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「畏れ多い気持ちで受け取りました」 新天皇をこの世に送り出した産婦人科医の祝福

上皇后・美智子さまの初めてのお産は、さながら国家プロジェクトでした。徳仁親王の誕生に立ち会った産婦人科医の記憶。

5月1日、即位された新天皇。

1960年2月23日、ゆくゆくは天皇になることを運命付けられた赤子が生まれた。御称号(幼名)は「浩宮」、お名前は「徳仁」。その誕生は、さながら国家プロジェクトのようだった。

当時、東京大学産婦人科で未熟児(低出生体重児)の研究をしていた杉本毅さん(89)もそのプロジェクトに加わった産婦人科医の一人だ。

この世に生まれたあの日を振り返りながら、杉本さんはこう祝福する。

「畏れ多い気持ちで小さくて弱々しい体を受け取って体重を測り、未熟児ギリギリのラインを超えていらした時は本当にホッとしました。今ではご立派になられて、上皇陛下のように国民に寄り添う方になられるでしょう」

未熟児の研究をしていたことでメンバーに抜擢

杉本さんは1955年4月、東北大学医学部を卒業後、産婦人科医になりたくて、東京大学の産婦人科教室の医局に入局した。

「父方の叔父が産婦人科医で常々、『産婦人科医はお母さんと赤ちゃんの二つの命を扱う。一人から二人になる瞬間に立ち会えるすごい仕事だ』と聞かされていたんです。憧れました」

当時は内分泌の研究が花形だったが、杉本さんは未熟児を研究対象とした。

「この時代はまだ未熟児の死亡率が高くて、お母さんにとっては小さな子どもが生まれるのは一大事ですから、命を救うことを追求したいと思ったんです。当時は産婦人科医が新生児も担当していて、他の人とは違うことをしたいという気持ちも強かったのでしょう」

この選択が後に、新米医師が”国家的プロジェクト”に参加する道を開く。

1959年4月10日、当時の皇太子さまと美智子さまがご結婚された。そして、杉本さんが医局に入って4年目の同年秋、美智子さまがご懐妊されたということで産婦人科教室の小林隆教授が宮内庁の御用掛に命ぜられる。

そこで教授は驚くようなことを言った。

「じゃあ、杉本を連れていこう」

当時の産婦人科教室で「未熟児と言えば杉本」と既に言われていた。万が一、将来の天皇が未熟児ならば、命を救うのは産婦人科チームの絶対的な使命となる。

「それは驚きましたよ。同時に身が引き締まりました。『ご無事に出産』以外は許されませんから」

その日から、いつでも居場所を明らかにすることが義務付けられた。何かあったら呼び出しがかかり、駆けつけなければならないからだった。

あわや早産? 使われなかった一等室の赤じゅうたん

順調な妊娠期間だったが、一度だけ、産婦人科チームに緊張が走ることがあった。

妊娠7ヶ月頃、美智子さまが軽い腹痛を訴えられたのだ。

「早産かもしれないと慌てて、個室の一等室を開け、急遽、美智子さまのために赤じゅうたんを敷きました。この時は結局、痛みはすぐに治まって、入院しないで済んだのです。赤じゅうたんの部屋も使われないままでした」

1960年2月20日頃、3月1日の予定日があと2週間後に迫り、記者団の会見に臨んだ小林教授は、機嫌よくこう答えていた。

「今は安定なさっていますから、まだすぐにはお生まれにならないでしょう。しばらくは大丈夫です」

ところがその数日後、予測に反して、美智子さまの陣痛が始まったのだ。

杉本さんは宮内庁病院に駆けつけ、2月23日未明、陣痛が強まってきた美智子さまがキャデラックに乗って到着された。午前3時過ぎには美智子さまの母、正田富美子さんも駆けつけた。

予定日より1週間早くお産が始まった。

2540グラム 未熟児じゃなかった! 

