• medicaljp badge

「令和」を風疹大流行で幕開けとしないために 平成元年に先天性風疹症候群を持って生まれた女性が願うこと

風見サクラコさんは風疹が流行していた平成元年の桜の時期、妊娠中の母が風疹にかかった影響で、目や耳に重度の障害を持って生まれました。令和の時代も私たちは同じことを繰り返すのでしょうか?

2019年に入っても風疹の猛威は衰える気配を見せない。

1月から3月24日までの3ヶ月足らずで、すでに感染者の報告数は1033人。2013年の大流行と同様のペースで増え続けている。

こうした現実を、怒りを持って見つめているのは、平成元年生まれの風見サクラコさん(仮名、30)だ。

30年前の大流行時、妊娠中の母が風疹にかかり、重度の難聴と白内障などの目の障害が残る「先天性風疹症候群」を持って生まれた。

「平成の幕開けに風疹にかかって生まれ、新しい年号が始まる今同じように流行を繰り返すこの国は人の命を何だと思っているのでしょうか? どこが『ビューティフルハーモニー』なのか。これ以上、同じ苦しみを抱える人を増やさないでほしいのです」

「風疹とわかっていたら産んでいなかったかも」

風見さんの両親が結婚した1987年は風疹が大流行した年だ。風見さんが生まれた東京都内だけでも3万人を超える報告が上がり、風見さんの母も結婚前に、風疹ウイルスに抵抗する免疫を調べる抗体検査を行なっていた。

保健所で「抗体がありますから大丈夫」と言われた抗体価は16倍。現在の基準では感染を防ぐには32倍必要と言われており、ワクチンが必要な抗体価だった。当時は必要ないとされ、ワクチンをうたなかったことが風見さんの運命を決めた。

その後、妊娠に気づいたばかりの1988年7月、母の体中に発疹が現れ、耳の下のリンパ節が腫れる症状が出た。

「もしかして風疹かもしれない」

不安に思った母は検査を受けたが、風疹との診断はつかず、そのまま出産に臨んだ。

「大人になってから、母に『風疹とわかっていたら産んでいなかったかもしれない』と言われました。現在の日本でさえ、先天性風疹症候群はあまり知られていないのですから、昔だったらそうされていたのかなと、自分が生まれなかった可能性を考えました」

出産直後に心臓に異常、生後3ヶ月で白内障の手術

1989年、桜が咲き始めた時期に生まれた風見さんはすぐに保育器に入れられ、4日目には心臓に異常があることが医師から告げられた。幸い、軽症で様子を見ることになったが、数週間後には両目が白く濁っていることがわかり、白内障との診断を受けた。

「『このままだと失明しますから手術が必要です』と主治医に言われ、『こんな生まれたばかりの子に手術を受けさせるのか』と両親は落ち込んだそうです」

心臓と目に異常があることから先天性風疹症候群が疑われ、聴覚検査もしたところ、右耳は全く聞こえず、左もわずかな聴力しかないことがわかった。

「両親は目も見えない、耳も聞こえない娘をどうやって育てていけばいいのか絶望したそうです。特に母は、自分が妊娠中に風疹にかかったせいだと今も自分を責め続けています」

生後3ヶ月で両目の手術を受け、少しだけ聞こえる左耳に補聴器をつけると、あやす両親に笑い声をあげて豊かな反応を見せるようになった。ただ、生後5ヶ月ではしかにかかり、もし心臓が弱かったら死んでいたかもしれないことは後で知った。

1歳になった頃からは、地域の療育センターに通って聴覚や発音の訓練を本格的に始め、意思疎通が無理なくできるようになっていった。入学前から文字の練習もして文章を書く訓練もしていた。

「入学後につまずかないように、母はできるだけのことを身につけさせたかったようです。そのおかげで、周りの人に自分の思いや気持ちを伝えられるようになりました」

普通学級 つまずく友達とのコミュニケーション

小学校は、普通学級に進学。発音や表現などの指導を受ける「ことばの教室」に週1回通いながら、健常な子どもの輪に入っていった。

ところが、ここでコミュニケーションにつまずくことになる。授業はまだ文脈に沿って話が進んで行くので、ある程度語られていることの予想がつくが、友達との雑談についていけない。

「雑談だとどんどん文脈が変わっていくので、『こうだろうなとは思うけれどわからない』状態が続いて、何もわからないまま薄ら笑いを浮かべるしかできないことも多かったのです。顔の表情もよくわからないので、友達の感情をつかむことも苦手で、誤解をされることも多かったと思います」

幼いながら、風見さんは友達との会話も「予習」をして臨むことを身につけていった。

「その時の流行やみんなが話題にしていることを知っておこうと思って、少女漫画も全然好きでないものを無理やり読んだり、少女雑誌を読んだりして話題についていけるようにしていました。これは今でも続いている習慣で、会社でランチタイムの雑談に加わるために、ツイッターのトレンドなどを欠かさずチェックしています」

