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病気の子の姉として育てられて 母は5歳の私を遠くに手放した

病気がある子どもの陰で、親から十分なケアを受けられず、生きづらさを抱えているきょうだい。妹が小児がんになり、親から引き離されて育った女性の半生を伺いました。

病気や障害を持つ子どものきょうだいとして育つと、看護や介護に追われる親から十分なケアが受けられず、それが後の人生にまで影響することがある。

最近になってケアの必要性が気づかれ、医療・福祉関係者による啓発や当事者同士の支え合いの動きが広がっているが、まだ不十分だ。

千葉市に住む坂田菜摘さん(37)は5歳の時、3歳だった妹の深雪さん(35)が小児がんの一種、神経芽腫になり、両親が看護に専念するために遠く離れた祖父母の家に2年間預けられたことがある。

悲しみを誰にも訴えることができず、帰宅後も、摂食障害やうつを抱え、長く自己肯定感を持てずに苦しんできた坂田さん。

結婚・出産を機に自分の人生を見つめ直し始めた頃、恨みをぶつけてきた母ががんで帰らぬ人となり、大学に進学して遅れてつかんだ青春を生き直している。

幼い頃に得られなかった愛情や安心を渇望してもがいてきた女性が、自分の人生を歩み始めるまでの道のりを伺った。

ある日突然、愛知の祖父母の家に

母親と自分、妹の3人で千葉市内に暮らしていた坂田さんの生活が急転換したのは、保育園に通っていた5歳の頃だ。父は母と折り合いが悪く別居していたが、母娘3人の平凡で穏やかな時間がその時までは流れていた。

まだ家に帰る時間には早いお昼頃、坂田さんの通う保育園に母の友人が突然、迎えにきたことを覚えている。

「母の友人から、そこに迎えにきた祖母に引き渡されました。私はそのまま祖母と一緒に新幹線に乗って、愛知県の渥美半島の祖父母の家に一人連れて行かれたんです」

母とは会えないままだった。ただ、祖母から妹が重い病気になったのだと聞かされた。父が引き取って面倒をみるとも言ったらしいが、祖父母から反対され、祖父母のもとで暮らすことに決まった。

振り返ればその1ヶ月ぐらい前から、体調を崩していた妹を母が様々な医療機関を訪ね歩いていた。後から聞いた話だが、その日連れて行った総合病院で、「大学病院で検査をした方がいい」と言われ、大学病院で全身に神経芽腫が転移していることがわかり緊急入院することになったのだ。

「命が危ない状態になっていたらしく、当時20代だった母もきっとパニックになったのでしょう。心の余裕がなかったのでしょうか。私はまったく母とも話すことがなく、母から何も説明されないまま遠くに連れて行かれました」

幼な心には、「何か大変なことが起きている。何も言っても仕方ないのだ」という諦めに似た気持ちしか浮かばなかった。

「急にそんなことになったのに、私は泣いたことや、『お母さんに会いたい』と一度も言ったことがなくて、祖母に『すごく助かった』と言われたことがあります」

本当は母に会いたかった。恋しくてたまらなかった。でも、誰にも言わなかった。

「5歳でも人が死にそうで大変だということはわかりますよね。私がここで騒いでも困るだろう、我慢しなくちゃいけないのだと思っていました」

疎外感を覚えていた子ども時代

兼業農家の祖父母の家では、毎日畑に連れて行かれて、虫を採って遊んだりしていた。そのうち、愛知県で保育園に入り、小学校にも入学した。

両親とは電話で話した記憶がない。

「卒園式にも入学式にも来なかったんです。あとで何度も母を責めたことがあります。『お金がなかった』『病院の外の世界のことを何も考えられなかった』と言われました」

小学校の夏休みや冬休みだけ、千葉の実家に帰った記憶がある。ショックだったのは、病院から一時外泊した妹と両親の3人で旅行をした写真が飾られていたことだった。

「そういうのを見ると傷つくんですよね。妹を可哀想に思って旅行に連れて行ったのかもしれませんが、なんで私だけは行けないのだろうって」

休みに千葉に帰ると、妹の入院している病院にも何度も見舞いに行った。

大部屋の妹の病室には、おもちゃを置く棚があった。おもちゃや人形がたくさんあり、お母さんともべったり一緒にいられるーー。

「幼児は母親が入院に付き添わなければいけなかったのでしょうがないのですけれども、同じ子どもの立場ですから羨ましくて仕方なかったです。でもそれは言えなかった。この子たちは私よりもっと庇護されるべき子どもなんだというのはわかっていましたから」