分娩を担当したのは小林教授や宮内庁病院の産婦人科医、看護婦長たち。

杉本さんは、万が一、未熟児だった時のために、部屋の前にある廊下で、特注の保育器を準備して待ち構えていた。当時の保育器は新生児の頭を載せるところが平らだったが、丸くへこまして頭を固定できるように工夫していた。

陣痛がいよいよ激しくなったのはその日の午後3時50分過ぎだ。分娩室に入る医師たちは、沐浴をして体を清めてから入っていった。

午後4時15分、待ち望まれていた元気な産声が分娩室から聞こえてきた。喜びも束の間、杉本さんにとってはここからが本番だ。

程なく運ばれてきた小さな体を両手でしっかりと受け取って、即座に器具を使って口の中から粘液を吸った。そして酸素を送り込むマスクを口に当てた。肌の色、呼吸の状態、心臓の音、全て健康な赤ちゃんだった。

「小さくても大きくても、僕が受け取って万全の対応をすることが決まっていました。男の子だとわかって、畏れ多い気持ちで受け取ったのを覚えています。将来の天皇を自分の手に抱いているのですから」

そして、赤ちゃんの体重を測った。

2540グラム。あと40グラム少なければ、未熟児と判断され、保育器に入ったまま小児科も対応に追われるところだった。

「とてもホッとしました。ただちに助教授に伝えて、私は次の役目に取り掛かりました」

杉本さんのもう一つのミッションは、赤ちゃんの産声を録音することだった。

なかなか泣かないので、かかとを指で少し刺激してみると小さな声で「あーん」と泣いた。逃さずに録音し、少しだけ緊張がほぐれた瞬間だった。

その日の夜、産婦人科のメンバーはビールで乾杯した。まだ美智子さまや赤ちゃんを見守る必要があるから、ちょっと口を湿らす程度だったが、晴れ晴れとした気分だった。

皇太子さま「色は黒い方ですか?白い方ですか?」

お産のあとで父である当時の皇太子さま(現・上皇陛下)と初めて顔を合わせた時、こう尋ねられた。

「色は黒い方ですか? 白い方ですか?」

杉本さんが「黒いという方ではないですね。普通のお顔色ですよ」と答えると、嬉しそうに頷かれたのを覚えている。

生まれてからは1週間、杉本さんがつきっきりで赤ちゃんの様子を見守った。何か体調に変化があればすぐに対応するためだ。

それまで皇室では乳人制度が続いていたが、美智子さまは生まれた直後から直接お乳を差し上げた。授乳の時は新生児室に音楽をかける。将来の天皇の情操教育は生まれた直後から始まっていたのだ。

「美智子様に『先生、音楽は何が良いですか? 選んでください。昔のレコードがあるので』と言われて、私はシューベルトやモーツァルトの有名なクラシック曲をかけていました」

そして3月12日、美智子様は白地に枝垂れ桜の晴れやかな着物姿で、浩宮をしっかり抱いて宮内庁病院を退院された。

成長されてから、浩宮は「私は倉庫で生まれたんですよ」と周囲に話していたという。当時の宮内庁病院は古く、質素な作りだった。お産の後の食事も卵焼きなど質素なもので、杉本さんは意外な気持ちでお産を見つめていた。

世紀の出来事に立ち会え「光栄に思います」

その後、杉本さんは毎年、皇后誕生日のお茶会などに招かれ、天皇ご一家が年を重ねるのを見つめてきた。自筆の年賀状も毎年、いただいている。

「『杉本でございます』とご挨拶すると、美智子さまは『存じ上げております』とにっこりされる。お気遣いの方だと思いましたね」

しかし、まさか自分が出産に立ち会った赤ちゃんが天皇に即位する姿を見ることができるとは思わなかった。

2016年8月8日、退位の意向をにじませた「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を聞いた時、驚いたが、こうも感じた。

「いつも国のこと、国民のことを案じておられて、いつも国民に寄り添うことをされてきた天皇陛下ならではのお考えなのかなと思いました。皇太子さまも60歳になられるわけですから、もうそういう時期なのかとも思いました」

天皇に即位された徳仁親王のお産に立ち会えたことを光栄に思う。

「新生児、未熟児を専門としていたおかげで、普通だったら立ち会えなかった世紀の出来事に関わることができました。小さな赤ちゃんだったのに、今ではご立派になられて、上皇のように国民に寄り添う天皇になられることでしょう。我々もその誕生に立ち会えて嬉しく思います」

そして、重責を果たされた上皇、上皇后両陛下にこんな感謝の言葉を贈る。

「非の打ち所のないお務めを終えられ、本当にお疲れ様でございました。少し骨休めをされて、穏やかに過ごしていただければと願います」