また、授業では体育が大変だった。特にドッジボールは、人の動きやボールがよく見えないからボールが飛んでくるのが恐怖でしかない。「地獄のようでした」と振り返る。

中学では、体調を崩して2年半不登校になった。

「聞こえなかったり見えなかったりして生まれるコミュニケーションのストレスに疲れ果ててしまったのだと思います」

パソコンとの出会い 「風疹」との再会

不登校時代に出会ったのが、パソコンだった。自宅においてあった共有のパソコンをマニュアルも見ずに覚え、そのうち独学でプログラムも組めるようになった。

MSNやヤフーのチャット機能を使って外の人と交流し、日々のニュースについて自分の考えを伝えるブログも始めた。他のサイトで紹介されることも増えた。

「好きなものを他人とシェアするのは楽しいです。引きこもるような生活を続けていましたが、それでも外とつながり続けたかったのだと思います」

高校は何となく通えるようになった。視覚・聴覚障害を持つ人を対象とした筑波技術大学に進学し卒業するころ、再び精神面で体調を崩した。大学院にも進学したが、2年目に休学した。

「寮に住んでいると、みんなは手話で話しますから、大浴場に入る時などに眼鏡を外すと全くコミュニケーションが取れなくなるんです。就職も考えるころだったので、こんなことで私は社会に出てやっていけるのかなと恐怖を感じました」

大学院を休学した2013年には風疹が流行していた。就職するために目の見えづらさや分厚い眼鏡をどうにかしたいとネットで手術の方法を調べていると、自分の障害と流行している風疹が関わりがあるのだということが初めてつながった。

「もっと調べよう。気になったことを全部知りたいと思って、風疹や先天性風疹症候群のこと、日本の予防接種制度のことを、英語の論文も含めて徹底的に調べました。母にも話を聞き、当時の私の記録も引っ張り出しました。知れば知るほど、何でこんなことが起きてしまったのだろうと理不尽な気持ちでいっぱいになりました」

その年の7月、眼内レンズを入れ替える再手術をしたが、手術後に左目のレンズがずれ、手術の影響で緑内障も悪化して、余計、見えづらくなった。パソコンやスマホも一時、長時間使えない状況になった。

「自分で選んだ人生の一大決心で、リスクが大きいことは承知していたとはいえ、日常生活に影響が出るほどのトラブルに直面し、自分の選択が誤りだったのではないかと人生で一番落ち込みました」

それでも、「先天性風疹症候群の赤ちゃんは、その後の人生も病気や障害と長く付き合っていくのだということを知ってもらいたい」という気持ちは強かった。

2013年9月、ホームページ「with CRS 先天性風疹症候群とともに」を作り、自分の体験や風疹の知識の発信を始めた。

その後、左目の再手術を受け、薄いレンズの眼鏡を使えるようになった。2016年には知り合いに紹介されてコンピューター会社に就職もできた。緑内障の手術も受け、自信が増した。

「再手術で元どおりになり、難局を自分で乗り切れたことが結果的には大きな自信となり、今に至ります」

先天性風疹症候群の仲間や専門家ともつながり、テレビや新聞の取材も受けた。目の症状を手術を繰り返して克服したように、努力すればいつか風疹を排除することができる、と信じていた。

そして再び風疹が流行 40〜57歳の男性は接種を!

ところが、そんな願いもむなしく、昨年からまた風疹が流行し始めた。今年1月には今回の流行で初の先天性風疹症候群の赤ちゃんも生まれた。

「私としては産んでくれてありがとうと思っているのですが、本来、防ぐことができたのにとも思います」

流行が繰り返されるのは、国の予防接種策で、ワクチンをうつ機会が不十分だった1962年4月2日から1979年4月1日生まれの男性が感染するからだ。

国は、今年から3年間、この世代の男性を公費で接種できる定期接種にした。抗体検査を受けて風疹ウイルスに対する抵抗力である抗体価が不十分であることがわかった男性にはワクチンを公費で受けてもらう対策だ。

「流行している今頃行うのは遅すぎますが、やらないよりはマシでしょう。しかし、自治体からクーポン券が配られても、予約を取らなければならないし、検査結果も聞きにいくため最低2回は仕事を休むことが必要です。なぜ最初からワクチンをうたないのかと思います」

妊婦やその赤ちゃんを守るため、という目的を他人事だと考えて、クーポン券を使わない男性が多いことも懸念されている。

「家庭をお持ちでなく、子どもを育てることも想定していない男性だったら、なかなか自分ごととは考えられないと思います。職場で患者が出て、仕事がままならなくなるなどしないとわからないのでしょう。企業の子育て支援策も薄いですし、みんなで子育てを支えるという意識が浸透していない日本社会では難しい」

それでも、と思う。

昨年からの流行が始まる少し前、母が何の前置きもなく、「ごめんね」と謝ってきた。何と答えたかは覚えていない。だが、母は30年間、「自分が妊娠中に風疹にかかっていなかったら」という罪悪感とともに生きてきたことを知った。

「風疹にかかったら自分も大変な目に遭いますし、赤ちゃんやお母さんに一生、取り返しのつかない重荷を負わせてしまうこともあるんです。自分や母と同じ思いをする人をこれ以上増やしたくはないのです」

桜の時期に生まれたから「サクラコ」というペンネームを使ってきたが、昨年の流行で「風見」という名字も作った。「風疹を見ていく」という意味。風疹が日本からなくなるまで、「風見サクラコ」として発信を続けていくつもりだ。