整理できない思い 「問題児」に

毎晩、祖父母と共に仏壇に向かって「妹の病気が治りますように」と祈った。妹を心配する気持ちと、妹の病気のせいで自分が引き離されたという気持ちが幼い心に同居していた。

寂しさや疎外感を胸に持っていても、誰にも話せないと感じていた。

「自分自身の受けたことがそんなたいそうなものだと思ってないんです。きょうだいが大変だから」

その行き場のない思いは、荒れた行動につながった。

「小学校1年生の時に、学校の集会か何かで、すぐそばに金属バットが落ちていたのを拾って、振り回して人を殴った記憶があるんです。問題児だったと思います。教室でも席に座っていられなくていつもウロウロしていました」

祖母が教師に呼ばれ、「なぜ千葉に親がいるのに、この子は愛知に来ているのですか? 千葉に帰してください」と言われたことは後で大人になってから聞いた。

「すごくやさぐれていたし、先生や友達からは嫌がられていましたね。自分の気持ちを整理することができないし、言っちゃいけないと思っているし。祖父母はとても可愛がってくれたのですが、自分が安心していられる場所はなかったんです」

当時、山の中の一軒家のような祖父母の家で、唯一の慰めがアニメ『一休さん』を見ることだった。

「一休さんの最後の歌って、『母上さま、お元気ですか?』から始まる歌詞で、遠く離れたお母さんへの手紙なんですね。あの歌が好きでいつも歌っていました。祖母からは『あれはどういう気持ちで歌っていたんだろう』と言われていました」

小学2年生の時に帰宅するが......

強力な抗がん剤と手術を重ねた妹の治療は効果をあげ、坂田さんが小学校1年生を終える頃、退院した。千葉の家に帰ることになった。引き離されてから、2年の月日が経っていた。

両親と妹が春休みに車で迎えにきた。

「日帰りはできない距離なので、その日は祖父母の家にみんなで泊まっていったんです。母からは『最後の夜だから、おばあちゃんと一緒に寝なさい』と言われたのですが、どうしても母と一緒に寝たくて『絶対いやだ』と拒否したのを覚えています。嬉しかったのでしょうね」

車に乗って帰った千葉の家は、なぜかよそよそしく感じた。

病気になる前は妹をとても可愛がっていて一緒に遊んだはずなのに、ほとんど喋らなくなった。

「恨みのような気持ちがあったのだと思います。『お前さえ病気にならなければ』って、妹によく言ったのを覚えています。でも妹は、あとで取材を受けた時に、『姉はとても辛かったのを我慢してくれて感謝している』というような内容を話しているんですね。覚えていないのだと驚きました」

妹自身も周りに心を閉ざしているような印象があった。妹も自分と同じ部屋を嫌がって、勉強机を母が寝ている部屋に運んで離れようとした。

小学校に連れて行くのに、どうしても行きたがらなくて引きずって連れて行くようなこともあった。

「彼女は自分の記憶が病院から始まっているらしくて、生まれて初めて外の世界にやってきたような感じだったんです。ずっとベッドの上で生きてきて、急に健康な子供たちとの共同生活に放り込まれた。それは本当にかわいそうだなと思うのですが、当時は私も子どもなのでそんなことはわからなかったです」

ひねくれて攻撃的になってしまう自分に、母は戸惑うことしかできなかった。

「30年前のことなので、当時は子どもの心のケアという概念がなかったですよね。母も当時は必死だったろうし、『自分の娘が死にそうだということだけしか考えられなかった』という気持ちもよくわかります」

「でも今、自分の小学生の息子が『ママ、ママ』と甘えてくるのを見て、そりゃひねくれるよなと思います。小さい子どもでも説明して納得させなければいけなかった。母の気持ちも理解できますが、一方で、どうしてこんなに小さい子どもを忘れていたのかという割り切れない思いもいまだに残っています」

怒りや整理できない爆発するような思いは、妹というよりも、自分を一度は捨てたように感じた母に向かっていた。

その思いは、その後の人生にも影を落としていった。

(続く)