部に合格した。

「生きていたら良かったのにとすごく思いました。あれだけ楽しみにしていたのに。ある意味、母のために受験した部分もある。母がずっと後悔しているのがわかっていたので。合格するまで生きていてくれたら良かったのになあって思います」

大学生活を満喫し、今は妹が誇らしい

そして今、週に5日大学に通い、20歳近く年下の友人たちと学生生活を楽しんでいる。

「みんながなっちゃん、なっちゃんって呼んでくれて、タメ口で話してくれる。すごく楽しいですね。最初は母が教育学部だったので、教育関連の科目や教職を取ることにこだわっていたのですが、入ってみるといろんな勉強が面白い。あまり道を限定しないでもいいかなと今は思っています」

妹とは今ではしょっちゅう連絡を取っている。高校を卒業して派遣社員で働き始めたのに、システム開発で実力を発揮し、IT大手の本社の総合職に抜擢された。

そんな妹を今は素直に誇らしく思う。

妹は高校時代に自分に「自分は(治療の影響で)もう妊娠も出産もできないから、好きな人がいても付き合えない」と泣いて相談してきてくれたことがある。

妹のがんを研修医時代に診ていた松永先生のところにつなげて、紹介状を書いてもらって検査し、「生殖機能に問題はない」と言ってもらった。自分のことのようにホッとした。

そんな妹は今も独身で子どもはいないが、自分の息子をとても可愛がってくれる。妹も自身のがんの影響でたくさん苦しんできた、色々なことを乗り越えてきたのだろうと今ならよくわかる。

「大人になってからお互い素直に接触できるようになったかなと思います」

母への執着から解放され、自分の人生を生きる

振り返れば、母を攻撃するのも、必死で看病をしたのも、母に対する執着心だったような気がすると坂田さんは考える。

「私は今も母がいたら、今も後ろ向きなことを言っていたかもしれないと思ったりします。なんでもぶつけたら受け止めてくれる人でしたから。私に対して負い目を持っていて、私が何を言っても正すことなく、『私が悪かった』って言ってくれる人がいるのはきっとあまりいいことではない。ずっと依存していたのだと思います」

5歳だった自分が、がんになった妹の看病で家族から引き離され、押し殺していた寂しさや悲しさを大人になって母に怒りという形でぶつけ続けてしまった。

それほど強く母を求めていたのかもしれないが、どれほど謝ってくれてもその乾きは癒えることがなかった。その終わりのない執着心を、母は自分の死という悲しい形で解き放ってくれたのかもしれない。

「もちろんもっと生きていてほしかったし、そう思って自分を慰めているところはある。でも、私は母を攻撃することや面倒をみることで母に依存していて、母が死んで初めて自分で自分の人生を生きているとも感じるのです」

あの頃の自分に助けがあったら

半生を振り返って、「自分の人生の早い段階で、誰か手を差し伸べる人がいてくれたら良かったのに」と思うことはある。

「今となっては後悔していないんですよ。でも、ここまで遠回りしなくても、誰かがきょうだいの心の傷に気づいてケアしてくれたら、もっと近道があったと思います。家族のことって家族で解決するのが当たり前だと思われているから、外からは問題が見えにくいんです」

「母は公務員でしたし、外からパッと見たら問題ない普通の家庭なんです。当事者も渦中にあると自分の家族の問題は見えないし、問題があると気づいてもいない。私の家なんて社会的な介入があってもおかしくなかった家庭だったと思うんですよ」

「病気や障害を抱えた子だけでなく、親も、きょうだいもまた大変な思いをしていて、ケアされることが必要なのだと知ってほしい。弱っている時は自分から助けを求めにくいから。同じ思いを抱えて生きていく子どもが少しでも減ってほしいから」

幼い頃から我慢して、自分一人で解決するのが当たり前だった自分。そんな自分のことを今は、大学生活という新たな社会に飛び込むことで変えていきたいと願っている。

「自分でなんでも処理することってしっかりしているわけではない。助けてと声をあげて、ちゃんと人の手を借りて近道を発見できることが大事だと思うんです。それが人間じゃないですか。言葉を持って、他の人と助け合うのが。そういう面を大学生活を通して磨いていきたいと思っています」

坂田さんはもがきながらも自分の人生を生きる力を取り戻した。だから、自分の過去を話せるようにもなった。混乱の渦中にいたらとても話すことはできなかった。でも、中にはずっと生きづらさを引きずって毎日を過ごしているきょうだいもいるのだと思っている。

「私は運が良かったのだと思います。患者も親もきょうだいも、誰もが、自分のつらさを受け止めてもらえる社会になったらと願います。私も大学で学ぶうちに、同じような経験をした人たちのために何かできないかと考えるようになりました」

そして、過去にもがいていた自分に伝えたい。

「今、自分がこう存在したいという自分になれていると感じます。これまでいっぱいつまづいてきたけれど、若い時の経験を生かして良い方向に生きればいい。私は努力して自分を作っていきたい。過去の経験があるからこそ、自分の人生は自分で作れると思っているんです」

(終わり)